第2話 砂漠の町のポワゾン・ロゼ(2)


 春休み以来、ルクシアはほぼ毎日のペースでバイトに来ていた。そろそろ秋も深まってきたこの頃では、お店のラストの片づけまで手伝うのが普通になってきていた。


 そんなある日の閉店後、アイネスは客のいないホールの片隅のピアノで、不思議な旋律の異国の曲を透き通った低い声で切々と弾き語っていた。

 いつものパブタイムでは、アイネスは流行りの曲に乗せて明るい歌声を披露し、小さな町の陽気な常連客と盛り上がる。それは店の看板ショーになっていた。しかし、客が帰ってマスター、ファリス、ルクシアの三人だけになると、決まって哀愁に満ちた異国のメロディに乗せて歌ったのだった。


「アイネスさんのあの歌、なんの歌なの? 不思議な歌だよね」

 帰り支度を終えたルクシアが、モップを手に棒立ちで聞き入るファリスの隣のスツールに腰掛ける。


「アイネスの故郷の子守歌なんだってさ。なんか子守歌にしては寂しいメロディだよな」

「え? アイネスさんって外国の出身なの? 知らなかった。でもその割には言葉になまりが全然ないよね」

「俺もはっきり聞いたわけじゃないよ。ここクェーサー・スプリングスに来たのも次の仕事のための引越しの途中なんだって」

「そうなんだ。でも、なんだってこんな田舎町に。さっさと都会に行っちゃえばいいのに。その方が仕事もしやすいと思うんだけどなあ」

「部屋が決まらないらしいよ。都会は今、どこでも住宅難だからさ。アパートメントも家賃めちゃくちゃ高いし、一年待ちが普通なんだって。身元チェックもすんごい厳しいらしいよ。ニュースにもなってるじゃないか。なんだ、ルー、新聞読んでないのか」

「し、知ってるわよ、それぐらい。バカにしないで」


 憤慨するルクシアを気にも留めずに、ファリスは改めてうっとりと鍵盤の上を流れるアイネスの細い指を見つめた。そんなファリスに向かってルクシアが尖った声を上げる。


「まったく、ファリスはアイネスさんにデレデレしすぎよ。ほら、さっさとモップ片付けてきなさいよ。私を送って行ってくれるんでしょ?」

「なんで決まってるみたいに言うんだよ。いつもみたいに一人で帰れよ。俺はアイネスの歌を聞いていたいんだ」

「こんな夜更けにレディを一人で歩かせるなんて信じられない! とんだ田舎もんだわ」

「それを言ったらお前もじゃないか、ルー。悔しかったらルーも大人の女性の都会的な色気みたいなの、出してみろよ」

「なによー! 悪かったわね!」


 少年と少女のやり取りが聞こえているのかいないのか、アイネスの歌声はサビに向かって一層の情感がこもっている。

 切なくて、それでいて力強く。

 異国の言葉の歌詞の意味はファリスには分からない。しかし、これは望郷の歌に違いない、ファリスはそう感じていた。


 ◇


 翌日の昼、天気は爽やかな秋晴れだったが、その分クェーサー・スプリングスのレストランはいつもより少し忙しかった。

 昼食時間の終わり際、まだ満席のレストランに、目つきの良くない革ジャンの男が入ってきた。アイネスもルクシアもまだ来ていない。エプロン姿でホールに出ていたファリスは、店の奥まで断りなく歩みを進める革ジャンの男を呼び止めた。


「あ、お客さん。すみません、今、満席なんです。ちょっと入り口横のウェイティングコーナーで待ってもらっていいですか?」

「いや、食べたり飲んだりをしに来たわけじゃない。キミ、この店の人かい?」

「あ、はい」


 ファリスは、見て分かんねーのかよ、この忙しいのに面倒だな、と微妙に表情に出しながら応対する。ちくしょう、お客さんじゃないのか。どうしてルーもアイネスもいない時に限って、こういうややこしいのが来るんだ。


「警察なんだがね、ちょっと聞きたいんだけど、この写真の人、ここにいるかね?」


 男はおもむろに内ポケットから身分証を取り出す。申し訳程度にそれをファリスの目の前に持って来るや否や、くるりと身分証を反転させて、裏に挟んであった一枚の写真をファリスに突き付けた。ブルーバックの写真に映った無表情な女性。


「!?」


 一瞬見たことある女の人だなーと思った後で、ファリスは内心の驚きで声をあげそうになるのを必死で飲み込んだ。写真の女性は、見たことがあるというレベルではない。まごうことなきアイネスだ。しかし、髪の色が違う。写真の女性は華やかなブロンズだ。


 なんでアイネスがブロンズヘア?

 そして、なんで警察官ポリスがアイネスの写真を?


 このまま、この警察官ポリスと名乗る男をアイネスに合わせてはいけない。ファリスの第六感がそう告げている。とっさにファリスの口からは否定の言葉が出た。


「……知りませんよ、こんな人」


 男はぎろりとファリスをにらんだ。


「本当か? 嘘を言うとキミのためにもならないぞ?」


 とても市民のために悪と戦う公僕とは思えない、射るような視線。ファリスは内心男の迫力に震えあがった。幸いアイネスはまだ来ていない。このままこのポリスが引き下がってくれれば問題ない。それにファリスは嘘は言っていない。黒髪のアイネスはいるが、写真のようなブロンズ髪の女性はここにはいない。


「本当さ。こんな派手なブロンズ髪の女の人、見たことないよ」


 嘘は言ってないからね、とファリスはビビりつつも内心舌を出す。ファリス自身は警察官や保安官は嫌いじゃない。田舎町とは言えレストランをやっている関係上、これまでに酔っ払いや無銭飲食の客の始末で何度もお世話になっている。クェーサー・スプリングスの駐在保安官はケニーという陽気なひげの大男で、その娘はファリスやルクシアの同級生だ。

 しかし、この警察官ポリスと名乗る男はどうにも胡散くさい。ファリスの持つ保安官のイメージとは真逆で、陰湿な雰囲気をまとっている。


「そうか。もし見かけたら、ここに連絡してくれ」


 そういって男は11ケタの数字を書いた紙切れをファリスに押し付けた。


「駐在保安官のケニーさんのところじゃだめなの?」

「直接私に連絡してくれる方がいい。これはちょっとしたCI機密事件なんだ。私がここに来たことも秘匿してもらうからな。CI機密事件への捜査協力は国民の義務だ。覚えとくんだな、坊主」


 警官と名乗った男は写真を手帳に仕舞うとニヒルに唇を歪めた。音も立てずにファリスに背中を向けると、店の扉を開けて出ていった。


「なんなんだ、あのハゲ。なんだかやけにムカつくなあ」


 ファリスはこっそりと毒づいた。

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