第32話悋気

 秀繁は奔り出す。

 自分のことは棚に上げ、母の心痛を察するために。

 巨大で豪華絢爛が過ぎる大坂城は、こういうときに大きすぎる。

 もう少し小ぶりな城が良いなとは思うが、天下人としての威信もあるのだ。正直、面倒くさい。


「おお、秀繁どの。よう見舞ってくだされた……」


 久しぶりに見る母は憔悴して、実年齢よりも老けて見える。

 むろん口に出して言うわけにはいかない。


「母上、お達者そうで何よりです」


「世辞はいいのです。父上から母の悋気りんきをおさめるように、と命令されて参ったのでしょう」


「命令などと、そんな……」


「悋気など起こしておりません。みっともない。父上にそう伝えるように」


「そうであれば、ご自分でお伝えになればよろしいではないですか。母上、私にまでいい格好をしてもしょうがないでしょう。本当のところをお聞かせください」


「私は悋気を起こしております。そう言えばよいのですか」


 声が震えて泣いている。


「秀繁どの、そなた小春どのが妊娠中に側室を娶ったそうですね」


「はっ。今日、あらたにもうひとり増えることが決まりました」


 言っていることは真実なので隠しようもない。

 隠すことでもない。


「天下人とその息子が、妻によって後ろから刺され、史書に載るようなことになりませぬように」


「ご冗談を」


「冗談ではありませぬ!」


 土気色だった顔は赤みを帯びる。

 寧々は横たわっていたのを立ち上がって言った。


「英雄色を好むとは言いますがあなたたちは英雄きどりですか。猿と子猿が英雄ですか。あなたたちはただの猿の大将ではありませんか! そりゃ猿の大将は雌を独占するものです。しかし雌にも感情はあるのですよ。それを揃いも揃って妻の感情を逆なでするようなことばかりして。あなたも30近く年の離れた兄弟が欲しいのですか。お家騒動のもとになるかもしれないのに! 孫よりも年若い息子ができると息巻いておりましたが、それでは私はなんなのです!」


 秀繁は黙っていた。

 悋気を焼いた女性相手には、そうするのが正解だと本能が思ったからだ。


 一刻ばかり母の愚痴を聞き、ようやく秀繁は解放された。

 北政所と持ち上げられ、諸大名の奥方には良い格好をしなければならない。

 現代でいうストレスがかなり溜まっているのだろう。


「まあ、よく話を聞いてくれました。鬱々としていたものが晴れたようです。持つべきものは、実の子ですね」


 実際晴れやかな顔で母はそう言った。


「いつか困ったことがあったら何でもおっしゃいなさい。ひとつだけ願いをかなえて差し上げましょう」

 さっきまで怒り狂っていた人物と同一ではないかのような穏やかな優しい声で母は言った。




※※※※※




「小春、小春よ」


「なんですか、おまえさま」


「実はまた側室がひとり増えることになった」


「そうですか。可愛い子だといいですね」


 無関心さが逆に怖い。


「怒っているのか」


「いや、儲も琴ちゃんも可愛いし、家族が増えるのは良いことです。側室が、もうあとひとりふたり増えようがもう構いません」


 怒ってらっしゃるのだな、と察するに余りある。


「私以外に妻は娶らないと義父上ちちうえさまに宣言したんじゃなかったんですかね? ウチがおまえさまの中での一番であることには変わりはないんですよね? 琴ちゃんよりも、その3人目・・・よりも!?」


 気のせいか以前は言葉遊びのように言っていたのが、再確認を求めるかのようになっている。

 母は強し。

 子を産んで小春は文字通り一皮むけた。

 自分より一層大切な存在を得て、それがこれまでの彼女から脱皮させたのだ。


「おまえが私の中で一番だ!」


 秀繁も再確認している。

 おそらく、一夫一妻制で相手を選べる立場であれば、秀繁は迷わず小春を選択するはずだ。

 それは疑うべくもない。


「ウチが一番の『たいぷ』でしたっけ? ほな今回も騙されてあげましょ」


「いや人聞きが悪いぞ。騙すとか騙されるじゃなくて、これは政略結婚という名の……」


「あーあーあー、聞こえません。なんっにも聞こえません。生臭い話は嫌です」


 小春は耳を塞いで、疑いの目自体を閉じてしまった。

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