第8話軍師
「三人の秘密ですな」
隣の牢から声があがる。
迂闊だった。
門番以外、ほかにだれも人がいないと思って話し込んでしまっていた。
「昨日から、あなたたちの隣に放り込まれているものです。あなたのいう虚言も、嘘にしちゃ面白い作り話だと俺は思うのですが……じゃあ、車ってやつで月の兎さんでも見物してるのですかな」
少し挑発じみた物言い。
秀繁は、今度ばかりはちょっとだけ警戒を開始する。
「車では行けない。そもそも月に兎はいない」
「車『では』か……じゃあほかに方法があるってことですか」
ただの揚げ足取りか。
それとも、そもそも思慮して話しかけてきているのか。
「アメリカという国があってね。鉄砲の銃弾よりも速い速度で行くらしいよ」
「ほう。月に行けるのですか」
「僕は行ったことがない」
「だれでも、というわけにはいかない、と」
不貞腐れたのか。
そのように見せかけているだけなのか。
牢越しでは表情は判断できない。
「あなたは羽柴秀吉公の息子で合ってるんですな?」
確認するかのように、念を押す。
「聞いてのとおりだ。言うまでもない」
秀繁は顔を横に向けた。
心配そうに五郎が目を合わせてくる。
「あなたを助けるために、弁の立つ使者がここに送り込まれてきたらしい。だが捕まったとも聴く」
「あなたのことだね」
「これは話が早い」
あまりの物わかりの良さに、男はくつくつと笑う。
「しかし、その世継ぎさまが確かなものではないと、聴いてしまった。これは捨て置くことはできません」
「では、どうする?」
「どうかできたら、そんな下らない話に乗りはしませんな」
打って変わって、真面目な口調になる。
見えないが、にやけていた顔は真顔になっているのではないだろうか。
「しかも、世継ぎが一兵卒を助けるために
「そういう時代の人間だからね」
「どういう時代でも、大将がやられたら戦争は終わり。
「そこまで割り切れない」
「あなた、まだ人を殺してないようですな。そんな甘いものが大将だとは、論者の立場も考えて欲しいものです」
「すまない」
鼻を鳴らしながら秀繁は答えた。
心がこもってないのを承知で謝る。
暇をつぶすための、話し相手ができたと思えば良いのであろうか。
いずれにせよ、ここで謝罪しても激昂しても状況は変わらないのだ。
「徳川家康が天下を取るというのは、どこまで本当なんです。なぜ二か国しか持っていない、織田の奴隷の徳川が天下を取れる?」
相手が信頼に値するかを咄嗟に考える。
自分のためにわざわざ死地に赴いてくれた論者である。ここは信頼してもよいだろう。
「明智光秀が謀反を起こし、織田信長は滅びる。その後、羽柴秀吉が天下を取り、後継者が幼いため徳川家康が簒奪する」
「信長公高ころびに転げ、藤吉郎さりとてはのものか。しかし、後継者が幼いって、あなたその声からして大人でしょう」
「
「ほう、以前の後継者……」
少しの間、沈黙が流れる。
三者三葉、考えることが違う。
ひとりは諦観。もうひとりは希望。さらにひとりは疑惑。
「まあいい。実をいうと、羽柴家など雑兵あがりの血筋がどこでねじれようと、俺の知ったことではないのですよ」
男は壁を叩き声を少し荒げ、
「問題は、ここから出られないこと。羽柴に乗っかり続ければ、どこまでもいける。我が家が天下に近いところまでいける、そこまでわかっているのに、今はなにもできんとは!」
心底悔しそうに言う。
「今は動乱の時代だ。一時一秒が惜しい。なのに、こんなところで足元をすくわれるとは」
男の声には、自分に対するいまいましさと、嘲笑が感じられた。
「あなたは先ほど自分のことを虚無と言った。虚無とは何もないが底を知れぬことを言う。虚無で天下を取った男を知っていますかな」
「知らないね」
「
男の声は熱を帯びる。
その声は、だんだん高まり、雷撃を加えようとしている。
「あなたは天下人に近い素質を持っている、ということだ!」
「もとからそのつもりだ」
極めて冷静に、冷淡と言い換えても良いほどに秀繁は独白した。
「僕は、天下を治めることを前提とした羽柴秀吉の後継者。父が亡くなるより少し前の天下を継承するために存在するものだ。誰かに分かってもらうべきものでもない。誰かに代わってもらうこともできない。人をできるだけ殺さず、犯さず、傷つけず。日本をより良い状態で未来に託す。それは織田信長にも羽柴秀吉にも徳川家康にもできない。今をよりよく知っている僕にしかできないことなんだ」
「少し、開けっ広げすぎます。聞いた方も、聞かれた方も、まずい話が多すぎです。時と場合によっては、両方首を刎ねられても文句は言えないでしょう。これはもう虚無ではない、ただの馬鹿です」
賞賛と、あきれが半々という声で男は言った。
「そうかもしれない」
「素直すぎるのもいけません。腹芸とまでは申しませんが、嘘をつくというのも処世術のひとつです」
男の口調は慇懃無礼ながらも、礼を尽くしたものに変わっていた。
「神子田どのからの伝令です。『あなたが生き延びている確証を得るまで、待たせて申し訳ない。使者が行った後に総攻撃を行う。それまでご壮健あれ』とね」
隣で嬉しそうに、五郎が秀繁を見上げた。
それを見やった秀繁は、またもや五郎の髪をなでる。
自分の頭も撫でてみると、
現代人としては、こっちの方が好ましい。
生きて牢を出ることがあれば、もう月代は剃らずにしておこう。
「申し遅れました。私はあなたの軍師を命じられた黒田官兵衛と申します」
この時期に、有岡城に囚われるのは彼しかいないはずだ。
確信が現実になって、秀繁はふぅとため息をついた。
※※※※※
「あなた自身はどこまで知っているんだ?」
秀繁は官兵衛に問うた。
「詳細は知りません。ただ、20年後の朝鮮出兵のおりに、私の息子が溺死することを知らされております。未だ生まれていない子だが、なぜかもうすでに愛情が湧いているのです。今も、信長公のもとに人質として嫡男をおいていますが、誤って殺されやしないかと心配で。私は側室を置いておりません。嫡男にそれを支える兄弟を残してやりたい」
「戦国武将の異常な愛情、か」
人の悪い苦笑が秀繁の顔からこぼれた。
それを聴いた官兵衛はいったん口を閉じる。
「あなたに、人を殺したことがないと罵りましたが、それは少ないに越したことはない。やり方が問題なのだ。将は味方の損害を少なくし、相手の損害を大きくする。殺人の合理化が良いものを名将というのです。そうすると、大将が一兵卒のために打って出るというのは、相手にとって非常に効率的でしょう。後世の模範とするべきでしょうな、悪い意味で」
官兵衛は大笑し、それにつられるかのように、ばつの悪そうに秀繁は頭をかいた。
「英雄とは何かの犠牲により成り立つもの。何ひとつ失うことなく、天下人が現れることはありません」
「あなたも必要とあらば犠牲になる覚悟がある、と?」
「それは御免こうむる。私は畳の上で死ぬと昔から決めているのでね」
他人を手駒にして大量殺人を犯し、そのうえで自分とその子供の血は流すことはなく大往生すると言っているのだ。
「お小言と、笑いひとつでその権利を買うというわけか」
「権利もやり方ひとつです。私に材料をお任せあれば、なるべくその条件に見合った料理を作って差し上げますがね」
「なるべく、ね」
使者というよりはただの詭弁家だなと秀繁は思い、この詭弁家は失敗することまで想定して城に赴いたのではないかと確信に近いものを得た。
「秀繁さま、夜が明けますよ」
五郎が言った。
座敷牢では暗いか、もっと暗いかの2つしかない。
そんな中では、太陽を拝むことができる時間が限られ、見られない日も多々ある。
牢内を照らす光が入る今日は、格別良い日なのだろう。
「おいら、すごい方のおそばにいるんですね。将来の天下人の兵なんですね。生き抜けば、本当に一国一城の主になれるかもしれないんですね」
「そうだな、もし僕が天下人になれたら考えてみよう」
「本当ですか! 絶対、生き抜いてみせます!」
主君と雑兵の垣根を越えた、関係の始まりであった。
秀繁は五郎を友情の対象のように思ったし、五郎は五郎で忠誠の対象を見つけたと喜んび勇み始めた。
この関係はどちらかが死ぬまで続くこととなる。
翌日、有岡城は開城した。
一度は閉じ込めた官兵衛を荒木村重が開放し停戦交渉が再開し、羽柴秀吉の嫡子たちを開放することで降伏条件がまとまったのだ。
「太陽って、こんなに眩しいものだったのか」
「風も気持ち良いですよ」
二人は
太陽に照らされるという、人間ならば誰もができる娯楽を充分堪能したのだった。
それは、ここ数か月は強制的におあずけを食らっていたもので、秀繁が元いた時代ならば日照権訴訟でかなりの額を請求できるはずのものであった。
――現代の法律をいくら知っていても、この時代じゃ意味がない
と、ぼやかざるしかない状況に現実を見るのであった。
半分足が萎えた秀繁は、輿に載せられて姫路城へと到着する。
当面は、筋力トレーニングをして歩行訓練からやり直さないといけないであろう。
黒田官兵衛が荒木村重に捕らえられたときよりも、秀繁は若い。
やり直しはまだまだ効くはずである。
「よう帰ってきた、よう帰ってきた!」
父であるはずの秀吉が、泣きながら抱きしめてきた。
数度しか会っていない人物を父として認識するのが奇妙な困惑があり、それでも自分のために泣いてくれる嬉しさとの絶妙な配合で秀繁は少し混乱していた。
記憶のない17年間に、この親子はどういう会話をしてきたのだろう。
すべての行動に意味があるとすれば、この涙はどういう関係性で流されるものであるのだろう。
「わしは生きておると信じておった! 葬儀は出してしまったがな……」
よくとおる澄んだ声と、そのあとを通り過ぎるか細い貧弱な声が対照的である。
以前はなかった新しく設置されている仏壇を覗いてみると、どうやら自分の位牌があるらしく、複雑な感情が秀繁を覆う。
「わしは生きておると信じておったのだが、そなたの母がな。羽柴家の家督をどうするのだ、と」
失望されることを極端に恐れたような上目遣いをすると、秀吉は言った。
「信じておったのだが、信長さまより公子を養子にたまわってしまった!」
「羽柴秀勝である!」
そこには醜悪な秀吉とは似ても似つかぬ、眉目秀麗な貴公子が立っていた。
「そなたが私の弟か。まずは生きて会えることをまことに嬉しく思う」
義理の息子である兄、実の息子である弟。
どちらがより家督相続に近いのか。
現代の法律なら揉めるかもな、と秀繁は深くため息をついた。
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