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茶色のウサギは飼い主の正面におかれると、ひょこひょこと我が家を闊歩し始めた。
その様子をしばらく見守って動作に問題がないことを確認すると、奥さんがアキノさんに頭を下げる。
「ありがとうございました」
「着いた途端に一気に調子が良くなりましたよ。やっぱりお家が安心するんですね」
上司が優しそうな表情を浮かべてウサギとそのご主人を順々に見ながら言う。ただし、ひねくれた人なのでそれは本心で言っているのかと聞かれると首肯しがたい。どちらにせよ助手は大人しく後ろに立っているのみ。
「本当にお世話になりました。ペットまで診てくれるところがなかなか見つからず困ってたんです。遠いところからわざわざお越しいただいて」
「とんでもない。ボタンさんのご不調、また家電の不具合等どんな些細なことでも気になることがあれば、またいつでもご相談ください。私どもが必ず、再びお力になります」
確かに丁寧に仕事をしているのにアキノさんがそういうと歯の浮くような定型文に感じてしまう。どうせウサギが好きなわけでも市井のために仕事をしているわけでもないのだから、そういう人間性に伴った価値観が言葉を白々しく感じさせているのだろうけれど。
「……ところで、これは個人的な質問なのですが、ひとつ聞いてもよろしいですか?」
「なんでしょうか」
「実は私ウサギさんを飼おうか迷ってまして。ボタンさん、とっても素敵ですよね。どのくらい一緒に暮らしてるんですか?」
アキノさんの表情が器用に人懐っこそうな色にパッと変わる。すると奥さんも同志を見つけて嬉しそうに頬に色が差した。
「ウサギに興味が? ちゃんとした子でしたら専門店のページをよく読んだ上でご自分にあった型を選ぶといいですよ。ウサギと言ってもいろんなタイプがありますし」
「そうですよね~、たしかに種類はたくさんありますけど……」
顎に手をやって悩んでいる素振りをする。ところでいったいどういうつもりで始めたんだ、そのやり取りは。
「ボタンはそうですね、半年くらい前に街のちいさなリビング用品の専門店で見つけた子なので、それ以上のことは……」
そうでしたか、とアキノさんは大人しく引き下がる。
「ああ、そういえば……、」
奥さんが口元に指を当てて何か記憶を探るような仕草をする。それらから顔を綻ばせて言った。
「おうちにむかえた頃より、なんだか緩急がついた気がします。走り回ったり、鳴いたり、甘えてきたり」
へえ、と感心したようにアキノさんは相槌を打った。「ウサギって鳴くんですね」
「そうですよね! びっくりです」
我が子の成長を喜ぶように奥さんは声を弾ませて笑った。
「それって大体いつ頃からです?」
「え? そこまでは覚えて……確か、一ヶ月まえ……くらいかしら」
アキノさんが顎を触って思考の海に潜り始めるのを小刻みに叩いて引き戻す。
「アキノさん」
「……ああ。では失礼します。もしまたボタンさんに不具合が見られる場合はご連絡ください」
お宅を出た後、何事もなかったかのようにマンションのエレベーターに乗り込む。二秒ほど間があって、ぼくはようやく口を開いた。
「……ウサギ好きでしたっけ?」
「そう見える?」
アキノさんはけろりと言う。やっぱり演技か、動物に興味を示したこともない人が何を言い出したのかと思った。アキノさんはぴょんと踵を浮かして姿勢を直し、ただエレベーターの階数表示を眺めている。
「今回の仕事はこれで終わりなのに、何が気になるんです?」
「あのウサギの中身がちょっと気になるらしくてね。経路でも探っておいてあげようかなってね」
扉がスライドして、視界が開ける。歩き出す上司との距離をキープしてぼくも足を動かした。
「気になるって?」
「一ヶ月と少し前のことだ。何が起きたか分かるかい?」
そうざっくり質問されてもどのジャンルの話なのか、彼女が言いたいことが掴めない。
「なんですか?」
「新型のラビュリントが発見されたのさ。この辺りからペットの感染率が他の電気用品やコンピュータと比べて急に跳ね上がった」
「……新型?」
そんな話は聞いたことがない。
「その新型ラビュリントウイルスがあのウサギに感染していたってことですか?」
「それは再検査で採取したデータを見ないと分からない。処置したのは私じゃないしな」
アキノさんは折り畳みの傘を広げて、エントランスを出ていく。
新型ウイルスと聞いて不安にならない人間がいるだろうか。黒くて大きくて、不気味なナニカの流れ。形のない脅威。
「その新しいウイルスと今までのとはどこが変わったんですか?」
「そんなの全部判明してるわけがないだろ」
「は?」
発見されて一ヶ月も経つのに、そんなに曖昧な認識でしかないのか? どれだけ複雑なプログラムになってしまったんだ。
「ひとつくらい分かっていることはないんですか?」
「……そうだねえ。私の助手君だから共有しておいた方がいいか……」
アキノさんが勿体ぶって検討するそぶりを見せるのを冷めた気持ちで眺める。
「ああケイト君。この話、まだ他所でしたら駄目だよ。いいかい」
「……はい」
ぱしぱしと傘をつつくような悪戯な雨は少し粒の大きさを変え、より低い音が内側に響いて。前置きの不穏な予感を肌で感じつつも、ぼくは続きに身構える。
「かねてより家電産業はペットロボ開発の発展も進めてきた。それは機械に囲まれた昨今の生活の中でも、より豊かで心安らげる家庭が増えることを目指してのこと……そしてその天敵が私たちがいつも相手にするラビュリントウイルス」
コツコツと足音を止めることなく、饒舌にアキノさんは前提から話し始める。
「こいつは通常コンピュータにしか取り付かないマルウェアがひとりでに変化して、どういう原理かAIのネットワークや電子回路にまで侵入するようになった。ここまでが世間に渡っているラビュリントに関する知識だが……」
と、薄い色の目をくるりとこちらに向ける。傘の影で、瞳は水が染み込んだようにかすかに濃い。
「例の新型のラビュリントは最近、生物の体内にも潜り込んでいたのが発見された」
「――――」
冷たい手が背中を撫でたような。
明確な危険の匂い。
「……新型ウイルスが見つかったのなら、今までとまた変わった対処が必要になる可能性がありますよね。まだマニュアルも貰えてないんですけど」
「それにしてもインテリア雑貨店にウサギが売ってるって、改めて考え直すと妙だよね。無機物……もとい家の飾りと並べるとはなかなかに風刺が効いてないか?」
「ああもう聞いてない……」
突然話を逸らされるのにはもう慣れたが、いい加減にやめたほうがいいと思う。ぼくを含めて四人しかいない零細会社にこの人の不遜な振る舞いを矯正しようとした者はいなかったのだから、仕方ないことだが。社長とサトウさんは付き合いが長いから、ぼくが苦情を言っても今更遅いだろう。でも大事な話だったのに。
「ところでケイト君、次の仕事は何かな?」
「次もペットの案件です。本当に増えてますね」
「はあ。怪我をしたのが私じゃなくてよかったな」
確かにこの時期に動物が苦手なサトウさんだけでは一人では仕事が立ち行かない。ぼく一人でサトウさんのカバーができるはずもなく。
上司は凝っているのか空いている方の肩を回し、溜め息混じりにぼやいた。
「ペットの依頼は家電より依頼人に対するケアが求められるからどうにも億劫だよ私は、やれやれ」
実際、ロボではあっても本物の家族として扱っている家庭が大半である分、他の家電やコンピュータの処置で訪問する時と同じような事務的な対応では信用を得られないケースが多い。
しかし愛想笑いもろくにできず後ろで立っているだけのぼくとは違って、この人にそのくらいのことができないわけがない。
「面倒なだけでしょ、アキノさんは」
「それはその通り」
なぜか爽やかに笑って、あっさり首肯する。そしてまた飄々と雨の中を進んでいった。
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