2
病院を離れていつもの早足で駅へ向かう上司の背中を追う。
段々とアキノさんの纏う空気がひりついてきているのを感じてはいたが、先程までのやり取りでそれは明確になった。サトウさんに対する時だけ、アキノさんは笑顔をあまり作らなくなる。
彼女たちの距離感は未だに掴めない。
「大丈夫ですか」
「なぁにが?」
と、こちらを振り返ったアキノさんはすでに元の調子に戻っていて、返答する気もなく灰色の空を仰いだ。「雨が降りそうだから早く戻るよ。傘を忘れてきた」
そうだ、昨晩の天気予報で夜には台風が到着すると言っていたんだった。うっかり忘れて対策なしで出勤して来てしまった。
準備を怠ったぼくたちを嘲笑するかのように、遠くから低い雷鳴が聞こえてくる。
「ぼくも忘れました」
「君んち、猫がいたんだったよね。……珍しく、生き物の。雷は怖がらないの?」
「雷の音は嫌がらないですね。ベランダ以外の外には出さないし、落ちてこないのが分かってるから」
アキノさんは物珍しそうにふうんと相槌を打つ。仕事でもいつも見るのは機械のペットだから、生きた動物がいるという感覚は薄れるもんだよねと以前も彼女は呟いたことがあった。突然興味が出てきたんだろうか。とは言っても今から飼おうとして、生きた猫を扱っているブリーダーを探すのすら難しい。
「今から猫を飼うのは大変だと思いますけど」
「飼うって私が? いやいや、遠慮しておこう。昔聞いたことがあるけど猫って粗末にすると祟られるんだろ、君のとこは生きてるんだから気をつけないとね」
「別にいいんじゃないですか。猫を死なせるような奴は九代祟られるといい」
「おや、もしかして君、結構動物好きかい?」
「生き物は好きですよ」
持っていたケースを見下ろすと微動だにしないウサギの毛皮が小さな窓に映る。
「…………」
アキノさんが静かなのが妙で、顔を上げてみると細めたその目と視線が合った。
「何です?」
「……まあいいや。それをお客の前で出してないなら何も問題はないしね」
それとは一体何のことだ。
「そういや君の猫さ、」
刹那、空が光る。
「まずい、早く帰りましょう。もう降りそうだ」
ぼくの声を追って、より鮮明な雷鳴が届く。
「それはまずい。走った方がいいかもしれないな。ケースも濡らしたらだめだからねケイト君」
「またですか……」
「君はもっと走れるようにした方がいいよ、いろんなとこ回るお仕事なんだから」
狭いビルの2階、小さな事務所に辿り着いた。窓を見ればもう雨が降り出していて、寸前で降雨を凌いだことを知る。
「ギリギリセーフだったんじゃないか?」
奥から皮肉めいた調子で笑う声が聞こえてくる。わざわざ椅子を持ってきて窓際に座って電子煙草を咥えている若い男。彼こそこの会社を起業した社長である。
「社長、戻りました」
「知ってるよ。おかえりケイト君」
これみよがしにぼくにだけ挨拶して、煙草を持った腕を気だるそうに開け放された窓に預ける。アキノさんはただいまも戻ったも言わずに自分の席へ戻ると、大袈裟にどかっと腰を下ろした。
「さっすが社長。入院中の者に一番手間のかかる仕事をさせるなんてね」
「違うって。サトウの方から言ってきたんだよ、自分のせいでお前たちの仕事が増えてるから少しでも手伝いたいって」
「はあ?」
社長の声に被せて溜め息とも笑いとも言えない声を上げる。
「そんな可愛らしいお願いごとを聞いてあげるような奴だったかな、お前は。私があいつのために仕事を肩代わりしてやってるとでも思ってるの」
「そう思ってるのは当の幸せな怪我人だけだろうが――」
煙草の白い水蒸気が窓外の風に吸い上げられて、雨に混ざってゆく。
「一ヶ月も休んで、腕が鈍っていないかと思ってな。どうやら心配はなかったようだが」
社長がぼくの手元に視線を流して、濡れずに済んだケースに満足そうに目を細めた。
アキノさんと社長は学生時代からの友人であるらしく、遠慮のない言い合いが多い。お互いに口が悪いのは元々なのかもしれないが、喧嘩ではないのでアシスタントは気にせず仕事を続けるのみだ。
「いつまで持ってるんだ、それ。早く置いてきなよ」やりとりを見守っていたらアキノさんから指摘を受けたのでバックルームへ戻る。「あと念のためもう一度検査するから、その準備もしておいで」
「検査くらい俺がしといてやるからお前らは報告書上げたら帰ってもいいぞ。明日のほうが忙しいだろうし」
よっこいせと立ち上がろうとする社長の動きを止めるためアキノさんが机を叩く。中古で安っぽい机は少しの攻撃でもガンガンと響いた。
「あいつに頼まれたのは私。経営者は引っ込んでな」
「知識くらいはあるんだがなぁ」
知ってるくらいで出来る気になるなよ、と部下に毒づかれて彼は頭を掻く。そして吹き込んできた雨を防ぐため、煙草と窓のスイッチをほぼ同時に押して喫煙タイムを終えた。
「準備できました」
「さっすがアシスタント君、手際がいいねえ」
………………
「そういえばあいつ、再検査の件でわざわざ後から電話してきたんだけど。そこまでして念を押さないといけないことだったかな?」
とくに送ってやるとも言われていない内に助手席に乗り込み腕を組んで出発を待つアキノに戸惑うこともなく、社長は目の前のパネルを操作しながら聞き返す。
「検査ってあのうさちゃんの? サトウが言ったの?」
ウイルス検査はどちらにしても駆除を済ました後に行う決まりであって、社員同士で声を掛け合うまでもない。何もわからない新人でもあるまいに。
ちなみに茶色のウサギはサトウの手で適切な処置をされていたため、検査をしたところウイルスの影は消え去っていたため、明日には返すことになるだろう。
「しかもスキャンしたデータを保存しておいて、とか言ってきた。どういうつもり?」
「入念に検査しろってことだろ」
「いつも丁寧に丁寧にやってるじゃないか。お前なんにも見てないね」
彼は社員の理不尽な言いようには動じず、ただ頭を掻いた。
「お前とサトウのことなんか俺にはわからんよ。聞きたいことがあるんなら本人に聞いたらどうだ」
「そうじゃない、なんだ私たちのことって。何にもないよ」アキノは窓にあたって砕けていく雨粒を無感動に見つめている。「あのウサギに関して、他に調べてほしいことでもあったのかと思ったんだよ。」
社長はアア、と相槌とも言えない声を発した。それと連動するようなタイミングでハンドルのない車が動き出し、とりあえずアキノの自宅目指して出発する。
「そう言えばペット業界で噂があるらしい。最近はペットロボがウイルスにやられる頻度が増えているとか、なんとか」
「他のマルウェアなら人為的根源を叩けば後処理は難しくないけど、それがラビュリントウイルスだったらそんなの防衛技術をどうにかする他ない。できないなら嘆いてないでさっさと掃討したらいい」
「手厳しいなあ。同じ技術者だろうに」
ITの開発研究部門のその界隈に対してアキノは興味がない。せいぜい私たち現場の技術者がより楽にウイルス処理ができるよう努めるといい。
「そんな話はとっくに知ってるよ。大体仕事してれば統計として分かるだろ、どこの機械が多いかなんて」
「じゃあ知らねえよ、ウイルスのことなら経営の俺よりお前たちの方が詳しいんだから」
「いいや、知らないなら。余計な推測を披露されても鬱陶しいだけだし」
社長は呆れたように目を閉じて首を傾ける。
「だからさっき言ったよ、俺より本人に聞けって」
アキノは舌打ちして、無言で紙のデータを取り出して眺め始めた。どうするつもりなのか聞いても、考え込み出した彼女から声が発せられることはなかった。
………………
帰りは社長から傘を借りたが、雨の猛攻のせいで上着からは水が滴っている。
「クライ~?」
靴を脱ぎながら猫に声をかける。いつもこの時間帯に帰ってくるとぼくのベッドにもぐりこんで寝息をたてているが今日はどうだろう。
上着はバスルームのハンガーにかけ、雷が去った後の猫の様子を見に行く。
「……ただいま」
彼なりの決まりごとがあるのだろう、今日も同様に布団の中に不自然な膨らみを見つけて、遠慮なくめくると灰色の縞模様が呼吸している。ぼくは安心して怪訝そうに見上げてくる寝起きの猫をまたそっと隠して。
猫の存在を確認したのでバスルームに戻ってそのままシャワーを浴びた後、猫の給餌ついでに自分には適当な残り物を集めてそれを夕飯とした。這い出してきた猫もご相伴にあずかろうとばかりにいいタイミングで足元の食事スペースに訪れる。
うみゃあ、と鳴いたのを見下ろすと、グリーンルチルの瞳がまったりとぼくの方を見ていた。
「どした? 食べた?」
見れば皿の中は半分まで減っている。一旦ここまでで満足なのか食べるのに飽きたのか、じっとこちらを見つめてくる。
「今日はウサギを追っかけてたんだよ。病院にも行ったよ。中にははいってないけど、薬の匂いする?」
口元をしきりになめながらぼくとひたすら見つめあったあと、前足でヒゲを撫で、念入りに顔を洗いはじめる。
「脚早かったな、あのウサギ。走り方がとてもロボに見えなかった」
技術は進む。
生き物の模倣がより高度に、自然に近付いていくのを見るのは、いささか複雑な気分ではある。生き物の動物と暮らす人は今やごく少数。
けれど進歩していく人間の知は止めるべきものでもない。
ああ、でも、人間と動物との距離は遠のいていくばかりだ。
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