第244話

マリアベル様のあまりの人生に呆然とする。

確か『瘴気』に書いてあった。聖杯が瘴気に染まれば魔物だと。

理論的には、聖杯が大きい竜も人も魔物化する可能性があると。そうなったらもう災厄だと。

マリアベル様……魔王になりかけていたのか。

それでも懸命に、国を浄化し続けていたなんて、人を助けていたなんて。

これはユリシーズ殿下たちに話した方が良い事だろうか。

うん。話した方がいいかもしれない。今のところショーン様とアルフレッド様が結界を使えるようになっているが、マリアベル様の集落の人たちは使えなかったようなので、結界を習得することは思っていたよりすごく難しいことかもしれないし。

そう考えていたら、授業の教材を作っているアグネスから質問が飛ぶ。

ライブラリアンにある『古代語』から紙へは私が付与する。

それをアグネスが書き写して量産しているのだが、アグネスはその甲斐あってぐんぐん古代語の知識がついてきている。

アグネスの質問に答えて二人で紅茶を飲んで休憩する。


「テルミス様、おはようございます」

ネイトと交代したアルフレッド様がいつものように挨拶に来た。

いつもと同じ。何も変わらない一場面だった。

「おはよ、うご……あ、れ? すみません。あれ?」

アルフレッド様の顔を見た途端、目から涙がツーっとこぼれた。

「テルミス!?」

アルフレッド様とアグネスが驚き、アルフレッド様の驚いた声が聞こえたからか、交代したばかりのネイトまで「何があったんだ」と鬼気迫る表情で突入してきた。

「あ、あの、アルフレッド様、何でも、ないのです。大丈夫です」

何か誤解を与えているような気がして、立ち上がって必死に否定したけれど、あまり説得力はなかったようだ。

「テルミスの大丈夫は信用しないことにしている。そんな涙を流して大丈夫な訳ないじゃないか。なにがあった?」

アルフレッド様はまだアルフレッド兄様と呼んでいた時と同じ口調で優しく問いかける。

あぁ、いつも大丈夫と言っているのが裏目に出ている。

そう内心冷静に考えられるのに、そんな内心とは裏腹に私の目からは涙がボロボロと流れ止まらない。

アルフレッド様から差し出されたハンカチを必死に目に当てるけれど、どんどん目は熱くなり、ハンカチは濡れていく。


ライブラリアンが人の世にはいてはならないという記述が見つかったうえ、教皇が来て、私の周りは今とてもピリピリしている。みんなすごく警戒し、過保護になっている。

「体が辛いのか?」

涙で声が上手く出ないので、必死に首を横に振る。

「紅茶は誰が淹れた? 何を話していた?」

「私です。しかし、私も同じものを飲んでいます。話していたのは、授業に使う資料の事ですわ」

アルフレッド様が毒物の可能性まで考えている。

でも、本当に大丈夫。誰かに何かをされたわけでも、意地悪言われたわけでもない。

私はいつも護身用のネックレスをしているから、毒なんて効かない。

それに何より、訳もなく涙が出ているだけなのだ。

つまり、みんなが警戒し、気を張り詰めていたところで滅多に泣かない私が号泣しているので大事になっているということだ。一番悪いのは、私か。


「ネイト、扉をしめて誰も入らないように」

アルフレッド様が私の様子を見てネイトに指示を出す。

「少し兄に戻ってもいいか」

アルフレッド様が私の涙をぬぐいながら聞いた。

泣き過ぎて上手く話せそうになくて、こくりと頷く。

おかしいな。なんで涙が出るんだろう……と止まることのない涙を必死に止めようとしながら頭の隅で首をひねる。

ポンと頭に手が載る。

「俺が触れるのは嫌か?」

嫌ではないと首を横に振る。

アルフレッド様が私の頭を引き寄せる。

「もう堪えるな」

必死で涙を止めようとしているのに、アルフレッド様がそんなことを言うから、私の涙は一層止まらなくなってしまった。


泣いて、泣いてひたすら泣いて。

その間、アルフレッド様は何も言わずずっと胸を貸してくれていた。

どれだけ泣いたかわからない。

「ありがとうございます。もう大丈夫、だと思います」

そう声が出せるまで、泣き続けた。

アルフレッド様の体から離れて、ふふふと笑ってみた。

「ユリシーズ殿下との昼食をすっぽかしてしましました。謝りの手紙を書かないと。それに、そろそろ授業の準備だってしないと」

「もういい……」

私の言葉を遮って、机に向かいかけた私の手を掴む。

「もういいんだ。頑張らなくていい」

「でも、授業が」

「大丈夫、俺とショーン殿が教師役だ。たまには自習だっていいだろ? 何も心配いらない」

そう言って、私をベッドに寝かす。

「今日は一日ゆっくりするんだ。わかったね」

そう言って、親が子供にするように頭をなでる。

「ありがとうございます。でも本当になんで涙が出たかわからない位で。体も元気ですし」

アルフレッド様の顔が歪む。

「テルミス……。おそらくテルミスは頑張りすぎたんだ。スキル狩りで狙われて、7歳で家を出て、一人平民という身分で学園に通っただけでも大変だったはずなんだ。それが賢者になって、たった12歳でみんなの暮らしを背負うことになって。教会だって警戒しなければならないし」

アルフレッド様の両手が私の右手を包む。

「もう十分頑張ったんだよ。涙はきっと今までテルミスが耐えてきた分だ。心が悲鳴を上げてるんだ。わかるか? だから……今は休むんだ」

アルフレッド様はそう言って、背を向けた。私を休ませるために各所に連絡しに行くのだろう。

だけど、そのぬくもりが離れていくのが、惜しくてとっさにアルフレッド様の手を取った。

「テルミス?」

優しく聞き返すアルフレッド様。

とっさに手を取ってしまったけれど、自分でも何がしたいのかわからない。

わからないけれど、アルフレッド様の顔を見ると再び涙が出てきた。

「ご、ごめっ、ごめ、ん、なさい」

止まらない涙を止めようとするが、止めようとするほどに涙は出てくる。

アルフレッド様はベッドに腰かけ、私の背をなでる。

「大丈夫、大丈夫だ。もう大丈夫だ」

そう言って私が泣き止むまで、背をなでてくれたアルフレッド様。

本当に私はどうしてしまったのだろう。こんなに弱くなかったはずなのに。

「なぁ、テルミス。結婚しないか」

不意に頭上から言葉が降ってくる。

ドキン。胸が跳ねた。

「ずっと考えていたんだ。俺ならテルミスを守れる。実家の権力を使うようでかっこ悪いがな。もう貴族たちの前に出なくていい。俺と結婚して、テルミスは好きなように生きたらいい」

ドキドキドキドキ早鐘を打っていた心臓が徐々に静かになる。

そっか。また兄様として守ってくれようとしているのか。

「一人で背負わなくていい。賢者なんて捨ててしまえばいい。竜と対峙なんてするな。俺はただ……ただ幸せに生きてくれたら、それでいい」

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