第二章





家に帰ると、父のロックグラスに氷を入れて部屋に入った。

誰も居ないのだから何処でウイスキーを飲んでも良いのだけど、私には自分の部屋が一番落ち着く場所だ。

氷を入れたグラスにウイスキーを注ぐ。

ビールやカクテルの様なお酒は飲んだ事あるけど、ウイスキーは初めて。

琥珀色のお酒に指の先を付けて舐めてみると、痺れる様な感覚。

そしてグラスに口を付けて見た。

唇が痺れる。

高いお酒はまた違うのかもしれないけど、カッと熱くなる感じがする。


来夏さんの言う「逃げている」って感覚は全く無かった。

私としては大人と対峙しているつもりだった。


更にウイスキーをゴクリと多めに口に入れた。

喉が焼ける感じ。

嫌いじゃないかも…。


「暑い…」


私は来ていたシャツとスカートを脱いで、下着姿でベッドに横になった。


父が酔っぱらってパンツ一枚で、ソファで寝てる事がある。

身体の中が熱くなり、ベッドの冷たい感覚が気持ちいい。

父もそうなんだろう。

顔が熱い。

ビールやカクテルでは此処まで熱くなる事は無い。

息を吐く時に胸が震える感じ。

瞼が重く、朦朧として行く感じ。

子供には味わえない感覚なのかもしれない。

脱いだスカートのポケットでスマホが震える音がしている。


誰だろう…。


そう思いながらも起き上がってそれを取るのが億劫で。

それでも手を伸ばすが、放り投げた場所が遠く、手が届かない。

私はベッドから転がる様に落ちた。


「痛ったぁ…」


床で打った膝を摩りながらスカートを取り、スマホを出した。

画面を見ると佐知の名前が表示されていた。


「佐知か…」


私は、電話に出ずにテーブルの上にスマホを置いた。


どうせ、部活に出て来いって話に決まってるし…。


私はゆっくりとベッドに上がると、大の字になり天井を見た。

酔ったのか、ふぅと息を吐く。


進路、将来、三者面談、水泳、選考会、尊敬する人、目標、自分の事、明日の事。


空っぽの私の中に風に舞って、道の隅に溜まっている枯葉の様に問題が積もって行く。

多分、私だけではない、佐知にも同じ様な問題はあるだろうし、来夏さんにもある筈。

それから逃げているのは私だけなのだろうか。

皆、出来れば逃げたいに決まっている。

そして気が付くとそんな問題が解決していれば良いと考える筈だ。


私は頭の下に両手を入れて枕代わりにした。


「どうなるんだろう…私」


私はそのままゆっくりと目を閉じた。

 





玄関のインターホンが鳴る音が聞こえた。

私はその音で目が覚め、飛び起きた。

床に散らばった服を来て一階に下り、インターホンのモニターを見た。

そこには制服姿の佐知が立っていた。


「佐知…」


私は玄関へと行き、ドアを開けた。


「葉子…」


佐知はいつになく神妙な表情で私を見る。


「コンビニスイーツ買って来た」


そう言うと不器用に微笑んでた。

佐知はその時の気持ちが直ぐに顔に出る。

ポーカーでは勝てないタイプだ。


私は頷くと玄関のドアを大きく開けて佐知を中に入れた。

佐知が家に来るのは初めてではない。

昔は良く来てた事もあった。

佐知が水泳をやめる事になってから、何となく疎遠になったのも事実。


「今まで部活だったの…」


私は階段を上りながら佐知に訊いた。


「終わった後に選考会の説明をコーチがしてたのよ。それで遅くなっちゃった」


佐知は私の後を着いて階段を上った。


部屋のドアを開けるとテーブルの上にウイスキーとタバコを出したままだった事に気付く。

だけど今更、佐知にそれを隠しても仕方ない気がした。

佐知はそのウイスキーとタバコに気付いていない振りをしたが、やっぱり顔に出る佐知。


佐知は、ベッドに座り、コンビニスーツの入ったビニール袋を私に渡した。


「ありがと」


私はその袋に入ったスイーツをテーブルの上に出してプラスチックのスプーンをその上に置く。


「食べよ…」


佐知はベッドから降りて、テーブルの前に座る。


私は頷いて佐知の隣に座り、テーブルの上のタバコとウイスキーを床に下ろした。

それを見て佐知はクスリと笑った。


「タバコとお酒か…。何か私の知ってる葉子じゃないみたいだね」


佐知はスイーツの蓋を開けながら言う。


私も返事をせずにスイーツの蓋を開けた。


「選考会。エントリーしないの…」


佐知はスイーツをスプーンで掬い口に入れた。


私は、黙って俯いた。


佐知は私の表情が変わった事に気付き、


「あ、ごめん。そんな事言いに来たんじゃないんだ…」


と言って二口目を食べた。


「葉子が色んな事で苦しんでるのは何となくわかってた」


私は俯いたままスイーツを手に持っていた。


「学校でも楽しそうじゃないし、電話も出てくれない。それに水泳だって…」


佐知は、スイーツを一気に食べ終え、空になったカップをテーブルの上に置く。

そして私の方を向き、顔を覗き込む様にして私の膝に手を置いた。

私はそれにピクリと反応した。


「考える事いっぱいあってさ、思ったより大変だよね…女子高生って…。出来れば目を閉じてる間に全部終わってて欲しいよ」


私は佐知の言葉に顔を上げた。

私と同じ様に思ってるんだ…。

私は佐知を見る。

佐知は私に微笑んで、私の持っているスイーツを取りテーブルの上に置いた。


「そこのウイスキー。私にも飲ませてよ」


佐知はそう言う。

私はウイスキーの入ったグラスを取り、佐知の前に置いた。


「葉子だけずるいよ。大人の味、先に経験するなんて…」


佐知はその氷が溶けて薄くなったウイスキーに口を付けた。


「うわっ、何これ、まっず…」


そう言って舌を出す。

私はそんな佐知を見てクスリと笑った。

私も正直そう思った。

大人の味って不味い。


「葉子、あんた、こんなの飲んでるの…。馬鹿舌なんじゃないの」


私は佐知がテーブルに置いたグラスを取って、そっと口にした。

さっきより痺れる感覚は無かったけど、やっぱり不味いと思った。


「不味い…」


「だよね…」


私と佐知は二人で笑った。

そして交互にそれを飲み何度も「不味い」と二人で繰り返した。


「子供の時にさ、炭酸飲料を初めて飲んだ時に同じ事思った気がする」


佐知は言う。


「でも徐々に慣れて来て、今じゃ大好きだったりするじゃん。あれと同じなのかもしれないね…。慣れて来るとこれも美味しく感じる様になるのかもしれない」


佐知はまたウイスキーを舐める様に飲んだ。


佐知が言う様にいつかこの味が好きになるのかもしれない。

私はグラスを取り佐知と同じ様に舐めて舌を出した。


ビールもそうだった。

苦い飲み物なんかより甘い飲み物の方が美味しいに決まってる。

そう思いながらも毎日飲んでるとそれはそれで良いと思って来た。


気が付くと二人とも顔を真っ赤にしていた。

私は佐知と一緒にベッドの上に横になり、天井を見つめた。


「もう進路決めた…」


佐知はお酒のせいで少し息を荒くしながら言う。


「ううん。まだ…」


天井を見る私の横顔を佐知は見ていた。


「私も…」


佐知は視線を天井に戻す。


「この歳で将来の事、決めろなんてさ、何か残酷だよね…。まだ十七歳なのに…」


来夏さんと同じ事を言っている。

私はクスリと笑った。


「私は心臓悪いのわかったじゃん。それで大好きな水泳を辞めなきゃいけなくなってさ…。目標みたいなモンが全部無くなったのよね…。じゃあ代わりにコレって見つかる訳ないじゃん…」


私は頷く。

佐知は私なんかよりもっと悩んでいるだろうと思ってた。


「空っぽになったんだよね…。私」


佐知は声のトーンを落として、私に背を向ける。

そして鼻をすすっていた。

多分泣いているのだろうと思った。


「ごめんね…。私、私が泳げない分、葉子に泳いで欲しかったんだ…」


佐知は鼻声でそう言った。

それは私も感じていた。

だけど、佐知が私に、泳げ泳げと言う分、私は水泳が嫌になった。

佐知の思いを背負って泳ぐ力は私には無い。


私の横で泣く佐知を後目に、ぼんやりと見慣れた天井を見ていた。


皆、苦しんでいるんだ…。


私は私に背中を向ける佐知に額を付けて、彼女の体温を感じた。

佐知はいつまでも小さく震えながら、泣いていた。






翌日、私はベッドで目を覚ましたが、起き出す気になれなかった。


別に学校なんて休んでも良い…。


そう思って、カーテンの隙間から差し込む太陽の光が、壁やクローゼットの扉で揺れるのをじっと見つめていた。

その光は次第に細くなり、最後は無くなった。


私はその頃、ようやく起きて、一階に下りた。

いつもの様に母の姿は無く、朝ごはんのウインナーと目玉焼きがテーブルの上に置いてあった。

もう母とも数日、顔を合わせていない。

テーブルの上にメモが置いてあり、


「金曜の三者面談の時間教えてね」


母の右上がりの字を見て私は微笑む。


私は遅い朝ごはんを食べて、昨日はそのまま眠ってしまったので、シャワーを浴びた。

ドライヤーで髪を乾かしていると、傍に置いたスマホが振動していた。

ドライヤーを片手にスマホを取ると、母からだった。

私はドライヤーを止め、電話に出た。


「葉子、学校から電話があったわよ」


母は開口一番、そう言う。


「うん、ちょっと体調悪くて…」


「昨日も早退したそうじゃないの、大丈夫なの、病院連れて行こうか」


私は制服を着ながら、


「大丈夫よ。ママも忙しいでしょ。遅れちゃったけど、今から学校行くから」


そう言う。


「気を付けて行きなさいよ」


私は「うん」とだけ返事をした。

すると、


「あ、三者面談の時間、教えなさいよ」


と母は言い電話を切った。

私はブラウスの前のボタンを締めながら、窓の外を見た。

梅雨とは名ばかりの良く晴れた日だった。


自転車の前の籠に何も入っていない鞄を放り込んでゆっくりと学校へと走り出す。

歩く方が早い程の速度。

誰が見ても学校へ行きたくない様子がわかるだろう。


コンビニを過ぎていつもの公園に差し掛かる。

広場で横になる来夏さんを見付けた。


私は自転車で坂を下りて、来夏さんの傍まで行った。


「来夏さん」


私は自転車を降りると芝生に横になる来夏さんの傍に立った。


「よお、葉子…」


来夏さんは寝転んだまま私の写真を撮った。


「葉子のパンツの写真」


来夏さんは私のスカートの中がばっちり写っている写真を私に見せる。


「もう、ちゃんと消して下さいよ」


私は来夏さんの横に座った。

来夏さんはカメラを構えてまた空の写真を撮った。

そしてゆっくりと身体を起こした。


「酒、美味かったか…」


私にカメラを向けて言う。


「不味かったですね…」


私がそう答えると、


「だよなぁ…。絶対あんなもんよりコーラの方が美味い」


来夏さんはケラケラ笑いながら言った。

私も一緒に笑った。


「こんな時間に学校行くのか…。もしかしてもう帰るのか…」


来夏さんは傍に置いたペットボトルの水を飲む。


「今から行くところです。けど…、どうしようかなって」


来夏さんはクスクスと笑い、


「ほんとに、どうしようもない奴だな…」


と言って立ち上がった。


「学校嫌なら、付き合え…」


そう言って歩き出した。

私も立ち上がり、来夏さんの後ろを着いて行く。

 





来夏さんのマンションは新しく建ったお洒落なマンションだった。

私はマンションの下に自転車を止めて、来夏さんと一緒にエレベーターに乗った。

私が珍しそうにキョロキョロと見ていると、


「私も、昔は凄い部屋に住んでいた事もあるよ…」


と来夏さんは言う。


「凄いって…」


私は来夏さんに着いてエレベーターを降りた。


「お化けでも出る…」


「お化けの方が良いかもな…」


来夏さんはクスクス笑いながら部屋の鍵を開けた。


「入れ…散らかってるけど」


私は「お邪魔します」と小声で言いながら部屋に入った。


散らかるどころか何も無い部屋だった。

私は窓から見える街の風景を見た。


凄い…。


窓に張り付く様にしてその風景を見ていると私の足元に服が投げられた。

それに気付き、私は自分の足元に落ちた服を見た。

白いミニのドレスだった。


「それに着替えて」


来夏さんはそう言うと自分も服を脱ぎ始めた。

私はそのドレスを広げて見た。

何処かのパーティにでも出席するかの様なドレスだった。


「何だ…。入らないのか」


私はその言葉にムッとして、制服を脱いだ。


来夏さんは着替える私を見て笑っていた。


私はドレスに着替え、姿見で自分の身体を映す。

こんな華やかなドレスなんて来たのは七五三以来かもしれない。


「ブラは外せ」


とブラジャーのストラップを来夏さんは引っ張る。

私は言われるままにブラを外した。


「こんなに着飾って何処か行くんですか」


私はネクタイを締める来夏さんに訊いた。


「ああ、LGBTのパーティだ」


「LG…B…」


私は何が何だかわからなかった。


「同性愛者のパーティだ。付き合ってくれるならバイト代も出す」


来夏さんは上着を来た。


同性愛…。

ど、同性愛者…。


私は驚き、来夏さんを見た。

その見事な男装に見とれ言葉を失った。


格好良い…。


来夏さんは髪を掻き上げながら、私の後ろに回り、背中のファスナーを締めてくれた。

そしてハンガーに掛かった上着を私に渡す。


「これを羽織れ…」


そしてワックスを取ると自分の髪を撫で付けた。


「これで同性愛カップルの出来上がりだ」


来夏さんの口から同性愛と聞くとドキドキする。


「何だ、葉子…。同性愛カップルは嫌か…」


いやぁ…嫌かって訊かれても…。


私は無言で首を傾げた。






来夏さんの車は小さなイタリアの車だってわかった。

それに乗り、パーティ会場に向かう事になった。


「同伴者が居ないと入れないんだよ。葉子が居て助かったよ…」


私は助手席に座りながら、まだ首を傾げていた。


「あの…」


私は来夏さんに訊く。


「何だ…」


来夏さんって同性愛者なんですか…。

って訊ける筈も無く。


「きょ、今日の目的は…」


来夏さんはタバコを咥えて火をつけた。


「そうだな。説明しておかないとな…」


今日のパーティにはある国会議員が参加するらしく、その議員は所謂ゲイで、来夏さんはその議員のパートナーが誰なのかを調査しているらしい。

そしてそのパートナーの口座に多額のお金がプールされているであろうとの話だった。

そこまでは私が知る必要の無い事で、私は今日、来夏さんのレズビアンとしてのパートナーを演じれば良いという事だった。


「な、何か、緊張しますね」


私はドリンクホルダーにあった缶コーヒーを飲んだ。

来夏さんはそんな私を笑って、


「大丈夫だよ。取って食われたりはしない。肩の力を抜け…」


「は、はい…」


私は十分に凝った肩を、首を回して解した。


車は郊外の洋館に入って行く。

洋館の中に車を停めると、来夏さんは車を降り、助手席のドアを開けてくれた。

慣れないハイヒールで私は石畳の上を歩く。


「良いか、私は島崎、お前は藤井だ。それだけ忘れるなよ…」


私は嫌な汗をかきながら頷く。


これも大人の世界か…。


私は、来夏さんの腕に腕を絡ませた。


来夏さんは入口で招待状を黒服に見せると中に涼しい顔で入って行く。

私も平然を装いながら来夏さんに着いて行く。


来夏さんは私の耳元に小声で言う。


「このパーティはお互いに自分のパートナーを自慢するだけの場だ。人と無理に絡む必要はない」


私はまた無言で頷く。

口の中がカラカラに渇いていた。


「あそこに座ろう」


端の方に空いたソファがあり、そこに並んで座った。


「居ないの」


「ああ、まだ来てないな」


「どんな人、私も知ってる」


「テレビとかで見た事ある筈だ」


私たちは小声で言う。

するとそこに飲み物を持った黒服がやって来た。


「お飲み物です」


トレイを見るとシャンパンが載っていた。


「車なんだ。ジンジャーエールを二つ頼む」


来夏さんが言うと黒服は無言で頭を下げて、直ぐにジンジャーエールを二つ持って来た。


私も来夏さんもそのジンジャーエールを一気に飲み干した。

すると直ぐにお代わりがやって来た。


「パーティってこんななんだね…。何か凄い」


私は感激して二杯目のジンジャーエールを飲んだ。


来夏さんはソファに深く座り、脚を組む。


「以前は仮面を付けてのパーティだったんだ。だけど今はGLBTも国会で取り上げられる程になった。仮面を付けなければいけないのかって事になり、数年前から皆堂々と顔を出して参加している」


私は来夏さんの言葉を聞きながら周囲を見渡した。

女同士で腕を組んでいる人や、男同士で一緒に座って楽しそうにお酒を飲む人など、肩を寄せ合って話をしている人たちもいる。

これも私の知らない世界。

子供ではわからない世界なのかもしれない。


「まあ、私には理解出来る世界では無いけどね」


来夏さんは小さな声で言った。

私も来夏さんの耳元で、


「私も…」


と言った。


玄関の方が騒がしくなっている。

明らかに特別待遇の客が入って来た。


「来た…」


来夏さんは身体を起こした。

私も釣られて前のめりになった。


「葉子、こっちに来て」


私は立ち上がり言われるがままに、来夏さんの横に立つ。


「私の方を向いて、もっと顔を寄せて…」


私は来夏さんの吐息を感じる程近くまで顔を寄せた。


「そう、私が上手く隠れる様に…」


周囲から見ると私たちはキスでもしているかの様に見える筈だ。


来夏さんは手に持ったスマホで何枚も写真を撮る。


「三島紀次…」


「え…」


私は振り返った。

今人気の俳優、三島紀次がその国会議員の傍にぴったりと立ち、一緒に挨拶をしている。


三島紀次ってゲイなの…。

それだけでも大スクープじゃん…。


来夏さんは更に写真を撮っている。

そしてスマホを私のドレスの胸元に差し込んだ。


え…。

ちょ、ちょっと…。


「黙ってろ…」


そう言うと、今度は私を抱き寄せる様にして頬にキスをした。

そして顔を上げると同時に黒服が傍に来た。


何…、何が起こるの…。


「何か…」


来夏さんは私を横に座らせて黒服に言う。


「こちらでは写真の撮影はご遠慮願っております。すみませんが、今撮影された写真の確認をさせて戴きたいのですが…」


来夏さんは、ポケットからスマホを出した。


「あまりに可愛かったので、彼女を少し撮っただけだが…」


来夏さんはスマホを開いて見せた。

そこには私の顔の写真やキスをしている写真が写っていた。


黒服は深く頭を下げて、


「失礼致しました」


と言って去って行った。


私は一人安堵の息を吐いた。

その時、胸に差し込まれたもう一台のスマホが胸から落ちた。


「来夏さん…。スマホが落ちた…」


私は小声で来夏さんに言うと、ドレスのスカートに目をやった。


「下着の中に入れて…。絶対に落とすな…」


来夏さんはニヤニヤと笑いながら言った。


私はスカートの中に手を入れて下着にスマホを挟んだ。


「長居は無用だ…帰ろう」


来夏さんは立ち上がった。

私もスマホを落さない様にゆっくりと立ち上がった。


そして出口に差し掛かった時、さっき写真の確認に来た黒服がやって来て頭を下げた。


来夏さんはその黒服を睨む様に見た。


「まだ何か…」


黒服は、じっと来夏さんを見ている。


ちょっと…。

大丈夫なの…。


私は下着に挟んだスマホが落ちないかどうかが不安でもじもじしていた。


すると、黒服は私たちに頭を下げた。


「先程は失礼致しました。気分を害されたのでしょうか…」


来夏さんは、その黒服に微笑んだ。


「早く彼女を抱きたくなっただけだ…。また来るよ」


そう言って出て行った。

私もその後を着いて行く様に歩く。


「お客様」


とまた黒服が呼び止める。

私はゆっくりと振り返った。

黒服は紙袋を二つ私に渡した。


「こちら、スーベニアでございます」


「す、スーベニア…」


確かお土産の事だ…。

私はそれを受け取ると来夏さんを追った。

車に乗り込むと来夏さんはエンジンを掛け直ぐに走り出した。


「もう、ドキドキした…」


私が吐き出す様に言うと、来夏さんはクスクスと笑っていた。


洋館を出て行く私たちを数名の黒服が頭を下げて見送っていた。


「笑い事じゃないし…」


表に出ると来夏さんはアクセルを踏んだ。


「悪い悪い…」


と、手を差し出す。


「スマホ…」


私はスカートを捲り下着に挟んだスマホを取り、来夏さんに渡した。


「もうパンツから落ちたらどうしようかと思ったわ…」


私はスカートの裾を直して、深く座った。


「高校生はそんな緩いパンツ穿いてないだろ」


たまにあるかもしれない。

今日はちゃんとしてて良かった。

そう思ったが口にするのは止めた。


「何かお土産までくれたよ…」


私は紙袋の中を覗き込んだ。


「ああ、多分、バカラのグラスだよ。これで不味いウイスキーも少し美味しくなる」


え、バカラ…。

バカラってあのバカラ…。


私は袋の中から箱を取り出す。

確かにバカラと書いてあった。


「凄いね…。大人の世界って…」


私はその箱を袋に戻した。


「参加費が一人二十万だからな…」


え、って事は二人で四十万。

一杯十万円のジンジャーエールを飲んだって事…。


「す、凄いね…。大人の世界って…」


私はドッと疲れが出た気がした。


ずっと悩んでた事を忘れる様な経験だった。

来夏さんはこんな事をいつもやっているのかと思うと、自分がとても小さく見えた。

大人になると細かい事は気にする時間も、感覚も無くなってしまうのかもしれない。


私は車窓から流れる様に消えて行く街の灯りを見ていた。

 





来夏さんの部屋に戻り、私は慣れないドレスを脱ぎ制服を着た。

やっぱりこれが落ち着く。

もうすっかり暗くなっていて、生温い風が薄く開けた窓から吹き込んでいる。


「腹減ったろ…。ラーメンでも食うか」


と来夏さんはキッチンから言う。


「うん」


私はそう答えて、窓から見える街の風景を見ていた。

テーブルの上に来夏さんが投げ出したタバコがあった。


「来夏さん…」


「何、どうした…」


私は来夏さんのタバコを手に取って、


「一本もらって良い」


と訊いた。

来夏さんは微笑み、


「私が見てない間に勝手に取れ…」


と言ってまたキッチンへと引っ込んだ。


私は来夏さんのタバコを一本取り、火をつけると、街の風景を見ながら煙を吐いた。


こんな仕事をしてる人もいるんだ…。


私は久々にドキドキした様な気がした。


私に出来るだろうか。

来夏さんと同じ事。

多分出来ない。

今出来ないだけで、出来る様になるの…。

想像も付かない。


「出来たぞ…」


と来夏さんは手鍋を二つ持ってやって来た。

私はタバコを消して床に座った。


「お鍋で食べるの…」


「馬鹿、ラーメンってのは鍋で食うのが美味いんだよ…」


来夏さんは割り箸を割りながら言う。


「ってある作家が言ってた」


そう言って笑った。


ラーメンには明らかに手で千切った魚肉ソーセージと卵が入っていた。

雑な料理だったけど、美味しそうだった。


私は手を合わせてラーメンをすすった。


「うん。美味しい」


「だろ…」


来夏さんは満足そうに微笑む。


「まあ、料理なんて滅多にしないけどな…」


私はクスリと笑う。


「張り込んでる時なんてコンビニのミニアンパンと缶コーヒーが主食になる事もある。立ち食い蕎麦を二分くらいで食べる事も…」


私は苦笑して、ラーメンを食べる。


「飯なんてエネルギー補給だからな。食事を楽しむ事なんてずっと無かった」


私と一緒だ。

食事を楽しむなんて何年もしてない気がする。


「でもさ、たまに食べたくなるんだよ…。母の作った料理がさ」


私は、ラーメンをすする来夏さんを見た。

私は毎日、母の料理を食べている。

食べたくなるなんて感覚が無い。

その有難みも忘れてしまっていたのかもしれない。


「早く食べろよ…。伸びたラーメン程食えないモンは無いぞ」


来夏さんはそう言った。






私はその日、遅くに帰宅した。

母からも学校からも着信は無かった。

もう諦められているのかもしれない。

暗い家に入ると、服を脱いでシャワーを浴びた。

そして髪を乾かして、裸のままビールを取ると部屋に入る。


そろそろエアコンを付けないと二階の部屋は暑くて過ごせなくなる季節が来る。

制服のスカートと鞄、そしてお土産にもらった紙袋をベッドの上に投げ出す。

服を着て床に座るとビールを開け、ゴクゴクと飲む。

ベッドの上の紙袋を取ると中の箱を開けた。

綺麗なバカラのグラスが入っていた。

私はそのグラスを棚の上に飾った。

大人になったら使おう。

抽象的な決め事だったが、そう思った。


来夏さんとの一日は、凄く刺激的な一日だった。

議員と三島紀次が出来ているって事もびっくりしたが、あんな世界があるって事の方が私には驚きだった。


来夏さんはその遠藤議員の収賄を追っていると言っていた。

もらったお金を三島紀次の口座に隠しているという。

それをこれから暴いて行くらしい。

また刺激的な事をするのだろうかと、少し羨ましく感じた。

これも大人の世界の話で、私が普通に生きてたら永遠に関係の無い世界なのかもしれない。


また空っぽの私が溢れて来る。

私は大人になれるのだろうか。

身体だけは大人になって、中身が付いて来ない。

そんな大人になってしまうのではないだろうか。


私はベッドの上に大の字になった。

そして溜息を吐く。


私は何処に向かうのが正解なんだろう。






翌日、私は学校に行った。

廊下ですれ違った担任の黒田が、


「もう体調は良いのか」


と訊いてきた。

サボっているのを知っていて訊いたのならかなり感じの悪い先生だ。

私は無言で頭をペコリと下げて教室に向かう。


「葉子」


と最初に声を掛けて来たのは香緒里だった。


「もう大丈夫なの」


と香緒里は私の目を真っ直ぐに見て言う。

私は香緒里に微笑み、頷いた。


窓際の自分の席に座り、窓から校庭を見る。

陸上部とテニス部が朝練を終えて、走って部室へと帰って行くのが見えた。


去年は朝、泳いでから授業受けてたな…。


私は少しだけ見えるプールを見たが、誰も居ない様に見えた。

朝から泳ぐとお昼まで髪が乾かない。

これが気持ち悪くて私は嫌だった。


「はい」


と香緒里が私の机の上に、いつものキャンディを置いた。

私は香緒里にお礼を言ってそのキャンディをもらった。


「葉子、大学決めた…」


香緒里は私の顔を覗き込む様にして訊いた。

私は首を横に振って、


「まだ…」


と答えた。


殆どの同級生が志望校を決めていた。

黒田は数人がまだ決めていないと言う。

その数人に私は入る。

香緒里は白石先生の推薦で美大へ行く事になっている筈で、その推薦のための絵を毎日部室で書いていると言っていた。


「私もまだ迷ってるんだ…」


香緒里はそう言うと私の机に顔を伏せた。


「ん…。決めたんじゃなかったの」


香緒里は顔を上げて、首を横に振った。


「美大よりも美術科のある普通の大学に行きたいなって思って…」


私は香緒里に微笑む。

皆、自分の将来を真剣に考えている。

もしかすると全くの白紙状態なのは私だけかもしれない。


「香緒里は絵、上手いもんな…」


香緒里の鞄にはいつもスケッチブックが入っていて、そのせいで鞄はいつも開いたままだった。


「どんな絵、描いてるのか見せてよ」


私はたまに香緒里の絵を見たいと言って見せてもらう。


香緒里は私にスケッチブックを渡した。

私はそれを開いて香緒里の絵を見る。

鉛筆で書いたデッサンだが、到底私には描けない絵だった。


「やっぱ、上手いな…」


ふと、一枚の絵に目を止めた。

それは明らかに私の裸を描いた絵だった。


「これは…」


香緒里は顎の下に手を置いてフフフと笑った。


「絵ってさ、見たモノを描くのは勿論だけど、見えないモノも描けなきゃいけないのよ…」


「見えないモノ…」


「そう、見えている部分から想像して、絵を描く。これも大事な技術なんだよ。見えている部分と見えない部分を繋いで一枚の絵が完成する。それが絵なんだ」


見えない部分か…。


私は香緒里が描いた私の裸の絵をじっと見つめた。


「この間言ったでしょ、ヌード描かせてって。この絵の答え合わせしたいのよ」


大真面目に香緒里は言うが、絵の方が実際の私より数段良い女に仕上がっている。


「やだよ…。恥ずかしいし…」


「良いじゃんか…。女同士だし…」


香緒里はニコニコ笑っていた。

多分本気なのだろう。


「じゃあ、香緒里の大学の合格祝いに考えとくよ」


「ホント、やった、約束だよ」


そう言うとスケッチブックを持って自分の席に座った。

それと同時にチャイムが鳴り、担任の黒田が教室に入って来た。


「ホームルーム始めるぞ…」


そう言うと、黒板の前に立った。






授業が終わり、私は鞄を持って席を立つ。


「おい、財前」


と担任の黒田が私を呼ぶ。

どうせ、進路の事だとわかっているのだが…。


「まだ進路…決まらないのか…」


黒田は小声で言う。

少しは周囲に気を遣う事も出来るみたいだった。


「そう…ですね…」


黒田は腕を組んで、少し困った表情を見せる。


「まあ、最後はお前が決める事だ」


黒田は私の肩を叩いた。


「いつでも相談に乗るから…」


黒田はそう言って教室を出て行った。


高校三年生の進路の相談って言うのは、行ってみれば人生の相談みたいなモノ。

私の人生を黒田に任せる訳にはいかない。

私は教室を出た。


「葉子」


後ろから香緒里の声がした。

私は振り返り、香緒里に微笑む。

香緒里は私に追い付き、楽しそうに微笑んでいた。


「何だよ。嬉しそうに…。白石に会えるからってそんなに露骨に喜ばなくても良いだろう」


私は香緒里のお尻を叩いた。


「痛いよ、もう」


と香緒里は鞄で私のお尻を叩く。


「今日、忙しい…」


香緒里は私の顔を覗き込んで訊いた。


「私はいつも忙しいのよ」


そう言って笑った。


「なんか久代が言ってたよ。葉子が部活に来ないって…。せっかく才能あるのにって」


私は苦笑して、


「何か、もう泳ぎたくないんだよね…」


「あら、私好きよ。葉子のバタフライ」


中学の時に金網の外から私がバタフライを泳ぐ姿をスケッチしていた。

それが凄く良い絵で、何かのコンテストで金賞を取っていた。


「暇ならモデルやってもらおうと思ってたのに」


私は立ち止まって、


「あれは香緒里が大学合格したらって約束したでしょ」


そう言った。

必死な私に香緒里はクスクス笑った。


「葉子って学校で脱ぐつもりなの」


私は周囲を見渡した。

多分、私の顔は今赤くなっている筈。


「香緒里…」


私はもう一度、香緒里のお尻を叩いた。


「もう、痛いって」


香緒里は楽しそうに笑っていた。


「今日は部活終わったら、白石先生と大学の相談するんだよ」


私は頷きながら微笑む。


私が決められない事を、香緒里は決めようとしている。

私は香緒里が羨ましかった。


「頑張ってね」


香緒里は嬉しそうに笑って頷く。


「うん。葉子の裸のために頑張る」


そう言って美術室へと走って行った。


「じゃあ、また明日ね」


私は香緒里に手を振った。






今日も水泳部には寄らずに学校を出た。

もうこのまま辞めようと私は思っていた。

夏休みに最後の大会がある。

同じ地区に強豪校があるので、県大会に行くのは難しい。

それでもコーチの磯貝先生は、「お前たちの良い思い出になれば良い」なんて言う。

女子高にしては良い記録を残している方だとは思うけど。

何か、私の中の炎みたいなモノが塩素臭いプールの水で消えてしまった気がした。


自転車を押して校門を出る。

そしてそこから自転車に跨ると一気に走り出す。

特に、急いでいる訳では無い。

だけど、私の女子高生のイメージはスカートを翻しながら、髪をなびかせて自転車で走っている。

アニメの見過ぎかもしれない。


少し息を切らしながら来夏さんの居る公園へと向かう。

多分、今日は居る。

そんな気がする。


公園の芝生の広場が見える場所で自転車を止めた。


居た…。


来夏さんはいつもの様に空にカメラを向けて写真を撮っていた。

私は一気に道を下り、広場の傍に自転車を止めて、来夏さんの所へ急いだ。


私は来夏さんの傍に立った。


「葉子。今日は派手なパンツだな」


来夏さんはそう言うと歯を見せて笑った。


「いつもと変わらないわよ」


私は来夏さんの横に座った。


「あ、そうだ…」


来夏さんはジーパンのポケットに手を入れてお金を出した。


「これ、昨日のバイト代だ」


来夏さんは私の手にお金を握らせた。

三万円。


「え、こんなに…」


来夏さんは座ったまま空を見上げて写真を撮る。


「バイト代払うって言っただろ」


私はそのお金を来夏さんに差し出す。


「こんなにもらえないよ…」


来夏さんは私に微笑む。


「昨日、葉子と一緒に掴んだスクープは凄い金額になる。それじゃ安いくらいだ」


そう言ってカメラを横に置いた。


「私の気持ちだ。受け取ってくれ」


お金を持った私の手を押し返した。

私は小さく頷いて、微笑んだ。


「じゃあ、私もこれでカメラ買う」


私はお金をスカートのポケットに入れた。


「カメラ…。欲しいのか…」


「カメラ欲しいって言うか、写真撮ってみたいなって。スマホでしか写真なんて撮った事ないし…。来夏さんみたいな写真が撮ってみたいって思った」


私の顔を見て来夏さんは微笑んだ。

そして空を見る。


「私もそんな感じだったよ」


私も空を見上げた。


「木瀬義秋の写真を見た時、そう思った。私も彼の様に人の心を動かせる様な写真を撮って、真実を伝える記事を書いてみたいって…」


木瀬義秋…。

私は彼の写真を見た事も無い。

だけど、熱く語る来夏さんを見て私も彼の写真を見たい、彼に会ってみたいと思った。


「凄い人なんだね…。木瀬さんって」


私は横に座る来夏さんに言った。


「うん。私にとっては誰よりも凄い人だ」


来夏さんは優しく微笑んでいた。


「あ、そうだ。葉子、カメラあげようか」


来夏さんはそう言うと突然立ち上がった。


「え…」


私は立ち上がった来夏さんを見上げて言った。


「使わなくなったカメラがあるんだ。良かったらもらってくれないか」


「そんな、悪いよ…」


私は両手を出して言った。


「道具ってのはさ、使ってくれる人が持ってる方が良いんだよ。その方がカメラも喜ぶ」


来夏さんは私に手を差し出した。

私は来夏さんの手を握り立ち上がった。


「部屋に来て、欲しい奴、持って帰って良いから」


私はスカートのお尻に付いた芝生を払った。


「来夏さん…」


前を歩く来夏さんを呼んだ。

来夏さんは立ち止まり振り返った。


「何…」


私は一度俯いて、顔を上げた。


「お願いがあるんだ」


「何だよ…」


「私に写真、教えてよ」


来夏さんは微笑む。


「私も写真はそんな上手くないんだよ」


私は首を横に振った。


「来夏さんに教えて欲しいんだよ」


来夏さんは私を見て微笑むと晴れた空を見た。

そしてまた私を見ると頷いた。


「良いよ。私で良ければな」


私は来夏さんの腕に腕を絡ませた。


「やった」


「おいおい、レズのカップルの役はもう良いぞ」


私は動きを止めて、来夏さんの前に立った。


「それともう一つ…」


来夏さんは身を引いて、


「な、何だよ…。怖いな…」


私は来夏さんの顔を覗き込んで、


「木瀬さんの写真を見せて欲しい」


そう言った。


来夏さんは頷き、


「良いよ。一緒に見よう」


と微笑んでいた。







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