シジミ先生の夏休み・縁
学生への対応が一段落ついたところで私用のメールボックスを確認してみると、二件の新着メールが届いていた。ひとつは昔なじみの雑誌編集者・
八十を過ぎてなお衰えを知らない母はここのところ趣味に忙しいようで、生け花に茶道、合唱、加えて最近はダンスの教室に通い始めたと姉から聞いている。こちらから連絡をしない限りは息子である純のことなどろくに思い出しもしないらしい母がいったいなんの用だろうかと開封してみれば、埼玉に住む遠縁の親戚が事故で亡くなってしまい葬儀が行われるそうだがあいにくこちらは誰も都合がつかない、純の大学は夏休みで暇だろうから吉島家を代表して香典だけでも渡しに行ってきてほしい、と、だいたいそういったようなことが書かれていた。
教員は夏休みというわけでもないのだけれどな、と思いつつ、続いて北門からのメールにも目を通す。申し訳程度の時候の挨拶に始まるそれは、自らが編集長をしている雑誌がウェブメディア展開をすることとなったため純にひとつ記事の執筆を依頼したいという内容であった。そういうメールは仕事用のアドレスに送ってほしい、と以前にも何度か頼んでいるのだが、そんなことはいっさい聞き入れてくれないのが北門という人である。純にとっては大学時代の先輩であり、これまで散々世話になってきた相手なのだが、その無神経さにはやや辟易するところがあるのも事実だ。
母と北門の両方に了承の返信をする。北門からはすぐに打ち合わせの日程の打診が返ってきた。いつでも構わないと伝えると、それなら今夜にでもとさっそく予定を取りつけられた。この歳になっても相変わらず行動力がある。出世が早かったのも頷けるというものだ。
二十時をまわった頃、待ち合わせの居酒屋に北門は現れた。店内奥の座敷席で待つ純の姿を見つけるなり勢いよく手を振って名前を呼び、「久しぶりだな」と笑いながらすばやく靴を脱いで純の対面に腰を下ろす。
「にしても純、おまえ、また白髪増えたんじゃないのか」
そう言う北門は純よりもひとつふたつ年上であるにも関わらず健康的な黒々とした毛髪をたっぷりと貯えており、首筋にかかるうすら長い白髪の純とは対照的だ。
「そうみたいですね。学生さんにもよく言われます」
「そりゃおまえらのせいだって言ってやれよ」
学生さんのせいというわけでは、と純は言うが、ものわかりがいいとは決していえない若者たちを相手取る仕事がストレスではないといえば嘘になる。
「そういや今おまえ夏休みなんだったか。いいよなあ学校勤めだと」
「教員は休みじゃないんですよ。前にも言ったはずですけど。あとこれも前言いましたよね、仕事のメールは仕事用のアドレスに送ってくださいよ」
純の文句を北門は笑い飛ばし、俺とおまえの仲なんだからそんなこといちいち気にするな、などと言って取り合わない。そうこうしているうちに話は本題に入り、北門は改めて純に寄稿を頼んできた。
「簡単なもんでいいんだよ。エッセイか何かで。前ほら、紙の誌面のほうで何回か書いてもらったろ、紀行文みたいな。俺あれ好きなんだよ。あんなもんでいいからさ」
「あんなもんって言いますけどね、ぼく、別に作家じゃありませんから、あんなもんでも結構大変なんですよ」
睨むような目をする純に、悪い悪い、と北門は軽く謝る。そうしながらポケットへ手を伸ばして煙草のパッケージを取り出そうとするので、純は「ここ禁煙になったみたいですよ」と止めた。
「あ、そう。まあ、どっかに旅行でもして、ぱぱっと書いてくれよ」
「いや、ですからね、そんなに簡単には書けませんし、旅行どころか出かける予定も今のところ……」
ありませんから、と言いかけて、純はふと母から頼まれていた件を思い出した。
「ああ……ないことはないんでした。埼玉でよければですけど」
「埼玉か。へえ。埼玉ね」
北門はやや眉を寄せ、埼玉になんの用があるのかと尋ねる。純は事情を説明し、香典を渡しに行くだけなのだからたいした内容にはならないだろうと言ってみたが、北門の反応は「いいんじゃないか」というものだった。
「おまえなら面白く書けるだろ。前のも派手な旅行記ってわけじゃなかったんだしな」
「はあ……そういうもんですかね」
それほど気乗りしないふうな純の返事を聞きつつ、北門は何かを考えるようにしばし視線を宙に向けていたが、やがていつ行くのかと訊いてきた。
「明日がお通夜で、土曜に告別式をやるそうです。お通夜には間に合わないので、告別式だけ顔を出そうかと」
「そうか。それじゃあ、俺も行こうかな」
「え?」
戸惑う純の表情を見て、北門はにやりと笑う。
「ひとりよりふたりで行ったほうが書けるネタも増えるだろ」
「そうでしょうかね……」
「そうだろ。よし、決まりだな」
こうして有無を言わさぬ形で北門の同行が決定し、その後はいっさい仕事の話はせず、他愛のない話題を肴に何杯か飲んで解散となった。
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