第44話愛妻

 信親が小春や子供たちを大坂城へ連れてやって来たのは、それからすぐであった。


「いやあ、今回ばかりはもう駄目かと思いましたわ」


 軽い口調だが、小春の目には涙が溜まっている。


「うむ」


 秀繁は安堵のため言葉が出ない。


「またうむやら、ふむですか、こんなときにまで少ない言葉から感情を読み取らないといけないんですか」


「うむ、いやそうではない」


 秀繁は慌てて訂正した。

 本心からのことだ。もう添い始めて何年経ったか。

 長年連れ添った妻にこれを信じてもらえないのであれば、父を越えた意味も狭義では小さくなってしまう。


「蟄居をして、自分が命を落とすと思う前に考えたのは、まずそなたのことであった」


「ウチのことですか」


「そうだ」


 秀繁はうなずいた。

 両眼はまっすぐに妻を見、見つめている方が幾らか頬が紅潮している。

 自分自身のその言葉で改めて妻に惚れ直したということかもしれない。


「今の世でそなたほど周りに振り回され、運命というやつに翻弄されている者もおるまい。いっそ、私と結婚などしなければ良かったのではないかと思った。豊臣秀繁の妻でなければ、そう後悔したことはないか」


「ありませんねえ」


 小春は即答した。

 夫の視線を正面から受け取り、それでも凛として言葉を発す。


「たしかに明智の娘でなければ、もともとこんなことにはならなかったやろとは思います。けどおまえ様の妻でなかったらなどとまでは。ウチはこれでも糟糠そうこうの妻のつもりです。喜びも悲しみも分かち合ってきたつもりです。それを今回の一件だけで否定されるとはウチにたいする侮辱やと思います」


 小春は続ける。


「大変さと言ったら義母上ははうえさまのほうが、これまでもそしてこれからも特上でしょう。ウチはそれを支えるおまえ様を支える覚悟は出来ております」


 小春は母となり、そしていつの間にか肝っ玉が太くなっていたのだ。

 それは父を越えようとする秀繁のそれを幾倍かにしたものかもしれない。

 謁見の間で諸侯に応答した秀繁よりも堂々としていて、噛み締めるかのように言い放つ。


――さすがに明智光秀の娘だ


 あの自分の首を義理の息子のために差し出した義父。

 そのときの晴々とした態度をその娘は思い起こさせる。



「でも」


 小春は再び続ける。


「ウチは言葉にしてもらえんと、わからんことが多いです。でも、たまにでいいからウチのことを『一番である』と思い返してもらうのは悪い気分ではないですね」

 

 小春の口撃は続く。


「おまえさまも、兵糧攻めだなんて、囚われているもののことも考えてくださいませ」


「悪かった。代わりになんでも言うことを聴こう。それで許してくれ!」


「では……」


 ふふっと小春は人差し指を唇に当てる。



「では?」


「ウチより、長生きをしてくださいませ」


 小春の目が潤んでくる。

 一気に溢れだしそうになるそれは寸前で留まり、力強く彼女は言葉を続ける。


「生きるか死ぬかの寸前で思ったんです。自分がいくら恵まれているかということを。それもこれも、豊臣秀繁という人物の妻になったからです。もうひとりでは……おまえなしでは生きて行けそうにありません。一生のお願いです。約束してくださいませ」


「ああ、わかった。一刻でもおまえより長生きしてやる。絶対に約束だ。決して破りはせん!」


 目を細め笑う小春の目尻から溜まっていた涙が零れ落ちそうになるのを、秀繁はその指ですくった。


 そして、戦国時代では大柄であろうそのかいなで妻を抱き寄せた。

 細い身体だった。

 大坂城で困窮していただけではないだろう。精神的にキツイこともあったに違いない。

 思えば、苦労を掛け続けてきた。

 婚姻の経緯と、その直後に起きた本能寺の変と岳父との対決。

 それをこの華奢な身体で乗り越えてきたのだ。

 秀繁の心に何とも言い難いものが奔る。


「おまえは二無きものである。今回ほどそう思ったことはない。おまえが死ぬまで、もうこの手を離さんぞ」


 父が、小春たちを人質にしなかったことが親子で対決して唯一良いことであった。

 小春の首に刀を向けられて降伏を迫られていたら、自分はどうしたであろう?

 いや、そのときは勝負は決まっていたはずだ。

 自分は自分の首を差し出して、小春の助命を願ったはずだ。


「ちょっと、侍女もおるのに。恥ずかしい……」


 苦言を呈すが、小春の顔はこれ以上なく笑っている。にやけている。

 自分の実の父明智光秀と母も、一瞬だけだがこんな感じだったのかな、と彼女も顔を赤らめながら思った。


 そして、こんな幸せを、逆賊の娘である自分が受け取っても良いのだろうかとも。




※※※※※




 秀繁は禅譲という名の簒奪により吉日を選び、正一位・関白・太政大臣・豊臣家氏の長者となった。

 それに伴い小春は従一位・北政所きたのまんどころ、豊臣春子と改名した。改名したと言っても寧々が同じく北政所となったときに豊臣吉子となった風であり、秀繁から呼ばれるのは普段通り『小春』である。


 そして関白就任の祝いと兼ねて、出羽から駒姫がやって来る内祝いをするのであった。


「これは、また琴ちゃんとはまた違った可愛さがありますねえ……」


「傾国の美女というやつですか……」


 小春と琴は揃って駒が自分より器量良しであることを認めざるを得ない。

 駒は、美人が多いと言われる東北、そして秋田の中でも『佳人有り』と中央に届くまで喧伝されるほど眉目秀麗なのだった。秀繁との結婚を例えれば、最高権力者と国民のアイドルが結婚したに等しい。


「駒と申します。これから先よろしくお願いいたします」


 小春が言った意味とは違うが、琴とは違った意味で存在自体が消え入りそうな、凛としていてそれでいて、美しさの中にどこか危うさを感じさせるものがあった。


「うむ。どうかな豊臣家に来ての感想は」


「はい」


 一呼吸おいて駒は話し始めた。


「まず室に入る前にいきなり処刑されそうになるとは思いませんでした」


「う、うむ」


「わたくしは昔から不幸なことが続くのです。たまに外へ出れば雨に降られたり、汚い話ですが鳥やら犬のその……アレを頂戴いたしたり……」


「う、うむ」


「なので処刑されると聴いたときは『ああ、わたくしの運命とはこういうものだったのか』と半ば納得せざるを得ませんでした」


 琴よりも長く艶のある髪を指で巻き上げながら駒は言った。

 それは烏よりも漆黒で、この時代の女性の魅力をふんだんに詰め込んだものであることは確かだ。

 茶色い髪を持つ小春が指を咥えて嫉妬しているかもしれない、と秀繁は思う。


「美人薄命というやつかな」


 冗談のつもりで秀繁は言ったのだが、


「好き好んでこの顔に生まれたわけではないのに運がとてつもなく悪く、ましてや薄命であると言われては立つ瀬がありませぬ」


 まるで他人事のようにいうのである。

 そりゃまあ歴史通りに行けばもうこの世にいない存在なのだからなあ、と旦那になる男は思わざるを得ない。


新関白殿下・・・・・、どうですかうちの娘は」


 義父になった最上義光が、耳打ちをするかのように訊いてきた。


「傾国の美女ですな、このは」


「はっはっは。器量良しの代名詞として受け取っておきましょう」


 そして


「秀吉公のあと。あなたの世はどうなるのでしょうな」


 とまで言う。


「あなたは革新的な考えを持っておられる。果たして、あなたが作り出したい世は、あなたに作れますか」


「どういうことですか」


「そのままの意味です。私は豊臣秀繁という人物を深く、とても深く考えた。秀吉公ですら完全には理解できなかったあなたという人物を。私は北条と同じくあなたの書いた書籍を入手しました。それを見て考えてみると、あなたの持っている知識はどうやら、この時代にそぐわないものが多い。違いますか」


 秀繁は無言である。

 神子田半兵衛に言ったとおりだ。

 人によっては他人を殺してでも手に入れたい知識を秀繁は持っている。


「するとすべてが合点がいく。つまるところ、最終的にあなたが作り出したい世に、大名というものは残りますまい」


 秀繁は無言を貫く。


「駒との間に子が生まれたら、ぜひ我が最上家にくだされ。最上本家を継がすのは難しいかもしれませんが、領土を幾分か割いて家を興させます。毛利の両川の如く、最上・北条で東北・関東にて藩屏として豊臣本家を守ることをお約束いたします」


 もっとも大名自体がなくなれば、藩屏というものも必要ないでしょうが、と義光は付け加えた。


 秀繁は最後までそれについては無言に徹した。

 口を滑らして、言質を取られでもしたら反秀繁の機運が高まるやもしれない。

 確かに秀繁がやりたいことは、彼一代では成し遂げられないことなのだ。

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