第三章





私は来夏さんにもらったカメラで部屋から見える夕焼けの空を撮った。

初めて知ったけど、肉眼で見る風景とカメラを通して見る風景は違う。

そんな事も知らなかった。

だけど、来夏さんがくれたカメラは一眼レフと言われるモノでファインダーってのが付いてて、ファインダーから見た風景がそのまま写真に撮れる。

らしい…。

来夏さんに色々と教えてもらったばかりだったが、専門用語が沢山並び、難しすぎて…。


多分高価なカメラ…。

私は嬉しかった。

高いモノなんて殆ど持っていない。

このカメラを首から下げて、色々なモノを撮ってみたい。

そう思った。

それはカメラを持ったからだけじゃなく、多分、木瀬さんの写真を見たからだと思う。


あの原発事故の後のフクシマの人々の写真を撮った写真誌。

今までならそんな写真、ペラペラと見て終わってたかもしれない。

だけど、違ってた。


「死ぬのを待ってる人の写真じゃない。此処で生きようとする人々の写真なんだよ」


来夏さんはそう言った。


私もその写真を見てそう思った。

生きている人々が笑い、怒り、悲しみ、そんな表情が撮られていた。


私はベッドに横になり、ファインダーを覗く。

棚に置いたバカラのグラス。

ハンガーに掛けた制服。

机の端に置いたウイスキーのボトル。

色々なモノを撮ってみた。

これが私の世界。

狭いけど、此処だけは確かに私の世界。

クローゼットを開けて姿見を見る。

表情の無い私が映る。

私はその自分にカメラを向けてシャッターを切った。


私は此処に居る。


笑ってみた。

上手に笑えない自分が鏡の向こう側に居た。






今日から三者面談が始まる。

私は初日。

少し気が重い。

鞄の中に入れた進路を書く紙は白紙のままで、結局何も決められなかった。

早い子は二年の秋には進路を決めている。

もう三年の夏休み前だって言うのに私は空っぽのまま。


母には書置きで、今日の面談の時間を知らせておいた。

だけど、私が進路希望を白紙で出す事は知らない筈だ。

母に恥をかかせたくは無いけど、何も決められなかった。


「学校は進学率を下げたくないから、大学へ行けって言う」


昔、兄がそんな事を言ってた。


「俺は学校の言いなりにはならない。自分がやりたい様にやる」


そんな事も言ってた兄も、蓋を開けてみると推薦で東京の大学に行った。


先生の勧める大学に行って、そこでまた、どうするかを考えれば良い。

そう考えた事もあった。

そうすると、もし大学でもどうするかを決める事が出来なかったら、多分、私は私としての価値を完全に失ってしまう事になりそうで、怖い。


私の価値…。

そんなモンあるんだっけ…。


教室から見える校庭をじっと見つめていた。


「財前。聞いてるか…」


と世界史の寺西が私の頭を教科書で叩く。


「あ、はい…」


私は適当な返事をして、また外を見た。

どうもこの寺西先生とは相性が悪い。

この先生だったから世界史が嫌いになった。

必死に人気を取ろうとするがウケは悪く、寺西の事を好きだと言う話は聞いた事が無い。

水泳部のコーチをやっている磯貝先生をライバル視しているみたいだけど、残念ながら遠く及ばない感じ。

学生時代はサーフィンやってたって話してたけど、多分ネットサーファーだったんじゃないかって噂になってた。


香緒里は今日、休んでいた。

昨日元気だったから、病欠では無いと思うんだけど。

白石先生と推薦で受ける大学を昨日決めるって言ってったっけ…。


私はまた窓の外を見た。

開け放した窓から温い風が時折入って来る。

夏が来る。

今年の夏は、私にとってはあまり良い夏では無いのかもしれない。

去年の今頃は必死になって泳いでいた。

塩素の匂いも嫌いじゃなかった。

タバコもビールも知らなかった私。


一体、いつから空っぽになってしまったんだろう…。


私は広げたノートに「からっぽ」と書いた。


「空っぽだ…」


私は呟いた。


「何か言ったが、財前」


寺西は私に敏感だ。


「いえ…何も…」


私はそう言って、寺西をじっと見た。

寺西も私をじっと見ていたがそれ以上は何も言わなかった。






三者面談のため、今日は午前中で授業は終わり。

そして短縮授業。

本来なら心も踊る日。

だけど今日の私には小躍りも出来ない。

面談まで時間があった。

私は食堂にパンを買いに行ったけど、いざパンを見ると食べたくなくった。

仕方なくシュークリームを一個買い、それを中庭のベンチで食べる。

部活の後に食べるシュークリームは美味しかったんだけど、今日は全然美味しくない。

べた付くクリームを缶コーヒーで流し込む。


水泳部が練習しているのをプールの外から見た。

皆、必死に泳いでる。

それを見ても何とも思わない自分が居た。


「財前…。どうした、まだ体調悪いのか…」


磯貝先生が私を見付け、金網越しに声を掛けて来る。


「生理なんで…」


私はそう言った。

これも嘘。

そう言うと先生は何も言えない事を知っている。

空っぽの私にはお誂え向きの嘘だ。


「ほら、木下、ターンが甘い」


厚紙を丸めて作ったお手製のメガホンで磯貝先生は声を荒げていた。


「選考会までには復帰しろよ」


先生はそう言うと泳ぐ後輩に付いて、プールサイドを歩いて行った。


磯貝先生が離れて行ったのを見て、佐知が寄って来る。


「葉子」


佐知は私の前にしゃがみ込んだ。


「気になるんでしょ」


残念ながら佐知の言葉はハズレ。

全く気にならないし、もう金網の向こう側に立つ事も無い気がした。


「佐知はさ…」


私は飛沫の上がるプールを見ながら佐知に言う。

佐知は口角を上げて微笑む。


私は佐知に「泳げない事は辛い」か訊こうとしてやめた。


「いや、何でもない…。頑張ってね…」


私は佐知に背を向けてプールを離れた。


少し離れた場所からまたプールを見る。

そして両手の親指と人差し指で四角を作り、そのプールの様子を見た。


プールの外から見ると、こう見えるんだ…。


私はその風景を初めて見た気がした。


「頑張ってね…、皆」


私はそう呟くと、校舎へと入った。


教室に戻ると机に置いていた鞄を取り、肩に掛ける。


何も考えていない私に面談なんて意味あるのかな…。

母には悪いけど、やっぱり帰ろう…。


私は教室を出た。ふと、廊下の先を見ると、今日休んでいた香緒里の姿が見えた様な気がした。


何か様子が違う…。


私は香緒里に声を掛けるのをやめて、後を追った。

追うと言っても、行先は美術室だろうとわかっていた。

私は一つ上の階へ階段を上る。

すると、水泳部のマネージャーの玲奈と美玖が階段を下りて来た。


「あ、財前先輩」


美玖が私に気付き微笑みながら頭を下げた。


「体調どうですか…」


玲奈も心配してくれていたのか、心配そうに私を見ていた。


「うん。ありがとう…。心配してくれて…」


私は二人の頭を撫でる。

子供扱いしている様に見られるのかもしれないけど、これは私が先輩にしてもらって嬉しかった事。

私も何故かこの二人にはこうしてしまう。


「久代先輩が言ってましたよ」


佐知が何を言ってたんだろう…。


「財前先輩が泳げないのは自分のせいだって」


私は首を傾げた。


「久代先輩が病気で泳げなくなって、競い合うって事が無くなったからだって」


私はハッとした…。


佐知の言う通りなのかもしれない。

私は私の前を泳ぐ佐知を追いかけていた。

そしてその佐知が泳ぐのをやめた時、私の泳ぐ理由は無くなってしまったのかもしれない。


「アイツ…」


私は玲奈と美玖に微笑んで、今一度頭を撫でた。

そして、


「佐知に言っておいてくれ。今度はスイーツの早食いで勝負しろってね」


二人は顔を見合わせて笑っていた。


その時、上の階で誰かの叫び声が聞こえた。

私はその声に何故か胸騒ぎがして、


「玲奈、美玖、また今度」


と言うと階段を走って上った。


廊下に人だかりがあり、私はその部屋、美術室を覗き込んだ。

そこにはペイントナイフを両手にしっかりと握った香緒里が立っていた。

そして白いシャツの腕から血を流す白石先生が居た。


「安東、落ち着け…」


白石先生の腕を伝い床に血が落ちる。

香緒里の表情がいつもと違う。


「落ち着いて、もう一度ゆっくり話そう」


私は鞄を床に置いた。

そしてゆっくりと香緒里に近付く。


「香緒里…」


私に気付いた香緒里は、


「来ないで葉子」


と叫ぶ様に言う。


「こいつを殺して私も死ぬ」


香緒里は普通では無かった。

あんなに好きだった白石先生を「こいつ」と言った。


私は振り返り、美術室のドアを閉め、鍵を掛けた。

人を傷付ける香緒里を誰にも見せたくなかった。


「香緒里…」


私はゆっくりと香緒里に近付く。


「こいつは私を…、私を…」


香緒里は涙を流しながら言う。


私は腕を押さえた白石先生を見た。


「何があったんですか」


私は白石先生に訊いた。


「な、何もない。私は何も知らない」


先生は描き掛けの絵が立ててあるイーゼルを倒しながら教室の後ろへと後退る。


「何も無いって…」


香緒里はペイントナイフを振り上げて白石先生に切りかかった。


「香緒里」


私はその香緒里の腕を掴んだ。

香緒里の手からペイントナイフは落ち、床で音を立てた。

私はその香緒里を後ろから抱きしめた。


「そんな事したら、私を描いてもらえなくなる…」


私は香緒里の耳元でそう言う。

香緒里は床に崩れる様に座り込んだ。


白石先生も腰を抜かした様に座り込んだ。


「もう描けないよ…。私、もう描けない…」


香緒里は泣きながら小さな声を震わせていた。


「あんなに好きだった先生なのに…」


私はその声に白石先生を見た。


「あんな事するなんて…。もう絵なんて…描けないよ…」


あんな事…。


私は白石先生が香緒里にした事がわかった気がした。


私は床に落ちたペイントナイフを拾った。

白石先生はペイントナイフを握った私に気付き、座ったまま後退る。


「違う、違うんだ…。彼女が、安東が俺を誘ったんだ…」


私は息をするのも忘れ、唾を飲んだ。

ゆっくりと白石の方へと歩く。

先生は壁際まで下がるとゆっくりと立ち上がった。


「悪かった…。許してくれ…」


白石の声は震え、掠れていた。


「何でもする。勿論、推薦だって。な、何なら財前、お前も一緒に推薦してやる。な、すまん、すまなかった」


私はペイントナイフを振り上げ、力を込めて振り下ろした。


私はペイントナイフを白石の顔の横に突き立てた。

壁に掛けてあった白石が描いた絵を突き破り、ペイントナイフは折れ曲がった。

そして白石は再び、床に座り込んだ。


それを見て香緒里は、顔を両手で覆い泣いていた。


私は傍にあったイーゼルを座り込んだ白石に投げ付けた。

白石の額から血が流れ出す。


私は白石を睨み付け、拳を握った。


「もういいよ…。葉子…」


香緒里の震える声が聞こえ、私は握った拳を緩めた。


私は、香緒里に寄り添い、彼女をゆっくりと立たせた。


「立てる…」


香緒里は顔を手で覆ったまま頷く。

私は彼女の頭を撫でると、彼女の肩を抱いた。

そして、震える白石をもう一度睨んだ。

そして言葉を飲み込んだ。


私は白石に何も言わずに美術室のドアを開けて、廊下に出た。

放課後の旧校舎はそんなに使う子も居ない。

私と香緒里はその廊下を歩く。

集まった生徒たちは両脇に避け、私たちの歩く道を開けた。






校門の傍に来夏さんの小さな外車が横付けされた。


「葉子」


私は香緒里に手を添えて、来夏さんに近付いた。


「すみません…」


「良いよ、葉子の頼みだからな…」


私は香緒里を来夏さんに預ける事にした。

今、私が安心して友達を預ける事が出来るのは来夏さんしか居ない。


「私、三者面談があるんで、それ終わったら合流します」


私は来夏さんに頭を下げた。

来夏さんは微笑みながら頷く。


「わかった。とりあえず、待ってるよ」


来夏さんはドアを開けて、香緒里を車に乗せた。

そしてこめかみに二本の指を当てて自分も車に乗り込んだ。

そして勢いよく来夏さんの車は走って行った。


それと入れ違いに母の車が入って来る。


「葉子…」


窓が開き、母が私を呼んだ。


「待っててくれたの」


私は母に微笑み、


「ま、そろそろかなって思って」


そう言った。


「車止めたらすぐ行くから、入口で待ってて」


母はそう言うと駐車場へと車を走らせた。


小走りに母は玄関へとやって来た。


「ごめんごめん。ギリギリになっちゃったね」


私は無言で微笑んだ。


「行きましょう…」


母は私より先に校舎へと入って行く。


実は私の手はまだ震えていた。

母の顔を見て少し落ち着いたが、それでも震えは止まらなかった。


大学の推薦をしてやるからと白石は香緒里に関係を強要した。

そして最後まで嫌がる香緒里を無理矢理に。

私は許せなかった。

希望を持って将来を考えていた香緒里は一日にしてその夢を捨てる事になった。

教師にとって生徒なんて三年間しかその場に居ない存在なのかもしれない。

だけど、香緒里にしてみれば、そんな先生を慕い、好きになったのに、裏切られた。それは人生を変えてしまう程の事だと私は思う。

許せなかった。

本気で白石を刺そうとも思った。

だけど、香緒里の前で白石を刺す事は私には出来ず、白石の描いた自慢の絵に穴を穿つ事が精一杯の事だった。


この後、白石がどうしたって良い。

学校をやめる事になろうが、警察に突き出されようが、私は良いと思った。

大切な友達、香緒里を守れたんだから。


母と一緒に保健室の前を通ると、中から白石が出て来た、額に大きな絆創膏を貼り、白いシャツを真っ赤に染めていた。


「あら、どうなさったんですか」


母は、心配そうに白石に訊いた。

白石は慌てて、


「いや、転んだらちょうど額をぶつけてしまいまして…」


白石は私の顔をみながらそう言った。


「まあ、危ないですわ。気を付けて…」


白石は母に頭を下げながら逃げる様に去って行った。


「何の先生」


母は白石の背中を見ながら私に訊く。


「美術の先生よ」


私は廊下を歩きながら言う。


「きっと誰かに殴られたのね…」


母はそう言って笑った。






三者面談は呆気なく終わった。

やっぱり母は強しだ。


白紙の進路を見て担任の黒田は溜息を吐いていた。

しかし、母はその白紙を見ても笑っていた。


「お母さん…。この時期に進路を決めていないのは葉子さんだけなんですが…」


黒田は私の白紙の紙を指先でトントンと叩きながら言った。


「あまりに放任過ぎるんじゃないですか」


母は黒田に微笑み、


「娘の将来は娘のモノなので、誰かがとやかく言うモノではありませんわ」


そう言い放った。


それには黒田も何も言えず、腕を組んで俯いていた。


結局、夏休みが終わるまでに決めようと言う事になり、私の将来には執行猶予が付いた。


私は母と一緒に玄関から出た。


「葉子」


母は前を歩く私を呼び止めた。

私は振り返り返事をした。


「なあに」


「あなたの将来は白紙で良い。線が引かれている将来なんてつまんないでしょうし…」


母は駐車場へと歩く。


「それに、誰かと同じ様に生きて欲しいなんて微塵も思った事ないわ」


私は母らしい言葉だと思った。

そして母は振り返り私の前に立つ。


「でも、一つだけ約束して」


私は真剣な表情の母に首を傾げる。


「自分の選んだ道に後悔しない生き方をしなさい」


私は微笑んで頷いた。


「ここの所、ずっと悩んでたでしょ…。私もね、あなたくらいの時はいっぱい悩んだわ。それも高校生の仕事の一つかもね」


母は、軽やかな足取りで歩き出す。


私が悩んでる事、母はちゃんと知ってた。


「ママ」


私の声に母は振り返る。


「何で悩んでる事、知ってたの」


母は手招きして私を呼んだ。

そして私の耳元で、


「だって、ビールの減り方が半端じゃないんだもの」


そう言うと車のドアを開けて乗り込んだ。


「明後日、パパが帰って来るみたいだから、何処かでお食事しましょう」


母はそう言うとドアを閉めた。

そしてエンジンを掛けると、学校を出て行った。

私は母の車を見えなくなるまで見送った。






私は公園に急いだ。

そこに来夏さんと香緒里が居る様な気がした。

案の定、芝生の真ん中で横になり空を見上げる来夏さんと香緒里を見付けた。

私は自転車を止めて、二人の傍に立った。


「あ、葉子…」


香緒里は私を見て言う。


「パンツ見えてるよ」


「葉子はパンツ見せるのが好きなんだよ」


来夏さんはそう言って笑った。


「そんな訳無いでしょ…」


私は二人の傍に座った。


「どうだった三者面談」


香緒里はうつ伏せになり訊いた。


「あ、うん。何も言われなかった…、って言うか、何も言えない感じだった」


「何それ」


香緒里はクスクスと笑った。


「白紙で出したんだろ…進路」


来夏さんは空の写真を撮りながら言う。


「嘘…。白紙で出したの…」


香緒里は驚いていたが、その後、声を出して笑ってた。


「流石は葉子って感じだね」


「ママがね。娘の将来は娘のモノなのでって言ったのよ。それ言われると流石の黒田も黙っちゃって」


私たちは三人で笑った。


「何か、お腹空いたね…」


私は膝を抱えて身体を揺らしながら言った。


「あ、私も昨日から何も食べてないや…」


香緒里も言う。


来夏さんはカメラを置いて起き上がりながら、私たちを見た。


「ちゃんと食わないとおっぱい大きくならないぞ」


そう言って私と香緒里の胸を見た。


「私が言っても説得力ないな…」


私たちはクスクス笑う。


「何か食べたいモンあるか」


来夏さんは立ち上がってお尻に付いた芝生を払った。


「連れてってやるよ」


私は香緒里の手を取って立ち上がる。


「ラーメン食べたい」


「ラーメンいいね」


香緒里も賛成した。


「何だ、そんなモンで良いのか」


来夏さんは私たちを見て微笑む。


「来夏さん特製ラーメンが良いな」


私は来夏さんの腕を取った。


「何それ、私も食べたい」


香緒里も反対側の来夏さんの腕を取る。


「いやいや…、あんなモン…」


そう言う来夏さんに、私たちは「食べたい、食べたい」とせがんだ。


「わかったよ…。じゃあ、おいで…」


と青い芝生の上を歩き出した。

私と香緒里はその後を着いて行った。






鍋のまま食べるラーメンが一番おいしい。


来夏さんはどっかの作家が言った言葉だって言ってたけど、私はその通りだと思った。

鍋のまま、手で千切った魚肉ソーセージと卵の入ったインスタントラーメン。

何処までも安っぽいラーメンだけど、幸せな気持ちになるラーメン。


「美味しかった…」


香緒里は曇る眼鏡を拭きながら言う。

私はそれを見て微笑む。


「でしょ…。このラーメンは最高だよ」


来夏さんはクスクス笑い、


「私が稼げなくて苦しい時に食べてた一番のご馳走なんだよ」


そう言う。


「けどさ…」


来夏さんは立ち上がり、暮れた街を見た。


「不思議と侘しいとか思った事無かったんだよな…。お金なくても、やりたい事やってれば幸せだったな…」


私と香緒里は顔を見合わせる。


「書いても書いても、最終候補にさえ残れない小説をずっと書いて…。撮りたくも無いアイドルのスキャンダル写真撮って…。ずっと私は何やってるんだろうって思ってた」


来夏さんは私たちの方を振り返った。


「一つも私の描いた将来に向かって進んでいない気がしてた。だけど、小説を書く事が好きでさ、本にならなくても、書いてる事、書く事が出来るって事が幸せだったな」


私は俯き、熱い息を吐いた。

胸が締め付けられる。


「小説家か…」


香緒里が呟く。


「私も香緒里みたいに絵が上手かったら漫画家になりたかったかもな…」


来夏さんはタバコを咥えて火をつける。


「絵心ゼロだからさ、小説家しかないって」


そう言って笑った。


煙を吐きながら来夏さんは振り返る。


「絵心無いから写真を撮るのかもしれないな。頭の中で描いたイメージ通りの写真が撮れたら、鳥肌が立つ事もあるよ…。下手だけどな」


香緒里は周囲を見て、


「来夏さんの撮った写真、見てみたいな」


と言う。

来夏さんは微笑むと、


「見てみるか…」


と言って棚に立てたバインダーを取り出し、香緒里に渡した。

香緒里はそれを受け取り開いた。

私はそれを横から覗き込む様に見た。


人を撮った写真が沢山あった。

笑っている人ばかりがそこに溢れている。


「皆、笑ってる…」


私は顔を上げる。

来夏さんは私に頷いた。


「笑えるってさ、幸せな瞬間だと思うんだよ。些細な事でも、笑えないより笑える方が良いに決まってるし。夢を叶えた瞬間の笑顔って最高だろうな…」


夢か…。

私はその夢が何なのかって所から始めないといけない。

夢に向かって生きる。

それがどんな結果であれ、後悔しない生き方なんだろうか。


香緒里は真剣に来夏さんの写真を見ていた。


「葉子…」


香緒里は寫眞を見つめたまま、


「私、やっぱり絵、描くよ…」


と言う。

私は自然と笑みが湧いてきた。


「うん…」


私は香緒里の肩を抱いた。


「葉子のヌードも描きたいしね」


私と香緒里は笑った。


「何だそれ…。葉子のヌード…」


来夏さんはタバコを消して私たちの前に座った。


「わ、私が大学合格したら、葉子がヌード描かせてくれるって…」


来夏さんの気迫に押されながら香りが言う。


「それなら、私に写真撮らせろよ…」


私は少し身を引いた。


もしかしたら来夏さんは本当にレズでは無いだろうか…。

私は少しそれを疑った。


私の疑いの目に気付いたのだろうか、来夏さんは私を指差して、


「あ、言っとくがレズでは無いぞ。私は男が好きだ」


私と香緒里はまた二人で笑った。


「男が好きって言われても…」


「香緒里も好きだろ、男」


と来夏さんと香緒里は二人で笑っていた。

私は立ち上がり、窓の外を見た。


少しずつ空っぽの私が何かで埋まって行くのを感じていた。

私、笑ってる…。


「ねえ、来夏さん…」


私は街の灯りを見ながら言う。


来夏さんと香緒里は私の声に笑うのをやめた。


「お願いがあるんだけど…」


来夏さんは、私を見上げて微笑んでいた。







「大丈夫なのか…」


来夏さんは周囲を見ながら私たちの後ろを着いて来る。


「大丈夫だよ。週末は誰も居ないし…」


香緒里はそんな来夏さんの手を引っ張った。


私は金網を乗り越えて学校の敷地内に入った。

その後を香緒里が乗り越え、半分落ちて来る香緒里を受け止める。

そして来夏さんのカメラを受け取ると、来夏さんが乗り越えて来た。


「いつもこんな事してるのか…」


来夏さんが小声で言う。

別に小声になる必要はないんだけど…。


「しないしない。女子高生はそんなに暇じゃないし」


私は振り返って来夏さんに言った。


メタセコイヤの樹の横を抜けてやっとプールに辿り着く。


そう。

私たちは学校のプールに向かっていた。







「え…」


来夏さんは眉を寄せて私を見てた。


「だから、私の写真を撮って欲しいの」


私は何故か、来夏さんに写真を撮って欲しいと思った。


「来夏さんの本気の一枚…。見せてよ」


私の真剣な表情を見て、来夏さんは俯いて微笑んでた。


「わかった。本気の一枚、撮ってやろうじゃないか…」


来夏さんは立ち上がり、棚に置いたカメラを手に取った。

いつも空を撮ってるカメラじゃなく、私にくれた一眼レフと言われるカメラだった。


「何処で撮りたい…」


私は、少し考えた。

そして、


「学校。私たちの…。プールが良い」


私はそう言った。

 





空を見ると大きな満月が私たちを照らし、その影を作っていた。


「何処から入るの…」


来夏さんはドアノブを回しているけど、勿論、鍵が掛かっていて入れない。


「そんなところからは入れないよ」


私はプールの脇に回った。


「もしかしてまた金網上るの…」


香緒里は少し嫌そうな表情で言った。


「大丈夫だよ。こっちに鍵の壊れた入口があるんだよ」


私はフェンスに付いたドアを開けた。

ずっと前から鍵が壊れていて、そこはコースロープやフロートが置いてある場所で、誰も通らず、そのままだった。


「ほらね…ちょっと、通りにくいけど…」


私はコースロープを越えてプール中に入った。

香緒里の手を取って中に引き入れる。

来夏さんは自分でコースロープを飛び越える様にして中に入った。


「私、夜のプールって初めて…」


香緒里はテンションを上げて、プールサイドに走り出た。

私もその後を着いてプールサイドに出る。

練習の後で、まだプールサイドが濡れていた。

私は靴とソックスを脱いで、フェンスの傍に置いた。

来夏さんも香緒里もそれを見て、同じ様に靴を脱ぐ。


水面が月明かりでキラキラと輝いていた。

風も無く、大きな月を捕まえたプールは、久しぶりに見た私の好きなプールに思えた。


来夏さんはポケットから缶コーヒーを出して、プールサイドにあるベンチに座る。

私は水際に立ち、水面に映る月と空の月を見ていた。

香緒里は傷も癒えたのか、嬉しそうにプールサイドを走っている。


香緒里…。


私はそんな香緒里を見て微笑んだ。

香緒里がこの先どうしようとしているのかはまだ聞いていない。

訊くつもりも無かった。

彼女は彼女でちゃんと答えを出せる子だ。

私と違って…。


私も前に進まなきゃな…。


私はじっと空の月を見る。


シャッターを切る音がする。


振り返ると来夏さんが私の写真を撮っていた。


「葉子。そのまま月を見て…」


私は言われるがままに月を見上げる。

吸い込まれてしまいそうな月。

こんな月がある事を今まで知らなかった。


「良いよ…。そのまま」


来夏さんは何度も何度もシャッターを切った。

このプールに浮かぶ月を撮ろうと思ったが、来夏さんの車の中にスマホを置いてきた事に気付いた。


「香緒里、スマホ持ってる」


私は反対側のプールサイドに立つ香緒里に訊いた。


「あ、車の中だ…」


香緒里もどうやら持っていない様だ。


来夏さんは私の横たち、水面の月を撮った。


「後であげるよ…。この写真」


微かな風が水面を揺らすと、月は波打ちキラキラと光る。


「同じ月は二度と見れない。同じ様な月はあってもね」


来夏さんは微笑むと、私にカメラを向けた。


そう。

同じ様な経験は出来ても、これと同じ経験は二度と出来ない。

私たちも月と同じだ。


香緒里が私の傍に来て抱き着いた。


「来夏さん、私も一緒に撮ってよ」


香緒里は笑っていた。

私も香緒里に抱き着き、その姿に来夏さんはシャッターを切る。


来夏さんはプールサイドに寝そべり、低い位置から私たちを撮った。

ちょうど月が一緒に映るのかもしれない。


香緒里はまた私から離れ、スタート台の上に立った。


「第一のコース、安東香緒里」


そう言うと手を上げた。


私はそれを見て微笑む。

来夏さんはその香緒里にシャッターを切る。

水面に映る月の向こうに香緒里が立つ。

香緒里は月に向かって飛び込む様だった。

すると香緒里はそのままプールの中に飛び込んだ。


「香緒里」


私は慌てて香緒里の名前を呼んだ。

直ぐに香緒里は水面から顔を出し、濡れた髪を掻き上げた。


「何やってんのよ…」


私は泳ぐ香緒里にそう言った。


「葉子もおいでよ。気持ちいいよ」


「やだよ。着替えも無いのに」


香緒里はクスリと笑って、プールに浮かぶ様にして泳ぐ。

感じている汚れの様なモノを洗い流しているかの様で、月明かりに輝いていた。


来夏さんは呆れた表情で、プールに浮かぶ香緒里の写真を撮っていた。


神秘的な絵だった。

制服姿の香緒里はゆっくりと波紋で崩れた月の中に浮かんでいた。


私はフェンスまで下がり、助走を付けてプールに飛び込んだ。

大きな水飛沫が上がり、私は六月のプールの中に沈んだ。

プールの中から見る月はとても綺麗で、初めて見る光景だった。

私は一気に水面から顔を出す。

髪を掻き上げながら大きく息をした。


来夏さんは笑いながら私を撮っていた。


私も香緒里と同じ様にプールに浮かぶ。

練習の時のプールとは違い、静寂の中に浮いている気がした。

来夏さんのカメラのシャッターを切る音だけが聞こえて来る。


私は、水を掻き分ける様にして歩き、香緒里の傍に立った。


香緒里はじっと浮かびながら泣いている様だった。


「香緒里…」


香緒里は浮いたまま私を見た。


「葉子…。ありがとうね」


私も香緒里の傍で身体を浮かせた。


「私、あんな事された事よりも、信じてた白石に裏切られた事が辛くて…」


香緒里は涙声で言う。


「うん…」


私は月を見ながらそれだけ言う。


「あんな奴の事好きだった自分が嫌で」


「うん」


私は香緒里と二人で、プールの真ん中に浮いていた。

何も考える必要の無い場所の様な気がして心地良かった。


「忘れなって言っても簡単じゃないかもしれないけどさ…」


香緒里が私の方を見た。

私は月を見たまま微笑む。


「私たちのこれからにはもっと色んな事があって、嬉しい事も、悲しい事も…」


「うん」


「そうやって大人になるんだと思う。その色んな事がある中の一つなんだよ」


「うん」


香緒里はプールに立った。

そして私の顔を覗き込んだ。


「ありがとう。葉子…。好きよ」


香緒里はそう言うと浮いている私を沈めるかの様に抱き着いた。

私は香緒里と一緒にプールの底に沈み、一緒に空に浮かぶ月を見た。


一緒に水面から顔を出して大きく息を吸った。


「もう、香緒里、何するのよ」


私は香緒里に水を掛けた。


来夏さんは微笑みながら、私たちに何度もシャッターを切っていた。


「ちょっと何やってるの」


と声がした。

私はゆっくりとその声の方を向いた。

プールサイドに腕を組んだ佐知が立っているのが見えた。


「佐知…」


私は佐知の傍まで泳いだ。


「葉子、泳ぐなら水着着てよ」


佐知はしゃがみ込んで私に言う。


「佐知こそ、こんな時間に何してるのよ」


私は髪を掻き上げて訊いた。


「立花女子との合同練習の打合せに行ってたのよ。その帰りに通りかかったのよ」


佐知は呆れた表情で微笑む。


「葉子だとは思わなかったけど」


私はクスリと笑った。


「久代、一緒に泳ごうよ」


と香緒里も寄って来る。


「安東…。葉子もほら、上がって」


と佐知が両手を出した。

私と香緒里は顔を見合わせてニヤリと笑い、佐知の手を二人で掴んで、プールの中に引っ張り込んだ。

佐知は「キャー」と声を上げて、プールの中に落ちた。


私たちは声を上げて笑った。


タバコを吸いながらその様子を来夏さんは見ていた。


「もう、葉子、安東」


水面から出て来た佐知は私たちに水を掛けた。

私たちも佐知にやり返す。


こんな経験はもう二度とする事は無いと思う。

今の私たちだから出来る経験。


プールサイドでタバコを咥えたまま、来夏さんは、二度と来ないこの六月の私たちをカメラの中に収めていた。






悩むとは考えるの先にある。

心理学の教授がそんな事を言った。

考える事の出来る人にしか悩みはやって来ないらしい。


私はキャンパスの喫煙所に入りタバコを咥えた。


ジーパンのお尻でスマホが震えているのに気付き、画面の表示を見た。

香緒里だった。


香緒里は推薦を蹴って、一般入試で更に上の美大に入った。


「もしもし」


「あ、葉子、今週何処かで時間無いかな」


私は煙を吐いて、


「何、どうしたの…」


と訊いた。


「少し直したいところがあってさ、葉子の絵」


私の絵とは、香緒里が大学に合格したらヌードモデルをやるという約束で人肌脱いだモノだった。


「え、また脱ぐの」


私の声に周囲の学生が一気に私の方を見た。

私はそれに気付いて声のトーンを落とす。


「あれ、結構疲れるのよね…」


香緒里は電話の向こうでクスクスと笑った。


「葉子のヌードを描く事は、私の幸せの一つなのよ」


私は息を吐いた。


「わかったわよ。土曜日で良い」


私はタバコを吸い殻入れに放り込んだ。


「やった。流石は葉子。大好きよ」


私は電話を切って、喫煙所を出た。

するとまたスマホが振動した。

今度は来夏さんからだった。


「はい、もしもし」


私は解けた靴紐をベンチで結びながら電話に出た。


「葉子、仕事」


「あ、はい」


私は歩く速度を速めてキャンパスを出る。


「とりあえず、家に来て」


来夏さんはそう言って電話を切った。


私は駅へと急ぐ。


私は来夏さんの元でカメラマンの見習いをしている。


「カメラマンならもっと良い人居るから紹介してあげる」


と言う来夏さんだったけど、来夏さんに教えてもらわないと意味がない。

何度も頼み込んで、私は来夏さんと一緒にスクープを追いかけている。


来夏さんは私とLGBTのパーティに行った時に撮った写真を元に遠藤議員の収賄事件のスクープを上げた。

水素エネルギー発電施設の建設に関わる贈収賄事件がそれで明らかになり、遠藤議員は辞職。

その彼氏である俳優の三島紀次もテレビでは見かけなくなってしまった。

何とも報道とは怖いモノで、社会的に人を殺す事が出来ると知った。

ペンは剣よりも強しとはよく言ったモノだ。


佐知はスポーツドクターになると言い、今は浪人中。

自分の様な好きなスポーツを諦める人を一人でも減らしたいと頑張っている。

私が水泳を辞めた事も、彼女にとっては大きかった様だ。


自宅から一時間弱掛けて大学に通う。

そんな選択肢を私は考えた事も無かった。

だけど今は、毎日大学まで通っている。


駅に着いて、駐輪場から自転車を出すと来夏さんのマンションまで自転車を走らせる。


「新しい自転車を買おう」


と父は言ったが、私はまだこの自転車に乗っている。

高校生だった自分に残した余韻の様なモノかもしれない。


自転車を止めて、来夏さんのマンションへ入る。

インターホンを押すと鍵が開き、来夏さんが顔を出した。


「急ぎなんですか…」


私は来夏さんに訊いた。


「ああ、神戸に行く」


来夏さんはジュラルミンのケースにカメラを詰め込みながら言う。


「え、神戸…」


来夏さんは顔を上げて微笑んだ。


「嫌か…」


私は首を横に振った。


「一旦帰って着替えとか準備して。迎えに行くから」


来夏さんは楽しそうに笑った。


私は返事をして来夏さんの部屋の窓から街の風景を見た。


そして、来夏さんの部屋を見た。

壁に大きな写真が飾ってある。

私と香緒里、そして佐知がプールに全裸で浮かんでいる写真だった。


あの後、私たちは制服を脱ぎ捨てて三人でプールに飛び込んだ。

月明かりが三人を照らし、輝く光のプールで私たちはそれぞれの抱えているモノを解放した。


少なくとも私はあの六月のプールサイドで何かが大きく変わった。


「神戸には美味い中華の店があるんだ。そこに行こう」


来夏さんは嬉しそうに笑っていた。








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プールサイドの6月 星賀 勇一郎 @hoshikau16

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