第9話 パトリシアの述懐

 パトリシアは結局その日、空が夕焼け色に染まるまでトールをサンドバッグにし続けた。

 後半になってもトールの『劣化』の鎧を超えることはできなかったものの、久々に思う存分魔法を放てたことで、彼女はおおむね満足していた。


「ありがとう、おかげで魔法の感覚を随分と取り戻せたわ」

「そりゃ……どーも……」


 めちゃくちゃになった練習場を見渡して、トールが頬を引きつらせる。

 アルバートのように精悍な顔立ちではないものの、トールとて十分に顔は整っている。それでも彼にカッコいいとか整っているとかの印象が薄いのは、感情がすぐ表情に出てコロコロ変わっているからだろう、とパトリシアは見ていた。


「にしたって、俺の貴重な休日を丸ごと潰しやがって。本当に許せねえよ」

「本気で抵抗して逃げればよかったんじゃないかしら」

「簡単にできれば苦労しねえよ!」


 そう言いながらも、言外に、やろうと思えばやれたという意識が透けて見える。

 根負けしたトールが丸一日を自分に使ってくれたという事実に、パトリシアは口角が上がるのを抑えられなかった。


「……? 何ニヤニヤしてんのお前」

「気にしないでちょうだい」

「なんだよ、気になるんだけど」

「あなたでは一生かけても理解できない理由よ」

「急に突き放すじゃん」


 つまるところ、彼は非常に警戒心が薄いのだ。

 表面的には誰とも仲良くしたがらないのに、彼が引いている線の内側に入ってしまうと、無自覚に彼は相手を身内のように扱っている。


 そういう人間は、自己評価と他者評価の食い違いに気づきにくい。

 本人が望むとも望まないと他人を惹きつけて、いつの間にか仲間にしてしまう。


「……じゃあ、帰りましょうか」

「すげえお腹減ったよ、ついでに晩飯でも食おうぜ。あっ、帰り道は吊り下げ式はやめろよ?」

「注文が多いわね」


 パトリシアは指を鳴らすと、半透明の薄い膜を魔力で編み上げた。

 即席の空飛ぶ絨毯だ。


「落ちても拾わないから、気をつけなさい」

「はいはい、お邪魔しまーす」


 二人して絨毯の上に乗っかると、オレンジ色に染まる空へと高く飛翔し、鳥のように飛び始める。


「ひょえー! すごいなこれ、何か魔導器とか使ってんの?」

「これぐらい自分だけでできるわよ」


 鬱蒼と広がる森林と、綺麗に空を染める夕焼け。

 その風景に身を乗り出して夢中になるトール。

 彼の横顔をさりげなく見つめながら、パトリシアは自分の過去を思い出した。


 この世界に来る前。

 つまり、彼女が一度死を迎える前。


 パトリシアの祖国は、腐敗し、膿が溜まり、人々を虐げることしかしなくなった、最低の国だった。

 嘆きの声を、役人たちが運営する構造が組織的に引き潰し、特権階級に位置する者たちへとは決して届かないようになっていた。


 ある事件によって、国の実態を知ったパトリシアは、貴族の長女という身分でありながらも変革を志すようになった。

 だがあまりに複雑化したシステムは、特定の誰かを排除しただけではまったく変わらず回り続けた。構造そのものが邪魔だった。


 こいつさえ倒せばすべてが変わる、すべてが救われるという人間がいない。

 だからパトリシアは、自分がそうなればいいと思いついた。


 自ら悪の道へと進んだのは、それだけの地位を手に入れるためだった。誰かが自分を打倒することで、一挙に解決すればいいと考えたのだ。


 故に、彼女は『悪役』令嬢となった。


 そしてパトリシアは計画し、

 誰かを陥れ、

 誰かを破滅させ、

 誰かを殺し、

 誰かを踏みにじり。


 あらゆる権謀術数の果てに――自らを打倒する人間など現れないまま、本当に国を滅ぼしてしまった。


(私は間違えた)


 期待などしてはいけなかったのだ。

 誰もが彼女に首を垂れた。悪逆を許容した。我が身可愛さに他人の悲鳴に耳をふさいだ。自分を守るためならどんな犠牲でも払った。


 この世界にやって来た時のパトリシアは、現状が嘘のように、人類に絶望して無気力だった。

 来世を待つだけでいい、この世界では何もしなくていい、何もしたくない。


 そう思っていた――あの日までは。


 一度死んで、次の世界へとやって来て、そしてやっと出会えた。

 不定形にして際限なく膨れ上がっていく『泥の巨神』に対して、背後の街を守るために単身戦いを挑む、一人の青年の姿。


 強き者が、弱き者のために、理由も事情も何も知らないまま立ち上がり、戦い、勝利して見せた。


 それはパトリシア・フロントラインが追い求め、こいねがい、そして終ぞ現れることはなかった救世主の姿だった。



「ねえ」

「ん?」

「見せてちょうだいね――あなたの戦いを」



 その言葉の本当の意図は、彼女本人にしか分からず。

 首を傾げるばかりのトールに対して、パトリシアは魔法使いとしても天才としてでもなく、一人の少女として笑いかけるのだった。

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