彼女はそこに魔女がいると言う
魔女の家は森の中にある。
そういった噂が、子供たちの中で行き交っているらしい。
「ねえ、ちゃんと道知ってて進んでるの?」
学校とは真逆の方向へ住宅街を抜けて数十分、山の入り口をタマコが迷いなくくぐるので不安を抱きながら少し遅れて歩く。そうして苔むした不揃いな石段を登り続けて十分程度。
森とは言うけれど、この枯葉の降る上り坂は山と呼んでも誰も否定しない。……あるいは丘か。歩きやすいとは到底言えないような坂道は、わたしたちの細い手足ではどうにも大変で。木々が陽光を遮るせいで湿った道で慎重なタマコは時折足元を確かめるように立ち止まる。
「タマコちゃん……?」
「変な道だね」
余裕ぶって感想を呟いているけれど大きく乱れた息遣いが疲労を物語る。
「だいじょうぶ?」
「さすがにそろそろ歩けなくなりそう」
思ったより疲れているようだ。
どこか休めるところでもあったらいいのだけど、こんな湿った土の木々の間で座る場所すら探すのは難しい。どうしようと思っているうちに、タマコが何かを見つけたようにふと立ち止まった。丁度道が開け、木の生えていない空間がぽっかりとある。教会ほどの小さな野は周囲の背の高い木たちのせいであまり日当たりが良くはないが、草がサラサラと風に靡いて涼やかな空気に満ちていた。
奇妙な空き地に足を踏み入れたわたしたちの正面に何か杭のようなものが突き立っており、その周りに四角い囲いが立てられていた。
「なにこれ」
好奇心に突き動かされたのか、タマコが枯葉を踏んでそれに近寄る。
「杖?」
杭と外を仕切る細い縄に近付いて、彼女は蛮勇にも手を伸ばそうとした。
「ちょっ、ちょっと待って!」わたしはその手を掴んで止める。心臓が跳ね飛んだ気がした。行動に、あまりに迷いがなさすぎる。
「なに、めぐる」
「さ、さわらない方がいいんじゃない、こういうの……」
「なんで?」
タマコは訝しげにわたしを見る。
「赤ちゃんだってものは触って確かめるじゃん。それって自分の感覚でそれを理解できる良い手段だと思うんだけど。——それに触っちゃいけない感じなんて全然ないよ。見てるだけだけど、なんだか優しい感じがする」
「…………」
わたしにはそうは思えない。静かで、……静かすぎて肌寒い。ここに立っているだけで心寂しい。冷ややかな気持ちにさえなる。
「わかったよ。そんな顔しないで」
タマコは手を引っ込めて、一歩下がってくれた。
「ここには家なんてないみたい。もうちょっと先かもしれないし行ってみよっか」
「え、まだ行くの!?」
杭の横をさっぱりと通り過ぎて躊躇いなく歩を進める彼女の後をわたしは慌てて追いかける。もう一度杭を見てみたけれど、わたしの胸のざわめきは変わることはなかった。
○
「噂だよきっと、魔女の家があるなんて」
陽が傾いてきて、空気の流れが微かに変わる。見上げれば空はスカイブルーに一滴、藍を混ぜたみたいな色。
タマコはわたしの声に耳を傾けることもせずに、道もないような山をぐるぐる歩き続ける。すでに何度か同じけものみちをそれと知らずに通っている。
「帰ろ、タマコちゃん。かえろうよ」
「う〜〜ん」
聞いているのか、聞いているふりをしているのか。帰る気がないのかと疑ってしまうくらいタマコは魔女の家探しに熱中しているようだった。
どうすれば一緒に帰ってくれるんだろう。
もう暗くなってしまう。これ以上こんなところにいたら危ないのに。
「……タマコちゃん」
「…………」
不安になって隣まで走っていくと、疲れ切ってはいるもののいつもと同じ表情でわたしを見返した。
「帰ろうよ。……魔女の家なんてなくてもいいでしょ?」
タマコはわたしのことをじっと見たあと、まだ渋るように近くの木の根元に視線を移す。
「どうしてそんなに魔女の家が見たいの? もしあったとしても怖い魔女がいるかもしれないんだよ。連れ去られちゃう……かもしれないよ?」
冷たい風がわたしたちの肌を這う。タマコは思わず身震いして、コートの襟に首を縮める。
「どうせぼくの言うことは全部嘘だから」
タマコは静かな声で認めた。それから一歩、二歩だけ足を進める。
「ぼくの言葉は人を遠ざける。けどそれはそんなに痛いことじゃないの。わかってることなの。……でも、否定されるのは悲しい」
悲しい……。
胸に刺さった杭がみじろぎするような。
わたしを振り返ったタマコの瞳が今まで見てきた中でいちばん澄んでいて、美しくて、……孤独だった。
「ぼくが思ったことを言ってもいいなら、ぼくはこわい魔女に連れ去られたって構わない」
「…………」
少しの間、わたしはなにも言えずに彼女を見つめていた。
木立の間から半月の光が流れ込んできていて、タマコの鼻先はすっかり赤く悴んでる。
「あのね、気のせい……かもしれないんだけど。今日は帰ってもいいと思う」
タマコは首を傾げた。
わたしみたいに。
「叶えられない願いなんてないんだ」
わたしはそんな彼女の真似をして口角を上げる。
「君の言ったことは全部叶うよ。……きっとね」
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