第5話 ゲスの極み

『ナナになんてことしてくれんのよ、あのコマシ野郎!』


 翌朝、私からの電話を受けた親友の果穂は、話を聞き終わるなり怒りの声を上げた。


 拳法部では、安西先輩と付き合っていることは秘密にしていた。部内恋愛は暗黙のルールで禁じられている。誰かに知られるわけにはいかなかった。


 だけど、果穂にだけは全てを話していた。彼女には、私が安西先輩のことを好きになったときから、相談に乗ってもらっていた。先輩と付き合い始めることになったときは我がことのように喜んでくれたけど、それだけに今回の件は許せないんだろう。


『このまま泣き寝入りなんてダメ! なんかガツンと言ってやったほうがいいよ!』


「どうなんだろ。かえってみじめな思いをするだけかな、って思うし」


『そんな弱気でどうすんの! 言いにくかったら、私が説教してあげるから! どこに行けばあのコマッシーに会えるのか、教えて!』


「そんなゆるキャラみたいなあだ名つけないでよ。一応は元カレなんだから」


『いいじゃない、別に! 下半身が緩んでるんだから、リアルにゆるキャラでしょ』


「果穂さあ……絶対、その毒舌、男子の前で出したらダメだよ。けっこう人気あるんだから、イメージ大事にしないと」


『私のことよりも、いまはナナのこと。ちゃんと質問に答えて』


「わかったよ、もう。先輩はよくバイパス近くのレジャー施設で遊んでる」


 そこは昨夜、私がデートのために訪れて、先輩の二股を知ってしまったところだ。何回か一緒に行ったことがあり、先輩は「仲のいい男友達とよく遊びに来る」とのことだった。


『今晩行けば、いるかもしれないのね!』


 果穂は勝手に意気込んでいる。


「いいよ、もう。どうせ最初から負け戦なんだから……」


『そんなクズ男を無罪放免にしてもいいの? ナナだけの問題じゃない。他にも騙されてる子がいるかもしれないんだよ。自分がどれだけ男として――ううん、人として――最低で、外道な振る舞いをしたのか、他の子のためにも、徹底的にわからせてやらないと!』


 下腹部のあたりがズキンと痛んだ。


 これまで幸福の絶頂だったし、いまでも残りカスのような温かい気持ちが胸の奥にこびりついている。


 青春の貴重な時間を捧げた。その相手が人間のクズだなんて、信じたくない。あの温かい思い出は、やっぱり真実なのだったと、思いたい。


「わかった。行こう」


 果穂の考えていることとは異なる理由だけど、私はいま一度、安西先輩に会いに行くことにした。


 もっとしっかり話をしたい。やむをえない事情があるのかもしれない。


 散々な目にあわされて、なお、私は先輩を信じたかった。



 夕ご飯を食べた後、家族に気付かれないように、こっそり家を出た。


 レジャー施設の前に行くと、すでに果穂は待っていた。


 デニムのショートパンツにシルクのブラウスと、こんなときでも服装に気をつかっている。男子っぽい格好をしている私とはえらい違いだ。もしも果穂が、眼鏡からコンタクトに変えて、やけに古風な三つ編みの髪をほどいてロングヘアにしたら、学年で一番人気になれるかもしれない。素材だけなら、拳法部で一番かわいいのに、もったいない。


「やっほー、ナナ」


 呑気な調子で、果穂は手を振った。やっほー、じゃない。こっちは元カレに会うことを考えて緊張しているというのに、あまりにも脳天気すぎる態度だ。昼間、電話の向こうで激怒してた、あのテンションはどこへ消えた。


「果穂、ごめん、待たせちゃった?」


「私も着いたばかり。まだ中は見てないよ」


「じゃあ行こ」


 施設内は、私たちと同じくらいの年頃の子たちがうろつき回っている。みんな、ゴールデンウィークにどこへ行く当てもなく、近場で暇つぶしをしよう、という考えなのだろう。


 安西先輩は、いた。音楽ゲームのコーナーで、ちょうどプレイしている最中だ。


 緊張で心臓の鼓動が早くなる。体が固まっている私の肩を、果穂はポンと叩いてくれた。私は果穂に向かってうなずき、一歩前へと踏み出そうとした。


 そのとき、突然、横から見知らぬ女性が割りこんできて、安西先輩の背後に駆け寄った。私はビックリして、足を止めてしまった。


「安西くん! どういうことなの!」


 金切り声を上げる女性に対して、安西先輩はゲーム機のほうを向いたまま、


「何が、すか」


 と冷たい声を発した。


 女性は、見たところ二〇代後半のようだ。あるいは三〇代前半かもしれない。学生ではなさそうだ。


「私と付き合ってたんじゃないの!? なんで、他の女と――!」


「俺、ひと言も、あなただけと交際してるとは言ってなかったんですけどね。そっちが勝手に勘違いしてただけでしょう」


 ゾッとするほど冷酷な物言いだった。


「うそ、でしょ」


 さすがの果穂も、そうつぶやいたきり、言葉を失っている。電話の向こうで彼女が言っていた「他に騙されている子がいるかもしれない」という発言は、妄想でもなんでもなかった。


 安西先輩には、他にも付き合っている女性がいた。しかも私よりもずっと年上の女性。あの女性もまた自分以外に女がいると知り、文句を言いに来たんだろう。


 この様子だと、同時に交際していたのは、三人だけでは済まないかもしれない。


 そこへ、先輩の本命カノジョが現れた。修羅場を目の当たりにしても、顔色ひとつ変えず、肩をすくめている。


「へえ、次はこのオバサン? ほんと手当たり次第だよね」


「うるさいな。あんまりにも必死にアプローチしてくんのが、かわいそうだから、付き合ってやってたんだよ」


 私の、頭の中が、スウッと芯から冷えてきた。鼻の奥がヒリヒリと痺れ出す。それが怒りから来るものだと気が付いた瞬間、先に、果穂が飛び出した。


「ふざけんな! この〇〇〇〇!」


 親が聞いたら嘆くような下品な暴言を吐き、果穂はズンズンと安西先輩に向かっていく。私も慌ててあとを追った。


「外浦か。ナナまでいんのか」


 私たちの姿を見て、安西先輩はうんざりした表情で、かぶりを振った。


「帰れよ。もうわかっただろ。俺は――」


「歯、食い縛れ!」


 最後まで言わせようとせず、果穂は手を振り上げて、安西先輩の顔面に平手打ちをかまそうとした。


 が、あっさりと腕で防がれてしまった。


「おい、危ないな。外浦は関係ないだろ」


「関係ある! ナナは私の大事な友達だもん!」


「だからってお前が俺を引っぱたく理由にはならないだろ」


 安西先輩は、果穂の背中越しに、私を見てきた。


「なあ、秋山。これは俺とお前の問題だよな」


 そう声をかけてくる安西先輩の顔を見て、私は何も言えなくなった。いままで付き合ってきたときに見せていたのとは、まるで別人のような顔。これがこの人の本性なのだろうか、と背筋が寒くなるほど、冷たい眼差し。


「嘘でしょ……まだ、女が、いたの……?」


 最初に安西先輩に突っかかっていた年上の女性が、声を震わせて、あとじさりした。ここで姿を見せたのは、この人に悪かったかもしれない。無駄にショックを与えた。


「ねーねー、もう行こうよ。他んところで遊ぼ。こいつらウザいし」


「ああ、そうだな」


 本命カノジョに袖を引っ張られて、安西先輩は去っていった。果穂が怒鳴り、追いかけようとしたけど、「いいよ」と私が止めた。


 もう思考がストップしていた。


 信じたかった。けど、本当に、安西先輩は最低の人だった。何人もの女性を遊びで泣かせるような男。一年間ずっと想い続けてきた彼氏は、大切な思い出を捧げてきた恋人は、その価値のない人間だった。


 泣けばいいのかな、と思うけど、あまりのことに涙も出ない。


 その代わり、私と同じようにフラれた年上の女性が、わんわんと泣き出した。他のお客さんたちもいるというのに、ゲームコーナーのど真ん中で。見てるこっちが恥ずかしい。


 放っておくわけにもいかないので、声をかけた。最初は、私に対する敵対心からか、全然応じてくれなかった(それもそうだ。向こうからすれば私だって浮気相手の一人なのだから)。でも、何度か辛抱強く話しかけているうちに、気持ちも落ち着いてきたのか、最終的には一緒に来てくれることになった。

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