第29話 弟子


 もはや、10月になっていた。


 カイは、少々複雑な手続きを経てガーネット領の南側にある牧歌的な村にやってきた。


 ショウからの「最も素晴らしい師を紹介してほしい」と言う言葉に、アテナが応え、その師への紹介をティーチテリエーに求めると、直ちにガーネット家の王都邸の家であるロイが付き添う形で送り出されるという仰天の旅であった。


「お館様を、まだ若様とお呼びしていた頃のお師匠様でもあり、後はアテナ様も10歳まで手ほどきを受けておりました」


 道すがら、そんなことを教えてくれたロイだ。


「お師匠様のご母堂のお御足が不自由となったため、引退なさったのです」


 そんなことも教えてくれた。だが本当は、オウシンの父であるオウショウのことがキッカケである。


 名声にひかれた王家から頼まれて「王子」(前王の兄弟達)に指導をした際、容赦のない指導ぶりで不興を買った。王からは非難の言葉すら届いたが、若きエルメスはそれを一笑に付した。ガン無視である。


 自分の振る舞いによって若き当主に何かを負わせては、と思ったのかどうか。ガーネット家が全力で引き留めるのを断り、オウショウと息子オウシンは「母の足のため」と言い訳して故郷に帰ってしまったのだ。


 後に、病を得てオウショウは亡くなったが、アテナをわざわざ「留学」させてまでして指導を仰いだほど、オウシンは信頼を受けている。


 だから「本当の事情」については触れなかった。


 少年に教えたのは「オウシンはアテナの師匠だった人だ」ということ。それで十分であると知っていたのである。


 とは言え、そういう細かい事情を慎重に取りのけつつ、ロイは優しかった。


 大公爵家の家令とは思えないほどの気さくさを見せている。道々、カイにいろいろと話す時も、ざっくばらんな話し方をしたし、少年を下に見るような素振りを一切みせなかった。それどころか、アテナの幼い頃のエピソードも、偉大なるお館様のエピソードも丁寧な語り口で教えてくれた。


 そのどれもが、ガーネット家では公然の話ではある。


 しかし、トライドン領の片隅で貧乏騎士爵の息子として生まれ貧しい暮らしのカイだ。父を亡くし、母を亡くした後は親戚の食い物にされ、人買いに買われるまでになる生活だ。幸い、農場では温かく育てられてきたとは言え「黒の手」として肩身の狭い思いをしながら生きてきた。


 世間の狭いカイにとっては、旅の途中で聞くこと、見ること珍しいモノばかり。何に付け目を丸くするコトしきりだ。


 そして、アテナとの模擬戦に勝ったショウ閣下の話を聞くに付け、やはり一身を捧げるべきお方だと決意を新たにしてしまった。


 もっとも、目の前の気さくで親切なオッサンが、実は子爵家、伯爵家の当主ですら頭が上がらない「エライ人」だと知らぬが華と言うものである。 

 

 到着したのは、何の変哲も無い農家だった。家の前には一人の男が、こちらの到着を知っているかのように立っていた。


 それは、ちっとも迫力を感じさせない貧相な男…… 有り体に言えば、その辺の商家の隠居したてのオッサンという風情の男であった。


「ロイ殿。お久しぶりです」  

「オウシンどの。お久しぶりでございます。ご母堂はいかがであらせられるか?」

「おかげさまで息災であります。母は、この地の井戸で入れた茶を飲めば上機嫌でいられるのだ。まだまだ長生きをしてもらわねば」


 ふと気付くと、数十人いた供の者達が一斉に跪いているではないか。慌てて跪こうとしたカイを見て、オウシンが「この子を?」と尋ねた。


「はい。奥方様より、これをお預かりしております」


 箱が差し出された。


 そこにはティーチテリエー様の直筆の手紙があった。


「ふむ」


 公爵家の正妻からの手紙を路上で読めるはずが無い。しかし、中身を素早く察したオウシンは、慣れぬ「跪き」の形に苦労している少年を見た。


「君の名は?」

「カイだ」


 返答を聞くと、わずかに口元に笑みを浮かべたオウシンは「母は足が悪くてな。裏にある井戸から水を汲んで持ってくるんだ」と命じると、答えを待たずにロイを家に誘った。


 わけが分からないが、カイは『弟子入りする身なら水を汲むくらいは当然だな』と裏へと走った。内弟子とは、雑用も引き受けることだというのは、さすがに知っている。


 走りながらも『あのオッサンが先生なのだろうか? ちっとも強そうでは無かったな』と思い浮かべてはいるが、だからと言ってスピードを緩めるわけではない。働き者のカイは、こういう時、少し急ぐだけで、もう一つ仕事を手伝えるのだと身に染みている。


「井戸は? あ、あれだな」


 一人の年寄りがニコニコして井戸から水を汲もうとしていた。素早く近寄った。


「あの、オレはカイと言うんだ。さっき水を汲むように言われた。オレがやるんで」


 説明しているときには、もう井戸の滑車を回している。


「カイくんと言うのですね。息子のところに来たのですか?」


 老婆の声は優しく、とても上品だった。


「あぁ。剣を習いに来た」

「そうですか。まだ、お若いようですけれども、あなたのお父上は許可をなさったのかしら」

「父は死んだ。母も。育ててくれた母さんは、すごく大事にしてくれた。そして、オレがやりたいなら行けと言ってくれた」


 老婆は、背筋をピシッと伸ばすと「そうですか。では、しっかりお励みなさい」と優しく言うと、自分よりも背の高いカイの頭を優しく撫でた。


 なぜか、不思議な優しさを感じる手だった。


「では、あちらが庫裡キッチンなります。そちらに持ってきてくださいね」

「あぁ。わかった」


 ぶっきらぼうに答えながら、束の間「母は足が悪くて」という言葉を思いだしていた。とっさに右脚をかばうようにも見えた老婆の横に、パッと体を入れた。


「あら? カイ君、どうなさったのかしら?」


 その理由を知っているかのように、老婆は嬉しそうな顔になっている。


「さっき、足が悪いと。こっちの足だろ? 掴まってよ。それとも、おぶった方がいい?」


 本来的にカイは年寄りに優しい。両親が亡くなった後、故郷で近所の婆さんにさんざん厳しいことを言われた嫌な記憶もあったが、それを「年寄り全体」に向けるほど愚かでは無かったのだ。むしろ、うーんと小さいときの優しい祖母の記憶や、クニ婆達に育てられた温かな記憶がカイの行動を支えている。


「ありがとう。さすがに、このくらいなら歩けますよ」

「いや、歩けるかもしれないけど。掴まってくれ」


 カイの見た感じだと、このおバアちゃんの足には痛みがあるに違いない。年寄りが痛い思いをしているのに、黙って見ているのは嫌だった。


 痛みを取るのは無理でも、自分ができることならしてやりたい。そんな想いがカイを動かしていた。


 気持ちが伝わったのか「そうね。あなたがそう言うのであれば、従いますね」と嬉しそうにカイの左肩に掴まった。


 そこから、古いけれども、すごく片付いている庫裡で茶を淹れる手伝いをし、老母の代わりに茶を運ぶところまで任された。


「これ、持って行けと」


 さっきのオッサンが、手紙をしまうところだった。ロイが頭を下げているところから見て、返事は渋っている様子が見て取れた。


 学問はしてこなかったが、その辺りを見抜く頭はあるのだ。


 オッサンは茶を載せた盆を持ったカイを見て驚いた表情をした。


「母は、君に持って行けといったのかね?」


 そこに答える前に、後ろから声がした。


「そうよ。私が頼んだの」

 

 杖を突きながら、ゆっくりと入って来たのはさっきの老婆だ。


「母上、それは一体?」


 立ち上がりかけた息子を制して、そこにある小さな丸椅子に腰掛けると「断るつもりですね?」と口調は優しいが、わずかな非難の口調が混ざっている。


「私が茶を任せたという意味くらいは、分かるように育てたつもりだったのですけどね。私も「母上、少々、お待ちください。それほど?」そうですよ」


 息子の言葉が挟まっても、平然と、している老婆だ。


 一つため息を吐いた後、カイに向かって「私に弟子入りしたいと? 本気だね?」と、熱の一切入ってない言葉で尋ねた。


「オレは…… 何も分からなくて。でも、大きな恩を受けたあの方に、ホンのちょっとでもお役に立ちたくて、でも、どうしていいかわからなかった。そうしたら、こちらに行けと教えてもらって。強くなりたいんです! 強くなれるならなんでもします」

「ふむ」


 ゆらりと、風采の上がらぬ男は立ち上がると壁に掛かった手槍を手にした。


 そして壁際にある木剣を軽く手に取ると、ふわりとカイの方に放り投げてきた。


 とっさに、この木剣で自分の腕を見るつもりだと思って手を伸ばした刹那、目の前で何かが煌めいたのだ。


 目が、何かを認識する前に、頭に浮かんでいたのは、この間のアテナの動きだ。


 硬直したカイの前には、手槍に刺し貫かれた木剣が浮かんでいた。穂先は、まさに、自分の眉間に向いていた。


 空中に浮かんだ木剣を貫く突き


 それがどれほど凄まじいものであるのか、容易に想像できる。


 瞬時に、カイは平伏した。


「お願いします! オレに教えてください! オレを強くしてください! あの方の! あの方のお役に立てるように!」


 床に額を付けて懇願するカイの上を、老婆の声がした。


「この子は人の役に立ちたいのですよ。だから、あなたの言葉を聞いていた。ちゃんと私の右に付いてくれたわ。あなたは言ってないのでしょ?」

「オウシン殿、それはいったい?」


 ロイの困惑気味の声が挟まった。


「カイ君には母の足が悪いことは伝えました。私の言葉をいい加減に聞いてたら、代わりに水を汲むことはしても、足を気にすることはなかったでしょう。そして、右脚が痛いのだろうと見抜いたのは、彼に天分があるからだと思います」


 オウシンが、すっと平伏したままのカイの前に来た。


「立ちたまえ」

「は、はい」


 飛び上がるように立ち上がったカイだ。雰囲気的には、受け入れてくれそうだ。


「お、オレを弟子にしてくれるんですか!」


 深く息を吐いた後で「風采の上がらぬ男」は、いつの間にかピンと背筋を伸ばし、途轍もない深みのある静けさをたたえながら、言った。


「今日から、私、と言いなさい」

「え?」

「二度は言わぬ」

「あ、えっと、あの、ごめんなさい。オ…… 私は、ちゃんとやります!」


 クルリと、ロイの方を向いた。


「ご覧の通りです。お引き受けいたしましょう」

「ありがとうございます! しかし、先ほどは頑なにお認めくださらなかったのに、なにゆえに?」


 その瞬間、オウシンはふわりとした笑顔を見せる。


「母が自分の淹れた茶を、誰かに任せるのは初めてでしてな」

「茶を?」


 剣とは関係ない理由で弟子を引き受けてくれたのかと、ロイは訝しむ。


「母が信じた少年を、息子である私が信じねば、それは不孝というものですから」

 

 小さく笑ったオウシンをロイはいつまでも見つめていたのだった。



・・・・・・・・・・・



 カイはその日、弟子入りした。


 木剣を持たせて井戸の横に連れてくると、オウシンは切り株に腰を下ろした。


 与えられた時間は1年。相当に厳しい修行になるというのは、先ほど宣告されたことだ。


「まずは素振りをしてもらう」

「はい。どれだけ振ればよろしいでしょうか?」

「私が良いと言うまでだ。とは言え、初日だ。100本だけにしておこう」

「わかりました。手始めに素振り100本ですね!」


 農場にいたときは、素振り千本を朝と夜、絶対に欠かさなかった。少しはこれで認めてもらえるかもしれないと、内心、得意になる。


「そうか。手始め…… なるほど。それでは、振ってみなさい」

「はい」

 

 得意になって、右上に振りかぶると「くわっ」と小さな気合いを入れて振りきった。


 ぶぅうん


 風が唸る。


「肩に力が入りすぎているな。切る瞬間だけ力を入れるのだ。背中を丸めると、敵の二の太刀が防げぬぞ」

「はい」


 もう一度、振りかぶって「くわっ」と振り下ろす。


 ぶぅん

 

 風切り音が少しだけ短くなった気がする。


 言われたとおりやれたはずだ。なるほど、肩の力を抜いた方が、切るスピードが上がった気がする。


 フワッと立ち上がったオウシンは「貸してごらん」と木剣を受け取った。


の素振りだ。この程度のゆっくりで良いぞ」


 何の力感も感じなかった。右上に両手で持ち上げられた剣が、動いた気がした。


 シュッ


 乾いた音が聞こえた気がした時には、剣先が振り切られていた。まるで、初めからそこにあったかのように、振り下ろした剣先は微動だにしない。


「では、こんな感じで。これからも日に一度は手本を見せよう。早く、100本の素振りができぬと、次へ進めぬぞ」


 こともなげに言うオウシンから木剣を受け取りながら、カイは泣きそうだった。


『こんなのできっこねぇえ!』


 その日、ご母堂が手ずからこさえてくれた昼食をきちんと食べはしたが、夕方まで振り続けたカイの「素振り」は3回と数えただけだったのである。



・・・・・・・・・・・

 

 その日、疲れ切ったカイは夕餉の片付けを手伝った後、バタンと倒れるように寝てしまった。


 オウシンは、小さなランプを灯して読書に入ろうとした時、目の前に母の茶がトンと置かれた。


「カイは、モノになるかもしれません」

「そうでしょうね。きっと、そうなるわ」


 自分の言葉をごく当然のように受け止める母親に、違和感を感じてしまった。


「母上は一体なぜ?」


 そこまでカイを認めるのかが分からない。確かに、今まで自己流の剣術しか知らぬ者が、初日に「素振り」を1回でもできたのは奇跡のレベルだ。まして、彼はヘトヘトになりながらも最後まで諦めず、夕方までかけて、さらに2回も「振って」見せた。こんなことができる人間を初めて見た。


 それは、亡き父から聞いたことのある「エルメス様の若い頃」を彷彿させるほどの出来事である。しかし母親が剣術そのものを知らないのも息子は熟知しているのである。


「あの子は、優しい目をしていましたから」


 続く言葉を待って、茶を一口飲むオウシンだ。


「あなたにあれだけ修行をつけてもらったのに、夕方庫裡に来て、真っ先にしたのは水瓶を覗くことでしたよ」

「そのようなことは決して命じていません」


 そうだ。オウシンは一切命じてない。


 内弟子とは言え、召使いにするつもりなど無い。なによりもカイには見ている余裕はなかったかもしれないが、身の回りを手伝う女はちゃんと通ってきているのだから、そんな必要など無いのだ。


 どうやら、老母の足が悪いことを知ってしまったカイにとって、水汲みは自分の仕事だと勝手に考えたらしい。


「ねぇ、シンや? 言わなかったかもしれませんけど、私が動く前に右脚をかばおうとしてくれたのは、これまでにおひとりだけだったわ」

「それは、もしや」


 母親は、静かに頷いた。


「そうよ。アテナイエー様だけですよ」

「まだ、5歳でしたな、我が家に来ていただいたのは」

 

 懐かしいことを思い出す表情をしてから老母は微笑んだ。


「初めておいでいただいた時、あんなにお小さかったのに、挨拶をしようと立っている私の右にパッと来てくださったわ」


 実は脚に故障があれば、その人の重心が微妙に変わる。当然、立っているだけでも、ホンの少しだけ「違い」がわかるものなのだ。幼いアテナイエーは、自然とそれを見抜き「師の母」として支えようとしてくれたのだ。


 それを言っているのであろう。


「カイ君も優しいからことができる。それにね、父と母を喪ったそうよ。それでも優しさを喪わなかった。きっと良い方と巡り会えたのね。その方のため、愛する人のために強くなりたいと言ったわ。そいうい子は強くなる。あなたのようにね」


 本当の強さとは、剣を振る速さでも技巧でもなんでも無い。誰かのために、自分が強くあらねばらならぬと思う気持ちが強いほど、その人間は強い。


 それがオウシンの信念だ。それは、遠い昔に母の背中で聞かされた言葉でもあった。


 翌朝の稽古も、命じたのは素振りだけだった。


 カイは、その日から、ひたすら剣を振り続けた。「素振り100本」を達成するまでにひと月かかったのであった。




※公爵家の家令:文中にも少し出てきましたが、公爵家の家内のことを仕切るわけですから、途轍もない権力を持っている上に、膨大な仕事をしています。そういう人を「ショウに頼まれた少年」を送り届けるだけに一ヶ月近く「出張」させるというのは、実はものすごい出来事です。また、引退を表明していたオウシンに対しての礼儀を守ろうとしたという意味でもあります。理由は、夫の師であり、娘の師であるからです。このあたりは武道の礼儀という感じのようです。

なお、ロイさんは、王都邸に戻った後、ひと月ほどは死にそうな顔をして溜まっていた仕事を片付けていったそうです。 


※庫裡:「くり」と読みます。意味は振り仮名の通りです。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

作者より

 カイの伏線は第3章29話「人買い」に置いてあります。彼の話は、もう1話だけ書きたいと思います。


 文中に出てきましたが「素振り千本」は、1回ずつ全力で振ると、普通で50分くらいかかります。剣道部の夏合宿辺りの定番ですが、1年生だと物理的に腕が上がらなくなり、手のひらのマメがヤバいことになります。

 

 初登場のオウシンは、ご存じ水滸伝にも出てくる王進がモデルです。

北方水滸伝では、ほとんど「人間再生工場」みたいな凄い人物という感じでしたけど、この世界のオウシンは、世を捨てつつも、どちらかというとその人が元から持っている人間性を大事にして弟子を取る人物です。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

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