砂漠の町のポワゾン・ロゼ

ゆうすけ

第1話 砂漠の町のポワゾン・ロゼ(1)

 砂漠の手前にあるわずかな水場に、長い歴史の中でやがて人々がつどい、いつしか小さな町となった。これはそんな砂漠の田舎町クェーサー・スプリングスで起こった小さな事件の話である。



 ファリスはピアノの音を聞きながらフロアの床にモップがけをしていた。クェーサー・スプリングスに一軒しかないレストランの夜は驚くほど早い。ディナータイムの後はささやかなパブタイムとなるが、それも数時間でお開きになるのがいつものことだ。まだ寝るには早い時間帯に、客たちは三々五々帰途に付く。


 客がいなくなれば、店を開けていても仕方がない。閉店作業中の店の中は、酔っ払いたちの陽気な笑い声の余韻が残る。都会ではまだ地下鉄がいくらでも走っている宵の口だ。


 この店のオーナーの一人息子ファリスは、客のいなくなったフロアでどこか物悲しいメロディを奏でるピアノの音と、その音色を操る豊かな黒髪の背中にじっと聞きほれていた。床掃除のためのモップはいつしか止まっている。

 鍵盤をしなやかになでているアイネスは、田舎町に似合わない都会の匂いのする大人の女性だった。例えるなら埃っぽい砂漠に美しく咲いた薔薇の花。その妖艶で、それでいて清涼な歌声に、ファリスはすっかり心を奪われていた。

 いつかアイネスに認められるぐらい強くて逞して賢い、都会的な男になりたい。ファリスはいたって真剣にそう思っていた。


 歌声が途切れて切ないメロディの伴奏だけになったところで、ファリスはカウンターでグラスを磨く少女からの鋭くとがめる視線に気付く。やれやれと肩をすくめ、不承不承モップ掛けの作業に戻った。


「ファリスもルクシアも、今日はもう上がりでいいぞ。二人とも宿題でもやってろ」


 マスターのファリスの父親の声が、ピアノのメロディに混じった。


「マスター、宿題なんてとっくに終わってるわよ。ね、ファリス」


 キッチンカウンターの薄暗いランプを頼りにグラスを磨いていたボブヘアーの少女、ルクシアがファリスにかわって声を上げる。


 ◇


 幼馴染のルクシアがファリスの家のレストランでアルバイトがしたいと言いだしたのは、春休み直前のある日、ハイスクールからの帰り道でのことだった。


「今からファリスのとこ、行っていい?」

「なんだよ。いつも勝手に来てるくせに。なんで今日に限って俺の了解なんて取るんだよ」

「いいから、いいから」


 ルクシアは訝しむファリスを強引に引き連れてクェーサー・スプリングスに一軒のレストランに向かい、店に入るなりマスターファリスの父親に向かって 「おじさん! 私を雇って! 一日五十ペチカ、いや四十ペチカでいいわ! アルバイトがしたいの!」と元気に言い放ったのだった。

 ここは街道から外れた砂漠の田舎町。そんなところにあるレストランが、春休みだからと言って特に忙しくなるわけではない。マスターは露骨に渋い顔をした。


「店の手伝いなんざ、ファリス一人で十分だよ、ルーちゃん。小遣いがほしいなら私からシモーネに言ってやろうか?」

「それはやめて! ママに言ったらダメって言われちゃう! おじさん、お願い。私、お小遣い溜めたいの。パパがおじさんのとこ以外はダメ、おじさんのところでならバイトしてもいいって言ったの」


 ルクシアは必死に頼み込んでいる。


「ルーちゃん、去年の暮れからアイネスが週に三日手伝いに来てくれてるの知ってるだろ? ああ、アイネス! あんたも言ってやってくれないか。これ以上の手伝いはいらないって」


 マスターが困った顔をしていると、奥で洗い物をしていた若い女性が出てきた。艶やかな長い黒髪と切れ長の目。アイネスと呼ばれたその女性は、低く柔らかい声で答える。


「あら、ルーちゃん、いらっしゃい。なんか飲んでいく? それともパスタでも食べる? マスター、どうされました?」

「アイネス、ルーちゃんが春休みの間、うちでバイトしたいって言っててね。うちはファリスとアイネス二人いれば十分だ。三人も雇うほど忙しくない」

「たしかにそうですね。ルクシアちゃん、なんでバイトなんかしたくなったの?」


 アイネスは濡れた手をエプロンでふきながら、ルクシアにまあ座りなさいよ、とスツールを勧め、自分も横に腰を下ろす。


「私ね、お金を貯めることにしたの! コンスタンシアのカレッジに進学したいの! そのためにはお金貯めないと」

「なるほど。わかったわ。マスター、こうしましょう。私、ルクシアちゃんがバイトしている時間は、ピアノでも弾いてますよ。その時間は無給でいいですから。その分でルクシアちゃんを雇ってあげてくださいな」


 アイネスはマスターに柔らかな笑顔を向けた。ファリスもアイネスが店に来る回数がなくならないのであれば、特に反対する理由はない。むしろ毎晩ピアノを弾きに来てくれそうなこの流れなら、推しておくに限る。


「父さん、それいいじゃないか。アイネスにピアノ弾いてもらおうよ。絶対パブタイムのお客さん増えるぜ」

「うーむ。確かにアイネスが来てから町の連中の来店が増えてるな。アイネス、それでもいいかい?」


 アイネスは「もちろん。ルーちゃんならいいウェイトレスになってくれるわ」 とにっこり微笑んだ。ルクシアがその隣でばんざーい、と両手を上げて喜んだ。アイネスのピアノが堂々と聞けようになるのはファリスにとっても悪い話ではない。

 でもそれをルクシアに悟られるのは、なぜか負けた気がして、ファリスはとっさにルクシアに絡んで誤魔化す。


「ルー、給仕サーブはそんなに簡単じゃないんだぞ。タチの悪い客も来るからさ。ルーに務まるとは思えないけどな。まあ、せいぜい俺たちの足を引っ張らないようにな」


 ルクシアは何かが気に入らなかったのか、鋭くファリスを睨んで、彼の横腹に肘を打ち込んだのだった。




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