第19話妻の涙

「ただいま、帰った!」


 秀繁はわざとらしいほどの大声で叫んだ。

 今ならば、秀吉の大音声にも負けない自信がある。

 だが、妻に対する策は持っていない。

 もしかすると、匕首あいくちを持って首を刈っ切られるやもしれない。


「お帰りなさいませ、おまえさま」


 努めて冷静に、感情がないような声で小春が出迎えた。

 その目には涙が宿っているのか。

 それとも静かな怒りが内包されているのか。


「息災であったか」


「おかげをもちまして」


 誰のおかげかを明言しない。

 秀繁は自分が半熟であることを知っている。

 一方で、妻も未熟であるかもしれなかった。

 両方とも、感情を完璧に隠すには幼すぎた。


「そなたの父を討ったのは私だ。私が自ら義父上の首を刎ねたのだ」


 手柄を誇っているのではない。

 哀憫の情であった。

 妻に対する陳謝・謝罪の報告であったのだ。


「そうですか……」


 小春の眼は虚空を見つめている。


「ウチは父の顔を知らずに育ってきました。この歳になってようやく、二ヶ月だけの父娘関係を築けました。父も私を相手に少し戸惑っていたようです。それでも、嫁に出るときは明智の誇りを忘れるな、と仰られました。正直、今でも明智の誇りというのは何かよくわかりません。謀反を起こしてまで、わずかな間、天下を取るのが誇りなんでしょうか」


 小春は静かに主張した。

 秀繁には答えられない。

 その理由については、400年経ったあとでも、歴史学者に飯のタネを提供し続けているのだから。


「私は一度父に捨てられた身。二度目に旦那様に捨てられようと意外には思いません。恨みもいたしません」


「それは違うぞ、小春よ。そなたと離縁することはない。細川忠興どのも玉子どのと離縁することは避けられた」


 秀繁は、はっきりと言った。


「明智家の遺臣もだ。私が責任をもって我が家に仕えさせる。ただ一人をも飢えさせることも、無駄に死なせることもない。それもお前が、明智家の血を引くおまえがいてこそ、彼らも忠勤を励もう」


 秀吉にも言った、それが秀繁の論理ロジックだった。


「一生そなたと添い遂げると決めたのだ。私は他人を裏切ることはできるかもしれないが、自分に偽りをついてまで戦国の世を生き抜こうとは思わない」


「旦那様……」


「早い話が、いつの間にかそなたに心底惚れていたのだ。いつの時代も惚れた方が負けだ」


 自分でもいびつだと思う苦笑をしながら、秀繁は頭を掻いた。


「そしたら、ウチはここを出ていかなくてええんですか?」


「そうだ。明智の人間であるからといって、差別されるようなこともない。そなたの近侍のものも、そのままだ。まあ変わったことといえば、私が父の怒りを買って、謹慎をくらってしまったことくらいだ」


「それって大変なことやないんですか?」


「それ以上に、大変なことがこれから起きてくる。謹慎はそれまで力をたくわえ、休養するための方便ともいえよう。小春よ、怒涛の世の中になるぞ。私には、お前の力が必ず必要なのだ。最期までしっかりと私について来てくれるか?」


 小春は返事ができない。


 冷え込んでいた感情に火が灯るのを実感している。


 ついて来いではない。ついて来てくれるか? と問われている。


 これが自分の夫、羽柴秀繁という人物。


 この人について行こう。一生添い遂げるのだ。


 胸につかえた思いが、目から溢れ落ちる。




 秀繁は、妻を抱き寄せる。


「ほら、そんな顔をしたら可愛さが半減してしまう」


 まるで幼子をあやすかのように。


 彼は彼女の涙を親指で拭き取る。


 彼の妻は小刻みに、何度も小さく頷くことしかできなかった。

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