「ああ、やっと来た!」

 指定の場所の前まで来ると中年の男性が焦って余裕のない様子で、ぼくらの到着を待ちきれずに通りまで出迎えにきていた。

 昨日から頭上でぼくたちを覗き込んでいた重たい雨雲はようやく風に散らされ、予報通りにスカイブルーがまだらに顔を出していた。

「早く! 早くきてくれ」

 時間より早くついたはずなのだが、もう三十分も待ち侘びていたとでもいいたげに駆け寄ってきた。

「ご依頼くださったコウダ様ですね。どうかされましたか」

「なんとかしてくれ! うちの工場が大変なんだ」

「はい?」

 依頼内容は犬型ペットのちょっとした不具合についての相談。そのはずだったのだが。

「えっと、クロくんは工場に?」

 アキノさんへ食ってかかりそうな勢いの依頼人にあえて話しかける。すると彼はぼくの方に顔を向けて答えた。

「この先の工場にいる。頼むから早く助けてくれ! うちの犬が暴れてるんだ。このままじゃ製品が全て使い物にならなくなる」

 アキノさんの反応を斜視すると目配せしてきた彼女と目が合った。ああ、これは高確率で感染している。まずいことになった、とアキノさんの目元に寄せられた皺に語られている。

「確か電子基盤工場でしたね」

「そうだよ。檻まで壊されて押さえようがない。これ以上損害は出せないのに……」

 コウダさんはもうすでに為す術もなくといった状態らしく、頭を掻きむしったりしていても何も不思議ではないくらいに動揺している。

「すぐに行くよ、ケイト君。――コウダ様、危険ですからお家でお待ち下さい」

「しかし……あ、おい!」

 コウダさんが経営している電子基盤工場の住所はぼくが把握しているので案内も必要ない。行くと指示された時点ですでに依頼人を置いて足早に進み出していて、珍しくアキノさんがぼくを追いかける構図となった。


『高田製作所』と表札が取り付けられた門を通ると、アキノさんが鞄から長めの手袋を渡してきた。

「なんですか、これ」

「念の為だ。怪我するかもしれないし、着けてたほうがいいよ」

 有無を言わせず握らせてくるそれを仕方なく肘上までしっかり装着して、工場のスタッフ用の入口を探しに敷地に踏み入れる上司の後を歩く。

 アキノさんは一階建ての小工場の外装を注意深く観察し、やがて大きなシャッターのある面の傍に人が通るためのドアがあるのに目を留めた。

「あそこから入れるかな……」

 呟くように言って、ぼくの意見を待つこともなく砂利の駐車場を突っ切る。分厚そうな金属の扉は叩くとガンガンと空虚に響く。自動開閉扉ならとセンサーやインターホンを探そうと視線を動かしてからはたとこちらを見た。

「鍵を借りてくるのを忘れてたね」

「……あ」

 非常事態と思うと慌てていたのかもしれない。これでは不法侵入ではないか?

「非常時だ、仕方なし。ケイト君、これ開けるよ」

 仕方ない。精密機器を構成する製品が並んでいる側でラビュリントウイルスに感染した可能性のあるペットが混乱状態にあるのはあまりに危険だ。最悪の場合はもうすでに製品にも感染していることだってあり得るのだ。コツコツとアキノさんのグラスネイルが叩く壁埋め込み型のセキュリティシステムに、専用の工具を差し込んで遠慮なく中身を開いた。

「古い型なので開きます」

「早めに頼む」

 任されたので早々に処置を済ませ、簡易なシステムを一時的に解除した。犯罪を犯している気分だが、傍らではアキノさんが依頼人に連絡を入れているようなので気に病まないことにする。

「中はどうなってるかな。今のところ、なんの音もしないけど」

「長閑なものですね。」主人の思い過ごしという落ちが一番平和でいい。ぼくらが勝手に鍵を開けただけで済むのだから。

 言ってる側から建物内で犬の鳴き声が聞こえてくる。

 開けると廊下と事務室、その中にまた厳重な扉があり、作業場につながっているようだった。

「……これも開けます」

 この中に犬が入り込んでいるのなら、どうしてここの扉がロックされているのだろうか。指示もなしに勝手に閉まったとしか思えない。解錠をしようと手を出した瞬間に非常ベルが鳴り出した。建物が、ぼくの手を拒むような。

「いや、これはまずいかもなあ……」

 アキノさんが薄い笑みを張り付かせたまま小さくこぼす。その口元がひくついているのがわかる。

 そう。この時点でぼくも察しがついた。これは、犬だけではなく建物全体が感染している。この件を失敗したら、この地域一帯がどうなるかわからない。

 憂鬱になりつつも合図を出すと、アキノさんがかすかに頷いた。

 白い壁に緑の床。無機質な一人用作業机が十ほど並んでおり、

 少し奥の方を見ると白地に黒の模様が入った中型の犬が背を丸めて警戒の態勢を取っていた。

「グルルルルル、」

 扉が背後で勝手に閉まる。垂れ耳の犬は長い鼻先に皺を寄せて見上げてくる、まるでぼくらに恐れを抱いているように。

「機械のペットはこんな顔もできたんだね」

 全く冷静に言っている場合じゃない。しかし本当にその通りなのだ。ウイルスに感染したりしない限り、機械のペットがこのような敵意や不快や苦痛を表すような表情をすることは絶対にない。パターンがプログラムされていないから。このような振る舞いは、感染したせいで起こる反応の一つだ。

「…………アキノさん」

「何かな」

「あれが新型ラビュリントだった場合、人間にも感染の可能性はありますか?」

 一瞬の沈黙。

「……まだ人間の感染は確認されてない。けど対策するに越したことはないよ。まずは直に触らないこと。噛まれないこと。」

 希望を言えばフリーズしてくれるのが一番安全だけど。とこぼしながらアキノさんも手袋を装着する。

「全て一掃する。それしかない」

 一体そんなことが可能なのか。三年間、見たことも経験したこともない。しかしできなければ周辺一帯に瞬く間にウイルスは広がってしまうだろう。

「おそらく根元はあの犬の中にある。捕まえて殺さなければ収まらないだろうね。すごく危険だけど、君に頼む」

 あれからウイルスが自分に感染したとして。一番心配なのは猫のことだ。ぼくが感染するということは、共に暮らしているクライにも感染するということ。

 犬が苦しそうに高い声を絞り出す。ぼくらに助けを求めているのか、ただ機体がウイルスへの拒否反応で動いただけなのか、ぼくらには判別出来ないけれど。この声が苦痛に歪められたものに聞こえてしまうのは、人間の耳を持っているがゆえなのだろう。

 身動きできない。

 どうしたら。

「……ケイト君は猫がいるから感染は怖いか」

 アキノさんは催促することもなく、ぼくたちが入ってきてから警戒して微動だにしない犬をじっと見つめている。

「だけどいいこともある。人間が恐れる感染症の病原とはちがって、私たちは奴を殺す方法を知っているということだ。たとえ難しくても、やろうと思えば今すぐにどうとでもなる」

 それはこれがぼくたちの仕事だからだ。

 やるしかない。

「……わかりました」

 ぼくに視線を寄越したアキノさんが不敵に笑っていて、ああ、いつも仕事に臨むときの顔だった。

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