第38話 千秋vsジュン

 朝からの小雨で、山には霧がかかっている。


 道場は白く霞んで見える。約束の時間まで、あと二〇分ほど。スマホを見てみたけど、魅羅さんからの連絡はない。最悪、場所は言ってあるので、なんとか間に合うなら、ここまで駆けつけてくれることになっている。


 霧の中を進んでいき、扉を開けて、道場へと入った。


 板張りの道場に、門下生たちが左右に分かれて着座している。中央奥には、道着に着替えたジュンさんが、目を閉じて正座している。静謐な空間に、弾け飛びそうな殺気が充ち満ちていた。


 私はあまり音を立てないようにしながら、末席に座った。そのまま、時が来るのを待つ。廃寺の屋根を打つ雨音だけが道場の中に響いていた。


 五分前になり、千秋さんはやってきた。本山の法務部、篠原円さんも一緒にいる。勝負の行く末を見届けるつもりなのだろう。


 ジュンさんの正面に、千秋さんは着座した。背筋を伸ばしての凜とした姿勢で、正座し、何も言わずに待っている。


 目を閉じていたジュンさんは、ゆっくりと開眼した。


「道着に着替えなくていいのか」


 千秋さんは、先日、この道場へ来たときと同じ、ブラウスとチノパンの格好をしている。戦うのには不向きな服装だ。


「竜虎道の道着を着るわけにはいかないわ。この戦いの趣旨が変わっちゃうから」


 そうだった。この戦いは、竜虎道の本山に依頼されてのものではない――と表向きはなっている。だから、千秋さんは正式に道着を着て戦えない。あくまでも本山とは関係なく、個人として、ジュンさんに勝負を挑んだ形にならないといけない。


「わかった。なら、いつでも始められるってことだな」

「ええ。早いところ、済ませましょう」


 二人は立ち上がった。道場の中央まで移動してから、両者、構えを取る。


 もう、戦いが始まろうとしている。運命の一戦が。


 千秋さんが勝てば、道場は奪われてしまう。でもジュンさんが勝ったとしても、道場の存続は厳しいと思う。それに、千秋さんが負ける姿なんて、私は見たくない。


 どっちを応援すればいいのか――?


 ダンッ! と床を蹴り、先にジュンさんが動き出した。


 長身を生かしてのリーチの長さで、千秋さんの攻撃間合いの外から、一気にパンチのラッシュを仕掛ける。


 秒間複数発の激しい攻撃は、しかし、空振りに終わった。


 すでに千秋さんは、横に回りこんでいた。


「ッらァ!」


 向きを変えたジュンさんは、大きく千秋さんのほうへと踏みこみながら、裏拳を放つ。当たれば一発KO必至のすさまじい拳打。


 千秋さんは体勢を低くして攻撃を避けると、その流れのままに、相手の背後を取った。


「くっ!?」


 ジュンさんは後ろに向かって攻撃を繰り出そうとしたが、間に合わない。


 全身のバネを使っての、千秋さんの掌底打が、ズドンッ! とジュンさんの背中に叩きこまれた。「かはっ!」と呻き、ジュンさんは前のめりによろける。そこへ追い打ちとばかりに、千秋さんは跳躍し、全体重を乗っけての飛び蹴りをお見舞いした。


 吹っ飛ばされたジュンさんは、床に転がり、倒れる。


(つ、強い)


 しばらく戦っている姿を見ていなかっただけで、やっぱり、千秋さんは強い。あのジュンさんが、なす術もなく翻弄されている。


 千秋さんは、倒れているジュンさんへと近寄った。


「まだだ……!」


 突然、予備動作も見せずに、ジュンさんは起き上がった。警戒を怠っていたわけではないのだろうけど、それでも、千秋さんは反応が遅れた。


 ジュンさんの左ストレートが放たれた。頭部をもぎ取られそうな、豪快な突きを、紙一重で千秋さんはかわす。けど、攻撃の勢いに負けて、体勢が崩れた。


 続けてのボディブローを、千秋さんは防げなかった。みぞおちに拳を叩きつけられ、咳きこみながら後退する。そこへ、容赦なく、ジュンさんは追撃をかけていく。正面からの激突では、リーチとパワーの差で、千秋さんは圧倒的に不利だ。かろうじて腕や脚で防御し、体もさばいてかわしているけど、どんどん道場の端まで追いつめられていく。


 ついに、壁際まで、千秋さんは押しこまれてしまった。


 逃れようがない相手に向かって、ジュンさんは、必殺の右ストレートを放つ。


 硬い物が砕ける、いやな音が、道場内に響き渡った。


 まさか――!? 最悪の結末を想定して、私は思わず立ち上がった。


「……ぐ……う……!」


 聞こえてきたのは、ジュンさんの、苦しそうな声。


 渾身の右ストレートは外れた。壁を突き破り、板の中にめりこんでいる。


 そんなジュンさんの首筋に、間一髪で攻撃をかわした千秋さんの手刀が、カウンターで叩きこまれていた。


 この技は、教えてもらったことがある。相手の拳打をかわしつつインサイドに入り、頸動脈に手刀を喰らわせるという難度の高い奥義「逆鱗攻」。


 よろめきながら、ジュンさんは後ろに下がる。いまの技を喰らったら、ふつうは気絶してもおかしくない。それなのに、根性だけでまだ立っているように見えた。これ以上戦うのは危険だった。


「もうやめて! もう十分だよ!」


 私は叫んだ。どっちが勝っても、平和な解決はありえない。だったら、千秋さんもジュンさんも、無駄に傷ついてほしくなかった。


「……そうね」


 千秋さんは構えを解いた。立ったまま、何もしてこないジュンさんを見て、自分の勝利を確信したようだった。


「逆鱗攻」


 ボソッとジュンさんがつぶやいた。


「うん?」


 千秋さんは、まだジュンさんの意識があることにホッとしたような表情を浮かべつつ、次の言葉を待っていた。


「逆鱗攻は、初真が、オレに教えてくれた技だ」


 思い返せば、ジュン先生は、よく逆鱗攻の指導をしていた。大好きな技なんだろうな、としか思っていなかったけれど、どうも、もっと深い事情があるようだ。


「その大事な技を、てめえが……」

「八上さん! 早くとどめを!」


 篠原さんが怒鳴った。この場に流れ始めた、不穏な空気を感じてのことだったのだろう。だけど余計な行動だった。いきなりの篠原さんの大声に、千秋さんは気を取られた。


 一瞬、隙ができた。


「……てめえが使ってんじゃねえよ!」


 ジュンさんは吼えるのとともに、千秋さんに掴みかかり、再び壁際へと押しこんだ。今度は、腕を使って首を締め上げる。なんとか意識を落とされないように、千秋さんは自分の腕を滑りこませてガードしていたが、腕力でグググと押されつつある。


「まがい物の逆鱗攻でオレを倒せると思うな! 本物は、初真だけが使える! あいつだけが、本当の竜虎道を知っているやつだ! だから、あいつが戻ってくるときまで、この道場は、てめえらウソだらけの連中には、渡せねえんだよッ!」


 形勢逆転だ。首締めの腕は、すでに千秋さんの喉笛を押しこみつつある。息が詰まってしまえば、あとは落ちるだけ。


 オオオオオ! と門下生たちが声を上げた。ちっちゃな拳士たちが、「ジュン先生がんばって!」と応援を送る。


 あと少しで決着がつく。


 千秋さんの敗北が間近になり、私は、気が抜けたように突っ立っていた。


 どうしてこんなことになったんだろう?


 もしかしたら、「もうやめて」と止めてしまったのがいけなかったのだろうか。


 あのとき、千秋さんがジュンさんを倒しきっていれば、順当に、千秋さんの勝利で終わってたのじゃないだろうか。


 違う。こんなの違う。


 負けていいはずがない。いつだって、私にとっての一番の憧れは、千秋さんだった。その人が、誰が相手であろうと、負けちゃいけないんだ。


 そう思ったら、もう、声が出るのが止められなかった。


「がんばって! 千秋さん!」


 私の応援が届いたのか、弱りかけだった千秋さんが、カッと目を見開いた。


 首締めをガードしている左腕を、あえて引き抜き、自由になったその左拳で、ジュンさんの胸部を殴りつけた。わずかながら、ジュンさんの体勢が崩れた。ちょっとの綻びさえあれば、千秋さんの技術なら、この状況を打破することは可能だ。


「しッ!」


 鋭い呼気とともに、ジュンさんの腕をすり抜けた千秋さんは、相手の腕を極めつつ、足払いを仕掛けて投げ飛ばすと、背中から床に叩きつけた。


 常人ならしばらく起き上がれない、見事な投げ技。でも、それすらも、ジュンさんには効いていない。すぐに立ち上がったジュンさんは、切れ味鋭いワンツーパンチを放ってくる。矢継ぎ早に飛んでくる凶悪な拳を、千秋さんは軽やかにかわした。


 一進一退の攻防が繰り広げられる。いまだ、どっちが勝つか、わからない。


 むしろ、ジュンさんの動きは、戦いの中でさらに研ぎ澄まされてきている。千秋さんも華麗に攻撃をかわしているけれど、それを上回るスピードで、ジュンさんはフットワークを駆使して、あらゆる突きや蹴りを回避する。


 アウトサイドへ回りこんでの左ジャブが、千秋さんのこめかみにヒットした。脳味噌を揺さぶられるほど、いいのを当てられたようで、千秋さんはほんの少しだけ、膝を折りかけた。


「千秋さん!」


 今度はハッキリと、私の声を聞いたことで、千秋さんは踏ん張った。こっちを見て、にっこりとほほ笑みかけてくれる。


 ジュンさんが殴りかかってきたのを、千秋さんは体勢を低くしてかわして、そのまま懐にもぐりこんで胴着の襟を掴むと、腰をはね上げながらの背負い投げを炸裂させた。ジュンさんの大きな体が、宙を舞った。受身が取れないよう、絶妙なタイミングで仕掛けた背負い投げにより、ジュンさんは腰から床に落ちてしまった。


「つ、う……!」


 なんとか立つことはできたけど、下半身に受けたダメージは、ジュンさんから機動力を奪っていた。明らかに、その場に居着いてしまってる。もう、足さばきで、千秋さんの攻撃をよけることはできない。


 しばしの間、互いの間合いの外から、千秋さんとジュンさんは睨み合っていた。


 そして、二人同時に、前に出た。


 ジュンさんは左ジャブを撃ってきた。その拳を、千秋さんは体を傾けて回避したけど、実は、ジャブはフェイントだった。


 本命の攻撃が、待っていた。


 体勢が崩れた千秋さんの顔面目がけて、ジュンさんは右ストレートを放つ。左ジャブはこれのためのエサだったのだ。


 ノックアウトの光景を、私が覚悟した瞬間――


 千秋さんの蹴りが、パーンッ! と、ジュンさんのあごにクリーンヒットした。


 これが最後の一撃、とばかりに集中していたジュンさんは、防御がおそろかになっていた。その無防備なあごに、千秋さんは蹴りをお見舞いしたのだ。


 決定的な、カウンターアタックだった。


 ヨロヨロと後ろへ下がったジュンさんは、頭を振りながら、なおファイティングポーズを取った。息は荒く、目も虚ろ。もはや戦える体じゃないのに、気持ちは負けていない。


「ジュン、お願い。あなたはもうムリよ。負けを認めて」

「やだ……ね……」

「ここから先は命にかかわるわ。いまの私は、あなたより強い。ずっと実戦で鍛え上げられてきたし、なによりも、大事な後輩が、私のことを見守っている。負けるわけにはいかない私を相手に、あなたに、勝ち目はないわ」

「オレだって……負けられねえんだよ……この道場のために……」


 どうすればジュンさんを止められるのか。危険であろうとも、気絶するまで攻撃を加え続けないといけないのか。


 そのときだった。


 道場の玄関が開いて、魅羅さんが入ってきた。


「よかった。間に合ったようやね」


 走ってきたのか、魅羅さんは額の汗をぬぐい、ほう、と息をついた。


「魅羅さん……?」


 自分から依頼しておきながら、なんであの人がここへ来たのか、しばしの間、理由を思い出せずにいた。それから、ハッとなった。何を調べてもらっていたかを思い出した。


 私は魅羅さんに駆け寄り、結果がどうだったかを尋ねた。そして答えを聞いてから、いまにも動き出しそうなジュンさんに向かって、大声で止めに入った。


「もうやめて、ジュン先生! これ以上戦っても、意味がない!」

「知るか……!」


 聞く耳持たないジュンさんに対して、より効果的な制止をかけるには、真実を告げるしかない。だけど、それは、とても残酷なものだった。


 これを教えるのは、私としても、つらい。


 でも、いま、言わないといけない。


「初真さんは――先生が道場を守ると誓った、その人は――結婚しちゃったんだよ!」


 この瞬間、戦いは終わりを迎えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る