第36話 自分さえ、強ければ……
教室の、窓際の席で、ガラス窓にぶつかる雨を眺める。
台風の影響で、北陸全体に大雨注意報が発令されている。地域によっては強風警報も出ている。クラスメートの何人かは学校が早く終わらないかと期待してるようだけど、台風の進路的に、そこまで天候が悪化することはなさそうだ。
私としては早く晴れてほしい。今日からジュンさんの練習に付き合うことになっている。この雨だと自転車での移動は困難だから、バスを使うしかない。そのお金がもったいない。
間もなく次の授業が始まるというときに、二人の女子がバタバタと教室の中に駆けこんできた。
「やばいよ! マジやばいよ! 援交やってた二年が退学だって!」
「は? どういうことだよ!?」
入り口近くの男子が声を上げたのを皮切りに、教室中が騒然となる。援交、つまり売春だ。二年生の誰がそんなことをしたんだろう、と耳をそばだてていると、信じられない名前が飛び出してきた。
「遠野って子だって! ほら、卒業生とラブホ行って、停学食らってたやつ!」
「ええ、マジかよ!? 俺、けっこうタイプだったんだけど」
遠野小夜。私と同じく安西先輩にもてあそばれて、停学になった拳法部の後輩。
男に騙された。だけど、援交なんて無茶をやらかすタイプじゃなかったはずだ。
頭の中がグルグルとかき乱される。なんでサヤちゃんが、そんなことを。真面目でおとなしい子だったのに。
「やっぱな。なんだかんだで、ヤリマンだったってことだろ」
隣の男子がケラケラと笑った。
目の前が真っ赤に燃えた気がした。
「ナナ! やめて!」
友達の果穂が金切り声を上げたことで、私は正常な意識を取り戻した。
気が付くと、隣の男子の襟首を掴み、床に押し倒していた。しかも相手の顔面めがけて、拳を振り下ろそうとしている。
「――!」
勢いを止めることはできない。が、殴ってもいけない。
狙いをそらして、顔の横の床を、ガンッと叩いた。手の骨に衝撃が伝わる。激痛を感じたけど、声を上げたくなくて、唇を噛んで耐えた。
教室は静まりかえっていた。
「……ごめん」
一応謝り、席に戻る。
「俺も……悪い」
いつもは仲良くしている男子だから、素直に、向こうも謝ってくれた。それで終わったのは運が良かった。騒ぎが収まったところでチャイムが鳴り、先生が中に入ってきた。
何事もなく授業は始まった。だけど、私はまったく集中できなかった。
先生の目を盗んで、こっそり、LINEでサヤちゃんにメッセージを送った。授業が終わるころに返事は来た。
『もう関わらないでください』
冷たいひと言だった。
※ ※ ※
「まあ、拳法部が無事だったのは、不幸中の幸いだな」
スパーリングの後、汗を拭きながら、ジュンさんはそう言って慰めてくれた。
苛立ちが露わになっていたのだろう。乱雑な動きで攻めかかってくる私に、違和感を覚えたらしい。五分ほど乱取りをした後で、「何かあったか?」と聞いてきた。そこで私は一度事情を話した。そして、練習後に話をしよう、ということになった。
「停学の時点で、退部になってたのか?」
「ええ。サヤちゃんは、他の子に部長を引き継いで、拳法部からは離れた形になってたんです。援交は、その後から始めたらしいんで、部活動とは関係ないということで……まあ、顧問の先生が頑張ってくれたのもあるんですけど」
「個人でやってたわけじゃないんだろ? どこかの店に所属して、か?」
「みたいです。お客さんと一緒にホテルに入るところを、警察に見つかって、それで発覚したって」
「にしても一七歳かそこらの現役高校生を雇うなんて、まずその店自体がかなり危ないところだな。素人がやってるにせよ、ヤクザがやってるにせよ、続けて働いてたら、ろくでもない目に遭うところだった」
「それも不幸中の幸い、って言いたいんですか」
私は涙の滲んだ目で、ジュンさんを睨みつけた。
「怒るなよ。せめてそう思わないとやってらんねー、って話だろ」
神妙な面持ちで、ジュンさんは肩をすくめる。私に気を遣ってくれているのは、よく伝わってくる。それに対して腹を立てるのは、ただの八つ当たりだろう。
深呼吸して、気持ちを落ち着かせた。
「どうしてサヤちゃん、あんなことしたんだろ……」
「こういうのは本人だってよくわかっていないことが多いからな。聞いてもわかんないと思うぜ。だから、関わらないでくれ、って言ってきてんだ。――ただ、ひとつだけ、オレから言えることはある」
「なんですか……?」
「学校側の対応を見てみろ。ラブホ行きました、公序良俗に反してますね、はいじゃあ停学です。そこに、サヤちゃんのことを思いやる気持ちは、あったと思うか? ないだろ」
「私、あのとき、学校と話し合っている現場を見ました。まるで魔女裁判みたいな雰囲気で、弁護しようと思っていた私たちは問答無用で追い出されて……あれだと、言い分なんて聞いてもらえないだろうな、って……」
「組織ってのはそういうもんだ。個々の人間の思いなんて考えてられない。中心にいる連中は、ただ、器を守ることしかしない。中に人がいてこその器だっていうのに、異端はとにかく排除しようとする」
「サヤちゃんの将来はどうなるんですか。もう、まともなところには就職できない。ますます状況は悪化するのに、簡単に、退学だなんて」
「知ったこっちゃないんだよ。学校も所詮は営利団体さ。じゃなかったら、本当に教育ってやつをお題目に掲げてるなら、たとえ犯罪者であろうと教え続けるはずだろ? そうしないで切り捨てるってことは、要は、援交なんてやる人間は学校のブランドに傷をつけるから、金儲けに影響が出るから、いりませんってことだ」
ジュンさんの言葉は、ショックで傷ついた私の心に、深く染みこんでくる。強くて、美しい人が、しっかりした口調で語るのだ。信頼できる響きがあった。
「大事なのは、流されないことだ。信じられるのは自分だけ。自分が誰よりも強ければ、他のやつらの思うがままにさせなくて済む」
そうだ。私が憧れたのは、負けない自分だ。サヤちゃんが停学処分を受けたとき、私は学校に対して異を唱えられなかった。結局、怖かった。相手は大きな集団だ。私一人では太刀打ちできない。自分まで処分を食らうのを恐れて、何もできなかった。その結果、サヤちゃんはもっとひどい方向へと行ってしまった。
私が、弱かったから。
「勝つぞ、ナナ。あらゆる理不尽に、打ち勝とう」
「……はい!」
ジュンさんなら、どんな敵が相手でも勝ち続けるだろう。私の中で、この人に対する憧れの念はますます強くなっていた。
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