彼女は町が海に沈むと言う

 彼女は学校でも友だちといるところを見たことはいまだにない。けれどひとりでいることに少しも嫌がっている様子もない。移動教室の準備も宿題の提出も自分のことは自分でできるし、寂しそうにも見えない。それは初めてこの学校に入ってきた日からよく分かった。

「今日はね、新しいお友達がこのクラスに入ってきます」

 担任の先生がみんなのわくわくを誘うように弾んだ声でわたしを紹介すると、転入生という新鮮な刺激を感じた教室が浮ついたざわめきで満ちる。

「鈴木環といいます。……な、仲良くしてください」

 けれど彼女だけは誰のひそひそ話にも加わらずにこっそり本を読んでいた。教壇の横に立ったわたしが緊張しながら名乗っても、特に興味を示すこともなく。

「めぐるさん、とりあえず後ろの空いている席に座ってね」

 好奇心旺盛な視線を一身に浴びながら席についたが、先生が朝の会を始めるとみんなは渋々黒板に顔を戻す。

 わたしが隣の席にすわってもタマコの瞳は相変わらず本に釘付けで、朝会中なのに先生に注意されないのが不思議なくらいだった。

 タマコがわたしに関心がなくても、せっかく偶然にもお家も学校の席も隣なのだから友達になれたらいいな。

「……なに読んでるの」

 勇気を出してこっそり聞いてみると、黒い瞳がカランとこちらを見た。そしてやっとわたしに気付いたかのように怪訝そうに首を傾げる。

「今、話しかけた?」

「えっと、どんな本を読んでるのかなと思って」

 タマコはちらりと本を傾けて表紙が見えるようにしてくれる。近所の図書館のバーコードが貼りつけられた少し大きな本には、淡く白い海辺に赤毛の少女が立っている後ろ姿が水彩風のタッチで描かれていた。「海はいいね。この町も飲みこんでくれたりしないかな」

 先生の話が終わり、みんなはお喋りを再開しながら次に始まる授業の支度をする。タマコも教科書を机のポケットから取り出すが、その間も海の本から目を離すことはなかった。わたしは窓の外をちらりと見遣って。三階から臨む景色は平凡な川と、その向こうの丘に建つ家々。そしてその向こうにぼんやりと青く染まる低い山。水平線どころかとんびの声すら聞こえはしない。

「……ここは海から遠いから波はとどかないかも。」

「そうとは限らない。ぼくが呼んだら来てくれるよ。潮はこの川を伝って、この学校も透明な水に包まれる」

 彼女がふっと顔を上げるのでわたしもつられて視線を追って。

 するとその言葉に誘われるように、視界が歪んだ。

 教室から音が消えた。窓の外に光が揺れて、床から天井まで綺麗な水模様が満ちる。

「————」

 息をのむ。

 魔法みたいだ。

 鮮明なイメージが、この子の想像力が、わたしの頭の中に流れ込んでくるような。

 美しいと思ったけれど、わたしは知ってしまっている。教室に満ちた青い海も揺れる光も、どれも彼女の……わたし自身のイメージに過ぎない。呼吸をして、目を瞑る。次に教室をこの目に映したときには、露のような幻は消え去っていた。

 何も見ていなかったかのように、わたしはとぼけて言った。

「……そうかなあ」

「きっとね」

 そんな「きっと」なんてないよと思う。それでもわたしはその綺麗な情景を壊したくなくて、彼女をしばし見つめただけでこれ以上のことは言わないことにして、やがて自分の授業の支度にもどった。

 そんな冷静な自分をよそに、あの景色が美しいと、心のどこかが弾むのをたしかに感じたのだ。


 帰り際、動作のおそいわたしは授業が終わったあとも片付けがなかなか終わらなくて教室からどんどんと人が減っていく。みんな早いなあと感心していたら、とうとうのんびりノートに何か書いていたタマコまでそれを机のポケットの奥に隠すように押し込むと、ひょいとランドセルを背負って教室を出て行ってしまった。最後に残ったわたしに挨拶するでもなく。

 あんなに子どもたちで賑やかだった教室には本当に静寂が訪れて、水中というよりは抜け殻、がらんどうのようだった。

 「ノート、いいのかな……」

 持ち物を学校に置いていったら駄目なはずだけれど。しかも国語のノートなら明日の宿題で出さなければいけないはずなのに。心配になってタマコの机をそっと覗いてみると他にもう一冊、見覚えのある本がノートの下に寝そべっている。

 ノートと一緒に取り出してみると、タマコが今日一日ずっと読み耽っていた物語の本だった。

 さっき見せてくれた時はよく見えなかったが、ハードカバーのその本はとても綺麗な装丁だった。

 絵の半分を占める黎明の空と海はキラキラと白く反射していて眩しい。よく見ると人魚みたいな長い髪の影が飛沫をあげている。浜辺では水が怖いのか波打ち際から後ずさりしている少女が、沖合にゆらめく美しいヒトのシルエットに目を奪われているようだった。

 ずっとこれを読んでいたのに、こんな大事なもの、置いていって良いのだろうか。

 迷ったけれど、やっぱり届けたほうがいい気がして二冊を大事に腕に抱え、タマコが歩いた廊下を辿っていった。


     ○


「タマコちゃん」

 ぽんぽんと跳ねるように歩く後ろ姿に声をかける。するとタマコは驚いたのか軽くつんのめったあと、わたしを振り返った。

「……隣の、」

「ちゃんと名乗ったでしょう」

 お隣さんとしては家も学校の席も共通しているのだから印象に残るかなと思ったけれど、やっぱりどちらかは上の空だったのかもしれない。タマコがわたしをみた顔は初めにあった時と同じ、興味のない人に対するそれと変わらない。

「めぐるね」

「そうだよ」

 正解だよと手を叩くが、するとタマコは目を泳がせてわたしから目を逸らした。

「……それで?」

 何か用なの、とこちらの出方を窺う。わたしはタマコに歩み寄りながら手提げ鞄に入れていた彼女の本とノートを取り出してその手に渡した。

「はい、これ置いてってたでしょう」

「…………あれ」

 短い溜め息のような笑い声でタマコはこぼした。「持ってきちゃったのか」

「えっと、必要かと思ったから」

「宿題はさっき終わらせたから必要ってこともないんだけど。だから置いていってもいいかと思ったのに見つかっちゃったか」

 タマコは仕方なく渡された二冊を片手に抱えて肩をすくめる。どうやら余計なことをしてしまったみたいだ。

 呆れ顔を見てわたしはあわてる。きっと変な行動をしてしまったんだ。これじゃ仲良くなれない。

「でも大事なものなら持ってなきゃ。遠くに置いたらなくなっちゃうよ」

「ぼくの机を使うのはぼくだけでしょ。なくならないよ」

 何を言っても空回りしている気がしてどうしたらいいのかわからなくなってしまった。彼女は瞬きをして、目を伏せるとわたしに言った。

「この本、興味あるみたいだよね。貸してあげようか」

「へ?」

 タマコは海の本を私に見せて言う。本の貸し借りなんて、友達っぽい。もしかして仲良くしてくれるのだろうか。

「い、いいの?」

 浮かれた気持ちでぱっと両手を差し出す。

 しかしタマコがひょいと手を上へ振り上げたせいで、わたしの手を本がすり抜けていった。

「ざんねん。図書館のものだから又貸しはしちゃいけないんだ。読みたかったら自分で借りて。……ノートくらい貸してあげるから、明日の宿題でも移しちゃいなよ」

 ショックを受けて固まったわたしを慰めるようにノートをお腹に押し付けてくる。

「あ、ありがとう……」

 彼女はわたしにノートを貸しながら横をすり抜けていて、もと来た道を歩き始めていた。

「帰らないの?」

「か、かえろうか」

 急に帰り始めていたタマコに小走りで追いついて、一緒に帰るという出来事に心が躍った。

「こっち家じゃないじゃない。なんで逆のほうを歩いてたの?」

「逆? なんでそんなの知って……あ、そっか」

 やっぱりお隣さんであることを忘れがちであるらしい。

「寄り道しないで帰ろうね、お隣さん」

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