第9話 過去を映す蝋梅

 静かに眠っていたはずの白月パイユエは、全 紫釉チュアン シユの腕中で大声で泣き始めた。

 あやしても泣きやまない。泣き声は大きくなるばかりだった。


「おいおい。どうした白月パイユエ、お腹空いたのか?」


 爛 梓豪バク ズーハオの整った指が赤子の頬をつつく。


「あ、もしかして! お漏らししちゃったのか?」


 近くにある木陰まで歩き、地面へ腰かけた。

 全 紫釉チュアン シユが布を敷き、その上に白月パイユエを寝かせる。ふたりは慣れない手つきで白月パイユエの服を脱がしていった。


「……おや? 特に濡れてはいませんね? そうなると、お腹の方ですかね?」


「ええ? でも俺らは、あげれねーだろ?」


 どうするんだよと、途方に暮れる。


「……そう、ですね。こんなところでは、乳母なんていないでしょうし」


 お腹を空かせた赤子にとって、お乳は命綱だ。けれどふたりとも男ということが災いし、空腹を満たしてあげることが不可能となってしまう。

 このままでは餓死してしまうのではないか。彼らはそれを疑念し、何とかしようと動き回った。


 爛 梓豪バク ズーハオは関所、もしくは近くに乳母がいないかを尋ねる。

 全 紫釉チュアン シユ白月パイユエを抱きながら、休める場所がないかと兵に聞いた。


 



「───む、無理だ。俺たちじゃ、子育て無理だ」


 爛 梓豪バク ズーハオの額からは冷やかな汗が流れている。重たい体を無理やり動かしては、背中を丸めて絶望の顔色をした。


「だからって、捨てるわけにはいかないしなぁ」


 もういっそのこと、寺の前に置いてきてしまおうか。そんな、心にもない思いつきを呟いた。


「そんなことしたら、私は爛清バクチンを見捨てます。あなたと白月パイユエ、どちらが大事かと問われたら、私は迷わずその子を選びますから」


 はっきりと言いきる。


 爛 梓豪バク ズーハオを見る眼差しに優しさはなく、汚物を見下ろす冷たい瞳になった。

 

「ひ、えっ……じょ、冗談だよ! 俺だって赤ん坊を置き去りにしようなんて、これっぽっちも思ってないから!」

 

「本当に?」


「もちろんです! 男に二言はありません! 全 紫釉チュアン シユ様の言葉に従います!」


 爛 梓豪バク ズーハオを睨めば、彼は汗だくになっている。笑顔を見せながら、声を震わせていた。びくびくと、叱られた子供のように縮こまる。ごめんなさいと、涙目で土下座した。


 ──情けない人ですね。まあ、正直な人といえば、そうなんですが……。


 お調子者だけど、悪い気はしない。


 爛 梓豪バク ズーハオという人物を嫌いになる理由もなかった。むしろ清々しいまでの素直さに好感がもてるなと、感心までしてしまう。


 全 紫釉チュアン シユは彼に微笑みを向けた。クスクスと、扇子を拡げて口を隠しながら微笑する。

 長く、美しい髪をたなびかせた。踵を返し、赤子を抱いたまま、爛 梓豪バク ズーハオの先を行く。後ろから「阿釉アーユ、待ってくれよぉー」と、甘えるような声が聞こえた。それを子守唄のように白月パイユエに聴かせ、歩幅を爛 梓豪バク ズーハオと合わせる。


爛清バクチン、とりあえずは休める場所を探しましょう。私もあなたも、睡眠を取らないと倒れてしまいます」


 きゃっきゃっと、腕の中で笑う赤子の手を握った。赤子らしい暖かさと、もちもちとした柔らかい指が、全 紫釉チュアン シユの頬を緩ませる。


「この関所から北へ進むと、道なりに宿屋があるそうです。そこまで行きましょう」


「え? いつの間に聞いたの?」


「ふふ、私は要領がいいんです」


「……自分で言うか、それ? まあいいや。それよりも阿釉アーユ、北……こっだぞ?」


 歩きだした全 紫釉チュアン シユの勢いが、彼の呼びかけによって絶たれた。ピタリと動きをとめ、素早く振り向く。そして、何事もなかったかのように反対側へと進んだ。


「ほら。何をしているんですか爛清バクチン、宿屋まで行きますよ?」


「うわっ! 阿釉アーユのやつ、方向音痴をなかったことにしてる」


 爛 梓豪バク ズーハオは慌ててロバの紐を掴む。




 ふたりは嫌がるロバを引っぱりながら、来た道の反対方向の出入り口へと向かった。けれどもう少しで出入り口だというところで、白月パイユエが今まで以上に大声で泣いてしまう。


「……白月パイユエ、どうしたんですか?」


 優しい声で語りかけた。立ち止まって、赤子へ微笑みを送る。

 それでも白月パイユエは泣きやまず、今回ばかりは長期戦になると覚悟した。直後、ふたりの視界に一本の大木が留まる。


 黄色い花をつけた木だ。


「…………これ、蝋梅ろうばいのようですね」


 ふらり、ふらりと、大木に誘われるかのような足取りで近づいていく。


「蝋梅? 名前からして、梅ってことか?」


 爛 梓豪バク ズーハオは、へーと感心した。ロバを別の木に縛り、蝋梅の大木へとよっていく。


「ええ、そうてす。落葉樹のひとつで、この禿とくでは、記憶の渡し木とも言われているそうです」


「何だそれ? 大層な名前だな」


 全 紫釉チュアン シユは自ら近づき、蝋梅の木の前に立った。建物の屋根あたりまで伸びた木を見上げ、じっと見つめる。


 ざあー……


 冬の風が、彼らの髪をたなびかせていった。ふたりは髪を手で押さえながら、蝋梅の木を凝視する。

 

「蝋梅は冬に咲く花です。黄色い花びらをつけ、それが満開になると、木が持つ記憶を教えてくれる。そう、言われています」


 発端は、関所が友中関ゆうちゅうかんと呼ばれていた時代だった。友中関ゆうちゅうかんで起きた最初の事件を記録し、それを旅人に見せた。

 そのときから、蝋梅は記憶の渡し木と呼ばれるようになる。


「本当かどうかはわかりません。でも、蝋梅の木が見せてくれた過去があったから、関所の事件は解決した。とも、聞きます」


 そっと、何気なく、蝋梅へと触れた──


 そのときだった。

 全 紫釉チュアン シユが触れた蝋梅が、目映いばかりの光を放つ。

 この光を直接受けた全 紫釉チュアン シユの瞳は虚ろ。美しい顔が蒼白になろうとも、微動だにしなかった。


「…………」


「……っ!? 何だこれ!? 阿釉アーユ!」


 爛 梓豪バク ズーハオの声が響く。慌てふためきながら全 紫釉チュアン シユの腕を掴んだ。


「…………」


 腕を掴まれた全 紫釉チュアン シユは、虚ろな瞳で彼へと振り向く。赤子を抱きながら、どこでもないところに視線を置いた。


阿釉アーユ、お前どう……阿釉アーユ!?」


 光り続ける蝋梅を背に、全 紫釉チュアン シユは倒れていく。

 爛 梓豪バク ズーハオに支えられた彼の瞼は、開くことがなかった。腕の中にいる赤子にいたっては、すやすやと寝ている。


「……いったい、何……っ!?」


 残された爛 梓豪バク ズーハオは戸惑う暇もなく、蝋梅を注視しするしなかった。


「……あれ、は……」


 ゆらり、ゆらりと、煙のような何かが現れる。それは人の形に変わり、蝋梅の前で蛍火のような淡い光を放っていた。

 



『──届けたい。頑張っていたことを。人が好きだから、守りたいって思える存在だから……』


『うん、届けよう。君の思うようにすればいい。私は、君に付き従うだけだから』


 届けたいと願う存在は小柄な女性だ。美しい銀の髪をたなびかせた、とても端麗な顔立ちの女性だった。

 その女性に従うのは大柄な男性である。漆黒の髪を三つ編みした、美丈夫だった。


 どちらもが非常に整った顔立ちをしている。そんな美しい人たちは互いに肩を並べ、寄り添っていた。

 やがて、ふたりの姿が揺らめいていく。煙へと姿を変え、人の形を崩していった──




 彼らの姿を目にした瞬間、爛 梓豪バク ズーハオの瞳は潤んでいった。熱くなっていく目頭で、蝋梅の木を直視し続ける。


「──親父、は、はうえ」


 そう呟く爛 梓豪バク ズーハオの唇は、いつになく、震えていた。

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