プールサイドの6月

星賀 勇一郎

第一章





本当の私って何処にあるんだろう…。


プールの底から見る空はいつもキラキラ輝いていて綺麗。

だけどこれって本当の空なのだろうか。


あ、また誰かが飛び込んだ。


私はクルリと体勢を変えて水面に顔を出す。

そして本気で泳ぐ子の邪魔にならない様にプールの脇へと避ける。


「葉子。どうしたの…」


プールから出る私にストップウォッチを持った佐知が声を掛ける。

私は前髪から滴る水を手で拭い、プールサイドに掛けたバスタオルを取った。


「ごめん。今日は帰るわ…。体調不良」


私はそれだけ言って更衣室へと向かった。


「大丈夫なの。選考会、来週だよ。葉子」


そんな佐知の声は野球部の声にかき消されていく。


誰も居ない更衣室に入り、水しか出ないシャワーを浴びながら水着を脱ぐ。

ただでさえ脱ぎ着しにくい水着は、水に濡れると更に脱ぎにくくなり、本当に嫌い。


練習の後のシャワーはとりあえずのモノで、シャンプーもトリートメントも出来ない。

髪はギシギシするし、身体も塩素臭い。

それでも浴びないよりは浴びた方が良い。


シャワーを浴びて、身体を拭くとバスタオルを巻いてロッカーを開ける。

ロッカーの中に放り込んだ下着と制服。

それをさっさと身に着けて髪を拭く。

濃い塩素のせいで自慢の長い髪は赤茶色になってしまい、引退したら一度短く切ろうと思っている。

コーチの磯貝先生は「髪は短く切った方がタイムは伸びる」って言うけど、それは世界レベルの話で、私たちの様な弱小の水泳部ではあまり関係ない筈。


部費で買った強力な業務用のドライヤーが二つあり、練習を最後までやると取り合いになる。

勿論、使えるのは三年生だけで、去年までは濡れ髪のままブラウスの背中を濡らして帰っていた。

髪を乾かせる三年生が羨ましかったが、いざ三年生になってみると、ドライヤーが使える事がそんなに有難い事でも無い事に気付いた。


業務用のドライヤーは本当に強力で、短い時間で濡れた髪が乾く。

さっさと髪を乾かして、私は鞄を持って更衣室を出る。

この塩素臭い更衣室が嫌いだ。

嫌いなら水泳部なんて入らなきゃ良いのにって思うけど、嫌いになったのは今年に入ってからで、一秒でもその匂いから遠ざかりたいって思う。


私は皆が練習を続けるプールを横目に、自転車置き場へと行く。

ジリジリと照り付ける太陽。まだ夏前の季節なのに、奴は本気で私たちを照らす。


「財前先輩」


と私を呼ぶ声がした。

私は振り返りその声の主を探した。

ジャージ姿の後輩マネージャーが追いかけて来る。

どうせ佐知に追いかけろって言われたのだろう。


後輩の君塚玲奈と滝田美玖。

私からしてみれば二人ともキラキラネームの今時の子。


「何…」


私は無表情なまま二人を見る。

別に怒っている訳じゃないけど、多分、二人には不機嫌に見えると思う。


「あ、いえ…久代先輩に、早退の理由を訊いて来いって言われて…」


やっぱり佐知の差し金だった。

私は青い空を見上げた。

名前を知らない鳥が校庭に植えられた樹から樹へと飛び移って行くのが見えた。


私はその二人の後輩の頭を撫でた。


「ごめんね。嫌な思いさせて…」


私は二人にそう言う。


「あ、いえ…」


玲奈は申し訳なさそうに頭を下げた。

美玖も目を俯いてバツの悪そうな表情で、


「久代先輩が心配してたので…」


と集中しないと聞こえない程小さな声で言う。


「うん…。ごめんね。ここの所、本当に体調悪くて…」


私はもう一度、空を見上げた。


「少し部活休むって佐知に伝えておいて…」


私はもう一度二人の頭を撫でて、自転車置き場へと歩いた。

 





校舎の脇に入ると日陰になる。

やっぱり日陰は少し涼しい。

もう夏がそこまで来ている。


私の目の前に丸めた紙が落ちた。

私がそれを拾うともう一つ丸めた紙が転がった。

私はそれも拾い、上を見上げた。


幼い顔の丸い眼鏡。

同級生の香緒里だった。


「葉子」


校舎の三階の教室から手を振る。

旧校舎の三階。

ちょうど美術室だ。

香緒里は美術部で中学も一緒だった。


「香緒里…。ゴミを投げるな」


私は大声で言った。


「開けてみて」


香緒里が言うのでその丸めた紙を開く。

すると中から香緒里がいつも食べている棒の付いたキャンディが出て来た。

私はそれを香緒里に見せて、


「ありがとう」


と言った。


香緒里は手を振りながら、


「その代わり、今度ヌードモデルやってね」


と言って窓か引っ込んだ。


私は笑って、そのキャンディを開けて口に入れた。


香緒里は美術部の顧問、白石先生に一目惚れして迷わず美術部に入った。

中学に美術部が無く、放課後一人で絵を描いていた。

気が付くとプールの金網越しに私たちを書いていた事もあった。

元々絵が上手い事もあり、幾つか賞を取って、選考集会で表彰されてた事もあった。

推薦で美大に行くと香緒里は言ってた。


自転車を押して学校を出る。

校則で学校の敷地内は自転車を押して歩く事になっている。

そんな変な校則のせいで、朝は校門から自転車置き場まで大渋滞になる。


校門を出ると私は自転車に乗り、一気に走り出す。

暑い夏でも自転車に乗って全身に受ける風は心地いい。


学校の近くは新興住宅地で、大きなマンションが立ち並ぶ。

その新興住宅地から通学する子たちは大体徒歩で、そこを抜けた所にある古い町並みから来る子たちは自転車。

家が遠い生徒の特権みたいなモノ。


幾つかのマンションを通り過ぎた所に大きな公園がある。

昔は池だった場所を埋め立てて造った公園。


私はその公園に入り、芝生の広場を見る。

いつもその芝生に寝転んで空の写真を撮っている人が居る。

流行のインスタとかフェイスブックにその写真をアップしている人。


「居た…」


私は今日もその人を見付けて、自転車を止めた。

そして、写真を撮る来夏さんにそっと近付く。

芝生に大の字になって、デジカメを空に構える。


私はその来夏さんの傍に立つ。

デジカメを構えている来夏さんは私を見て微笑む。


「葉子…。パンツ見えてるよ」


そう言って身体を起こした。

私は来夏さんの横に座り、


「来夏さんって空だけじゃなく、女子高生のパンツの写真も撮るんだ」


と言った。


「まあ、依頼されたら撮るけど…」


来夏さんはそう言って笑った。


去年の冬に此処で来夏さんと知り合った。

寒い日に枯れた芝生に寝転んで、カメラを構え、何枚も写真を撮っていた。


私は、ベンチに座ってその光景をずっと見ていた。

何をしてるんだろうって思って。

何度目か忘れたけど、勇気を出して声を掛けてみた。


「空の写真を撮るのが好きなんだ」


その時、撮った写真を私に見せてくれた。


「わかるかな…。一枚として同じ写真は無いんだよね。空だけは同じ場所から同じ様に撮っても、同じ写真は撮れないんだ」


その時は良くわからなかったけど、何となく来夏さんの撮る空の写真が好きになった。


それからこの公園で来夏さんを見かけると、芝生に寝転んで一緒に何時間も空を見る様になった。


来夏さんはフリーのライターをやっていると言ってた。

それが嘘でも本当でも良い。

私は来夏さんと話をするのが楽しみになった。


「受験勉強はどう」


来夏さんは私の横で大の字になったまま訊いた。


「うん…。全然」


私の言葉にクスクスと笑う。


「私もそうだったな…。全然勉強できなかったし」


私は身体を起こして、


「高校って楽しかった…」


と訊いた。


「楽しかったんだろうな…。何か高校生だった三年間ってさ、大人になるために準備期間って感じでさ」


私は小さく何度か頷く。


「大人か…」


来夏さんは空の写真を撮った。


「大人って楽しい…」


そんな事は誰にも訊けない事の様な気がした。


「どうかなぁ…。好きな事は出来るかもね」


来夏さんは胸の上にカメラを置いて、私を見てた。


「葉子は大人になったらしたい事ってある」


今度は私が空を見上げる。


「したい事か…。お酒飲んだり、タバコ吸ったり…お洒落したり」


来夏さんはクスクス笑った。


「そんな事は今でもしようと思えば出来るじゃん。勿論、違法だったりもするけど」


私も一緒に笑った。


来夏さんはまたカメラを空に向ける。


「大人になる準備ってさ、自分探しのための準備なんだよ。何がしたいか…」


シャッターを切る音が聞こえた。


「何がしたいかって事がわからないとさ、何が自分に向いてるか、なんて選択をしなきゃいけなくなる。それもわからないと、自分には何が出来るのかって選択になる」


来夏さんはまたカメラを胸の上に置く。


「そうやって選択の幅を狭めて行き、結局出来る事をやって生きて行くしか無くなってしまう」


私は来夏さんの言葉を聞きながら流れる雲を見ていた。


「それって自分を諦めて生きてるみたいで詰まんないじゃん…」


私は何がしたいのだろうか…。

小学校を卒業する時に文集に書いた「将来なりたい職業」は芸能人だった気がする。

でも、そんな小学生の文集に書いたなりたい職業に就ける子なんてそう何人も居ない。

そのために努力して目標に向かって進んでいる子なんてどれだけいるんだろう。


「来夏さんはライターになりたかったの…」


私は空を見上げる来夏さんの横顔を見る。


「いや、私は小説家になりたかった。って言うか、今もなりたいって思ってる」


小説家か…。

何か凄い…。


「昔から勉強もせずに本ばっかり読んでた。いつか皆に楽しいって思われる小説を書きたいって小学生の時に思ったかな…。卒業文集の「将来なりたい職業」には小説家って書いたよ」


私はクスクスと笑った。


「来夏さんの頃にも、卒業文集の「なりたい職業」っての、あったんだね」


「ああ、定番でしょ…」


私たちは声を出して笑った。






私はガレージに自転車を入れて玄関の鍵を開けた。


「ただいま…」


誰も居ない事はわかっているのに、いつもこれは言う。


明かりのついていない暗いリビングを通り、二階の自分の部屋へ行く。


この家では母と父、私の三人で暮らしている。

三つ上の兄が居るんだけど、東京の大学に行っているので、一人暮らし。

父は出張が多く、家に居る事の方が少ない月もある。

母は数年前にパウンドケーキをインターネットで販売する会社を始めた。

自宅から車で少し行った所に工房を作り、朝早くから夜遅くまでそこでケーキを焼いている。

近所の主婦仲間と一緒にやっている様だけど私はその工房に行った事は無い。


制服のスカートを脱ぎ、濡れた水着とタオル、そして着替えを取ると一階に下りシャワーを浴びる。

父も兄も居ない時だけ。居る時はちゃんと脱衣所で脱ぐ事にしてる。


熱めのシャワーで全身を泡だらけにして身体を洗い、一気に流すのが好き。

裸のまま髪を乾かして、部屋着を着る。


脱衣所を出ると、静寂しかない家を見渡す。

母が私の夕飯を作り、ラップを掛けて冷蔵庫に入れている。

その夕飯が二人分準備してある日は父が帰って来る日で、今日は私の分しかないので、父は出張で帰って来ない日という事。私はラップを少し捲り、夕飯のメニューをチェックする。

今日はとんかつらしい。


冷蔵庫で冷えた缶ビールを一本取り、二階の部屋に上がる。


私は部屋の窓を少し開けると、そこから流れ込む風を感じながら缶ビールを開けて一気に半分程飲んだ。

来夏さんの言う大人じゃなくても出来るってのは実は知っている。

そして机の引き出しを開けるとタバコの箱を取り、咥えた。


別に私は不良じゃない。

不良じゃなくてもお酒も飲むしタバコも吸う。

母もそれを知っている様だけど何も言わない。

兄も高校に入ると同時にタバコを吸っていたけど、


「勉強さえしてくれたら何も言わない」


という事だった。


まあ、お酒やタバコが切れて手が震える事もないから、大丈夫。


学校指定の鞄の中に入れているスマホを取り出す。

私に連絡してくる子は少ないので、あまり着信は気にしない方。

今日も着信は無い。

スマホを学校に持って行くのは校則で禁止されているが、申請すれば持って行っても良い。

その代わり電源を切り、放課後までは触らない事。

それじゃ持って行く意味はあまりない様な気もする。


タバコに火をつけて、細い窓の隙間から外に向かって煙を吐く。

今日は風が中に吹き込んでいるので、その煙は全部、部屋の中に戻って来る。


兄は部屋の中が臭くなると言ってベランダに出てタバコを吸っていた。

でも私はタバコの匂いが嫌いじゃない。

だけど制服に匂いが付くのはまずいのかもしれない。


ベッドの上に投げ出したスマホを手に取った。

ネットで見れる動画が学校で話題になるけど、私はそんなモノにも興味が無い。

子猫の動画が可愛いとか、誰々が大食いでピザを食べてたとか。

本当にどうでも良い話。


ベランダに置いた空き缶でタバコを消して中に放り込むと、残ったビールを飲み干す。

ビールの空き缶は後でキッチンに持って行き、洗って捨てる。

それさえやってれば母も何も言わない。


癖になっている溜息を吐いて机に向かう。

赤本とかも買って、受験生っぽい感じの机だけど、実際にはその赤本もペラペラと捲って一度見ただけ。

行きたい大学も決まってないし、行ける保障も無い。

成績は中の中、もしくは中の下。

したい事も全くない。

クラスの友達は保育士だとか介護系の仕事とか、現実的な会話をしている。

そんな会話も私には関係ない話の様に聞こえて仕方ない。


「葉子、私の仕事手伝う…」


母は自分のやっているパウンドケーキの会社を手伝っても良いみたいな話をしてた事も有ったけど、それもなんか違う気がする。

母の会社は結構人気があるみたいで、一番人気のプレーンパウンドケーキは今、注文しても届くのは一年先らしくて…。

今欲しくて注文するのに、一年後にそれを食べたいかどうかなんてわからないんじゃないかな。


子供の頃から水泳だけはやって来た。

だけど、それ以外の事を続けた記憶が無い。

ピアノも習ったし、習字や英会話も。

けどどれもすぐ辞めちゃって、リビングには今は誰も弾かないピアノが申し訳なさそうに置いてある。


その唯一続けて来た水泳も、今は風前の灯火。

嫌になってしまった。


結局、私には何が残るんだろう。

気が付くと空っぽの私が居る。






寝てしまっていた。

気が付くと十時を過ぎていて辺りは真っ暗。

お腹が空いてキッチンへと下りる。

母はまだ帰って来ていなかった。

いつも深夜に帰宅したり、帰って来ない日もある。


私は冷蔵庫から母が準備したとんかつを出し、レンジに入れる。

こんな時間にとんかつを食べられるのも若さの特権。

多分、父ならとんかつに手を付ける事無く、お茶漬けを食べていると思う。

ご飯をよそって温めたとんかつを取り出し、私専用のグラスに冷たい緑茶を注ぐ。

私は緑茶派で、母が買って来たペットボトルの緑茶が常に冷蔵庫に入っている。


「戴きます」


手を合わせて遅い夕飯を食べ始める。

一人の夕飯も慣れた。

ダイニングテーブルの横に置いてある小さなテレビを点けた。

母が料理をしながらテレビを観れる様にと数年前に買ったモノ。


「食事の時はテレビを見ない」


と、以前は父が怒っていたけど、今は父も食事をしながら見ている事がある。


食事の時のテレビはある意味BGMの様なモノで、静かなダイニングで一人食事をしていると気分も落ち込む。

つまらない番組を見ながら一人食事をする。

食事は私にとってエネルギー補給の行為でしかない気がする。

食事を楽しむなんて事をしたのはいつだっただろうか。


さっさと食事を済ませると、使った食器を洗い、部屋へと戻る。

夕方飲んだビールの空き缶を持って行くのを忘れている事に気付き、もう一度キッチンへ。

空き缶を濯ぐと、缶専用のごみ箱に放り込む。

空き缶がぶつかる乾いた音が響く。

ゴミ箱の中のビールの空き缶。

多分、その大半は私が飲んだモノだ。


部屋に戻り、ベッドに横になる。

今日は宿題が出ていた気がするけど、もう今からやる気はない。

明日誰かに写させてもらおう。


ベッドの横でスマホを充電し、天井を眺める。

今日もつまらない一日だった。

何のやる気も起きない一日。

ううん、今日だけじゃない。

もうずっとそう。

私は空っぽ…。


大人になったら何をしたいのか…。

来夏さんに言われて考えようと思った。

けど頭の中でその言葉が共鳴するだけで、何も思い浮かばない。

どう考えたらそんな思考になるのか。

その辺りから教えてもらわないと、私にはその答えの出し方さえもわからないのかもしれない。


大人って何だろう…。


お酒、タバコ…。

生理もあるし、胸だってそれなりに大きくなってる。

後は何が足らないんだろう。

私って子供なの、大人なの。

セックスの経験…。

それは経験無いけど、周りで経験した子の話も聞く。

経験したからって大人には見えないし、それが何って感じ。

二十歳になったら大人なの。

「此処から大人です」って明確な線でも引いてくれてればわかりやすいのに。


こんな話を皆は親とするのだろうか。

兄や姉とするのだろうか。

誰か教えてくれるのだろうか。


卒業したら何か変わるのだろうか。

大学に行くと何か変わるのだろうか。


毎日毎日、疑問だけが増えて行く。

空っぽの私の中は疑問符だらけ。


皆、私と同じ様に空っぽなのだろうか…。






気が付くとカーテンの隙間から温い朝日が差し込んでいて、その光で私は目を覚ました。

制服に着替え鞄を持って部屋を出る。

キッチンにもリビングにも母の姿は無い。

だけど、朝食の用意がされているから、もう仕事に出掛けたんだろう。

朝食はいつもと同じメニューで、目玉焼きとウインナーが二本、それにサラダとフルーツ。

私は冷蔵庫からヨーグルトとオレンジジュースを出してトーストを焼く。

朝食はいつも同じメニューでも文句を言わない。

これは何故だろうか。

私はトーストにマーガリンを塗り、手を合わせる。


「戴きます」


考えてみると、昨日帰宅した時の「ただいま」と夕食の時の「戴きます」。

そして今の「戴きます」。

この三つしか声を発していないのかもしれない。

しかも全てが独り言。


朝食のエネルギー補給。

十分もかからずに朝食を終えて、歯を磨き、顔を洗う。

髪の毛に櫛を入れると、もう家を出る時間になる。

これもほぼ毎日同じ時間配分。

朝から髪の毛をセットしたり、中には化粧をしてくる子もいる。

そんな子たちは朝早起きしてでも化粧やセットをしてくる。

私には無理。

でもこれも、大人になるとしなければいけないのだろうか…。


玄関の鍵を閉めるとガレージに停めた自転車に乗り、家を出る。

学校まで二十分ちょっと。

少し早めに学校に着く様にしている。


昨日、来夏さんと会った公園を見た。

流石に朝から来夏さんの姿は無い。

自転車を止めて空を見上げると、夏の青い空が広がっている。

こんな空の写真が来夏さんのカメラには沢山詰まっている。


校門の前で自転車を降りて、押して校門を通る。

風紀委員の子たちが校門には毎日立つ。

風紀委員なんかになると、毎朝皆より早く登校する事になる。

私は貴重な朝の時間をそんな事に潰されるのは御免だ。


自転車を止める場所は学年で決まっているだけで、その他は自由、私はいつも端の方に置く。

ドミノ倒しの様に自転車が倒れてても出しやすい場所が良い。

前の籠から鞄を取ると玄関へ向かう。

入学した時は此処で上履きに履き替えていたんだけど、廃止になり、今は校舎の中も土足でいい事になった。

その結果、玄関から入らなくても教室には行けるって事になる。

私の場合は教室が玄関から近いので、玄関を通るだけで、渡り廊下や、教室の窓から入る奴もいるみたい。


玄関を入ると佐知が立っていた。


「葉子…」


佐知は私を見付けると声を掛けて来る。

どうやら私を待っていた様子だ。


「おはよ、どうしたの…」


私は佐知の前で立ち止まらすに教室へと歩く。

佐知は私の横を着いて歩きながら、


「葉子、良いの…、選考会から外されても」


最後の大会のメンバーに選ばれるための校内の選考会。

皆、この大会のために頑張って来たと言っても過言ではない。

特に佐知は思いが強い。

佐知も去年まで選手として私と一緒に頑張って来たんだけど、心臓が悪い事がわかり、激しい運動が出来なくなった。

体育の授業も殆どを見学している。

それで佐知は選手を外れマネージャーとして私たちをサポートしてくれている。

中学から一緒に佐知は私への思い入れは強い。


私は立ち止まり、佐知を見た。

佐知の表情は険しく、私を真剣に見つめている。


「別に良いよ…」


佐知は息を大きく飲み込んで、


「もう泳がないの」


そう声を荒げた。


「何か、もうどうでも良くなったのよ…」


私は佐知に微笑むと教室へと歩き出す。


「葉子」


佐知の声が聞こえる。

だけど私は足を止める事も振り返る事もしなかった。


そう。

水泳が嫌いになった訳でも、佐知が嫌な訳でも無い。

ただ情熱が無くなっただけ。







「葉子、葉子…」


と香緒里の声が聞こえた。

私がゆっくりと顔を上げると、今度は、世界史の寺西の声が聞こえる。

ふと我に返るともう三限目で、私の机の上には一限目の数学の教科書が出ているままだった。

慌てて机の中から世界史の教科書を出す。


「財前、方程式は解けたか」


寺西の言葉にクラス中が笑っている。

私は世界史の教科書を机の中に戻した。

そして手を真っ直ぐに上げた。


「先生…」


寺西は黒板に書く手を止めた。


「どうした、先生に方程式の事訊かれてもわからんかもしれんぞ」


また笑いが起こる。

こうやって皆の人気を取る先生だ。

怒る気にもならない。


「体調が悪いので帰ります」


私は机の上のモノを鞄に詰めて、さっさと教室を出た。


「おい、おい財前」


廊下を歩く私に寺西が言う。

私はそのまま学校を出た。


いつもの様に校門を出るまで自転車を押して、出た瞬間から自転車をこぎ出す。


何処でも良かった。

息苦しい教室の空気から逃れる事が出来れば。

私は自転車を走らせる。

温い風が髪の毛を浚う。

何処にも向ける事の出来ない苛立ちが空っぽの私の中で蠢いている様な気がした。


目の前の信号が赤になり、私は自転車のブレーキを握った。

目の前を数台の車が過ぎて行く。

その排気ガスの臭いが凄く嫌で、私は俯いて息を止め、焼けたアスファルトを見た。


来夏さんがいつもいる公園の傍を通る。

流石にこの時間に来夏さんは居ないだろう。

芝生の広場を隅から隅まで見るが来夏さんの姿は無かった。


「いる訳ないか…」


私は自転車を走らせて家路を急いだ。

急ぐ理由も無いし、帰ってもする事も無い。


私は何をすればいいんだろう…。


そんな事を考えながら自転車をこぐ。


公園を過ぎた所にあるコンビニに寄る事にした。

お昼は学食で食べるつもりだったけど、早退しちゃったし…。


私は前の籠に入れた鞄を持ってコンビニの中に入る。

適当にパンと飲み物を取り、窓際にある本のコーナーへ。

いつもは気付かなかったけど、雑誌って結構ある。

友達が学校に持って来るファッション誌の類には興味が無い。

じゃあ何に興味があるかって訊かれても困るけど…。


なんとなく気になった雑誌を手に取った。

過去のスクープをまとめた写真の載った雑誌。


パラパラと捲ると国会議員が誰かに撃たれて死んだ瞬間を撮った写真が載っていた。連写で撮ったのか、ビデオなのか、撃たれて倒れる写真が並べて載っていた。

記事によると周囲には撃たれた議員の脳が飛び散ってたらしい。

私はその記事の最後にあった名前が目に入った。「野上来夏」とそこには有った。


これって来夏さん…。


私はもう一度、食い入る様に見た。

数年前の事件だったけど、こんな事件があったのは覚えていた。

そのスクープを撮ったのは来夏さんだったんだ…。


私はその雑誌も一緒にレジに出した。


家に帰るとベッドでその雑誌をもう一度読み返した。

当時の来夏さんの書いた記事がそのまま載っていた。


来夏さん…。

本当にライターだったんだ。


私は初めて知った来夏さんのフルネームをスマホに入力して検索した。

思ったよりも色々な記事が出て来た。

国会議員の不正とか、アイドルの不倫の記事まで。


そりゃ、頼まれたら女子高生のパンツの写真も撮る訳だ…。


私は買って来たパンを食べながら、スマホを見た。

知っている人の書いたモノがネットや雑誌で読める事が不思議な感覚で、私は夢中で読んだ。

読み進めて行くと、他のモノとは少し違った文章を見付けた。

何かの雑誌のウェブ版でライターを取材するというコーナーがあり、フリーライター野上来夏の事を書いてある記事を見付けた。


私は思わず身体を起こし、それを読む。


野上来夏は本名で、来夏と言う名前は来夏さんの父親が付けた名前で、六月生まれだという事と、父親の趣味がカメラで、ドイツのカメラメーカーのライカから取ったモノらしい。


そう言えば来夏さんのカメラにも「Leica」って書いてあったな…。


好きな音楽はヘレン・レディ。

知らないな…。


尊敬する人はルポライターの木瀬義秋氏。

木瀬氏のフクシマを撮った写真が宝物だと書いてある。


木瀬義秋…。

誰だろう…。


フリーライターになった切っ掛けは食べるため…。

何とも来夏さんらしい答えだ。


三流大学を出て、出版社で雑誌編集の仕事を数年やった後、木瀬氏の写真を見た日に、出版社を退職し、タブロイド紙の会社のドアを叩く。

そのままフリーのライターとして活躍。

他人と違う観点からターゲットを狙う方法で、多くのスクープを掴む。


来夏さんって凄いんだ…。

凄い人と話をしてたんだな…私。


来夏さんの尊敬する人の木瀬って人の情報はネットには出て来なかった。

どんな人なんだろうか…。


私はスマホを胸の上に乗せてベッドに横になった。


なんだか少しだけ来夏さんと近付いた様な気になった。


私にも出来るかな…。

ライターって仕事。


見慣れた天井を見ながらそんな事を考えた。






少し眠ってたみたいで、目を覚ますと夕方だった。

夏の一日は長く、まだ外は明るかった。


私はキッチンに下りて冷蔵庫からいつもの様に缶ビールを取り、部屋に戻った。

プルタブを開ける時の独特な音が良い。

私は喉を鳴らしながら缶ビールを一気に半分程飲んだ。

そして机の引き出しからタバコを出して咥える。

近所から子供の声が聞こえて来るけど、私の部屋の窓からその姿は見えない。

タバコに火をつけて、窓を大きく開けた。

タバコを咥えたまま、大きく身を乗り出した。

そろそろ窓から入って来る風だけじゃ暑くて眠れなくなる。


今日の夕飯、なんだっけ…。

私は夕飯をチェックするのを忘れた。

父が帰って来るかどうかもわからない。


私はタバコを咥えたままベッドに横になり、天井を見る。

この間読んだ本で十四歳って多感な時期で…みたいな奴があった。

十七歳だってそんなに変わらない。

回りが思うより不安定だ。


落ちそうになったタバコの灰を空き缶に落とす。

そしていつもより少し長いタバコを消した。

残ったビールを飲み干すと空き缶を持ってキッチンへ行く。

ついでに今日のおかずをチェックするために冷蔵庫を開けた。

今日はオムライスで、やっぱり私の分だけ。

今日も父は帰って来ない


冷蔵庫を閉めるとドアに予定表が貼ってあった。

週末には進路の最終決定日と書いてある。

三者面談の日だ…。


進路か…。

将来の事まで考えて進路を決める。

十七歳の高校生にそんな事が出来るのだろうか。

皆、そんな事考えてるんだろうか…。


空っぽの私。疑問符だけが私の中で蠢く。


「進路か…」


私は冷蔵庫のドアに手を突いて溜息を吐いた。


私って大丈夫なのかな…。

ちゃんと高校生出来てるのかな…。


私は部屋へと戻るために階段を上った。


部屋に戻ると椅子に座り、クルクルと回った。

部屋が回っている。

何の飾りも無い女の子らしくない部屋だって、母にも言われた事がある。

女の子らしい部屋ってどんなの…。

ぬいぐるみとか飾るの、花柄のカーテンとか、ひまわりの付いた麦わら帽子とか掛けるの…。

女の子らしい部屋にしても良いけど、それは同時に私らしくない部屋になる気がする。


回転する椅子を止めて、机の上に手帳を出す。

開いてみるけど、何も予定なんて書いてない。

日付の下に赤い線を引いてるのは生理が来た日と終わった日。

これは初潮を迎えた時に自分でちゃんと記録しなさいって教えてくれた事。

大人になった時、役に立つからって言ってた。

それ以外書き込んでいる事といったら終業式。

本当は部活の予定とか、友達と遊ぶ予定とか、色々と書き込むつもりだった。

だけど、この先の予定は真っ白。

今の私と同じ。


とりあえず、週末に「進路最終決定」と「三者面談」を書き込んだ。

母は覚えているのだろうか。

手帳に挟んだ進路の書き込む紙。

これに書き込むと私の行先が決まってしまう。

こんな紙に書き込むだけで、将来が決まってしまう。


「ご両親と話し合って、進路は良く考えて決めなさい」


と担任の黒田は言ってた。

良く考えろって言われても週末には出さないといけないし、父も母もなかなか会えないレアキャラみたいな存在で…。


もう、どうすれば良いんだろう…。


もう一本タバコを吸おうと思い机の引き出しを開けた。

最後の一本だった。

それを咥えて火をつける。

後で買いに行こう。


タバコ吸いながら進路を考えている女子高生って何人いるんだろう。


そんな事を考えたら可笑しくなった。


タバコを消して、煙の充満した部屋から外に向けて扇風機を強で回す。

匂いはわからないけど、とりあえず煙は無くなった。


制服を脱いで、服を着替える。

流石に制服でタバコを買いに行くのは気が引ける。


脱いだブラウスを洗濯機に放り込み、玄関を出る。

ガレージから自転車を出して、近くのタバコ屋まで行く。

兄の名前のタスポを持っているので、自販機でタバコをいつも買う。


近くでしてた子供たちの声はもう無くなってた。

暗くなってきたんで帰ったんだろう。


坂道を軽快に下りながらタバコ屋へと向かう。

今はタバコの販売もコンビニにお客さんを取られ、今では自販機だけがその売上の大半を占めるとテレビで言ってるのを聞いた。

このタバコ屋も同じで、お店が開いているのを見た事は無い。

たまにおじさんが自販機に補充しているのを見た事はあるけど…。


私は傍にあるベンチの横に自転車を止めた。

そして私の吸う銘柄の自販機にお金を入れてタスポをタッチする。

そして取り出し口から出て来たタバコを取り、ポケットに入れた。


顔を上げるとタバコの自販機の隣にお酒の自販機があった。

私はその自販機が気になり並んでいるお酒を見る。


こんなモノもあるんだ…。


少し高いがウイスキーなんかも自販機で売っている。

私はそれを飲んでみたくなり、お金を入れた。

しかし、お酒の購入にも成人のチェックがあるらしく、どうすれば良いのかわからなかった。


「子供には買えないぞ」


と声がして免許証を差し込んでくれる人がいた。

大きな音を立てて、ウイスキーのボトルが落ちて来た。


私は、顔を隠す様に頭を下げて、


「すみません。ありがとうございます」


と言った。

顔を上げてその人を見る。


「やっぱり葉子か…」


とそこには来夏さんが立っていた。


「来夏さん…」


来夏さんは微笑みながら自販機でタバコを買い、そのままお酒の自販機で缶ビールを買っていた。


「何でこんな所に…」


来夏さんは、私の自転車の傍に停めた車を指差して、


「今日は珍しく仕事の帰りだ」


と言う。

そしてジュースの自販機で缶コーヒーを二本買い、私に一本くれた。


「ちょっと付き合えよ」


と言って、ベンチに座った。

私は来夏の横に座る。


「今日、昼前に帰ってただろう」


来夏さんは私を見て笑った。


「どうしたんだよ…。最近元気無さそうだけどさ…」


タバコを開けて咥えた。


私は手に持った缶コーヒーを両手で握ったまま、頷く。


「何か、よくわかんなくて…」


来夏さんはポケットを探っていた。

ライターを探している様だった。

私はポケットのライターを来夏さんに差し出す。

来夏さんはそのライターを見て動きを止め、


「ありがとう」


と言うと私のライターで火をつけた。


「私も、何がわかんないか訊く程、野暮じゃない」


そう言って私にライターを返す。


「何がわかんないかもわかんないんだよな…」


来夏さんは煙を吐いて、私を見た。


私はコクリと頷いた。


「それで酒か…」


「そう言う訳じゃないんですけどね…」


私は笑いながら、傍に置いたウイスキーのボトルを見た。


来夏さんは私を見て微笑むと、


「でも、わかるよ…。そんな歳で、将来何がしたいか決めろって言われてもな」


そう言うと空に幾つか見える星を見た。


「私もわかんなかったな。わかんないからとりあえず大学行って、それでもわかんなくて、本が好きだから出版社入って…」


私が昼間読んだ来夏さんのネット記事の説明と同じ事を言っていた。


「知ってますよ…」


私が言うと来夏さんは笑っていた。


「野上来夏…フリーライター。尊敬する人は」


「木瀬義秋」


来夏さんは自分で言う。


「ネット読んだな…」


私はコクリと頷いた。


来夏さんは微笑んでタバコを吸った。


「私の尊敬する人、そして目標だ」


私を見て歯を見せる。


私は、楽しそうに話す来夏さんが羨ましかった。

来夏さんには目標があって、私には何も無い。

私はベンチに座ったまま両足をピンと伸ばし、伸びをする。


「木瀬さんに会った事あるんですか」


来夏さんはタバコを咥えたまま空を見た。


「多分…」


え、多分…。


「ビルの屋上に寝転んで都会の雲の写真を撮る人が居てね…」


来夏さんと同じだ。


「何だろうな…。不思議な人だったな…」


木瀬さんを思い出す様に優しい表情の来夏さんだった。


「でも、その時はそれが誰かわからなかったんだ…。けど、ずっと前から知ってたような気持ちになったし、私の心が躍ってたんだ」


私はポケットに入れたタバコを出し、封を切ると咥えた。

そしてライターで火をつけた。


「それが木瀬さんだったんですね…」


来夏さんはタバコを吸う私を見て、苦笑した。


「それもわからないんだ」


「えっ…」


来夏さんはクスリと笑い、


「少なくとも私の中の木瀬義秋は彼だ。それで良いんだ」


と言う。

そして、手に持ったタバコを近くにあった吸い殻入れに捨てた。


「ただ…」


来夏さんはそう言うと俯く。


「どうしたんですか」


私もまだ長いタバコを吸い殻入れに入れた。


「いや、何でもない」


来夏さんは缶コーヒーを飲み干して、自販機の横にある空き缶入れに入れた。

そして私の方を振り返った。


「葉子…」


私は顔を上げた。

来夏さんは私に優しく微笑む。


「酒とかタバコとか、男とかクスリとか…。人間、逃げ道はいっぱいあるんだけどさ。逃げないで自由にやれるのも若い奴の特権だからな。それが出来なくてそういうのに逃げる奴ってのは擦り切れてしまった大人か、もう壊れてしまった大人だ」


ストレートに酒とかタバコは良くないって言わない来夏さんが私は好きだ。


来夏さんは車のドアを開けた。

そして乗り込みながら、


「今は子供を楽しめ。葉子はもっと子供でいいよ」


そう言ってドアを閉め、エンジンを掛けて、クラクションを二回鳴らすと走り去った。


私はその来夏さんの車のテールランプをずっと見ていた。


「子供で良いんだ…」


私は何故か、そう呟いた。







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