第二章 対徳川編

第20話騎馬鉄砲隊

「大吾郎よ、準備は進んでおるか」


「は、着々と進んでおります」


 ふたりが主従となって数年が過ぎた。

 もはや僕大吾郎輝繁は、秀繁の右腕と言っても過言ではない。

 秀繁の顔の表情から、何を考えているのか読み取れる。

 そういう関係にまでなっている。


 実のところ、秀繁は謹慎中である。

 その間に秀吉は柴田勝家、滝川一益、織田信孝をくだし、天下人への道を着々と進んでいた。

 そして義兄である羽柴秀勝は病死。

 従兄弟であるはずの秀次が羽柴姓に復していた。

 

「なあに、殿の力が必要になるときがすぐに来ます」


 神子田半右衛門が言った。

 半右衛門は今は秀吉に乞うて秀繁の直臣にしてもらっていた。

 これで彼の命運も幾ばくか変わるだろう。


――陪臣になってもいいのか、という秀繁の問いに


「次の天下様は秀繁さまであらせられますし、我が家が残るなら気にはいたしません」


 というのが彼の答えだった。


「僕もそう思います」


 大吾郎の一人称は、おいらからに変わっている。


「今やっていることが完成したら、秀吉さまといえど、秀繁さまのお力を無碍にすることはできないでしょう」


 秀繁は無為に日々を費やすことはせず、あることに力を注いでいた。

 無論謹慎中であるため、自分で直接手を下すことはなく、だ。


 秀繁一行の石高は20万石になっている。

 兵数としては約6000。


「半右衛門よ、この時代で一番速い移動手段は何かな?」


「はっ、馬でございます」


「では、最強の武器と言えば?」


「鉄砲……でございましょうな」


 秀繁は馬と鉄砲を集め、明智の遺臣を抱えつつ、もってひたすら調練に臨んでいる。


 騎馬鉄砲隊である。


 1000の騎馬鉄砲隊と1000の騎馬隊、1000の鉄砲隊と100の精鋭部隊をもって次の戦に臨む。

 通常、この時代では騎馬隊といえども、全体の5%から20%程度である。

 破格の資金をかけた部隊を、秀繁たちは作ろうとしている。


「このときを逃すと、もう大魚が池に現れることはありませんから」


 曰く小牧・長久手の戦い。


 羽柴秀吉と徳川家康による唯一の戦いで、その後の命運を変えた戦である。

 ここで徳川家康を討てなかったことによって、豊臣家が滅亡した潮目である。

 その後も家康を討とうとした秀吉であったが、天正大地震により断念し、家康を懐柔する方向にでたと言われている。


 明智の遺臣・明智兵を率いるのは僕大吾郎輝繁を抜擢した。


 官兵衛曰く、


「目から鼻に抜けるごとく、もしかしたら秀繁さまより利発であるかもしれず、イチから天下を取るものであれば実はこの者だったかもしれません」


 との絶賛具合で、実際10日も経つと、この若い武将に明智のものは心服するようになった。


 秀繁がコツを聞くと


「僕自身が一番最下層の人間であったことが、人の心を読むのに役立っているのかもしれません」


 とのことであった。

 なるほど、秀吉も最下層から人の心を掌握することで人がましくなった男である。

 ハナから上に立つものとでは、人の心の機微を察する能力が違ってくるのであろう。


「こやつは良い武将になるでしょうな」


 半右衛門が目を細めながら大吾郎を褒めた。


「羽柴秀繁四天王というものがあったら、まず間違いなく筆頭になる男ですぞ」


「そんな僕なんか……」


「はは、謙遜せずともよい。そなたの価値は、秀繁さまが一番よくわかっておられる。のう、坊さま」


 秀繁は無言で頷いた。

 まったくの無学の、一兵卒であった大吾郎がここまで使えるとは思ってもいなかった。

 戦国時代に比べると、明治時代以降の現代の実力主義ははなはだ疑問である。

 サイコロで砲弾が当たったか判断するという実習に何の価値があろう。

 現代では実地学習ではなく、ものごとを覚える記憶力だけが異様に尊ばれる。

 実際は記憶力=頭が良いということではないのだ。

 授業で習う10個程度の科目を素養とし、それを発展させ応用することによって文明は進化し歴史は動いてきたのだ。




※※※※※



 鉄砲と蹄の音が同時に打ち鳴らされる。

 馬は、背後で傘が開いただけで驚いて暴走を始める生き物である。

 鉄砲の轟音に慣らせるには、非常に手間がかかる。

 そして馬を操りながら、鉄砲を繰り出す人間も錬成しなければならない。

 これも非常に手間がかかる。


「どうだ、調練のほどは?」


 秀繁は訓練の責任者でもある大吾郎に話しかけた。


「もう少しの塩梅あんばいですね。あとひと月もあれば、どこに出しても恥ずかしくないような部隊に仕上げてごらんに入れます。」


 そうか、と秀繁は一言。


「それにしても、騎馬隊に鉄砲を持たせるとは、秀繁さまはものすごいことをお考えになりますね」


「私自身の考えではないさ。いわば剽窃ひょうせつだ」



 もともと鉄砲というのは、素人でも簡単に扱えるように作られたものである。

 素人が扱う鉄砲と、玄人が扱う弓矢では、弓矢のほうが圧倒的に命中率が良い。

 それなのに、なぜ、鉄砲が量産化されたかというと、戦国武将が農民あがりの兵を鍛えるのに、弓矢を習熟させるより、鉄砲を持たせた方がはるかに効率が良いからだ。

 そして圧倒的に射程が長い。

 射程が長いために山城はその防御力が半減し、日本が統一するのにすさまじい成果を出した。

 鉄砲がなかったら日本は統一されていなかったとは言い過ぎではあるとしても、虚言ではない。

 日本で鉄砲が高額で売れると聴いた欧州諸国が日本に鉄砲を売りに行くと、すでに日本で国産が始まっていて売れなかったという笑い話があるほどだ。

 外国から輸入したものを、国産化するという日本の文化はこのときからあったのだ。


 一方、馬は生産するには時間がかかる。

 奥州の馬が有名で、武将はこぞって買いたがった。

 戦国大名クラスになると、自分で生産牧場を持っていたものもいるようである。

 騎馬隊とは奇襲。

 義経による鵯越ひよどりごえ、信長による桶狭間が有名である。

 日露戦争の英雄・日本騎兵の父である秋山好古が、陸軍大学校で学生たちに素手で窓ガラスを破壊し手から血を流しながら『騎兵とはこれだ』と説明したことがあった。

 一撃離脱の攻撃力と、もたもたしていると全軍壊滅する防御力である。


 騎馬鉄砲隊とは、その両方の良い方の特徴を抽出した選ばれし兵科である。

 騎馬による高速移動。

 鉄砲による遠隔射撃での敵の混乱を誘発する一撃必殺。

 そのあとに普通の騎馬隊、歩兵が突っ込み、相手を殲滅する。


 伊達政宗が考案したとされている。

 伊達家は奥州なので馬には困らなかっただろうが、当時の東北地方は中央から文化が約20年は遅れていた。

 鉄砲というものも、信長などが手にした時からはかなり遅れて浸透したであろう。

 伊達政宗は、革新性を持ちながらも、遅れてきた戦国武将であった。


 そして歴史は『騎馬鉄砲隊は羽柴秀繁によって創造された』と改変されようとしている。

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