第49話 ローディング
時間が少し未来へとなる。
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神聖なるアマンダ王国の首都グラ。
王の謁見の間を退出する一人の老人がいた。
「イルデブランド王におかれましては、神の恩寵があられますよう」
最後に祝福を残すのは司祭の役目だ。たとえ枢機卿と言えども、そして相手が誰であろうと、同じ言葉を渡すのが役目なのだ。
従って、どれほど忿怒を浮かべていても、ドアに祝福の五芒星を施してから退出するのは忘れなかった。
第6教区の枢機卿であるエベルハルト・マヌスにとっては、例え実りのない会話の相手であったとしても、信徒である限り神の前には平等なのである。
『やはりムダであったか』
痩せた長身でセカセカと歩くのは、教区で巡回する時であれ王宮の中であれ同じだ。神のお声を少しでも速く届けるため、マヌスの脚は、このところ一段と速くなっている。
「導
「パネェ。そう、騒ぐでない、ここは王宮であるぞ。危険などあるわけがない」
一番弟子を自称するパネェは『王宮だからこそ危ないのに』と思うが、さすがにそれを王宮の廊下で口走るのを控えるだけの分別がある。「元商人だから、常識人なんですよ」がお得意の台詞なのである。
パネェが10年以上にもわたって仕えてきたマヌスは枢機卿という立場を、その権力とか権威だとか、権勢だとかとは無縁に、ただ「多くの人に声を届けることができる」ということだけで歓迎している唯一の人である。
若い時に田舎の村々を回った「ただの巡回司教」であったと時と、今とで、生活が全くと言って良いほど変わらない。
枢機卿の為に用意された豪華な寝室でも床に毛布を敷いて寝、地方の教会へ訪れて豪華な食事が提供されれば、パンとスープだけを黙々と食べ、残りを貧しい人に渡しに行ってしまう。枢機卿のためにと用意された豪奢な服を嫌い、儀式の時以外は染織すらされてない素朴なストル(身体に巻き付けて着る粗末な民族衣装)をまとうことを好んだ。
大金を積んで乞われた金持ちの葬式よりも、毎日曜日に教会の掃除をしに来た名もなく貧しき老女の葬式を自らの手で執り行うことを優先した。
枢機卿の特権として受け入れたのは「夜間に聖典を勉強するために灯すランプだけ」と言われるほどだ。
マヌスは、弱き民のために常に心を配り、神の言葉を届けることだけを己の役割としてきたのだ。
まさに「無私の人」とはマヌスのことであっただろう。
第6教区の司祭達は、おしなべてアマンダ王国の他の司祭達よりも痩せていると言われるのは、マヌスをその目で見れば、自然と我が身を振り返るからだと言われるほどだ。ゆえに、マヌスに傾倒し、心酔の領域にまでなった司祭達は数知れない。
弱き者に常に優しく、富める者には常に「慈悲」を優しく語り聞かせるのがマヌスなのだ。
信仰に身を捧げようとする者には、たとえそれが若者であっても敬意を払う謙虚さを持ち、どのような世俗の権力・権威を持つ相手にでも、宗教的な腐敗があれば激しく叱責する。
常に「正しい」マヌスを人々は心から敬い、恐れたのである。
パネェは、10年以上も前にマヌスの人柄に惚れ込んで「内弟子」にと頼み込んできた。信仰の点ではまだまだであると評価されていたが、マヌスが人々の前に立ち続けられるように、持ち前の機転と明るさ、社交術が活かされてきたのもまた事実だ。
マヌスが好むと好まざると、今回も、パネェの甲斐甲斐しい働きが、マヌスを王都まで連れてきたのだと自負している。
清貧を絵に描いたようなマヌスである。本人だけならまだしも「オノマトーペ」を国王へと示す旅路に付き従いたいという民衆は多かった。その多くは貧しき人々なのである。
数千にも膨らんだ人々の旅路をなんとかしたのは全てパネェの努力であったのも、また事実なのである。もちろん、街々の教会も積極的に支援をしている。
そのパネェにしても、王都へとたどり着くと同時に、マヌスが王宮に直行したのにはさすがに驚いたのだ。
宗教国家であるアマンダ王国において、枢機卿の地位がいくら高いとは言っても、予約も案内も無しに王宮にくるなど、さすがに無謀。
しかし予想に反して目通りはすぐに許された。
もちろん、用件はオノマトーペのことである。
要求はただ一つ。「シード解放の聖戦をただちに開始せよ!」であった。
「やはり、すぐに受け入れることはしないのでしょうね」
「王は、すぐにでも受け入れると仰ったぞ」
「へぇ~ それはすごい」
「うむ。ただ、国教務大臣であるシュターテンが手続きにこだわっておる。こうしている間も神のご意志が踏みにじられているというのに、なんたることだ。神のお声を我々が聞いた以上、全てを投げ打ち、打算や勝算のありなし…… 損得などを少しでも考えるのは神への冒涜であると言うのに!」
シワだらけの顔には、激しい怒りが浮かんでいた。
「何が枢機卿会議だ! 神のお声を会議でどうするかを決めるというのなら、それは僭越というものだ。ひっきょう我々には神の声を聞き、人々に届ける以外に、役目などないのだからな!」
「あ、なるほど。導師のオノマトーペを認めず、枢機卿会議を開くから待てと言ったのですね? おそらく中央司祭を今呼び集めているので、しばし待つようにと言ったのでしょうな。国教務大臣であるシュターテン殿辺りの言葉かと想像しますが」
「戒
「いかがいたしますか? 枢機卿会議を開くにいたしましても、呼びかけ役の中央司祭達がグラまでたどり着くのでも一週間はかかりましょう。そこから手紙を書けば、早くても返事が来るのは来年。少しでも調整に手間取れば、あと10年では始められませんが」
「わかっておる」
「それでは?」
決意を込めた表情で「もはや王はいらぬ。そもそも世俗の王などに頼るのが間違いであった」とマヌスの長い脚は、さらに加速する。
小柄なパネェが、小走りになるほどだ。
「ということは、ご決断を?」
「そうじゃ」
目に宿る光は強い。
「いよいよ、ローディングをなさるおつもりですね!」
「神は異教徒どもに聖地が荒らされのは望んでおられぬ。よって、すみやかに我らが手によって聖地『シード』を取り戻すべし。王宮前に集まる『子』らに呼びかけねばならぬ」
「はい。導師様!」
実年齢よりも遙かに若く見えるパネェは、王宮広場までの道のりを「ローディングである、ローディングである。子らよ集え! 導師様のお言葉があるぞ! ローディングである!」と先触れのように叫びながら小走りのまま。
王宮前広場には、群衆が集まっていた。
「オノマトーペを王へ伝える瞬間」に立ち合おうと、自発的に付いてきた第6教区の者が中心である。
しかし、宗教国家であるアマンダ王国にとって「教区の枢機卿」がやってきているという噂は、既に民衆にも広がっている。噂が噂を呼び、王都に住む、あるいは噂を聞いてワザワザやってきた者、偶然居合わせたことに感謝しながら、一般の民までもが集まり始めていた。
もちろん、警吏は最初、群衆を立ち退かせようとした。だが、群衆の中には少なくないグレーヌ教の司祭達が混ざっていて、手出しが不可能であった。
誰だって、いくら仕事であっても「司祭様を傷付けて自分や家族が地獄に行くハメになるのは嫌だ」と思えば手出しなどできるわけがない。初めは見て見ぬふりをしていたが、もはや、それでは手に負えない。
応援を呼んでくると仲間に叫んで、それきり戻ってこない者が続出したのである。
もちろん、応援など現れない。例え本当に応援を頼みに行ったとして、枢機卿猊下までもいらっしゃる場に手出しなど、絶対に不可能だ。
王宮広場は、あっと言う間に群衆で埋まった。そこかしこで「ローディング」という声が聞こえていた。
その声は王宮の中にまで届き、ある者は逃げだし、ある者は「参加せん!」と走り出す。
ローディングとは、枢機卿に降りてきた「神のお声」に従って、その名の通り「神がお求めになる場所に歩いて行くこと」なのである。
もちろん、目的地は「シード」になるであろう。
ローディングにおいて、邪魔をする者は神の名の下に民衆によって排除されなければならない。それこそが聖なる戒律というもの。
「子らよ! 聖なるグレーヌの神はお求めになられておる! 神にその身体と心を捧げる者は後に付いてまいれ! ローディングを行う!」
うぉ~ と民衆から声が上がった。
誰にでもできることではない。
教区枢機卿のみが一生に1回だけ行える「荒行」の扱いである。なにしろ、ローディングの中途で倒れれば死に、目的地まで人々を率いることができたら、そこで神に召されるのである。
つまりは、一度「ローディング」を宣言した枢機卿は、目的地にたどり着こうが着くまいが、必ず死ぬのだ。
荒行中の荒行であろう。
しかも、うかつな場所へ歩き出してはならない。しっかりとグレーヌの神によって指し示された場所である必要もある。
そのため、この100年間、これを唱えた者はいなかった。しかし、もしもローディングに参加できたグレーヌ教徒は、枢機卿と共に天国に行かれるとされているのだ。(参加した民衆は死ぬ決意は必要だが、死ぬこと自体は必要なかった。到着すれば死後の天国行きが保証されるだけである)
人々が熱狂するのは当然であった。
「ローディングに付き従えば天国へと召される」
それがグレーヌ教徒での重要な教えである以上、目の前で行われる「ローディング」に参加しないのは、もはや罰当たりというべき話である。
「子らよ、恐れるな! 神はご覧になられていらっしゃる! 子らの一歩が、神のご意志である! 続くのじゃ!」
人々からしたら、経典にのみ記され、父も母も祖母も、そのまた祖母も知らなかった「ローディング」に出発点から参加できるのであるチャンスだった。
望外の幸せを見逃すグレーヌ教徒などいるわけがない。
ひどく暑かった8月1日。第六区枢機卿であるエベルハルト・マヌスは高らかに宣言をした。
「グレーヌの神の名の下に子らを祝おう! 汝らに祝福あれ! いざゆかん! ローディングである 神がお求めになられていらっしゃる! いざ、シードへ」
うぉおおおおお!
「シード」
「シード」
「シード」
叫んだ声が王都中に響き渡る。
ビリビリと壁までもが響く中、その偉大なる一歩を、ゆっくりと踏み出したのである。
マヌス自身も、偉大なる一歩を踏み出した興奮があったのだろう。十年以上も、常にウルサくつきまとってきたパネェが、その日、どこかへ消えていたことに気付かなかったのである。
その日、グラから歩き出した人間を数えた者はいなかった。
グレーヌ教の史書には100万人を超えていたと記されることになるが、後世の歴史学者達は、それは大げさすぎると主張している。
ただ、その日、グラから西へ延びる街道は、熱狂する民衆達によって身動きできない時間が半日も続いたことは事実であったらしいことと、途中にある商店は、片端から打ち壊され、食料も水も強奪されていった…… 時には自ら差し出して列に加わったことは事実であった。
時は来たれり、とマヌスは言った。
時遅し、とイルデブランド3世はうなだれたのである。
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とある手紙を積んだ早馬が、グラの片隅から北の町へと出発したことを、誰も知らなかった。
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サスティナブル王国の諜報員はあらゆる手段で「ローディング」という緊急事態の発生を伝えようとしたのである。
王都グラから国境まで300キロ。そしてシードまでは200キロ弱。ローディングがイナゴの群れのように、あちこちの食料を食い尽くしながらシードへと届くには、民衆の脚で2ヶ月かかると予想されていた。
王都へのメッセージを送るのは当然としても、それでは間に合わない。現場の人間が何とかしなくてはならないのだ。
子どもから老人達まで。最終的に30万人になると予想したのは、当のアマンダ王国の官吏達であった。
「ローディングに参加した者は、神の意志であるため、持てる者から分けてもらうことを当然と考える」
恐るべきことだ。
その性質上、ローディングが通過した街は、その善意や目的にかかわらず略奪に遭うことになる。その結果、二度と立ち直れぬほどの打撃を受けると、知っていたのである。
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作者より
導師……グレーヌ教徒の中でも最も高い地位の人々を呼ぶときの敬称。
戒師……グレーヌ教徒の中でも指導的立場にある人を呼ぶときの敬称(各教区での三尊師以上の役職に就いている人=会社で言えば役員クラス)、そこから転じて、導師が相手を敬って呼ぶときに使う「呼び方」でもある。この場合は後者で使っている。
人は、善意を爆発させると、とんでもないことをしでかすというのは世界史の法則みたいなものですよね。
ローディングが王国国境を越えるのは40日後だと、諜報員達は予想しました。
いつも応援ありがとうございます。
お願いがあります。
今回の「ローディング」は、わざと既成の宗教用語にかすらないように
新川が造語したものです。
宗教勢力を敵に回したくないので
応援メッセージその他でも
「既存の宗教活動の用語」を絶対に使わないように
ご協力ください。
マジで、ヤバい言葉があります。
一定の用語が使われている場合は
予告なく削除させていただきます。
ごめんなさい。
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