第37話 お帰りなさい愛しい人

「ニール!!」


 ヴィンセントに連れられて王城へと戻ったニールに、ミルドレットが駆けて抱き着こうとした。ニールはさっとそれを手で制すると、「おやめください」といつもの調子で言ったので、ミルドレットはムッとしながらも畳みかける様に言葉を放った。


「正気に戻った? 怪我は大丈夫なの!? それと……お師匠様は!? お師匠様は何処に行ったの!?」


 半泣きしているミルドレットを見つめながら、ニールはいつもの笑顔のまま口を閉ざした。


——グォドレイを仕損じたとは言えないな……。


顔を背けたニールの横で、ヴィンセントが静かに説明をした。


「グォドレイ殿ならば、怪我を負っていたので私が治療した。完全には癒えていないので王城へ戻る様に伝えたのだが、仕事があると言ってすぐに出かけてしまった」


ヴィンセントのその言葉を聞き、ミルドレットは愕然とした。


「……お師匠様が怪我!? 一体どうして?」


——お師匠様と暮らしていて、怪我をした姿なんて一度も見た事が無いのに……。

 ミルドレットはそう考えて、グォドレイが不老不死であると勝手に思っていた自分の考えの間違いに、今更ながらに気づいた。


——お師匠様だって、怪我もするし、死ぬんだ……。勝手に無敵なんだと思ってたけど、あたし、どうしてそんな大事な事忘れてたんだろ……。


 ヴィンセントは少し迷ったが、正確に伝えた方が良いだろうと判断し、ミルドレットに自分の見た状況を伝える事にした。


「ニール殿が投げ放ったスローイングナイフが、グォドレイ殿の肩に刺さったのだ」


 ミルドレットはサァっと顔を青くした。


——今までどんなにか過酷な依頼が来ようと、いつもの飄々とした態度で軽くこなしてきたお師匠様が、傷を負った……?

 身体に傷を負うということは、心にだって傷を負うということだ。あたしが、ニールを庇った時、ひょっとしてお師匠様は心を……。


 ミルドレットがニールへとサファイアの様な瞳を向け、僅かに強張った表情を浮かべた。


——ニール……あんたはお師匠様が言った通り、化け物なの……?


 ニールはミルドレットのその視線に気づいたものの、いつもの笑みを浮かべた表情を崩す事なく無言で見つめ返した。


——ミルドレットは今、私を恐れた……。成程。紫焔の魔導士グォドレイはそれを計算し、わざと私のナイフをその身に受けてヴィンセントに見せたという訳か。小賢しい男だ。なんとしてもミルドレットを私から遠ざける気か。


「ニール様。ご無事で何よりです。心配致しました」


ルルネイアとアレッサが駆け付けると、ミルドレットは数歩下がり、ニールの側から離れた。

 ニールは表情を崩すことなくいつも通りの声の調子で「ご心配をお掛けして申し訳ございません」と二人に返した。


「ルルネイア様、魔物討伐を途中で放棄してしまい申し訳ございませんでした」

「グォドレイ様が代わりに全てを討伐してくださいました。派遣された騎士達も王城へと戻っているところです。それよりもお身体は大丈夫なのですか? アレッサ姫から瀕死であったと聞き、驚きました」

「おかげ様で何の支障もありません。アレッサ様、世話をかけてしまった様で……」


 ミルドレットはゆっくりと踵を返すと、自室へと戻って行った。ニールはミルドレットに視線を向けず、ルルネイアやアレッサと会話を続けた。


 ヒュリムトン国王ドワイトにつけられた監視役の騎士の視線に晒されながら、ゆっくりと廊下を歩く。震える手で自室の扉を開けて部屋へと戻ると、エレンがお茶の用意をして待っていてくれた。その様子を見てミルドレットは僅かにホッとし、その瞳からポロリと涙を零した。


「ミルドレット様? 一体どうなさったのですか、涙なんか零して……」

「エレン……どうしよう、あたし、お師匠様に酷い事を言っちゃったんだ」


そう言った後、ミルドレットは無理やりに笑おうとして顔を強張らせた。


「ごめんね、王太子妃候補なのにこんなに情けなくてみっともなくて……」


 笑顔を浮かべる事が出来ず、ぐすぐすと泣き出すミルドレットを宥めながら、エレンはソファへと座らせた。ハンカチを渡し、優しくミルドレットの手を取った。


「このエレンに吐き出しておしまいなさいな。溜め込んでいては心が疲れてしまいます」

「お師匠様は、あたしに生きる術を教えてくれた人なんだ。それなのに、あたし……!!」


『お師匠様なんか、大嫌いだっ!』

『あたしの大切な人を奪ったっ!! 酷い……。あんたはお父様よりもずっと酷いっ!!』


「あんなこと、言うつもりじゃなかったのに。どうしてあんなこと言っちゃったんだろ。なんだか勝手にお師匠様の事を傷もつかない無敵な人なんだと思っちゃってた。でもあたし、お師匠様の事だって大事なのに。それなのにあんな酷い事……!! こんな嫌な人間にいつの間になっちゃったんだろ。人を傷つけるような言葉を吐く人になっちゃうなんて、そんなの嫌だっ」


あの言葉を放った時、グォドレイは僅かに眉を寄せ、傷ついた表情を浮かべていた。ミルドレットの脳裏にその顔が焼き付いて離れない。


——あたしの醜い心が、お師匠様を傷つけたんだ……。


エレンは頷きながら話しを聞き、優しくミルドレットの肩を撫で、宥める様に声を放った。


「大好きで、安心して心を赦せる相手だからこそ甘えてしまうものでしょう。子が親に遠慮なく逆らえるのも、愛情を信じているからです。ミルドレット様もグォドレイ様の愛情を信じているからこそ、そうして安心して甘える事ができたのですよ。ご自分を嫌う必要などございません。ただし、反省は大切なことです」

「けど、お師匠様はきっと、もう二度とあたしと会いたくなんか無いよ。あんな酷い事を言っちゃったんだもの、嫌いになったに決まってる!」


わぁっと声を上げて泣くミルドレットを宥めようとしたエレンの目に、深い紫色の髪がさらりと揺れる様子が見えた。彼が人差し指を唇に押し当てる仕草にエレンは頷き、ミルドレットの肩を優しく叩いた後に静かに部屋から出て行った。


 ミルドレットはエレンにも見捨てられたのだと思い、しくしくと声を上げて泣いた。


「あたしみたいな嫌な奴なんか、皆嫌いに決まってるよ……」

「俺様は愛してるけどな」


グォドレイの声が聞こえ、ミルドレットは驚いて顔を上げた。


「……お師匠様?」

「よぉ、ミリー。なんだよ、鼻水ぶったらして汚ぇなぁ」


アメジストの様な瞳を細め、グォドレイはきりりとした眉を下げてふっと笑った。耳にぶらさげた大きな宝玉のついたピアスが、シャラリと音を発する。


「折角綺麗にして貰ってんのに台無しじゃねぇか。やっぱりおめぇはちんちくりんが似合ってるぜ? 俺様のハンカチ使うか? さっき鼻かんで使用済みだけどな」

「お師匠様、あたし、お師匠様に酷い事言ったのに! それなのに来てくれたの?」

「ああ、言われたなぁ」


グォドレイは拳で軽く自分の胸を叩き、「ちょいとばかし傷ついた」と、微笑んだ。


「ごめんなさい……」


ボロボロと瞳から涙を零し、子供の様に泣くミルドレットの頭をグォドレイは優しく撫でた。


「あたし、いつの間にかこんなに嫌な奴になっちゃってた。ごめんなさい、お師匠様。勝手にお師匠様は不老不死で無敵で、何をしても傷つかないんだって思い込んでた」


グォドレイはフハッ! と笑うと、肩を竦めた。


「そいつは、子供が親の事をそう思うのと一緒じゃねぇか。俺様はお前の親なんかじゃねぇぜ?」

「うん。違うって分かった。お師匠様はいつだってあたしの側に居てくれるんだって思ってたけど、そうじゃないってよく分かった。そう考えるとあたし、凄く寂しい。離れて行って欲しくないよ」


グォドレイはミルドレットの頬に指先を優しく滑らせて、顎持ち上げた。


「なあ、ミリー。親じゃなく、一人の男として俺様をやっと見れるようになった。そいつは喜ばしいことなんだぜ? 俺様はお前がどんなにか醜くくたって構わねぇ。俺様をどれほどに傷つけたって構やしねぇ。全部受け止めてやる。それだけの器はあるつもりだ」


——俺に恋しろとは言わない。ただ、お前が老いて死ぬその時まで側に居て欲しい。それだけだ。


 ミルドレットはグォドレイの服にしがみ付く様に握りしめた。仄かに香る煙管の匂いが心を落ち着かせていく。


——誰からも必要無いと捨てられたあたしというゴミを、お師匠様だけが拾ってくれた。


「本当にごめんなさい。あたしを拾ってくれたお師匠様に後悔させるような事をしちゃって。拾って貰ったあの瞬間から、あたしはお師匠様のものなのに」

「お前は誰の物でもねぇよ」


グォドレイは小さくため息を吐いた。


「だから王太子妃候補に囚われるこたぁねぇ。お前のクソ親父にもな。ミリーはミリーのものだ。勿論、俺様に囚われる必要だってねぇんだ」

「あたしを嫌いになってないの? お師匠様に酷い事を言ったのに、赦してくれるの?」

「言っただろ? 全部受け止めてやるって」


ミルドレットの泣きじゃくった顔をアメジストの様な瞳で見つめ、グォドレイは瞼にやきつけるかのようにゆっくりと瞬きをした。長い睫毛が揺れる。


「涙でぐちゃぐちゃの顔だって、その零れ落ちる涙だって愛しくて堪らねぇってのに、嫌いになれるはずなんかねぇよ」


 惜しみなく零れ落ちる涙を、グォドレイはペロリと舐めた。


「ミリー、キスしてもいいか? お前の嫌がる事を無理強いする気なんかねぇ」


僅かに頷いたミルドレットの唇に、グォドレイは自らの唇を近づけた。狂おしい程の愛しさが心臓を締め付ける。

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魔女の嫁入り ふぁる @alra_fal

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