第7話 魔法の唱

——気絶しそうだ……。


 ミルドレットは顔面蒼白なまま、無理やりに笑顔を浮かべようとして、完全に顔が強張っていた。コルセットがあまりにも苦しく、我慢の限界に達していたのだ。

 こんな状態で踊ろうものなら死んでしまう! と、どうにかダンスを回避できないかと暗中模索しながら、先にシハイル王子と踊っているルルネイアの様子を見つめた。


 はちみつの様な美しい金髪が彼女の首元でふわりと揺れる。身に纏った淡いブルーのドレスは上品で、ルルネイアの清楚で可憐な様子を引き立てていた。


 流石と言わんばかりの気品と美しさで見惚れるものの、ミルドレットは締め上げられたコルセットの苦しさに「うぷっ」と、声を洩らした。


「大丈夫ですか?」


 エレンが心配そうにミルドレットに声を掛けたので、ミルドレットは「大丈夫」と答えようとしながらも「全然大丈夫じゃない!」という本音が入り混じって、意識朦朧としなが答えた。


「全然大丈夫でござる」

「……大丈夫じゃなさそうですね。何か冷たいお飲み物をお持ちしますから、お待ちくださいませ」


 エレンがさっと席を外した。

 シハイルとルルネイアが一曲踊り終え、優雅にお辞儀をすると辺りは拍手喝采に包まれた。


 パートナーが代わり、次はアレッサがシハイルと踊る番だ。彼女もまたルルネイアに引けも劣らず優雅にお辞儀をし、華麗なステップを踏んでいる。彼女の艶やかな黒髪と浅黒い肌が、深緑色のドレスによく似合っており、シハイルが身に着けている白銀の仮面や、銀の刺繍が施されたマントに対となっているようで際立って見えた。

 アレッサがステップを踏む度、耳元で揺れるピアスが美しい音色を放っている。


 ——まずい。あたしあんなに綺麗になんか踊れないよ! もしも王太子殿下の足を踏んじゃったりなんかしたら……!


 思わず後ずさった時、トン! と、後方に立っている者とぶつかった。その瞬間、ミルドレットは気絶しそうな程に青ざめた。

 ミルドレットの後方に立っていたのはドリンクを運ぶ給仕係で、その手に持っていたグラスが倒れ、ミルドレットの純白のドレスを赤いワインで染めてしまったからである。


 その様子があまりにもショックで、ミルドレットの耳にはワイングラスが床に落ちて割れる音が聞こえていなかったが、周囲の者達はその音に驚いて視線を集中させた。


 ——どうしよう。王太子殿下から貰ったドレスをこんな風にしちゃうなんて。


 ミルドレットは全く疑いもしなかったが、そもそも彼女の背後に飲み物を持った給仕係が居た事自体が不自然な事だった。明らかにぶつかる事を期待し、赤ワインでその純白のドレスを汚そうという魂胆があったに違いない。


 困惑しながら酷い有様となったドレスを見つめるミルドレットの耳に、クスクスという笑い声が聞こえた。


 声を放ったのは王妃だった。


 そして周囲の者達が王妃の意思に賛同するように我も我もと笑い声を洩らし始め、ミルドレットは居た堪れない気持ちで顔を真っ青にしながら立ち尽くした。


 ——沢山人が居るのに、誰もあたしに手を差し伸べてくれない。なんて惨めなんだろう。『あの頃』と一緒じゃないか。


 唇を噛み、ミルドレットはその場にうずくまって耳を塞いでしまいたい気持ちを必死になって抑え込んだ。

 孤独で屈辱的な時間が永遠に続く様な気すらする。


 ——泣くな。周りをちゃんと見て無かったあたしが悪いんだ。そう、いつだってあたしが悪い。『普通』じゃないから、皆が普通に出来ることを、あたしは何一つまともにできやしない落ちこぼれだから。


 更に強く、ミルドレットは唇を噛みしめた。プツリと切れ、口の中に血の味が広がっていく。

 笑い声の中にはミルドレットへの陰口も混じっていた。


「ルーデンベルンの姫君は姉の身代わりだとか」

「なるほど、どうりで……」

「即刻本国に返した方が」

「この分だと、アリテミラ王女の方も期待はできないな」

「全く、小国の分際で、ルーデンベルンは大国ヒュリムトンをバカにしているのか?」

「どう責任を取るつもりか」


 ——どうしよう。あたしの失敗のせいで、姉さまやお父様まで悪く言われてる。ごめんなさい。こんな不出来な娘で。


「ミルドレット姫は王太子妃にはまず選ばれないでしょうな」


 ——コルセットが苦しい。息ができない……。


「そればかりか、本国に返される様な恥を負った姫君を、この先誰が娶るのだろうな」


 ——ああ、あたしは…………


「お怪我はございませんでしたか?」


 低く心地の良い声が聞こえた。ふと見ると、目の前に白い手袋をつけた大きな手が差し伸べられていた。

 笑い声も悪口もピタリと収まっており、ミルドレットの前には白銀の仮面をつけたシハイルが、その高い身長を僅かに屈めて立っていた。

 差し伸べられた手が白い手袋をつけているとはいえ、やけに光り輝いてみえた。触れることすら烏滸がましく思え、ミルドレットは悲しくなって俯いた。


「ごめんなさい。あたしの不注意で、折角のドレスが台無しに……」

「ミルドレット姫は魔術に長けていらっしゃると伺いましたが」


 シハイルの言う言葉の意図が分からず、ミルドレットは僅かに小首を傾げた後、ハッとしてサファイアの様な大きな瞳でシハイルを見つめた。

 つまりシハイルは、魔術でドレスを元通りにしてみせろと言いたいのだろう。


「……できるよ」


ミルドレットの答えにシハイルは頷いて、チラリと壇上の国王へと視線を向けた。


「陛下もご覧になりたいのでは?」


 シハイルの言葉に不満そうに眉を寄せた王妃を手で制し、王は「面白い」と僅かに笑みを漏らした。


「やってみせよ。確か、そなたの師は紫焔の魔導士と名高いグォドレイ・コート・フォルシュナーであると聞き及んでおるが、真か?」

「……はい。あたしの師はグォドレイという名で間違いありません」


 どよめきの声が上がり、萎縮したミルドレットの手にシハイルが優しく触れた。


「無理を言ってしまい申し訳ございません。この場を手っ取り早く収めるにはこれが良いかと」


 思いやるようなシハイルの低く優しい声にミルドレットは首を左右に振った。


「大丈夫。助けてくれてありがとう」


 まさかここで師の名前が出るとは思わなかったと、意外な気持ちだった。かなり有名な魔導士なのだと、洞窟に訪れる客から聞いた事はあったが、そんな立派で有名な魔導士が、暗くてジメジメとした洞窟内の掘っ立て小屋になんか、住むはずがないと思い込んでいたのだ。


 シハイルは恐らく、ミルドレットの実力をここで王に見せることで、この場を押えつつも王太子妃候補としての名声も上げようと考えての事なのだろう。


 ——なんだ、結構優しいじゃないか、あたしの未来の旦那さんは。


 すぅっと深呼吸をして落ち着かせると、ミルドレットは詠唱を始めた。


 黄金色の糸のような光が幾筋も浮かびあがり、揺らめきながらミルドレットのドレスを包み込む。

 歌の様にも聞こえるミルドレットの詠唱に、その場にいた全ての者が聞き惚れていると、彼女がピタリと詠唱を止めたので、皆思わずもっと聞いていたかったと残念に思った。


「あの、できた……けど」


 照れた様に微笑むミルドレットの手の中に、床に落ちて割れていたはずのワイングラスがあり、その中には赤いワインが収められていた。ドレスについた染みはすっかりと無くなっている。どうやら修復したグラスの中で揺れるその液体こそが、先ほどの悲劇をもたらしたワインである様だ。


「素晴らしい」


 シハイルが拍手をすると、周囲の者達も皆拍手をし、フロア内はミルドレットへの称賛が沸き起こった。


 壇上でつまらなそうにしている王妃を他所に、王は口元に僅かに笑みを浮かべ、満足気に頷いた。

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