第6話 赤子の名前を決めよう

 ホーホーと、フクロウが鳴いていた。空はどっぷりと暗くなり、提灯の明かりが幻想的に町を彩る。

 人の姿はまばらで、風が提灯を揺らす音だけが響いていた。






「…………つ、疲れた。ようやく、眠ってくれた」


 夜も更け、誰もが寝静まったの刻(午前2時)。爛 梓豪バク ズーハオ全 紫釉チュアン シユは、ぐったりとしていた。

 爛 梓豪バク ズーハオの髪はボサボサで、瞳は死んだように無となっている。

 全 紫釉チュアン シユは髪こそきれいだけれど、目の下に隈ができていた。


 見た目の美しさなど、どこへやら。そんなふたりはすやすやと眠る赤子を見て、から笑いを繰り返した。


「…………あ、赤ん坊の世話って、こんなにも大変だったのかよ!?」


 もう嫌だと、爛 梓豪バク ズーハオはよろめきながら椅子へと座る。


「私も、甘く……見てました。寝たと思ったらすぐ起きて泣いて……あやしても寝ないし、ぐずるしで……」


 美しい銀髪を払いのけながら、全 紫釉チュアン シユは真向かいの椅子に腰かけた。その腕には、気持ちよさそうに眠る赤子がいる。


「この子を見ていると、私を育てくれた祖父上や外叔父上たちに感謝したくなります」


 そう口にする全 紫釉チュアン シユの声は優しかった。長いまつ毛が大きな瞳に影を作り、端麗で儚げな風貌に見える。艶のある唇が妙に蠱惑的で、不思議な色香が加わっていた。

 まるで、愛しい我が子を胸に抱く聖母のよう。


「……っ!?」


 爛 梓豪バク ズーハオは、ゴクッと喉を鳴らした。薬を抜くためとはいえ、全 紫釉チュアン シユの体の隅々まで堪能したのだ。

 そのときのことを思い出すと、体が疼いてしまう。


 ──んんっ。やっぱり、顔はめちゃくちゃ可愛いんだよな。俺の好みだし。でも……これだけきれいなら、恋人とかいるんだろうな。


 チクッと、胸の奥に不思議な痛みを伴った。それが何なのかわからず、首を傾げるばかり。


爛 梓豪バク ズーハオ殿、どうしました?」


「え? あ、ああ、いや。何でもない。それよりも、他人行儀はやめようぜ? 俺のことは爛清バクチンでいいよ。お前のことは、阿釉アーユって呼ぶからさ」


 どちらの呼び方も、親しい者でなければ使えないものだった。それを容易く口にしてしまう。

 早まったかもしれないと考え、相手の出方を伺った。


 全 紫釉チュアン シユはクスクスと微笑んでいる。


「ふふ、別に構いませんよ。あなたとは初対面ではありますが、信用できる方とお見受けします」


「え? いいの? ってか、そんなに簡単に信用しちゃうのもどう……うっ!」

 

 眼前にいる儚げな瞳の男にじっと見つめられ、言葉を詰まらせた。ぐっと言葉を飲みこみ、負けを認めながら両手を挙げる。


「あー……うん。言い出しっぺは俺だからね。阿釉アーユがいいって言うなら」


 なぜか、照れてしまった。


 そんなふたりの間には、奇妙な沈黙が訪れる。どちらもが無言になり、ため息をつくなど。初々しいほどの空間が生まれていた。

 けれどそれは、赤子の泣き声によって消される。ふたりは我にかえり、慌てて赤子をあやした。


「なあ阿釉アーユ、こいつのご飯、どうすんの?」


 全 紫釉チュアン シユの腕に抱かれながら大泣きする赤子の頬をつつく。もちもちとしていて、とても柔らかい。


「乳母がいない以上、私たちで作るしかありません。お粥を極限まで煮詰めて、肉松のでんぷんを乗せるというのもあるそうです」


「へえ。あ、でも。まだ母乳の状態だと思うけど、もう離乳食あげてもいいのか?」


 彼からの素朴な疑問に、全 紫釉チュアン シユは弱々しく首を左右にふった。赤子を抱きながら立ち、爛 梓豪バク ズーハオへと渡す。


 爛 梓豪バク ズーハオは腫れ物を触るように、優しく赤子を抱いた。背中を向けた全 紫釉チュアン シユを凝視し、どうしたんだと尋ねる。


「……気づきませんか? この子、成長してますよ」


「うん?」


 意味がわからなかった。

 赤子は成長するもの。成長がとまった大人とは違い、あっという間に育っていく。多少体重が増えたところで驚くことではない。それが、赤子というものではないだろうか。

 爛 梓豪バク ズーハオは自信なさげに語った。全 紫釉チュアン シユには、気を張りすぎだからそう見えてしまうんだよと諭してみる。

 

「……そう、でしょうか?」

 

 納得がいかない様子で、うーんと小首を傾げた。しまいには口を尖らせ、子供のように拗ねてしまう。


「んんっ! 阿釉アーユ、可愛い!」


「お、男に可愛いとか言わないでください!」 

 

 からかわれたと思ったようで顔を真っ赤にさせながら、ポコポコと爛 梓豪バク ズーハオの胸をたたいた。


「あはは、ごめんごめん。おっと……赤ん坊が、ぐずり始めた」


 おくるみにくるまれたまま、小さな手足がもぞもぞと動く。あーぶーと、彼らの華服の袖を掴む。力などありはしない。小さくて柔らかな手は暖かく、ふたりの頬を緩ませていった。


「……なあ、こいつの名前つけねー?」


「名前、ですか?」


「うん。だって、ずっと赤ん坊とかだとかわいそうだろう?」


 赤ん坊の口は、爛 梓豪バク ズーハオの華服をちゅぱちゅぱしている。ときおり無防備に、楽しそうに笑っていた。



「……そう、ですね」


 全 紫釉チュアン シユは窓を開けた。まだ夜中ということもあり、空は宵闇に包まれている。

 細く美しい銀髪が風になびいた。夜空を見た後、向き直る。


「──白月パイユエ、というのはどうでしょう? 暗き夜空の中で輝く月。夜空とは正反対の白。このふたつを合わせた名前はどうでしょうか?」


 そう、口にした。


 その姿は美しく、とても眩しい。女神と言われても納得してしまいそうになるほどに、全 紫釉チュアン シユは儚くて端麗だった。

 そんな男の姿を見た瞬間、爛 梓豪バク ズーハオの心臓は再び高鳴る。けれど、これが何なのか。彼自身、まったくわからないままだった。


「ぱ、白月パイユエ……うん、白月パイユエ、いい名前だ。あ、で、でも、意味は?」


 ぎこちなくなってしまう。

 ただ、全 紫釉チュアン シユは気づいていないようだった。


「朝陽が出始める時刻の空は、とても美しい。一日の始まりと、まだ寝ているであろう時間の境目。季節によって明るさは異なりますが、夕陽とはまた違った雰囲気があります」


 青に染まりつつある、空に浮かぶ白い月という意味もあるのだと言う。


「私たち大人が夜に活発になるのなら、白月パイユエは朝に動く。体に暖かい陽の光を浴びて、元気に過ごす。そして夜は、ぐっすりと眠る。そんな子供に育ってほしいんです」

 

 植物のように朝陽を受けて、健康でいられるのなら。それ以上に幸せなことはない。


 聖母のような美しい笑みを浮かべる全 紫釉チュアン シユの細長い指は、白月パイユエの頬をつついていた。



「……っ!?」


 瞬間、さらりと流れる銀髪を目にした爛 梓豪バク ズーハオの心臓は一気に高鳴る。全身がカッと熱くなった。

 全 紫釉チュアン シユから視線を外し、片手で口を隠す。

 触れたい。抱きしめたい。そう感じてしまう、不思議な気持ちが生まれていった。


 ──何でこんなに、俺の鼓動は速くなってんだよ!?


「と、とりあえず、もう寝よう! な!? 寝ようぜ!?」


 不自然なまでに話題を逸らす。けれど全 紫釉チュアン シユは、それすら気づかぬ様子。頷き、白月パイユエと一緒にショウの上で横になっていた。

 焦る彼をよそに、全 紫釉チュアン シユ白月パイユエはすやすやと寝入ってしまう。


「……はぁー。先が、思いやられる」


 窓枠に肘をつけ、夜空を眺めた。ホーホーと、梟の鳴き声が聴こえ、大きなため息を溢す。

 冷めた茶を飲みながら前途多難だと、先行きに不安を覚えた。

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