第17話舅どの
「
彼を呼び止める男の声がする。
彼には実息はいない。
だから、彼を父と呼ぶものは娘の婿しかいないはずだ。
振り返って見てみると、確かに自分を
「我が大事ならずだ。
光秀はうなだれた。
光秀は55歳である。
この時代では、老境どころか死んでいてもおかしくない歳である。
それが、歳相応にすら見えないのは、肉体的な疲労だけではあるまい。
精神的な疲労が、それ以上にあるのだろう。
もともと老け顔だったのが、それに加えて今や死相が出ている。
「なぜ、無用の大乱を起こされた?」
秀繁は自分で言ってみて、自分で納得がいかなかった。
そうである。
信長が天下統一していれば、そもそも秀吉の出る幕はなく、自分もこの時代に来ることはなかった。
なかったことにするのであれば、本能寺の変をなくせば良かったのではないだろうか。
「信長公のやりかたでは、結局天下は治まらぬ。
「では、どうすればよかったのですか」
「もはや、言ってもどうしようもない。あとは秀吉の世だ。すると、嫡子である婿どのの世が来るということでもある。己が思うままになされよ。それが正しかったかどうかは、後世の学者が偉そうに判断してくれる」
「義父上……」
「私は後世どのように語り継がれるのであろうな。ただの逆臣か、不幸にも謀反を起こさざるを得なかった忠臣か」
今、歴史の転換期に自分はいると秀繁は実感した。
光秀は独白しているのではない。
秀繁を通じて後世に語りかけているのだ。
「その両方でしょう」
「両方か……」
光秀は納得したかのように目を瞑った。
「わが娘には、これから酷い仕打ちが待っていよう。こんなことを言える身ではないが、娘にはどうかよしなにお願いしたい」
「こんなことを言える身、ということはないでしょう」
秀繁は言った。
「私の義理の父であり、小春は私の正室ですから」
「そうであったな」
光秀は、少し余裕のある微笑を見せた。
秀繁も微笑を返す。
それによって、秀繁は光秀と通じ合えた気がした。
もっと早く、義父と胸襟を開いて語り合うことができたならば……
ただの義理の息子としてではなく、真の息子としてその胸の内を訊いていれば……
織田信長は死ぬことはなく、小春も不幸な運命を辿らずに済んだかもしれない。
すべては過去形であった。
「婿どのに、ひとつ大功を立てさせて進ぜよう」
そう言うと光秀は馬から降り、地面に座りあぐらをかいた。
「我が首を持っていかれよ。その功で、婿どのの地位は盤石となるであろうよ」
――義父は、自分の家中での半端な立場を知っておられたか、と秀繁は少し驚き、ついに来るべきときが来たと感じた。
秀繁は周りのものを手で制し、ひとり、明智勢に近づいた。
「騒ぐな! 我が首をとらすことが明智一門の繁栄につながるのじゃ!」
光秀もそう言って周りを制した。
「秀繁どのの正室は、我が娘。羽柴の天下が続く限り、我が血脈は天下人の子孫に受け継がれよう。そうであるな婿どの?」
秀繁はしっかとうなずいた。
そして、スラリと右手で鞘から刀を抜き放ち、
「義父上さま、
一刀のもと、光秀の首を両断した。
「義父上がおっしゃったであろう、騒ぐな! 今日より、そなたら明智勢はこの羽柴秀繁が扶持する。不満があるものは去れ。後日不満が出たものは、私の寝首を搔けばよい。今はただ騒ぐな!」
驟雨が辺りを纏っていた。
小栗栖の森の木の葉からも、水滴がこぼれ落ちる。
木に包まれていないところは、天空から落ちるそれを、そのまま受け止めていた。
秀繁はそのとき、どうであったのだろう。
彼の顔からは水が滴り落ちていた。
『大将は兵のいるときは、負の感情を出してはなりません』
いつだったかの半右衛門の言葉が胸に突き刺さる。
だが、今くらいはいいだろう?
そうでなければ、心が張り裂けてしまう。
『
人間性を失い、世の中の無情さに叫んでしまいそうになる。
自分が、この時代に来て初めて殺したものは、岳父、明智光秀であったのだから。
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