14話

 店員は息を荒げていた。充はすぐに掴んでいた手を放し、女性の硬直した顔を見た。彼女の友人たちも同じように固まっていた。絶対に動かないと思ってたものが動く時ほど怖いことはない。予測できない行動を起こすからだ。


「ねえ……ちょっと待ってよ」と言ったのは亜美佳だった。


「……は?何を?」


 女は崩れたワンピースの襟元を直しながら言った。


「許して」


 そう言うと、亜美佳は財布から1万円札を取り出したのだ。


「いまこれだけしかないから、これで許して」

「はあ?」


 突然の心変わりに女性は動揺した。こんなにも彼氏を大切にしているのか。こうも態度を変えるなら、と女はそのように結論づけた。それに、お金がもらえるのなら、ラッキーじゃん。


「次……また返すから」と亜美佳が言い、「連絡先さえ分かれば、また返せるから」と俯いた。


 女性の目は、亜美佳からお札へ、そして再び亜美佳へと移った。


「ぷっ、こいつバカじゃないの?いいわよ。番号を教えてあげる」


 女性は1万円札を奪うように取り、携帯を取り出して自分の番号を表示させた。


「一週間以内にね」と言い、3人組は睨みながら店を出ていった。扉が閉まると、すぐに外から高い笑い声が聞こえてきた。


 店員は心配そうに何度か声をかけた後、一度離れた。少ししてから、布巾とモップを持って戻り、床にこぼれたコーヒーを掃除し始めた。


「……くく」


 亜美佳がテーブルを見ながら小さく震える。


「はぁー、面白いわ」


 亜美佳は吐き捨てるように言って笑った。


 それは決して強がりではなく、本当に面白がっているようだった。充はそう感じた。



「大丈夫?」

「大丈夫って?お金?」

「お金もだけど、頬を叩かれたところ。赤くなってるよ」


「ああ、うん、大丈夫」と亜美佳は頬を軽くさすりながら答えた。


 亜美佳が大丈夫だと言うのであれば、充はひとまず安心なのだろうと思った。彼は、亜美佳が一週間以内に会うと約束したことを思い返していた。


 すると、充はトリックに気がついた。亜美佳は相手の番号を聞いたが、自分の番号は教えていない。つまり、相手から連絡が来ることはないわけだ。確かに金銭的には損をしたが、それ以上の問題は避けられたのだ。


「ねえ」と亜美佳が話し始めると、返事を待たずに充に尋ねた。「ケーキ、頼んでもいい?」


「いいよ」

「あ、コーヒーなくなっちゃった」

「じゃあ、新しいのを取ってくるよ」と充が言った。


 そう言ってドリンクバーへと歩き出すと、店内の緊張感はまだ消えていなかった。充の動き一つ一つが周囲の注目を集めているようだった。


 しばらくして、店内の雰囲気は徐々にいつものものに戻り始めたが、警戒するような視線はまだ感じられた。亜美佳が帰りたいと言えば、すぐに店を離れるつもりだった。


「この後、どこか行きたいところある?」


 充は尋ねた。居心地の悪さから、先に話を進めようとしたからだ。


「うーん、そうだねー」


 と、腕を組みながら言ったところで、突然亜美佳の携帯電話が鳴った。亜美佳は発信者の名前を確認し、すぐに電話に出た。充は耳をすませてみたが、はっきりとは聞こえなかった。


「ハルカ?どうしたの?—―そうなの?……わかった、持っていく!待ってて」


 通話が終わると、亜美佳は顔を上げ、充の方を向いた。


「ごめん、あたし、出るね」と亜美佳が言い、指を櫛のように使って髪をとかしながら、「鍵持ってないから、開けておいて」と付け足して店を出ていってしまった。


 充はそれを聞いて、ただ「あ」や「うん」しか言えなかった。


 

 ハルカ――

 

 

 それは、亜美佳が愛している人の名前だ。


 充はハルカという人物と面識はなかったが、その顔を一度見たことがあった。家のテーブルに無造作に置かれていた派手な名刺に、写真付きで「ハルカ」と記されていた。その写真には、整った顔立ちに派手な長い金髪、白いスーツを着た人物が映っていた。ご丁寧に住所まで書いてあった。



 新宿で活動するホストだということは、一目で明らかだった。


 充は伝票を手にして立ち上がった。ふとテーブルを見ると、亜美佳が注文したチョコレートケーキが半分ほど残されていた。しかし、カップは空だった。


(コーヒー、飲めるようになったんだね)


 亜美佳はコーヒーが嫌い――だと思っていた。

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