染み
黒月
第1話
会社の後輩の話。
私は数年前、都内のとある中小企業に勤務していた。Tは数年ぶりに採用された新卒者だった。地方出身で、そのまま地元の国立大に進み、市役所の内定も貰ったそうだが、それを蹴り、上京したらしい。そんな優秀な学生が何故うちのような中小企業に?と首を傾げる若手社員もいた。
私も彼と同じく地方出身で、歳も近かったため、必然的に話す機会は多かった。都内の地下鉄が複雑だの、満員電車がキツイだのという愚痴。地方出身者が上京してまず思うことはこれなんだな、と苦笑する。私も未だに満員電車には慣れない。
ふと頭に浮かんだ疑問をぶつけてみる。
「Tはさ、何で市役所蹴ってうちに就職したの?」
「あぁ、それは…」
Tの顔が曇り、言いよどむ。気を悪くしたかな、と慌てて言葉を付け足した。
「ごめん、ただちょっと気になったから。公務員もなかなか狭き門だしね。」
「確かに、親には反対されましたよ。お前長男だろって」
諦めたような笑いのあと、Tが切り出した。
「聞いてもらってもいいですか?実は…」
それは、Tがまだ大学4年の夏休みのことだった。自身は就職が決まり、一安心。親しい友人らも続々と内定をもらい、内定祝いと称して友人数人と飲みに行った。
その飲み会は非常に盛り上がり、帰宅したのは午前3時をまわっていた。寝静まっている家族を起こさぬよう、ふらつく足で慎重に自分の部屋へ向かう。
パチン
部屋の明かりを付ける。さて、寝るかとベッドに潜り込もうとしたその時、ふと違和感を覚えた。天井に見慣れない染みがある。白い天井に、埃のたまったような黒ずんだ染みだ。
それでも酔っていて早く寝たかったTは気のせいということにして、目を瞑った。
目を覚まして天井を見上げる。
増えていた。寝る前と比べて明らかに染みが増えている。心なしか、染みが濃くなっている気がした。
Tは慌てて家事をしていた母親を呼び、天井の様子を見せた。だが、母親の反応は冷たいもので「は?あんたまだ酔ってる?」と怪訝な顔をされてしまう。母親には染みは見えていないようだった。
後で弟を呼び、同じように天井を見せたが、弟にも見えていなかった。
目が悪くなっているのか、と眼科に行くも異常なし。ただ、日増しに染みは濃くなり、増え続けた。
Tがじっと天井を睨み付ける。最初、天井の住みにうっすらあっただけの染みが天井を覆わんばかりに増えている。そこで気づく。一つ一つの染みが人間の手のようであることに。手形をベタベタを押したようにくっきりと。しかし、それは自分にしか見えないこと、日を負う毎に増えていくことに気が狂いそうだった。
夏休みで暇だったが出来るだけ家にいたくないので昼間は大学に行って卒論に取り組み、夜はバイトを入れた。
自分にしか染みは見えないので誰に相談することも出来ず、もやもやした不安に追い詰められていく。まるで頭の中まで染みに侵食されているようだった。
そんな中、一人暮らしをしている友人が実家のある隣県から戻ってきたとの連絡を受けた。宅飲みをしないか、という誘い付きで。
気分転換になるかと了承し、友人のアパートに向かう。
帰省中に中学の同窓会に参加してきたという友人の話が面白く、ついでに卒業アルバムまで見せて貰った。酒が進み、ここのところの憂鬱な気持ちが晴れるのを感じた。
そして、なるべく早くバイト代を貯めて一人暮らしをしよう、と決意した。
酒を飲みながら、いつの間にか眠ってしまったらしい。友人も向かいで寝息をたてている。
「えっ…」
目を擦り、ふと天井を見たTは息を飲んだ。そして、大量の冷や汗が背中を伝うのを感じた。
ここの天井にも、染みが。
くっきりとした黒い手形がTの寝ていた真上にベッタリと付いている。
寝ている友人をそのままに、逃げるようにアパートを後にした。
その後、市役所の内定を辞退し上京を視野に再び就活をしたのだという。あのまま地元にいたら自分がどうなってしまうかわからないから、と。今のところ、現在住んでいる社員寮には染みは見えないそうだ。
「だから、帰省もしないつもりなんですよ」
どこかホッとしたように、Tが言った。
染み 黒月 @inuinu1113
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