最強勇者はやればできる子

@dsahjfkaw

第1話

第一部


天は二物を与えず


一つの分野で傑出した才能を持つ人間他の分野にでも才能を発揮することは非常に稀であるというただの諺であり、科学的な裏付けがあるわけではないのだが不思議と納得してしまうのも確かである。学校で一番勉強ができる生徒は大抵運動音痴で、その逆、運動ができるサッカー部のエースは概して勉強ができない、というステレオタイプには謎の説得力がある。

もちろん例外もある。

一流大学を出ているのに顔もいい美人女子アナ、アイドルとして成功した後にアパレルブランどを立ち上げる実業家など、テレビを点けるだけでこの世には特別な人間がいることが分かる。

だが果たして。

彼らの活躍を『才能』の一言で片づけてしまってよいのだろうか? テレビの画面に華やかに映る天才たちだが、その裏側、私たちに見えないところでは途方もない努力をしているのではなかろうか? 芸能人は寝る間を惜しんで仕事をし、俳優は素晴らしい演技をするために毎日稽古をし、アスリートは大会で優勝するために生活の全てを競技に捧げているはずであろう。

そんな、普通の人からは見えない『努力の結晶』を私たちは『才能』と呼ぶのかもしれない、なんて安っぽいドキュメンタリー番組の締めくくりみたいな言葉が通じるのは、今日が最後、この男を知るまでのことだろう。


 季節は春。

 場所は日本のとある高校。県下どころか日本全土にその名を轟かせる東大進学者数全国一位の超名門。はったりではなく、文字通り日本の未来を支えるエリートの中のエリートが集まる男子高、私立N高校。

 今、その入学式が体育館で行われている。

校長の挨拶が終わり、司会進行を担当する女性教諭が次のプログラムをアナウンスする。

「続きまして新入生代表挨拶。本年度首席、天海王太郎(あまがいおうたろう)君、お願いします」

俄かに空気がピリつく。

それも当然。ここに集められた新入生240人は、幼い頃から神童として育てられてきた少年たちであり、全国トップの難易度である入試試験をパスした、本物の天才たちである。

そんな彼らの大半はこのN高校に入学して初めて、自分よりも頭の良い人間がいるという当然の事実を知る。神童である彼らにとってその衝撃は、中世ヨーロッパの人類が太陽が地球の周りを回っていると突きつけられた時のそれに等しかった。

そして次に彼らを襲ったのは怒りだった。自分のプライドに傷をつけた人間をしかとこの目に焼きつけてやろう、という血気盛んな高校生男児240名分のギラついた視線の集中砲火が壇上へと浴びせられる。

 だがしかし。

「……天海王太郎君?」

 姿を見せない主役に、戸惑う女性教諭がもう一度名前を呼ぶ。だがやはり、座席から立ち上がる生徒はおらず、会場がざわつき始めたところで、司会進行を務めていた女性教諭からマイクを奪った体育教師が声を荒げた。

「天海王太郎! 前に出んか!」

 ざわつく生徒たちを一喝する意味も込められた大声が空気を震わせると、ようやく一人の生徒が立ち上がった。

「……あれ? 俺、呼ばれた?」

 先ほどまで居眠りをしていたのだろう、寝ぼけ眼を擦るその男子生徒は学ランの袖で口から垂れた涎を拭った。

「壇上に上がれ! 新入生代表の挨拶だ!」

「うお、マジか」

 だが少年は焦る素振りを全く見せず、テクテクと歩いて移動、壇上へと続く階段を何度か転びそうになりながら登る。そして少年は壇上に立つと、原稿を取りだそうと上着の内ポケットに手を入れた、のだが。

「……あれ?」

 ない。

 いくら探しても原稿の紙が見つからない。もしかしてどこかに落としてしまったのかと、先ほど自分が通った経路を見下ろすがそれらしきものはどこには落ちていない。となると、もっと前に落としたかのか、それとも家に忘れたかということになるのだが。

「あ……」

 そこで王太郎は思い出した。

 自分がスピーチの原稿を失くすはずがない、否、なくすことなど絶対にできないということに。なぜならそもそも王太郎は原稿を印刷すらしていなかったのだから。


 時は少し戻り。

 入学式の前日の昼過ぎ。

 王太郎はまだN校の生徒ではないのだが、今年の入学試験の成績トップである主席として、明日の式で新入生代表の挨拶をするので、彼はリハーサルのために体育館にやってきていた。

 リハーサルはつつがなく進んだ。

 だが教職員たちは少しだけ不安だった。この天海王太郎という男にはどうも抜けているところがある。リハーサル中もずーっとぼーっとしておりなにを尋ねても反応が鈍い。

 リハーサル終了後。

不安に思った体育教師が忠告をした。

「修正があるからリハーサルでは電子のままで原稿を読んでもらったが、明日の本番ではきちんと印刷した紙を持ってくるんだぞ。いいな?」

 忘れるのを心配するなら学校側で用意すればいいだけの話。

 だがここは天下のN校、天才たちの才能を育てるために自由な校風と生徒の自主性を重んじているため、入学式の準備も在校生たちが中心となって行っており、それは新入生である王太郎とて同じで自分が読む原稿は自分で用意することになっている。

「言われなくても分かってますってー。そんじゃまた明日ー」

 気の抜けた返事をして家路につく王太郎の背中を、教員たちは不安そうに見つめていた。


 一日早い登校日を終えて家に着いた王太郎。

 おろしたばかりの制服を脱いで部屋着に着替えると、彼はすぐさま自室のベッドの上で仰向けになった。これが彼のホームポジションである。なにもなければ王太郎はこのまま何時間でも過ごすことができる。手の届く範囲に置かれた大好きなマンガやゲームを飽きるまるで楽しむのが彼の日課である。

「あーあ、疲れた。なんで新入生代表の挨拶なんてしなくちゃいけないんだよー」

 それはもちろん入試トップの成績だからだが、王太郎の部屋には勉強机はおろか、参考書の一つ、筆記用具の一つすら存在していない。

 王太郎が最後に勉強したのは小学生の時である。当時、既に高校の学習内容を理解していた王太郎に、両親が興味本位で東大模試を受けさせたところ、なんと最難関である医学部でA判定を叩きだした。

 それ以来彼は勉強することを止めた。

 そして今度はスポーツに精を出し始めた。

 野球、サッカー、バスケ、バドミントン、水泳、ハンドボール、陸上、バレーボール。学校の部活だけでなく、地域のクラブまで、あらゆるスポーツの団体に所属した王太郎は、その全ての活動において頂点を極めた。個人競技はもちろん、それまでは弱小チームだった地域のクラブすらも全国優勝へと導いてしまったのだ。

 そしてスポーツも止めた。

 次に王太郎が興味を示したのはアニメやらマンガ、ゲームといったサブカルチャーであった。やればなんでもできる王太郎は自分でなにかをするよりも、他人が創ったコンテンツを消費する方が楽しかったのだった。王太郎は学業そっちのけでアニメやゲームにマンガに夢中になった。そのことを両親は快くは思っていなかったが大目に見ていた。肝心の勉強のほうは誰よりもできているのだから、と。

 だがそれも中学に上がるまで。

 息子の学力に応じた学校をと、両親は王太郎に名門中学の入試を受けさせた。名門とはいえ、王太郎の学力であれば首席で入るのは当然であり五科目の内一つを受けなくても余裕でボーダーラインを越えるはずであった。

 どうせ受かっているからと合格者の番号が張り出されている掲示板を見ることもなく、両親は王太郎を連れて、合格者が必要書類を受け取る受付へと向かったのだが、そこで衝撃の事実を突きつけられた。

「申し訳ございませんが、お子様の受験番号はこちらのリストにはございません」

「「……え?」」

 両親はハトが豆鉄砲を食らったような顔をした。

 王太郎が落ちた……?

 結局彼は普通の公立中学に進むことになったのだが納得のいかない両親は後日、得点開示を申し込んで入試の点数を確認することにした。小学生の時点で東大に受かるほどの学力を持つ息子が合格点のボーダーラインを下回るはずがないと。

 だが郵送されてきた書類は両親を納得させるどころかさらなる混乱をもたらした。

 0点であった。

 一教科ではない。

 五教科全ての合計点がである。

流石にここまでくると学校側のミスだとも思えず、両親が夕食の席にて事情を尋ねてみると。

「あ、うん。なんかめんどくさくてさ」

「「……え?」」

 なんでもないことのように答える王太郎だが両親は開いた口が塞がらない。

「め、めんどくさいって、どういうことだ?」と父。

「だって俺なら絶対に東大に入れるでしょ?」

「ま、まあ。そうだろうな」

「なら別に今がんばる必要ないなーって。そう思ったらなんか眠たくなっちゃって。目が覚めたら入試終わっちゃってた」

 夕食のおかずを口に入れながらモソモソと話す王太郎。

「ごちそうさまー」

「ちょっと、王太郎。まだ全然食べてないじゃないの」と母。

「うん、なんか食べるのもめんどくさいや。今、あんまお腹減ってないから後でお腹空いたら食べるから残しておいてー」

 そう言って席を立つとポリポリとお腹を掻きながら階段を昇って行ってしまう王太郎の背中を、父と母は呆然と眺めることしかできなかった。

「まあ。王太郎のいうことももっともだしな。むしろ、私立の学校にいかずに済んだ分、学費が節約できたとも言えるかもな。はははっ!」

 そう言って晩御飯に手をつける父。

 それを見て母は思った。

 王太郎が呑気なのは、間違いなくこの男の血が半分流れているからだ。おまけに王太郎には類稀なる才能があり、そのせいで父親に輪をかけてぼけーっとしている。いくら天才とはいえ、なにもしなければただの人。このまま王太郎が才能に託けて、ダメ人間として堕落していくのではないかと母は一人気を揉んでいた。

 そしてその予感は見事に的中した。

 中学生になった王太郎は堕落した。

 朝は母親が起こしに来るまで惰眠を貪り遅刻をするようになった。授業はもちろん聞いておらず、机に突っ伏したまま放課後まで寝ている。もちろん教師も最初の内は注意をしていたのだが、嫌味として寝起きの王太郎に黒板の問題を解かせてみると、あっという間に解いてしまう。それどころか板書の内容の誤りを指摘することすらあり、触らぬ神に祟りなしと大人たちは放任することにした。

 それにも関わらず、テストでは全ての教科で漏れなく0点を取る王太郎の奇行に、教師たちは余計に首を捻ることになった。もちろん王太郎としては、ただ面倒くさいからテストを解かないだけであった。どうせ解けるのだから解かなくてもいいや、という謎の倒錯をこの神童は起こしていた。

 そしてその慢心はどんどん肥大した。学校に遅刻する頻度が増え、しまいには通学の電車の中で学校が終わるまで居眠りをしてそのまま帰宅することすらあった。

 授業中の居眠りならまだしも、サボりの常習犯となると学校側も見過ごすことができず、母親が学校に呼び出さた。帰宅後、真面目に学校に行くようにと母親が厳しく言いつけたのにも関わらず、王太郎のサボり癖は治らなかった。

 王太郎はグレてしまったわけでも、不良になったわけではない。

 ただ油断していただけなのだ。

 なにをやっても完璧にこなすことができる自分なら、どれだけサボろうが、いくらでも挽回できだろうと。ならギリギリまでサボり、ツケが溜まって首が回らなくなったら、その時から頑張ればいいではないかと。

人生はいつ終わってしまうか分からない。ガンとか心臓発作とかの病気で、もしくは唐突な交通事故で、あるいは地殻変動による大地震で、今この瞬間にでも自分の人生は幕を閉じるかもしれない。それならばやりたくないことは全て後回しにする方が理に適っている、と王太郎は本気で思っていた。

王太郎の唯一の欠点は油断ができないこと、それくらいに王亜郎は圧倒的な才能をもっていた 

だがいくら天才の息子とはいえ、日に日に堕落し、社会不適合者への道を究め続ける王太郎に両親は焦りを覚え始めた。学校にも行かず、部屋に引き籠ってゲームやマンガを読みふけり、めんどくさいからとご飯すら食べない。

中学卒業間際。

堪忍袋の緒が切れた母親は、名門N校に入学し学校にきちんと通うことを申し付けた。もしそれを守れないのなら、彼の部屋にあるマンガやゲームを全て処分すると。せっかく集めたコレクションを失いそうになったこの時でも、王太郎の頭には一瞬それでもいいかという考えがよぎった。だが母親の悲壮さに、親にこれ以上の心配をかけるのは忍びないという良心が勝った。

長い目で見れば、N校に落ちて挫折を味わった方が王太郎のためだったのだろうが、彼は天才の中の天才、中学三年間、一秒も勉強していなかったのにも関わらず、王太郎は史上初の満点合格者として首席入学し新入生代表の挨拶をすることになった。


 そして今現在。

 壇上で王太郎はそのことを悔いていた。

 やっべー……昨日ゲームに夢中になってたせいで肝心の原稿を印刷するの忘れた……。こんなことなら、適当に間違えて点数を落としておくんだった。てか入学する前から学校に来させてリハーサルさせるとか、入社前に無給で研修を受けさせるブラック企業と同じだろうに。

ああ、どうしよ。

原稿がなくても内容は全部覚えてるから暗唱できるのだけど、なんかやらなくていい気がしてきたな。だってもし仮にここでしくじっても先生たちから滅茶苦茶怒られるだけでしょ? どんだけ最悪な展開になったとしても退学が限度、それくらいの失敗ならいくらでも取り返せるよなー、俺なら。

ならいっか。うん、もうめんどくさいからいいや。人生いつ死ぬか分からないんだから、今この瞬間の快楽を最大まで高めよう。

「原稿忘れちゃったんで次のプログラムにいって下さい、すいません」

「「「……えっ?」」」

 軽薄な笑顔を顔に貼り付け、頭をわしゃわしゃと搔きながら、階段を下りて自席へと戻る王太郎に、会場の誰もが呆気に取られた。そして王太郎は席に座ると堂々と居眠りを再開してしまったのだった。


 放課後。

 始業式での失態で、体育教師からこってりと絞られて憔悴した王太郎は、自宅に帰るなりベッドにバタンキューした。

「他の高校に行くんだったなー」

 登校初日。

 王太郎は早くも今の高校に通うことになったことを後悔していた。彼にそう思わせた理由の一つ目は、同学年の生徒から浴びせられる敵意丸出しの視線である。我こそはという天狗の鼻を見事に折られた彼らは、余裕そうにしている王太郎の態度が気にくわなかった。

 幸にも、頭の良い高校ということで目に見えた嫌がらせのような低レベルなことは起きなかったものの、常に敵対心を浴びせられているせいで、どうにも授業中の居眠りの質が低い。

 そしてもう一つはここが男子校ということである。

 整った顔立ちをしている王太郎だが、その覇気のなさからどうにも締まりのない顔をしている。だがそれでも美男子であることには変わりなく、なにより勉強とスポーツが抜群にできる。

 そんな王太郎のことを同年代の女子が放っておくはずもなく、中学校のときはファンクラブまで存在し、近隣の学校からも王太郎を一目見ようと、校門の前に出待ちがいるほど。バレンタインのときは、山のようなチョコレートを貰っていた。女好き、というわけではないが、それでも年頃の男子。王太郎も同年代の女子から、それも可愛い子から黄色い声援を送られると気分が良い。

だがN高校は男子校、校内はむさくるしい男たちばかり、王太郎は心の底から自身の選択を後悔した。

 だが捨てる神あれば拾う神ありとはこのこと、つい先週、急な会社の都合により父親は海外転勤を命じられ、ずぼらな彼を心配して母親も同行することになった。つまり今現在、王太郎は一人暮らしをしており、その事実が彼を慰めた。

 まあ、いいや。

今日から悠々自適な一人暮らし、ゲームにマンガ、アニメにラノベを存分に謳歌することにしようではないか。

 それから王太郎は堕落の限りを尽くした。

 次の日、朝起きた瞬間からそのままの態勢で学校には行かず、一日中ベッドの上で、積んでいたゲームを消費し、お気に入りのマンガの新刊を読み漁り、春クールのアニメをザッピングした。もちろんその翌日も、翌々日も同じような生活を続けた。風呂にも入らず万年床に横になったままで、夢中になっているせいか空腹感を感じることもなく、王太郎は起きている間はずっと娯楽を浴び続けた。

 そんな生活が一週間続いた。

「ああ……幸せだー」

 ベッドの上で携帯ゲーム機をプレイしていた王太郎は思わず呟いた。

 最高だ、ニートライフ。先週は入学式とそのリハーサルのために、二日も連続で外に出てしまった。連勤などありえない。こうして堕落することこそが人生だ。

 もちろん世間からすれば、俺はただの引き籠りだ。

 だけどそれがどうしたというのだ?

俺ならいつからだって遅れを取り戻せるさ。

だったら今この瞬間を楽しむのが正解だろうに。人生はいつ終わりが来るかなんて分からない。どんな天才だろうが、死んでしまったらそれまで。だったら我慢なんてせず、将来のことなんて気にせず、今この瞬間を楽しめばいいのだ。

 己の人生哲学の正しさを再確認したところで、王太郎はクリアしたゲームの余韻に浸ることもなく、今度は机の上に平積みにしておいたラノベの新刊を手にとった。


それからどれくらいの時が過ぎただろう。

 ベッドが一度も出ることなく、起きている間は大好きな娯楽を楽しみ続け、限界がきたら気絶するようにそのまあ眠る、その無限ループを王太郎は心ゆくまで堪能した。

 そして次に目を覚ましたとき。

「……どこ、ここ」

 彼は知らない場所にいた。

 ……なんで俺こんなとこにいるんだ?

覚えている最後の記憶は……そう、前から読みたいと思っていた名作マンガを全巻一気読みし終えたんだ。そしてあまりの疲労で、そのままベッドの上で眠りについたはずだ。

 それなのになぜ俺はこんなところにいるんだ?

 というか、ここはいったいどこなんだ?

 周囲を見渡し、王太郎はその異様さに気づく。

 彼の周りを取り囲んでいたのは果てしない闇だった。周囲も、足元も、天井も、そこに存在するのは黒一色であり、彼はまるで暗転した舞台の上に立っているようだった。だがなぜだろう、暗闇に包まれた空間にも関わらず、自分の身体をハッキリと見ることができる。不思議に思いながら、王太郎がまじまじと両の掌を見ていると。

「ご利用は初めてすかー」

 不意に声をかけられた。

 そちらを振り向くと、一人の女性がカウンターに肘をついていた。なにかイヤなことでもあったのか、椅子に座った女性は愛想の悪いむすっとした顔で、金髪のロングヘアーの毛先をクルクルと指先で弄んでいる。

「えっと……」

 王太郎は返答に窮した。

 ここがどこだか分からない、という戸惑いからではない。

 目の前の女性、受付嬢のような彼女の頭の上に奇妙な物体が浮遊していたからである。

「……輪っか?」

 物理法則を無視して彼女の頭上に浮かぶそれは、まばゆく光る金色の輪っかであった。サイリムの端と端をつなぎ合わせたような光の輪が頭の上に浮いてた。眩く光るそれに王太郎が目を奪われていると。

「あの!」

「え?」

「し・つ・も・ん。初めですか?」

「えっと、あ、はい。多分」

 自らのおかれた状況を把握できていないのも関わらず、不機嫌そうに顔しかめた女性に気圧され、王太郎は思わず返事をしてしまう。

「ちっ。はい、じゃあこれ記入」

 舌打ち交じりにバインダーを取りだすと、彼女は王太郎に向けてそれを差しだした。

「終わったらまた声かけてくだっさーい」

「え、あ、ちょっと……」

 いったいここはどこなのか、王太郎はそう質問したかったのだが。

「ちっ、なにか?」

「あ、いえ……大丈夫っす」

「ちっ」

 半眼で睨まれ、王太郎はおずおずとペンを取り用紙に記入しながら思った。

 なにこの姉ちゃん、態度わるー……。バイトかなんかなのか? さっきから髪の毛弄ったり、ネイルの剥がれ具合気にしたりしてるし。

いや、それよりもだ。なにあの頭の上の輪っかは。あれ、どうやって浮いてんの? 見たところ針金とかで頭につけてるわけではなさそうだし、お姉さんがどれだけ頭を動かしても、一定の距離をずっと保ってるし。

まあ、仕組みはいいとしても、なんでそんなことをする必要があるんだ? 輪っかに気を取られてしまったけど、よく見るとこのお姉さん、服装もなんだか変わっている。古代ローマ人みたいな、厚ぼったいカーテンのような布をまいたトーガのような服に、首や手首には金色の装身具をつけている。

天使、という言葉が王太郎の頭に浮かぶ。

だがまさか本物の天使ではないだろうに。そうなるとコスプレか? でもまだ季節は春、ハロウィンには程遠いし、勤務中にコスプレとかどうなのそれ。

記入を終え、王太郎がバインダーを返すと。

「それじゃ、整理券をとってそちらの待合スペースでお待ちくださーい」

 受付嬢はカウンターの上に置かれた発券機を顎で示すと、役目は終わったとばかりに脚を組んでスマホを弄り始めた。

「……」

 仕方なく王太郎は整理券をもぎ取り、指示された待合スペースとやらへ向かう。椅子に腰かけると、王太郎は状況を把握しようと周囲を見渡す。

 待合スペースとやらには、彼の他にも十数名ほどの整理券を持った人間がいるのだが、その内訳は多種多様で、老若男女どころか黒人白人が入り乱れ、国際色が非常に豊かな空間が形成されていた。

「いったいここはどこなんだ……」

 混乱に次ぐ混乱。

 息つく暇もなく、王太郎の番号が呼ばれる。

「25番の整理券をお持ちの方、25番の方。3番ブースへどうぞー」

 王太郎は立ち上がり、3番ブースとやらを探す。

「あれか」

 簡易的な衝立で仕切られた窓口には、端から順に番号が振られている。

 王太郎がブースにたどり着くと、その向こうには一人の女性が。

「どうぞ、おかけください」

素直に王太郎は丸椅子に腰かけ、女性と目線を同じにする。

「リストを持ってまいりますので、少々お待ちください」

 そう言い残して女性は奥へと引っ込んでしまう。奥とはいっても、コンビニのバックヤードのようなものではなく、すぐそこ、オフィス机やコピー機が並べられている事務所のような空間である。

 手持無沙汰になった王太郎は他にすることもないので女性を観察する。

 見たこともないくらい綺麗な女の人だな。肌は透き通るように白いし、アニメのキャラみたいなプロポーションをしている。もしかして、あのダボっとした服がここの制服なのだろうか、受付のお姉さんと似たような服を彼女も着ている。だが天使の輪っかのようなものはない。代わりに絹のように滑らかで光沢のある布を、海外セレブのように肩に羽織っている。いや、羽織っているのではない。よく見ると……浮いている?

 王太郎が見惚れている間に、彼女はパソコンのような端末を操作し、コピー機から印刷されて出てきた紙を手にとってこちらに戻ってくる。

「お待たせしました。こちらがリストになります」

「あ、どうも」

 目の前の女性のあまりの美しさに、王太郎はなんの疑問を抱くこともなく鼻の下を伸ばしながら差しだされた紙を素直に受け取った。そんな彼を見て、気づいたら見ず知らずの場所で素性の知れない美女に鼻を伸ばしている場合なのか、と突っ込みたくなるがこの男は天海王太郎、彼が本気になれば、もし仮にここがミノタウロスの迷宮だろうが、アルカトラス刑務所の最深部だろうが、光すら飲み込むブラックホールの中心だろうが、超一流のマジシャンが刀剣をめった刺しにされた箱から抜け出すかの如く、いとも簡単にそして鮮やかに脱出するだろう

『本気』になれば、の話である。

そして王太郎がその気になることは八月に雪が降る可能性よりも低い。自分ならどんな絶体絶命的な状況でも打開できる、だからこそ本当に取り返しがつかなくなるその一歩手前までなにもせず今を楽しむ、それが王太郎の哲学であり、その通り今は目の前のキレイなお姉さんに鼻を伸ばすことを満喫していた。

「それでどれにしますか?」と美女。

「え、なにがですか?」

「転生先です」

「……転生先?」

「あなたは前回の生を終えたので、次に自分が生まれ変わるモノを選ばなくてはいけないんです」

「……はあ?」

 転生?

 生まれ変わり?

 いったいこの美女はなにを言っているのだろう。マンガやアニメの世界じゃないんだから、そんなのあり得ないだろうに。

 あれ、というか待てよ。

 今この人なんて言った?

 前回の生を終えた?

 それってつまり……。

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

「なんですか?」

 美女は鬱陶しそうな顔をする。

「前回の生を終えたって、それってつまり、俺、死んだってことですか?」

「そうですけど?」

「いや、そんなさらりと言われても……」

 表情一つ変えずに答える美女に、王太郎はたじろぐ。

「ここは死んだ人間がやってくる場所。天界です」

「天界……?」

 言い慣れない言葉に違和感を感じる。

「天界って……ここがですか?」

「ええ、そうです」

 周囲を見渡す王太郎。その目に映るのは、先ほど自分が通ってきたカウンターとそこでヒマそうにしている天使のような見た目のお姉さん、待合スペースで待機する多種多様な人種の人々、そして自分がいるブースと目の前の美女、その奥にある事務所のような場所。

 それ以外は、すべて暗闇に包まれており、まるで抽象演劇で用いられる舞台セットの中にいるようである。天界、という言葉を聞いて大多数の人が思い浮かべるような、ふかふかの雲の上に古代ローマのような神殿が立っているような場所では決してない。

 だが今はそんなことよりも。

「死んだって、いつ⁉ なんで⁉」

「なんで私に聞くんですか」

 珍しく取り乱す王太郎だが、美女の対応は素っ気ない。

「なぜ自分が死んだのかなんて、死んだ本人が一番知っているでしょ?」

 それもそうだなと王太郎は記憶を探った。

 最後に覚えている記憶といえば、マンガを全巻一気読みしたあとの心地よい読後感に包まれながら、気絶するようにベッドで眠りについた場面だ。でもそこからなにが起こったら死ぬんだ? 

王太郎の頭脳をもってしてもその答えを導きだせなかった。

「分かりましたよ。今確認するのでちょっとお待ちください」

 美女は腰のあたりまで伸びたプラチナ色の髪の毛を手で億劫そうに払うと、脇に設置されたパソコンを操作し始めた。

「その間に、次の転生先を選んでおいてくださいねー」

 カタカタカタカタ、とキーボードを打鍵しながら気怠そうに彼女は言う。

「次の転生先って言われても……」

 自分がなぜ死んだのか、その理由すらも分かっていないのに転生もなにもあるかと思いつつ、これ以上記憶の底を漁っても手掛かりになりそうなものは見つからなかったので、王太郎は素直に手元の紙に視線を落とした。

「それになんだか、ゲームのキャラを選ぶみたいで面白そうだ」

 どれどれと表紙を捲る王太郎の顔は、いつも通りベッドの上でダラけるときの緩み切った表情に戻っている。

 だがそれも束の間。

 王太郎の顔はみるみる内に曇っていく。

「なんだこれ……」

 それもそのはず。

 王太郎の転生先リストと称されたそこに並んでいたのは、ゲームのキャラみたく『竜騎士』やら『大賢者』のようなカッコいいモノではなく。

「床下のゴキブリ、干からびたミミズ、便所コオロギ……」

 どれもこれも最悪だった。

「ちょ、ちょっとこれおかしくない?」

「なにがですか?」

 王太郎はペシペシと紙を叩きながらクレームをつけるも、美女はパソコンの画面を見たままでぞんざいに返事をする。

「なにがじゃないですよ。ゴキブリとかミミズとか、なんでそんなろくでもないものしか載ってないんですか? 銀行強盗とか、ハイジャックとか、俺、そういう悪いことなんてなんにもしてないんですけど」

「なにもしてないからじゃないですか」

 美女は突き放すように言った。

「え?」

「輪廻転生って聞いたことあるでしょう。この宇宙で命の終わりとは次の命の始まり。現世で善い行いを沢山すれば、次の人生、来世ではもっと素晴らしい人生を送ることができます。そしてその逆もまた然り、悪い行いをすれば来世ではろくな人生を送ることができません」

 見たところ、と言って美女は横目で王太郎をチラ見する。

「日に何日も当たっていないようなその肌に、ひょひょろの手足。おまけにジャージ姿で、しかももう何日も風呂に入っていないし、髪もベトベト」

 美女は露骨にイヤそうな顔をして鼻をつまむと軽蔑に満ちた視線を王太郎に向ける。

「あなた、どうせ引き籠りとかでしょ?」

「いやいや、違うから」

「嘘おっしゃいよ。日本語が常用語ってことは、あなた日本に住んでたんでしょ? そんな豊かな国で、あんたみたくなるって引き籠りに決まってるわ」

 いつの間にか砕けた口調になっている美女。だが決して王太郎と打ち解け始めたからではなく、彼を下に見ているからである。

「どうせロクに働きもせず、親のすねをかじりながら、一日中ゲームばっかりしてたんでしょ」

「はあ? そんなことは……」

 キレ気味で返そうとした王太郎だったが、彼女の言ったことが全て自分に当てはまっていることに気づき、その声は尻すぼみになっていってしまう。それを見た美女は勝ち誇ったように鼻で嗤った。

「やっぱりそうね。あんたみたいのは大抵そうなのよ」

 小ばかにしたような彼女の言葉に、王太郎もつい言い返してしまう。

「ああ、確かにそうだよ、その通りですよ! でも言っておくけどな、俺が本気出したらすごいんだからな? ただやらないだけでその気になったら大抵のことはできるんだからな?」

 事実その通りではあるのだが、王太郎の不潔極まりない見た目と、溢れ出る小物感に、美女は完全に舐めていた。

「あーやだやだ。どうして引き籠りってこうプライドが高いのかしら。俺はやればできるんだって、じゃあとっととやりなさいよ。家から出て働きなさいよ。それができないから引き籠ってるんでしょ? え、どうなんですか? 違うんですか?」

「この野郎……」

 美女は両手を動かして大袈裟に煽ってくるので、王太郎は思わず手が出そうになるも、必死にこらえて言葉による反撃を試みる。

「そういうお前はどうなんだよ」

「なに、逆ギレ?」

「人のこと散々バカにしてくれたけど、そう言うからにはそちらさんはさぞや立派人間なんだろうな」

 嫌味ったらしくネチネチと話す王太郎。

 だがそんなもの屁でもないと美女は余裕の笑みを崩さない。

「ええ、もちろん。というか、私は人間なんかじゃないわ」

「人間じゃない?」

 予想外の答えに王太郎は戸惑う。

その反応が心地よかったのか、美女は演技がかった仕草でプラチナ色の髪を払うと、たわわに実った胸を支えるようにその下で腕を組んだ。

「私はエルメラ、この天界で迷える魂たちを導く女神よ」

「……女神?」

「ええ」

 自信たっぷり鷹揚に頷いたエルメラに、王太郎は呆気に取られることしかできない。

確かにこの美女は女神と言えるほど美しい。神々しいまでに美しい。だがそれ以外、王太郎が座る椅子も、エルメラと名乗った美女が操作するパソコンも、ブースを仕切る衝立も、全部その辺で揃えられそうなものである。おおよそ女神に相応しいものとは言えない。

王太郎がそのことを指摘すると。

「節約よ、経費節限」

 エルメラが愚痴を漏らした。

「昔はもっと豪勢だったのだけど。でも、どうせここにやってきた魂たちは、すぐに転生しちゃうんだからお金をかけても仕方ないだろうって。そりゃ、あんたらはいいわよ。どうせすぐに出てくんだから。でも職員である私たち女神や天使たちはたまったもんじゃないわよ。あーあ、早く定時にならないかしら」

 うんざりしながらエルメラが壁の時計に目を遣るのを、王太郎はげんなりと見ていた。

 経費節約とか、定時とか……。

 さっきから天界のイメージをぶち壊すようなことしか言わないな、この女神は。

「あ、検索終わった」

 エルメラはマウスを操作し、天界で管理されている王太郎の情報を画面に表示すると、顔を近づけて読み上げる。

「えーっと、天海王太郎。出身は日本で、死んだ場所も日本。職業は高校生。あら、よかったわね」

「なにがだよ?」

「学生の内に死ねて。このまま生きてたら、学生の肩書すら失って、ただのニートになってたでしょうからね」

 こいつ、また減らず口を……。

「で、肝心の死因はなんだったのかしら? あんたみたいなダメ人間、さぞや死にざまも残念なんでしょうね。ここの仕事って代わり映えしないから、面白い死に方をした人の経歴を見るのって貴重な娯楽なのよね」

ふふふっとタチの悪い笑みを浮かべマウスをスクロールするエルメラ。

「お前は女神じゃなくて、悪魔のほうが向いてるぞ」

 よっぽど楽しいのだろう、王太郎の突っ込みを無視して、エルメラは食い入るように画面に集中している。

「死因(し・い・ん)! 死因(し・い・ん)!  あ、あった!」

 エルメラはマウスをスクロールするのを止めた。

「あんたの死因は……餓死?」

「え?」

 予想外の答えに王太郎も呆気に取られてしまう。

「あ、その私……ごめんなさい」

 エルメラが気まずそうに目を伏せた。

「まさか日本なんて豊かな国で、食べ物に困ってる人がいるなんて私思わなくて……。おまけに締まりのない顔で、髪の毛ベトベトで臭かったから、てっきり引き籠りのニートなのかと思ってしまって……」

 俯いたまま申し訳なさそうにするエルメラ。

「謝ってるようで全然謝ってないから。締まりのない顔とか、臭いとか、思いっきり悪口だから、それ」

「そうよね……豊な国でも誘拐とか監禁とかで、何日も食事が摂れないことだってあるわよね。それなのに、ごめんなさい。私、あなたが臭くて汚くて気持ちが悪いって、それだけの理由で社会不適合者だって決めつけてしまって……」

「おい、ワザとだろ? 絶対ワザとやってるだろ、お前」

だがしばらく風呂に入っていないのは本当だったので、王太郎もあまり強くは反論しなかった。

「そういうことなら特例が認められるかもしれないわね」

「特例?」

「そう。事故とかテロとか、現世で不幸な死に方をした人には特例措置として、無条件でもう一度人間に転生できる権利が与えられるの」

 なるほど、と口にした王太郎だが頭では別のことを考えていた。もし本当に俺がもう既に死んでいるのだとして。それが第三者の犯行のせいなのだとしたら、死ぬ前最後の記憶が自室のベッドでも説明はつけれる気がする。

「それじゃあ、申請のためにも死んだときの詳細な状況を確認させてもらうわ」

 そう言うとエルメラはマウスをスクロールして『死因』の項目のすぐ下、『死亡時の詳細』という項目を画面に表示させる。

「えーっと、天海王太郎は自室のベッドにて漫画を一気読みしたあと、疲労により就寝」

 そうだ。

 そこまではハッキリと覚えている。問題はその次だ。

「だがしかし、数週間もベッドの上で自堕落に過ごし、めんどくさいからとの理由で食事すらしていなかったため、そのまま就寝中に栄養失調を起こし餓死した……」

「……」

 二人の間になんとも言えない空気が流れる。

「……就寝中に栄養失調を起こし餓死した」

「え、なんで二回読んだの?」

 王太郎の突っ込みを無視し、エルメラはさらに復唱する。

「就寝中に、餓死……ぷっ」

 あ、こいつバカにしてる。

 まだ出会って間もないが、王太郎は手にとるように分かった。

「ぷあはははっ! え、え、えええっ!? ちょっと待ってよ!? もう何千年もこの仕事やってるけろそんなマヌケなやつ初めて見たんですけど⁉」

 大口を開けて笑うエルメラ。

 そのあまりの笑いっぷりに、受付にいた天使や、待合スペースにいた他の死人たち、隣りのブースで次の転生先を協議していた死人と女神たちまでもが、なにごとだろうと二人のブースを注目した。

「いやいやそんなワケないって私! いくらマヌケだからって食事をするのを忘れて餓死なんてありえないわよ! ミジンコだってそれくらいできるのよ? オケラだってアメンボだってご飯くらい食べられるのよ? それなのに人間ができないわけないじゃない。そう、きっと私の見間違いよ、うんうん。もう一度しっかりと、声に出して読んでみましょう」

 そう言ってエルメラはパソコンに顔を近づける前に、ちらっと王太郎に視線を寄こした。

「この野郎っ……!」

 絶対にバカにしてやがるこの女。

 読み間違いじゃないことを分かってる。分かってるのにも関わらず、俺に恥をかかせるためにもう一度読もうとしてやがる。

「天海王太郎は数週間ベッドの上で自堕落に過ごすもあまりの怠惰さに食事すら怠ってそのまま就寝中に栄養失調を起こし、が、が、餓死した……ぷっ、あはははっ! ダメ、傑作! 何回読んでも笑っちゃう、お腹痛いんですけど!」

 エルメラはお腹を抑えて膝から崩れ落ちると。もう片方の手でバシバシっ!と机を叩き始める。それはもうバカにしているのを微塵も隠さないようなあまりの笑いっぷりだったが、王太郎は別のことを考えていた。

 ……餓死?

 俺、餓死で死んだの?

 だが言われてみると心当たりがあるな。最後にまともに食事を摂ったのは、高校入学の前、両親が出張に発つ前で家にいたときだ。それ以来、料理をするのはおろかコンビニに行くのもめんどくさくて、ほとんど水しか摂っていなかった。ゲームやマンガに熱中するあまり食事すらも後回しにしてしまっていた。

 後でやればいい、と。

 父親から受け継いだ生来のズボラさは、天から授かった圧倒的な才能によってさらに磨かれ、ついには生き物としての生存本能すら疎かにするまでに至っていたのだった。

「まじかよ……」

 フードロスが嘆かれる現代の日本で、めんどくさいというただそれだけの理由で餓死しした己のあまりの怠惰さに、本人である王太郎自身がびっくりしていた。

「あーあ、笑った、笑った」

 エルメラは椅子に座り直すと目尻の涙を指先で拭った。

「で、次の転生先は決まった?」

「決まったもなにも、こんなひどいのから選べるかよ」

 リストにあるのは、床下のゴキブリ、干からびたミミズ、便所コオロギである。

「文句なら自分に言いなさい。さっきも言ったけど、次なにに生まれ変わるかはその人が現世でどれくらい善い行いをしたかにかかっているの。あんたみたいな怠けものは虫くらいしか転生できなわいよ。あ、でもナマケモノにだったらなれるかも知れないけど」

 ぷぷぷっと両手口を押えてエルメラは王太郎をバカにする。

「なあ頼むからどうにかしてもう一回人間に転生できないのか?」

「無理ね」

「そう言わずにさ、俺にはまだやり残したことがあるんだよ!」

「なによ?」

「未消化のゲームがまだ山ほどあるんだよ。人間に生まれないとコントローラーを握れないだろう?」

 熱弁する王太郎にエルメラはドン引きしていた。

コイツ、自堕落に過ごしていたせいで餓死ししたのに全然懲りてないなと。

 それもそのはず。この男、天海王太郎は死んでなお、自分だったらなんとかできるだろう、という能天気が未だに治らない。油断が骨の髄まで染みわたっているのである。

「無理なものは無理ですー。人間に生まれ変わりたいならそれ相応の善行を積んでくださーい」

「だからそこをなんとかさ、」

「ダメなものはダメ! さ、ちゃっちゃと選んだ選んだ。もうすぐ定時なんだから早くして」

 エルメラに転生先のリストの紙を押しつけられ、王太郎は不服そうにする。定時ばかり気にしてこちらの言うことを全く聞かない、まるでお役所みたいなところだ天界は、と。

 だがもう一度人間に生まれ変わり、自堕落に過ごすためにはこの女をどうにか説得しなくてはいけない。王太郎は久しぶりに脳みそを回転させ説得の材料を探した。

「そうだ、特例。さっきお前、特例がどうとか言ってただろ?」

「だから?」

「その特例の中に、俺がもう一度人間に生まれ変わることのできるケースがあるんじゃないのか?」

「あー……どうだったかしらねー」

 エルメラは投げやりに記憶を探る。

「そう言われたらそんなのがあったかもしれないけどー……」

「本当か!?」

 王太郎は思わず身を乗り出す。

「でも調べてると定時過ぎちゃうから、ありものから選びなさいよ」

「ふっざけんな! こっちは次の人生かかってんだよ! とっとと調べろよ!」

「分かったわよ、調べるわよ。調べるけど、定時になったら帰るからね」

 王太郎にせっつかれ、エルメラは渋々パソコンを操作する。その様子を王太郎は祈るように見守る。

「特例、特例、特例……あ、これじゃない?」

「どれだ⁉」

「ちょっと待ってて読み上げるから」

 エルメラは画面に顔を近づける。

「『善行の前借』。現世で怠惰に過ごした魂でも、来世でそれ以上の善行を果たすという契約をすれば人間に生まれ変わることを可能とする、だって」

「それだ!」

 王太郎はすぐさま食いついた。

「するする、契約する! 次に人間に生まれ変わったらもう沢山いいことする! 毎日決まった時間に起きて、学校に行くし、授業も寝ないし、風呂にも毎日入る!」

「そんなの当たり前よ」

 でもね、とエルメラは続けた。

「この『善行の前借』だけどね、人間に生まれ変わるためには、生半可な善行じゃ足りないみたいよ」

「例えば?」

「世紀の発明をして文明を進歩させるとか、百年続いた国同士の争いを止めるとか、それくらいの英雄と呼ばれるような活躍を約束しないといけないっぽいわねー」

「なんでそんな大層なことを約束しなくちゃいけないんだ?」

「お金と一緒よ。銀行からお金を借りたら、利子が発生するでしょ? 人間に生まれ変わるのに足りない分の善行は天界からの貸付ってことになるのよ」

「利子って……ぼったくりにも程があるだろうに」

「嫌なら止めれば? 私としてはどっちでもいいし」

 時計を気にしながら他人事のようにエルメラは言う。

 コイツ、定時で帰ることしか頭にねぇのかよ。

 だがしかし、王太郎に選択肢はない。

人間に生まれ変わるためには法外な利子だろうと受け入れるしかない。

「分かったよ。世紀の発明家だろうが終戦の英雄だろうがなんにでもなってやる。だから人間に生まれ変わらせてくれ」

 どうせ俺なら余裕だろうと王太郎は高を括った。

「それがそうもいかないのよねー」

「なんでだよ?」

「考えてもみなさいよ。人助けをするためには、まず困ってる人がいないといけないでしょ? 今の地球じゃ、あんたが人間になるために必要な善行を稼げるほど、沢山の人が困ってないのよ。それができそうな星となるとねー」

 そう言ってエルメラはカタカタとキーボードを叩く。

「ここくらいしかないわね」

 エルメラはパソコンをくるりと王太郎に向けた。

「これは?」

 画面に映し出されたのは地球によく似ていたがよく見ると違う星だった。

「あんたの知ってる世界線とは異なる世界にある地球によく似た星。よく似てるから、人間もいるわよ」

 でもね、とエルメラは言葉を区切った。

「この星には『魔族』とよばれる人種もいるの」

「『魔族』? 『魔族』ってあの?」

「そ。頭から角が生えてたり、背中に翼が生えてたりするあれよ。そんな魔族の長、俗にいう魔王の支配によって、この星の人々はもう何年もの間苦しめられているの」

「つまりその魔王とやらを倒して人類を救え、と?」

「そういうこと」

「オッケー、じゃあその星で構わないから人間に生まれ変わらせてくれ」

「え、決断早くない? 魔王よ、魔王。私たち天界の神々でも恐れる存在よ?」

「分かってるよ」

「……あんた本気?」

「本気だよ」

 王太郎が至って平然と呟いた。

 自信があったわけではない。そう、それは自信などではなく過信であった。俺なら魔王だろうが閻魔だろうが倒せてしまうのだろうという、なんの根拠もない奢りであった。

「そりゃ魔王がいなくなれば死者が減って、ここに来る魂も減るから仕事減って超ラッキーって感じだけど」

 王太郎も王太郎だが、この女神も大概であった。

「でも魔王ってすごーく強いのよ? 捕まったら多分、拷問とかされちゃうわよ?」

「無駄話はいいから早くやってくれ。定時に帰るんだろ?」

 王太郎が軽口を叩くと、エルメラはむすっとしてすぐに特例申請に取りかかった。

「どうなっても知らないわよ」

「お気遣いどうも」

 全く顔色を変えない王太郎。

 それを見たエルメラは一秒でも早く王太郎を死地に送るべく、珍しくテキパキと仕事をこなしていく。パソコンへの入力を済まして席を立ち、プリンターから出てきた紙を手にとり、偉そうな人の机へと持って行って判子を押してもらい、戻ってきて言う。

「申請完了! いつでも行けるわよ?」

「よし、じゃあ頼む」

 最後の最後、土壇場になって王太郎が泣きついてくるかと思ったが、なんでもないことのように椅子から立ち上がった彼を見て、エルメラはこいつは救いようのないアホなのかもしれないと思った。

「手を出しなさい」

「なんで?」

「いいから」

 エルメラは王太郎の左手を取ると、その甲になにかの模様を描くように指先を走らせた。

「これでよしっと」

「なんだこれ?」

 王太郎が恐る恐る見た右手の甲、そこで小さな魔法陣が光り輝いていた。

「契約の証。ま、かっこよく言うなら勇者の紋章とかかしら」

「勇者の紋章ね」

 王太郎が右手を矯めつ眇めつしていると魔法陣は光を失っていく。

「もしなにかあったら右手を三回連続で擦りなさい。私と連絡が取れるから、なにかあったら言いなさい。終業時間内なら力になってあげなくもないわ。あ、お昼休み中は無理だから」

「お前な……」

呆れる王太郎。

 次の瞬間、王太郎の立つ下に手に大きな魔法陣が描かれ、光りだす。

「転生の魔法陣が発動したわ」

 エルメラが告げる。

「一応聞いておくけど、遺言はあるかしら?」

「さくっと魔王と倒してお前の仕事を減らしてやるよ」

「転生した瞬間に死んで私の仕事を増やさないでよね」

 軽口の応酬を交わした後、魔法陣が強く光り輝き、それが収まったかと思うと、そこにはもう王太郎の姿はなかった。



第二部


全身を光に包まれ反射的に目を閉じた王太郎。

 彼が次に目を開けると周囲は一変していた。

「どこだここ……」

 王太郎は不思議そうに辺りを見回す。

 彼の周りを囲んでいたのは鬱蒼とした木々と茂みであった。

 どうやらどこかの森らしい、と王太郎は考えた。

 転生させるならもっと人里の近くとかにしてくれよ、あの性悪女神。早速左手の魔法陣を起動させようかと思ったが。

「ま、文句言っても仕方ないか」

 とりあえず川を探そう。まずは飲み水を確保しなくては。それに川に沿って移動すれば、人が住んでいる場所へとたどり着くかもしれない。

 幸にも、転生した場所からそう遠くない場所に川を発見した王太郎は、喉を潤し、水面に映る自分の姿を確認した。水面に映るのは慣れ親しんだ自分の顔であり、王太郎はとりあえず胸を撫で下ろした。

「でも、もうちょっと初期装備サービスしてくれてもいいよな」

 自室で餓死したときに着ていた中学校のジャージを王太郎はそのまま着ていた。臭い、とエルメラに言われたので、シャツの襟元を鼻に近づけると、脂の匂いがした。

「ま、あとで洗えばいっか」

 後回しにするという癖のせいで死んだのにも関わらず王太郎は相変わらずだった。

 気を取り直して川に沿って移動を開始する。

 密集して生えている木々のせいで気がつかなかったが、どうやらもうすぐ夜が明けるらしい。暗闇に満ちていた視界に陽の光が差し込んでくる。久方ぶりに浴びる直射日光に、王太郎はげんなりとしながらも歩みを進め続けた。

 そして移動すること五、六時間。

昇りきった太陽が下降に転じ始めようとした頃。

「お、村だ」

 茂みを抜け、開けた崖の上に立っていた王太郎の見下ろすその先には、明らかに人の手によって造られた家々が並んでいた。日が暮れる前に人里が見つかったことに安堵し、王太郎は村へと向かうべく森の中をさらに移動した。


 数時間後。

 山を下り終えた王太郎は村の入り口に立っていた。入口といっても門のようなものがあるわけではなく木製の看板が建てられているだけだが。

「さっぱり読めないな」

 こういうのって転生するときに現地の言葉が理解できるような親切設計になっているのがアニメやラノベだと常だが現実はそう甘くないなと王太郎は一人納得する。

 とりあえず食べ物を分けて貰いたい。最後に食事をしたのは数週間前、このままだとまた餓死ししてあの性悪女神の世話になることになる。

 村の中へと続く道を王太郎は進んでいく。

 いったいどのくらいの文明レベルなのだろうかと王太郎は周囲をキョロキョロしながら進む。彼の進む道は、土を平らにならしただけでありコンクリートで鋪装された現代日本のそれとは全然違う。通りに並ぶ家も石レンガを積み重ねたものだ。もちろん車などもない。地球で人類が辿った文明の発展に当てはめるのであれば、この星の人類のそれはそこまで高くない、産業革命が起こる前くらいなのだろう。整備された畑や、豚や牛などの家畜が、それぞれの家の庭先にいることから、自給自足かそれに近い生活をしているのだろう。

 そろそろ誰かいないものかと王太郎が思ったそのとき。

「お、第一村人発見」

家の手伝いをしているのだろうか、庭先で牛の乳絞りをしていた少女が目に入る。

 彼女もこちらに気づく。

王太郎は敵意がないことを示すべく精一杯の愛想笑いを浮かべる。だがどうやら作戦は失敗したようだった。乳しぼりから顔を上げた少女が浮かべたのは不審の色であった。

「いやー、怪しいモノではないんですけどー」

 そもそも日本語は通じるワケないだろうなと思いつつも、なんとか少女に取り入ろうとする王太郎の口からは、ついつい日本語が漏れてしまう。

 それを聞いた少女は分かりやすく険しくなった。それも当然か、知らない言葉で外国人に話しかけられれば警戒だってする。さて、どうしたものだろうかと王太郎が困り果てると。

「$&#&~¥*#‘¥$%?」

 少女が何かを言った。

 顔の表情と語尾の調子から質問をしたのだろう、と王太郎は察した。

 王太郎はたとえ未知の言語であろうと、一週間もその言語圏で生活すればその言葉を理解し話すことができる。異なる言語とはいえ同じ人間が話すのも、その大枠はほとんど同じで例文が沢山あれば、そこから品詞と文法を割り出すという人工知能のようなことが王太郎はできる。

 せめてここが市場のような人が沢山いる場所で、会話が盛んにやり取りされている場所であれば、簡単なコミュニケーションができるくらいには数分もかからないのにと王太郎は思った。

「$&#&~¥*#‘¥$%?」

 少女がまた同じ言葉を口にしたが、王太郎にはさっぱり分からず困ったような顔をすることしかできない。

 それを見てなにを思ったのだろう、少女は牛乳で濡れた手を前掛けで拭うと、急いで家の中へと入っていく。少女がなにかを叫んでいるのだろう、外にいる王太郎にもその声が聞こえた。

 もしかして不審者だと勘違いされ、親に助けを求めに行ったのだろうか。だとしたら面倒なことになる前に逃げた方がいいだろうか思った王太郎だが、時すでに遅し、先ほど入ったばかりの玄関から飛び出るように出てきた少女は、母親らしき人物の袖を引っ張っていた。戸惑っていた母親が王太郎の姿を目に止める。

母親の顔に浮かんでいたのは恐怖とはまた別の感情だった。まるで想像上の生き物である一角獣や、円盤型の宇宙船から降りてくる宇宙人を目にした時のような顔。

困惑であった。

 恐る恐るだが母親は王太郎に近づき、家の周りに巡らされた腰の辺りまである木製の挟んで尋ねる。

「$&#&~¥*#‘¥$%?」

 まただ。

 少女と同じ言葉を言っているのは分かるのだが、その意味が分からない。

 言葉が通じないと悟ったのだろう、母親がボディランゲージに切り替える。彼女は王太郎を指さし、その後で自分の右手の甲を指さす。

右手を見せろってことか?

 そう解釈した王太郎が手を出すと、母親は口を抑え息を呑む。

「え、なに? これがどうかしたのか?」

 王太郎の右手の甲にはエルメラに刻まれた契約の証、もとい勇者の紋章が刻まれている。

 次の瞬間、少女と母親は興奮して大声を上げ始めた。

どうやら歓喜しているようである。

「……どういうこと?」

 呆然する王太郎だが、敵ではないことは分かってもらえたらしく、ほっとと胸を撫で下ろした。だがそれも束の間、二人は柵を開けてこちら側にやってくると、少女が王太郎の手をしきりに引っ張る。

「……ついてこいってことか?」

 ぶんぶん!と頭を激しく振る少女。

 訳が分からず王太郎は母親の方を見るが、彼女も同様、にっこりと微笑むだけだった。

 まあ、いいや。

 悪い人たちではなさそうだし取りあえずついていくとしよう。

 見知らぬ人間のことをホイホイと信用するのは現代日本で生まれ育った人間としては、リテラシーが低いと言わざるを得ないが、なにせこの男は天海王太郎、仮にこの人たちが人攫いの誘拐犯だとしても、自分ならなんなく逃げることができるだろうと思っている。

少女に手を引かれるがままになる王太郎。

 どうやら一刻でも早く目的地にたどり着きたいらしく、早く早く!と少女は王太郎の袖を頻りに引っ張る。

そして彼はとある木造建築の家の前に連れてこられた。

 恐らく人が住んでいる場所ではないのだろう、他の家と異なり庭もそこにいる家畜も辺りには見当たらない。

 少女が扉を開け王太郎を連れて入る。

 どうやらここは集会所のような場所らしい。

 平屋で細長い家のなかは吹き抜けになっており、仕切りなどもなく、木製の長机と同じく木製の椅子が並べられているだけである。

 その一角、奥の机には数人の男が話している。その内の一人が少女に気づき顔を綻ばせるが、その後ろにいた見慣れない男、王太郎に気づいて表情は険しいものになる。

 だが少女はそんなことなど気にも留めず、王太郎を机の近くまで引っ張っていく。

「&&#$“!」

 少女が王太郎を指さしてなにかを口にした。

 その途端、男たちの目が驚きに見開かれる。男の一人が早口で質問すると、少女は身振り手振りを加えて必死に説明する。だが男たちは少女の話を信用していないのだろう、小馬鹿にしたような笑い、少女をからかっているようである。だが様子を見かねた母親が加勢すると、男たちも態度を変化させ、徐々に真剣な表情になっていく。

 そして次の瞬間。

 男たちは一斉に立ち上がると、わらわらと王太郎の周りに集まり始めた。

「な、なんだ?」

 見知らぬ男に囲まれてあたふたする王太郎。

 男の一人が王太郎の右手を掴み、その場にいる全員に見えるようにする。

 途端、男たちがざわつき始め、言い争いを始めてしまう。

 完全に蚊帳の外に置かれてしまった王太郎は、その間、彼らの会話に耳を澄ませていた。

 そして彼らの話す言葉がどこか英語に似ていたことから、恐らく彼らは英語の古語と似た言語を話すのだろうと王太郎は当たりをつけた王太郎は、まだ小学生で学習意欲のあったときに、ミドルイングリッシュ(中世時代の英語)を習得していたので、そこからの類推により早くもこの世界の言葉を大方理解し始めていた。

「偽物に決まってるだろうが」

 男の一人が言う。

「本物なワケないだろう」

「そうだ。どうせ自分でつけたんだよ、ナイフとかで」

「いや、でも見てみろって。こんな綺麗に彫れるか? それにあのあんちゃん、見たことない格好してるぜ? 瞳の色も髪の色も肌の色だって」

「おいおい、お前忘れたのか? 隣の村がどうなったのか」

「村の男に偽物の紋章を刻んで勇者として王都に連れてったのがバレて、そいつは打ち首。村全部が焼け野原になったんだぞ」

 男たちはチラチラと王太郎の方を伺いながら議論を重ねている。

「あの」

 王太郎が口を開くと、男たちの注目が集まる。

「さっきからなんなんだ、本物とか偽物とか」

 流暢に話す王太郎に男たちは目が点になる。

「あんた、この国の言葉をどこで覚えたんだ?」

 男の一人が尋ねる。

「今」

「……はあ?」

「あんらの会話を聞いてなんとなう」

 男たちは顔を見合わせる。

「それだけでか?」

「前の世界で似た言葉を知ってたから」

 王太郎が返すと、男たちは再び顔を見合わせる。

「前の世界って言ったか?」

 訝しむ彼らの顔を見て、しまったと王太郎は思った。ただでさえ異邦人の身なりをしているせいで警戒されやすいというのに、『前の世界』などとおかしなことを言い出したら余計である。

急いで弁解しようとする王太郎だが、男たちは予想外の反応を見せた。

「あんた今、前の世界と言ったか?」

「え? あ、うん」

「話してくれ」

「え?」

「その前の世界とやらについて俺たちは興味がある」

 ……これはなにか冗談なのだろうか。

 まさか悪ノリでからかっているのだろうか、だがそれにしては彼らの表情は真剣そのもので、王太郎をバカにしているようにはどうしても見えない。

求められるがまま、王太郎は自らの身に起きたことを素直に話した。無論、エルメラに大笑いされたので死んだ理由はそれとなく誤魔化した。

「―ということなんだけど」

 王太郎が少女と出会うまでの経緯を話し終えたが、その場の誰一人として口を開くものはおらず重たい沈黙が流れる。王太郎の話を信じていいものか、誰もが決めあぐねていた。

「シスターに見てもらおう」

 男たちの中で一際体格の大きな男が口を開いた。

「村長! まさか信じるんですかい?」

「違う。だが偽物だとも断言できない。ここはシスターの意見を仰ぐべきだ」

 村長と呼ばれた男に異論はないのだろう。

 男たちは口を紡ぐことで賛同した。

「済まねえがあんた、ちっとばかしついてきてくれるか?」

「え?」

「頼む、そんなに手間は取らせねえはずだ」

 髪をオールバックに撫でつけ、生命力に溢れるふさふさの眉毛と髭を生やした巨漢に頭を下げられ、王太郎は思わず頷いてしまう。

「よし、それじゃあ早速教会に行くぞ。ついてきてくれ」

 言われた通り、王太郎は扉を開けて外に出た村長についていく。さらにその後ろをわらわらと集まってきた村人たちがついてきて、まるでパレードのようになっている。

 いったい何事であろう。

 気にかかった王太郎は、前を歩く村長に尋ねる。

「この人だかりはなんなんだ?」

「王都の御触れのせいだ」

「御触れ?」

「言い伝えがあるんだ。国が困窮した際に、異界から勇者が現れると。溺れる者は藁をもつかむじゃないが、魔族との長いあいだ戦争をしているこの国では、王様が御触れを出したんだ。勇者を輩出した村には褒賞を与えるってな」

「褒賞?」

「勇者を輩出した村は聖地に認定されて王都に収める税金が一生タダになる。おまけに莫大な報酬まで貰えるんだ」

 なるほどな、と王太郎は得心した。

「それで偽物の勇者を立てる奴らがいるわけか」

「そういうことだ。が、勇者の名を騙るのは重罪だ。さっき聞いてたかもしれないが本人だけじゃなく村人全員が死刑だ」

 にも関わらず。

 勇者の名を騙る人間がいるということは、税金の免除と王様からの報酬はこの時代の人たちにとってそれだけの価値があるということなのだろう。王太郎は後ろをぞろぞろと、ハーメルンの鼠のようについてくる村人たちの期待の眼差しを背中に感じていた。

 ……これでやっぱり違いましたとかだったら、俺、どうなっちゃうんだろう。

 ま、それはそのとき考えればいいか。

万が一に備えたのになにも起こらなかったのでは骨折り損になる。なにか困ったことが起こってから対処を考えればいい。そうすれば無駄が発生することもない。うん、我ながら至って合理的だな。

備えなければ無駄がない、がこの男の座右の銘である。

「着いたぞ」

 村長が足を止める。

 映画やマンガの影響のせいか教会という言葉を聞くと、王太郎はステンドグラスがあしらわれた突き抜けるような高い天井に巨大なパイプオルガンがある建物ものを思い浮かべてしまうが、目の前のそれは違った。先ほどの集会所らしき建物より二回りほど大きく、体育館くらいの大きさがあるが、それ以外はここまで来るときに見た普通の民家と大して変わらない。教会っぽいのは屋根に取り付けられた質素な十字架だけである。

 村長が両開きの扉を開けて中に入り、王太郎も続く。

 外装と同じく内装も実にシンプルなもので、礼拝に訪れた人が座るための長椅子が並んでおり、奥には説教をするための教壇、そのさらに奥には女性の彫像がある。どうやらアレがこの教会の宗教が祀る神様らしい。

 村長は教壇へと続く通路を進んでいく。

 どうやら最前列、教壇に一番近い長椅子に腰かけている人物に用があるらしい。今さっき入ってきた王太郎たちを別にすれば教会にいるのはその人物だけである。

「ティエリメット、お祈り中に済まねえ」

 村長に声をかけれると、彼女は顔の前で組んでいた腕を解いて目を開けた。

「どうされたのですか村長さん?」

 まるで調律のとれたピアノのように流麗で落ち着いた声だった。祈りを捧げていたことからもこの少女は教会の修道女なのだろう。その証拠に彼女は修道服を着ていた。顔以外の肌の露出がほとんどない、黒と白の修道服を。

「これは……いったいどうされたのですか?」

 村長の背後に控えている大勢の村人を見て修道女は驚き立ち上がる。落ち着いた雰囲気もあり、座っているときには気づかなかった彼女は相当小柄だった。歳もまだ十代の半ばくらい、少女と呼ぶのが相応しそうな見た目をしていた。

「礼拝日は明日ですよ?」

「急に押しかけちまってすまねえ。でも、急ぎで見て欲しいことがあってよ」

「私にですか?」

 村長は頷いてから脇によると後ろにいた王太郎を彼女に見せる。。

「現れたんだ」

「なにがでしょうか?」

「勇者だよ。手に刻印のある人間が現れたんだ」

「そ、それは本当ですか!?」

 村長が黙って頷く。

冗談ではないと悟ったのだろう、ティエリメットは恐る恐る王太郎へと視線を向ける。

「あ、あなたのお名前は?」

「王太郎」

「オウタロウ。珍しい名前ですね」

 この世界では耳慣れない名前なのだろう、ティエリメットは片言で口にする。

「失礼ですが、どちらからいらっしゃられたのですか?」

 尋ねられたので、王太郎は仕方なく集会所で村長に話したのと同様、死んでからこの世界にやってくるまでの経緯を手短に話した。

「……俄かには信じられませんね。右手を見せていただいても構わないでしょうか?」

 言われた通り王太郎は右手を差しだす。

 そこに描かれた紋章をみた瞬間、ティエリメットは息を呑む。

「……失礼します」

 おっかなびっくりの手つきで王太郎の手を取り、顔に近づけてじっくりと観察し始める。

 そしてさらにその様子を村長をはじめとする村人たちが固唾を呑んで見守る。

 教会はしばし静寂に包まれる。

 ごくりと誰かが唾を呑みこむ音がした。

「ど、どうだ」

 痺れを切らした村長が尋ねた。

「信じられません……この方の右手に刻まれた紋章。これには確かに我が主、エルメラ様のご加護が宿っています。それも非常に強力な加護が」

「え、ってことはあんたらが崇めてるのって……」

 ティエリメットがこくりと頷く。

 となるとあのボンッキュボンな女神さまはエルメラを模したものになるのか、と王太郎はそちらに目を遣る。まあ、確かにプロポーションは良かったけども、あんな優しそうな顔では決してない。エッチなお店で働く女の子が写真と実物とで全然違うくらい似てない。

「つまり……⁉」

 期待に満ちた眼差して村長が尋ねると、ティエリメットは頷く。

「間違いありません。この紋章は本物です」

 そこで彼女は言葉を区切り次の言葉を強調した。

「この方は本物の勇者です」

 静かな教会に、ティエリメットの声が響き、染みわたった。

 そして次の瞬間、割れるような歓声が教会を満たした。ある者は雄叫びを上げ、ある者は傍にいた恋人と抱き合い、帽子を被っていたものはそれを天高く放り投げ、口笛を吹けるものが音を鳴らして頻りに煽り立て、日頃は礼節を保つ大人たちが歓び狂うのを見て、子供たちもとにかく叫んだ。

 正直、そのノリについて行けてない王太郎だったが、厳めしい顔をしていた村長がまるで子供のようにはしゃぎ、村人たちが自分を取り囲んで嬉しそうにしているのはなんとも心地が良いものではあったので、深いことは考えずに彼らと一緒に小躍りをしながらその場の空気を楽しんだ。

 そして次の瞬間、王太郎はその場に倒れた。

「お、おい⁉ どうしたんだ⁉」

 税金の免除と莫大な報酬をもたらしてくれる勇者になにか起こったのかと、村長と村人たちは慌てて王太郎に駆け寄って抱き起す。

「……腹減って、死にそう」

 転生してからまだ水しか口にしていなかった王太郎は、早くももう一度天界へと導かれそうになっていた。


 なんだか良い匂いがする……。

 鼻をくすぐる美味しそうな匂いに王太郎が目を覚ますと、村長たちは大きく安堵の息をついた。

「あれ、俺、どうして……」

 上体を起こした王太郎は、自分が村長たちと出会った建物の中、集会所の長椅子の上に寝かせられていたことに気づく。

「急に倒れたからびっくりしたんだぜ」

 そう言われて王太郎は思い出す。

 そっか、俺、腹減って教会で倒れたんだった。

「腹が減ってるならそう言ってくれりゃいいのによ」

 初対面のときとは打って変わり、王太郎が本物の勇者と分かった今、非常にフレンドリーに接してくる村長である。

「さ、あんたのために用意したんだ。思う存分、食べてくれ」

 そう言って村長が示したのは、長テーブルの上に用意された数々の料理であった。大きな肉や魚、とれたての野菜や果物を惜しみなく使った料理がこれでもかと並んでいた。

「うおー、うまそー」

 腹が減ってから空腹を感じなくなるまで食べる、というのが王太郎の食事スタイルであり、食に対する情熱は全くないのだが、餓死寸前まで空腹になった今は別であった。

「それじゃ遠慮なく! いただきまーす!」

 両手を合わせてナイフとフォークを手にした王太郎は、食べる順番など気にせずいきなりメインのステーキにかかる。肉厚なステーキはかなりの弾力で、ナイフを握る手にかなりの力を込めないと切れないが、その分食べ応えは満点であろうことは一目瞭然であった。

 中々切れない肉に痺れを切らした王太郎は、もういっそのこと歯で食いちぎろうとステーキにフォークを突き刺し、そのまま口に運ぼうとする。が、口まであと少しというところで王太郎の手は止まる。

「あの……」

「ん? なんだ食わないのか?」

「いや、その……」

 ものすごーく言いづらそうに王太郎は口を開いた。

「そんなにじっと見られてると、食べ辛いんですけど……」

 王太郎のの周りに集まった村長をはじめとする村人たちの皆が、ステーキにかぶりつこうとしていた彼のことをじーっと穴が空くようなに見ていた。年端もいかない子供は指を咥えて涎まで垂らしている。

「すまんすまん。じっと見られてちゃ食べ辛いよな。よし、俺たちも晩飯にするとしよう」

 村長が号令をかけると、女たちが器に手際よくスープやパンを皿によそい、男と子供たちは盛り付けた皿を並べていく。

 皆が席に付き、食事がいきわたったところで村長が。

「さ、気を取り直して。じゃんじゃん食べてくれ」

 王太郎の前におかれたグラスにワインを注ぎながら、村長は熱心に進める。

 だがしかし、以前といて王太郎は気まずそうにしたままで食事には手を付けない。

「あのー……」

「ん、なんだ?」

「あ、いや、その……」

 別に王太郎は、未成年のため折角勧めてくれたアルコールを断るのが忍びなかったのではない。お酒を飲むことができる年齢は国によって違い、ようは文化慣習の問題である。むしろ、アルコールを未だ口にしたことのない王太郎は、目の前に注がれた赤いワインに興味がある。

 ではなぜ、自分以外の全員にも食事がいきわたったのにも関わらず、王太郎が食事を遠慮してしまっているのかというと。

「おっちゃんたちはそれだけなの?」

 王太郎は村長たちの前に並んだ料理を見て言う。

 肉や魚をふんだんに使って豪勢な王太郎のそれとは異なり、村人たちの前に置かれたのはパンとバター、それにスープのみという質素なものであった。

「もしかして俺に出してくれたこの料理って、この村では貴重なものなんじゃ……」

「うん? ああ、そのことか。気にしないでくれ」

「でも……」

「なに。確かに肉は貴重だが、それでもこの村には十分な食料がある」

「なら、なんで」

 王太郎が口にした疑問に答えたのは、村長ではなく、今し方、集会所にやってきたティエリメットであった。

「エルメラ様の教えですよ」

「教え?」

「はい。怠惰と贅沢を憎み、毎日を規律正しく生活する。それこそがエルメラ様の教えなのです」

 ティエリメットは相当熱心な信徒なのだろう。

 自分で発した言葉で、その青い瞳をうっとりさせている。

「怠惰と贅沢を憎み、毎日を規律正しく過ごすねえ……」

 やらなくてはいけないことはギリギリまで先延ばしにして今この瞬間を楽しむ、という刹那的な快楽主義者である自分では水と油だなと、王太郎は思った。

「この村の方たちは皆、エルメラ教の敬虔な信者なのです」

 まるで我が子を誇るように、ふすん!とティエリメットは鼻を鳴らす。

「なるほどなー。でもさ、今日くらいハメを外したっていいだろう? 勇者がこの村に現れた日だっていうんだからさー」

 王太郎が村長のグラスにもワインを注ごうとすると、ティエリメットはそれを一喝する。

「なりません! お酒は年に一度、生誕祭の日のみと決まっています!」

「生誕祭?」

 王太郎の疑問に、村長が答える。

「エルメラ様の生まれた日だ。その日だけは、豪勢な食事をすることになって、酒を飲むこともできるんだ」

「ってことは逆に、それ以外の日、一年のほとんどは今日みたいな食事ってことか?」

 王太郎の問いかけに、村長は頷く。

 それってどうなんだ……?

 まあ、確かに村長たちの前に並んだスープには野菜やら、細切れ肉やらが入ってはいる。現代の日本に置き換えるなら、米と肉じゃがみたいなもんだから、栄養不足とかにはならないのだろうけど、365日毎日こんな質素な食事だと飽きもくるだろうに。たまには、一週間に一回くらい、豪勢な食事をして酒を好きなだけ飲むくらいのご褒美はあってもいいのではないのだろうか。

村人たちに同情するそんな気持が王太郎を食い下がらせる。

「ならなおのこと構わないだろう? 別に一日くらいハメを外しても問題ないだろう。明日からまた頑張ればいいじゃん」

「な・り・ま・せ・ん!」

 肩を怒らせながらティエリメットは王太郎に詰め寄る。

「今日くらいいいかなとか一回くらいならいいよねといった油断が人間をダメにするのです! 回数や頻度が問題なのではありません! 怠惰を許してしまう心に問題があるのです! そんな小さな気の緩みが堕落に繋がるのです!」

 ティエリメットは王太郎を見上げるようにし、人差し指を突きつけて熱弁する。

 そんな小さな修道女に反論しようとした王太郎だが。

「そんなことは……」

 大いにある。

 というか身に覚えしかない。油断しまくった結果、俺はここにいるのだった。

 ぐうの音も返すことができない王太郎に、ティエリメットは満足したように頷く。だが少々熱くなり過ぎたと自分でも反省したのだろう、我を忘れて初対面の人間に、それも勇者である王太郎に説教じみた真似をしたことを恥じるように頬を赤らめた彼女は、こほん!と咳払いをして本題に入った。

「明日の昼過ぎ。礼拝を終えた後で、勇者様には私と共に王都へと向かっていただきます」

「え、そんな急に?」

「はい」

「いや、俺、まだこの世界に来たばかりなんだけど?」

「それがどうされましたか?」

「どうされましたかって、この村に来るまで森の中を歩き回って疲れたから、しばらくはゆっくりしたいんだけど」

「なりません」

 つまみ食いしようとした子供の手をピシャリと撥ねつけるようにティエリメットは言う。

「勇者が現れた場合、すぐにでも王様に謁見させるのが、教会の決まりです」

「そんな……」

 さっきから決まりとか規律とか融通の利かないやつだな、と非難がましく見つめる王太郎のことなど全く意に介した様子もなく、ティエリメットは話を続ける。

「勇者なのですからそれくらいで疲れていては話になりません。では、明日の昼過ぎに教会前にいらして下さい。もちろん、その前、朝から行われている礼拝に参加して頂いてももちろん構いませんけども」

「遠慮するね」

「そうですか」

 嫌味ったらしく断った王太郎の言葉を、ティエリメットはさらりと受け流す。

「それでは皆さん」

 ティエリメットは集会所にいた村人たちを見回す。

「この村に勇者様が現れたのも、全ては皆さまの信仰と日頃の行いのおかげです。信じる者は救われる、エルメラ様の教えを皆さまが忠実に守っているからこそ、神は勇者という形で私たちにお恵みを下さったのです」

 本当は俺が虫になんてなりたくないとダダをこねたからだよ、と王太郎は心の中で嗤った。

「ですが油断は禁物です。たとえ勇者様が現れた日であっても、いつも通り、規律を守り節度のある生活を送ってください。それでは、明日の朝、礼拝でお会いしましょう」

 そう言ってティエリメットは集会所の扉に手をかけるが、そこで振り返り。

「くれぐれも、勇者が現れたといってハメを外したりしないように。いいですか、絶対にですよ? では」

 ダメ押しをしてから彼女はようやく集会所を後にした。

 彼女が開けた扉が閉まると、村人たちの緊張の糸が緩み、建物の空気が弛緩する。

「クラスに絶対一人はいるよなー、ああいう決まりを守ることが目的になってる頭の固い委員長キャラって」

「そう言わないでくれ。あの子は、ティエリメットは生まれたときから教会で暮らしてるんだ」

「生まれたときから?」

「先代のシスターがまだ生きてた頃にな、教会の前に捨てられた赤子がアイツなんだ。誰よりも立派なシスターになる。それが先代への一番の恩返しだとあの子は思ってるんだ」

 しんみりと語る村長の言葉に、王太郎もしぶしぶ怒りの矛先を収める。

「さ! 気を取り直して、メシが冷めちまわない内に食べよう!」

 村長が手を叩いて仕切り直すと、村人たちは料理に口をつけ始める。

 だが周りの村人が質素な食事を摂っている中、一人だけ豪勢な料理を食べる気が起きず、王太郎はナイフとフォークを手に取るのを躊躇っていた。

 そんな王太郎のことを村長が気遣う。

「シスターも言ってただろう? 俺たちは自分たちでこの生活を選んでるんだ」

「でもさ……」

「いいから、いいから! 俺たちのことは気にせず、好きなだけ食ってくれ!」

 そう言って村長は王太郎の手に強引にナイフとフォークを握らせる。

「足りなかったら言ってくれよな! じゃんじゃん作るからよ」

「……それじゃあ」

 ここまで言ってくれている村長の好意を受け取らないのは、それはそれで失礼に当たると思い、王太郎は渋々ステーキを切り分ける。

 だがいくら言葉の上で強がったとしても身体は正直である。切り分けたステーキを王太郎が口に運ぼうとすると、その滴る肉汁に、子供たちは涎を垂らし大人たちもじっと釘付けになる。

「……やっぱ無理!」

王太郎は口元まで運んだ肉を皿に戻した。

自分の皿にではなく、村長のそれに。

「お、おいっ……!」

 戸惑う村長を無視して、王太郎は彼のグラスを奪うと並々とワインを注いだ。

「旨いもんは皆で食わなくちゃ旨くない」

「気持ちはありがたいが……」

「そりゃ確かにあの女の言うことも一理ある。常日頃から食料を蓄えておけば、万が一のときでも安心だ」

 でもな!と王太郎は力む。

「それで今が楽しくなくなったら本末転倒だろう⁉ 今を心置きなく過ごすために将来に備えるんだろう⁉ それができないなら意味ないだろうが!」

 王太郎の弁舌に思うところがあったのだろうか、村長も口を閉じたまま深く沈み入るように考えている。他の村人たちも同様であった。

 だが声を上げて賛同する者はいなかった。

 この村におけるエルメラ教の教えはよほど深く根付いているのか、村人の誰もがお互いの顔色を窺って思っていることを口にすることができない様子であった。

「俺は本物の勇者なんだろう? それはティエリメットが保証してくれてる。なら近い将来この村の税金は一生免除されて、王様からとんでもない額の報酬が支払われるんだろう?」

「それはそうだが……」

 村長の声色がほんの少しだけ揺らぎ、王太郎はここぞとばかりにダメ押す。

「だったら今日くらい、どんだけ飲み食いしようが大丈夫だって!」

 勇者が現れた村は聖地として崇められ特別扱いされる、その事実を王太郎に強調され、沈黙を守っていた村人たちの中にもちらほらと彼のことを肯定する声が小さいながら聞こえ始める。

 だがしかし。

「いいや、ダメだ」

 村長が重たく言い放った。

「なんでだよ⁉」

「エルメラ様の教えを破ることはできない。なにより……なによりあの子を、ワシたち村のことを考えてくれているティエリメットを裏切ることはできない」

「そんな……」

「すまない。だがあの子に、あそこまでしつこく絶対にやるなと言われてしまってはどうしようもない」

 絶対にやるな、か……。

 王太郎は村長の言葉を胸の内で繰り返す。

「なあ、村長」

「うん?」

「俺がいた国には諺っていうのがあってさ、まあようするにおばあちゃんの知恵みたいなもので、これにはとにかく従っておけっていう有難いお言葉なワケさ」

「それならこの世界にもあるぞ」

例えば、といって村長がいくつか具体例を出す。日本でいう、『情けは人の為ならず』や『急がば回れと』いったものだった。

「そうそう、そういうやつ。で、俺がいた日本って国にはこういう諺もあるのよ」

 なぜだろう、王太郎は得意げに笑みを浮かべている。

「『絶対に押すなよ!は押してくれ』ってな」


 ティエリメットは一人、集会所から教会へと続く道を歩いていた。

 この二つは村という共同体を維持するために欠かすことのできない重要な場所であった。集会所は村のルールについて話し合うための機能的な支柱であり、教会は村人たちの心の拠り所どころとなる精神的な支柱であった。集会所はその役割のため村の中心に、教会は静かに祈りを捧げるためにと村の端に位置している。この二つの建物をつなぐ道は村で最も大きいものであり、それに沿って沢山の家が並んでいる。

 だが勇者を一目見ようと大半の村人が集会所に集まっているので、明かりの灯った民家はほとんどなく、ティエリメットの足元を照らすのは月明かりだけだった。

 だがそれも今の彼女にとっては好都合だったかもしれない。

「ふふっ、まさか私の担当する村から勇者様が出るなんて」

 先ほどまでの厳しい顔つきから一転、暗い夜道を歩くティエリメットは無意識の内に口元を綻ばせていた。

 もちろんそれには理由がある。

 エルメラ教はこの国の国教であり、その中心的な教義に勇者の登場がある。エルメラの教えを深く信じる敬虔な信徒の下に、女神エルメラが人の世を救う勇者を遣わせるというものである。

 魔王の統治する魔族の国と隣接するこの国では長きに渡って戦争が続けられている。そのため国民たちは勇者が現れて魔王討伐してくれることを期待してエルメラ教を信仰している。

 その勇者がこの村に現れたということは、それ即ちこの村の人たちの信仰が非常に篤いものであり、延いてはこの村の教会を受け持つティエリメットが、女神に認められるほど熱心な信徒であると言える。

「これで少しはあの方に恩返しができたでしょうか」

 夜空に浮かぶ月を見上げると、捨て子だった彼女を一人前の修道女に育ててくれた先代のシスターの顔が思い浮かんだ。

ティエリメットの心は引き締まる。

 いけない。

 私としたことがつい有頂天になってしまっていた。

 勇者様が現れたことは喜ばしいことだ。

それもこれも、一日たりとも欠かすことなく祈りを捧げてきたからだし、エルメラの教えを村人たちにも熱心に説いて、彼らがそれを忠実に守ってくれているからだ。そう、この村の人たちは本当によく教えを守ってくれている。教えに従い、日の出とともに起床し、毎日決まった時刻に働き、日が暮れた仕事を止め、質素で健康的な食事を摂って、夜更かしをせずに寝る。

そんな機械仕掛けのような生活をきちんとこなしてきた村人たちのことを想うと、勇者様の、あのオウタロウという少年の言葉を思い出してしまう……。

「勇者様の言う通り、今日くらいは村の皆様にハメを外してもらっても良かったのではないでしょうか……」

 ティエリメットは立ち止まり独り言ちる。

「はっ⁉ い、いけません!」

 ぶんぶん!と顔を振りティエリメットは正気に戻る。

「こういった些細な油断が大きな問題に繋がるのです! 勇者様が現れたからこそ気を引き締めていつも通り過ごさねばなりません!」

 ペチペチ!と両手で顔を叩いて喝を入れ、明日の礼拝の準備のためにティエリメットは早足で教会へと戻る。


 翌朝。

 エルメラ教の教えの通りに質素で健康的な食事を摂って夜の祈りを捧げた後ですぐに眠りについたティエリメットは、日が昇るのと同時に目を覚ます。そのままベッドの中で、二度寝したい欲求と数分間格闘して起床。洗面所の鏡で身支度を整えると、修道服に着替える。

 本日は週に一度、村人の全員が教会に集まり、ティエリメットの説教を聞く礼拝の日である。ティエリメットは自室の机に腰かけると、分厚い教典を開き、今日の説教で引用する場所に熱心に目を通し始めた。

 時が流れるのも忘れそうすること小一時間。

「ふう……こんなものでしょうか」

 説教のおおよその流れをメモに書き留めると、ティエリメットが顔を上げて窓の外に目を遣る。朝日が完全に上っていた。壁時計を確認すると、説教の時間までもうすぐであった。

 こうしてはいられない。

 万が一、シスターである私が遅れてしまったらどんなに良い説教でも説得力がなくなってしまう。

 ティエリメットは教典とメモを手に持つと、教会に備え付けられた自室を後にして礼拝堂へと向かった。そして誰もまだ村人が来ていないことを見て取り、ほっと胸を撫で下ろした。

 教壇の前に立ち、教典とメモを手元にセットする。

 そしてそのまま、信者である村人たちが来るのを心待ちにする。今日の一番乗りは誰だろうか。やはりこの村の中で一番の敬虔な信者である村長さんだろうか。それとも最近を洗礼を受けたばかりだが、子供ゆえの純粋さで熱心に教会を足を運んでくれるあのお利口な少女だろうか、と王太郎が初めてこの村であった少女のことを思い浮かべる。

 そうこうしている間に時は過ぎ。

 いよいよ礼拝が始まる時間になった。

 だがしかし。

「……なんですかこれは」

 教壇の前に立ち尽くすティエリメットの目に映るのは、無人の教会であった。

 おかしい……。

 今までこんなこと起こったことない。そこまで熱心ではない信者が数人遅れるようなことがあったとしても、村長はおろか、村人の誰一人として礼拝の日に姿を見せないというのは前代未聞である。

 まさか、村でなにかあった⁉

 弾かれるようにその場から駆け出すと、ティエリメットは集会所へと続く道をひた走る。。

 おかしい……人気が全くない。

 村で一番大きなこの道ががここまで静かなことなどこれまで一度もなかった。もしかして夜間に魔族の襲撃が……⁉ いや、だとしたらもっと酷いありさまになっているはず。どの家も荒らされた様子はなく、ただ人の気配がしないだけである。いったいなにが起きたら、一晩で村が廃墟のようになってしまうのだろう……。

 疑問を抱えながらティエリメットは集会所へと急ぐ。

 昨日、最後に村の皆を見たのはあそこだ。

あそこに行けばなにかが分かるかもしれない。

 そう自分に言い聞かせ、彼女は無人の通りをひた走る。

 そしてやっとの思い出集会所にたどりつき、扉を開けたティエリメットの目に映ったのは信じがたい光景だった。

「い、一体これはっ……⁉」

 驚きに見開かれた目に映るは、床に倒れた村人たちの姿だった。

「う、ううっ……その声は……」

「村長さん⁉」

 床に這いつくばりうめき声を上げた村長に駆け寄り、ティエリメットは彼を抱き起す。

「村長さん! しっかりしてください!」

「ううっ……」

 彼女が呼びかけると、村長は苦しそうに目を開けた。

「いったいなにがあったんですか⁉」

「じ、実は……昨日、お前さんが帰ったあと……」

 そうして村長は事の次第を語り始めた。


 時は遡り、昨晩。

 ティエリメットが集会所を去った直後のこと。

「『絶対に押すなよ!は押してくれ』ってな」

 王太郎は口から出まかせで村長を説得しようとしていた。

「ほ、本当にそんな言葉あるのか?」

 訝しむ村長。

 だが王太郎は村長のグラスに強引にワインを注いでいく。

「本当だって! さ、飲んだ飲んだ!」

「いや、だがやはり……」

 なおも渋る村長に王太郎はさらにでまかせを吹き込む。

「おいおい、俺はエルメラに遣わされてやってきた本物の勇者だぞ? つまり、俺の言葉はエルメラの言葉だと言っても過言じゃない!」

「む、そう言われると……」

「な⁉ ほい、皆も!」

 そう言って王太郎が手際よく村人たちのグラスにワインを注いでいくのを止めるべきだろうかと、この村の長である村長は考えた。だがしかし、結局は王太郎の主張を受け入れることにした。

確かに勇者様の言う通りだ。あの男が本物の勇者であり、それ即ちエルメラ様が直々に天界より遣わされた人間だ、なにを疑う必要があるのだ。

そう理屈をつけてはいたが、本当のところ、彼の心を動かしたのは王太郎の態度であった。この男を見ているとなぜだか楽観的になってしまうのだ。あの溢れ出る謎の自信こそが勇者の資質というものなのか、不思議とこちらまで正体不明の自信が湧いてきて、まあなんとかなるだろうと思わせられてしまう。

「みんな行きわたったな? それじゃ、村長! 音頭の方を!」

 王太郎が言うと、アルコールの入ったグラスを手にした村人たちが、どうしたものかと困惑しながら村長に注目した。

 勇者様の言う通りだ。

 これからこの村は勇者の誕生した聖地として潤っていくのだ。ならば今日くらい、これまでエルメラ様の教えを忠実に守ってきた自分たちが羽目を外してもいいはずだ。

「勇者様の言う通りだ! みんな、今日くらい好きなだけ飲み食いしようじゃねえか!」

「「「うおおおおおおおおっ!」」」

 村の誰もが心の底では村長と同じことを考えていたのだろう。

「カンパーイ!」

「「「カンパーイ!!!」」」

 村長がグラスを掲げたのと同時に、大人たちはワインを一気に煽り、子供たちもその雰囲気に当てられてリンゴジュースを流し込む。

 そこからはあっというまである。

 用意されたスープとパンを一瞬で平らげた彼らは、村の食料庫に備蓄しておいた食べ物を片っ端から食卓に並べた。熟成肉にチーズ、それにエルメラの誕生祭で飲むための祝い酒。

 いつも通りの質素な食事であれば、村の人間が一月は暮らしていけるはずの食料を、彼らはたった一晩で食い尽くした。これまで抑制されていた食欲を解放するように、とにかく目の前にある料理を口に運んだ。もうこれ以上食べられないという状態になってもなお、食べ続け、ワインで無理矢理流し込んだ。

 そして呑み過ぎで食べた料理を戻し、胃を空っぽにすると、村人たちはまた食らった。まるで古代ローマの貴族が沢山の料理を味わうために、一度食べたものを無理矢理吐きだしていたとされるように、彼らはただ好きなだけ飲んで食べる!という生まれて初めて味わう暴飲暴食の快楽に溺れていったのであった。


 そして今現在。

 浴びるように酒を呑んだ村人たちがそのまま集会所で気絶しているのを、ティエリメットが発見するに至ったのであった。

「―ってことがあったんだ……うっ」

 なけなしの力を振り絞ったのか、話し終えると村長の身体から力が抜けぐったりとする。

「すまねえ、シスター。あんたとの約束……守……れな―」

「自業自得じゃないですか!」

 叫ぶと、ティエリメットは先ほどまで大切そうに抱えていた村長を床に投げつけた。

「うぶっ!」

 衝撃で胃の中のモノがせり上がってきた村長は両手で口を抑える。

「なに格好つけてるんですか⁉ なに仲間を庇って死んだ人みたいな口ぶりしてるんですか⁉ ただ約束破ってお酒を呑んだ駄目オヤジじゃないですか⁉」

「ふっ……そう言われたら……そうかもな」

「なんで格好つけてるんですか⁉」

 仰向けに倒れたまま口を押える村長に、ティエリメットは容赦なく突っ込む。彼女は荒れ果てた集会所を見回して盛大に溜息をついた。

「あれほどダメって言ったのに……」

 一体なにがどうなったらこんなことになるのだろう……。

 あろうことか、敬虔なエルメラ教の村人たちが床やテーブルの上に寝転がって、ある者は白いシャツが赤ワインでびっしょりと濡れているし、ある者は上裸で腹に顔が描いてある。

「うう……酷い匂い」

 ティエリメットは修道服の袖で鼻を覆う。アルコールと吐瀉物、そして人の汗が混ざり一晩かけて熟成された空気で、集会所は満ちていた。

 ……大変なことになりました、とティエリメットは焦った。

 まさか敬虔なエルメラ教の信者であるこの村の皆さんが、たった一晩でこんなありさまになってしまうなんて……。魔族の襲撃よりもよっぽど恐ろしいことです。この由々しき事態を生みだした原因を一刻も早くこの村から、私の村から取り除かねばなりません!

 ティエリメットは首を振って辺りを見回した。

 よっぽどお腹を空かせていたのだろうか、王太郎はテーブルの上にあった厚切りのステーキに顔面を埋めて寝ていた。

「勇者様」

 ティエリメットは王太郎の肩を揺すった。だが反応はない。

「勇者様! 起きてください!」

「んあ?」

 ティエリメットが思い切り揺すると、王太郎は間抜けな声を上げてソースまみれの顔を上げた。

「あれ? ここどこだ? 俺の部屋は? ゲームは、マンガは?」

「寝ぼけてないでしっかりしてください!」

 王太郎の顔の前で、ティエリメットは何度か手を叩いて彼の目を覚ます。

「さあ、昨日お話した通り、王都へと向かいますよ」

「え? あれ、でも礼拝があるから昼過ぎって言ってなかった?」

 王太郎は窓の外を見て言う。

「ええ、そうですよ、そうでしたよ! でも誰かさんのせいで村の皆が時間になっても教会に姿を見せずに、ここで二日酔いで倒れてるので私の仕事がなくなってしまったんですよ!」

「それは良かっ―」

「良くないです!」

 ティエリメットの大きな声が二日酔いの頭に響き、村人たちはゾンビのように呻いた。

「ということで予定変更です! 今すぐ王都に向かいます!」

「そんな急ぐことはないだろうに、もうちょっとゆっくりさせてくれよ」

「ダメです! これ以上、あなたがこの村にいたら取り返しがつかなくなる気がします!」

 ティエリメットは王太郎を強引に立たせると、床で伸びている村長を呼んだ。

「村長さん!」

「シ、シスター、頼むからもっと小さな声で……頭が割れそうだ」

「勇者様に着替えを」

「分かった。あとちょっとで酔いが醒めそうだから、そしたら―」

「今すぐに! さあ、早く!」

 ティエリメットに催促され、村長は酒で重たくなった頭を持ち上げ、ふらふらと集会所を出て自宅へと向かう。そして彼女の矛先は王太郎へと戻る。

「ほら、勇者様も! 外にある水道で顔を洗ってきてください!」

「なんで?」

「王様に会いに行くからです! そんな格好じゃ失礼です!」

「別に今すぐ洗わなくてもいいだろう」

「……はあ?」

「だってそうだろ? もし王様が急死したら謁見できないだろう? そうしたら顔を洗うのも綺麗な服に着替えるのも、全部無駄になるだろう?」

「縁起でもないこと言わないでください! いや、というかそれ以前に、そんな汚い格好で平気なんですか……」

「いや、平気じゃない」

「ならなんで」

「平気じゃないけど、今すぐ着替えないと死ぬほどでもない。だったら後回しにして、俺は今の俺がやりたいことをする。ということで寝る!」

 そう言うと王太郎はもう一度ステーキに突っ伏して、寝息を立て始める。

 日本にいた頃は、数週間も風呂に入らなかった王太郎にとって、この程度の汚れは気にするに値しないものであった。

「……意味が分かりません」

 修道女としてこれまで何度も祈りを捧げてきたティエリメットだが、今ほど神に祈りたいと思ったことは生まれて初めてだった。


三十分後。

起きる気配を全く見せない王太郎を、村長たちが無理矢理立ち上がらせ、彼の代わりに顔と身体を水で洗って着替えさせて身なりを整えてやる。

もちろんその間、王太郎は一秒たりとも起きない。動物は眠っていたとしても、天敵を恐れて周囲の音に敏感に反応するものだが、圧倒的な才能を持つ王太郎は生れてこのかたなにかを恐れたことなどなく、ちょっとやそっとのことでは彼の眠りを妨げることはできない。

「ほら、勇者様! いい加減起きてください!」

村の端に連れてこられ、これから王都へ旅立つだという時になっても直立不動で寝ている王太郎の肩を、ティエリメットが揺する。

「うん? あれ、ここどこ?」

「村の外れです。さあ、王都へ向かいますよ」

 露骨にイヤな顔をする王太郎の手を、ティエリメットは強引に引いていこうとする。それを村長が呼び止めた。

「なあ、本当に馬車で送って行かなくていいのか?」

「大丈夫です」

「え、なに馬車あるの?」

 王太郎の問いかけに村長は頷く。

「だったら馬車で行こうぜ? なんでわざわざ歩くんだよ」

「この村にいる馬は一頭だけで、緊急時に近くの村に助けを呼びに行くためのモノなんです。私たちが使ってしまったらもしものとき村の皆さんが困ります」

「えー大丈夫だって、もしもなんて起きないって」

「ダメです! さ、行きますよ! 勇者なんですからこれしきのことで音を上げられては困ります」

「ちぇー……」

 おもちゃを買ってもらえなかった子供のように王太郎が拗ねると、見送りにきていた村人たちから笑い声が上げた。それをティエリメットが叱責する。

「あなた達も!」

「「「え?」」」

「私が村を留守にする間、きちんと生活をして、食べてしまった食料庫の食材を元の量に戻しておいてくださいね」

「「「……はーい」」」

「村長、あとは頼みましたよ?」

「お、おう! 任せとけ!」

 昨晩の失態を取り戻すべく、村長は力強く胸を叩いた。

「それでは行って参ります」

 ペコリとお辞儀をして一人歩きだしたティエリメット、彼女を見送る村人たちが手を振る中にいつの間にか王太郎も紛れている。

「あなたはこっちでしょ!」

 王太郎の襟首を掴むと、ティエリメットは彼をズルズル引きずるようにして今度こそ王都へと旅立った。



第二部 


「クラリネットー」

 猫背で歩く王太郎は、彼とは対照的に、目の前をキビキビとした足取りで歩く修道服の少女の名前を先ほどから呼んでいる(つもりである)。

「なあ無視すんなよー。そろそろ休憩しようぜークラリネットー」

「クラリネットじゃありません!」

 ティエリメットは立ち止まると勢いよく振り返った。

「私の名前はティエリメットです!」

「あれ、そうだっけ? 悪い、悪い。それでさカスタネットー」

「ティ・エ・リ・メッ・ト! です!」

「あっそう。まあ、なんでもいいけどさ。とりあえず休憩しようぜ、俺、疲れちゃったよー」

 そう言って王太郎はその場に腰を下ろして後ろ手を突いてしまう。

「疲れたって、さっき村を出発したばかりじゃないですか……」

「そんなこと言ったって疲れもんは疲れんだよー」

 幼稚園児のようにぐずる王太郎にティエリメットは呆れる。

「ちなみに、王都まではどんくらいかかるんだ?」

「このまま何事もなく歩き続ければ、陽が沈む前にはたどり着けると思います」

「陽が沈む前?」

 王太郎は空を見上げた。

 太陽はまだ東の空である。

「なー、やっぱ馬車を使おうぜー」

「ダメですよ。さ、早く立ってください。あなたは勇者なのですから、一刻も早く王都に向かわなくてはなりません」

「そのことなんだけどさ」

 王太郎は疑問を口にする。

「俺、本当に必要? 魔王がいる感じとか全くしないし、村も平和そうだったけど」

「今はそうです」

 でも、とティエリメットは続ける。

「魔王率いる魔族たちは少しずつですが勢力を拡大し、この国の領地を侵し続けています。王国軍も奮闘していますがこのままだと侵略されてしまうのは時間の問題です」

「時間の問題ってどれくらい?」

「そうですね……辺境の村にはあまり前線の情報は入ってきませんが、おそらくあと数年はかかるかと」

「数年⁉」

 驚きに目ん玉を見開く王太郎。

 やっとことの重大さを理解してくれたのですか、それならこんなところで道草を食ってないで一秒でも早く王都に行きますよ。そう、ティエリメットは言おうとしたのだが。

「なんだ、あと数年もあるのかよ」

「そうです、あと数年しかないのです……え?」

 彼女は耳を疑った。

「なんだよー、すげー急ぐから、俺はてっきりあと一週間くらいでこの国が魔王に滅ばされちまうのかと思ったじゃんかー」

「え、あ、いやでも、でもですね、あと数年ですよ? あとたった数年でこの国が滅んでしまうんですよ⁉」

「逆にいえばあと数年は大丈夫なんだろう?」

「そ、それはそうですけど……」

「ならそれまで気楽に過ごしたほうがよくない? あわよくば、その間に魔王が病気で死んだり、魔王城に隕石が落ちて敵が壊滅するかもしれないし」

「あの、えっと……冗談ですよね?」

 ティエリメットは精一杯の愛想笑いを浮かべる。

「あ、私のことを試してるんですか?」

「試す? なんで」

「……」

 そしてティエリメットは言葉を失った。

 ダメだ……この人、底抜けのクズ人間だ……。

エルメラ様、なぜよりにもよってこのようなお方を勇者として遣わしたのですか……。

しかもよりによって私の村にっ!

 ……はっ⁉

 なにを考えているのですか、ティエリメット! エルメラ様を疑うなど、シスターとしてあるまじき行為です。ええ、そうです、エルメラ様が敬虔な信徒である私のことを見捨てるはずがありません。これはきっと試練なのです。エルメラ様は私の信仰を篤さを知っているからこそ、だからこそこのような大きな試練を与えられたのです。このロクでもない男を王都へ連れていくができるのは私くらいのものです!

「そう、私は選ばれた人間なのです! あはははははっ!」

 自らの身に降りかかった不幸を無理矢理に納得するために、ティエリメットのは心は壊れかけ始めていた。

「おい、大丈夫か? 車内エチケット」

「だから馬車は使えないってあれほど説明しましたし、そもそもエチケットを乱しているのはどちらかと言えばあなたです! そして私の名前はティエリメットです!」

「お、おう。すまん……」

 あまりの剣幕に王太郎ですら反射的に謝罪を口にしてしまう。

「はい、下らない雑談終了! 口より足を動かす!」

 ぷんすか怒りながら歩き出した小さな修道女のあとを、王太郎は仕方なくついていくことにした。


 そしてその数時間後。

「ありがとうなー、おっちゃんー!」

 自分たちを王都まで乗せてくれた行商人が、市場へと向かうのを、王太郎は大きく手を振って見送った。行商人は馬の手綱を片手で持ち、空いた方で軽く手を振り返した。

 もちろん、まだ太陽は沈んではおらず、昼過ぎくらいの時刻である。

「そんじゃ、あとはよろしく」

「わ、分かりました。ついてきてください、王宮はあっちです」

 そう言って、整備された石畳の道を歩きだしたティエリメットは、どこか上の空だった。

まさか勇者様の言う通りここまでことがうまく運ぶとは……。


数時間前。

王都へと徒歩で向かう最短経路の道を突き進むティエリメットに、王太郎は尋ねた。

「この辺に行商人が泊まるようなや宿場町はないのか?」

「町、というほどではないですけど、行商人や旅人が利用する小さな宿場があったと思いますが」

「こっからどんくらい?」

「そうですね、三十分くらいでしょうか」

「ならそこに行こう」

 王太郎が提案すると、ティエリメットは呆れたように溜息をついた。

「ダメです。このまま歩けば今日中には着くんですから、泊まる必要はありません」

「違う違うそうじゃないって。もしかしたら王都へ向かう馬車があるかもしれないだろう? あわよくば、それに乗っけてもらおうってこと」

「無理ですよ」

「なんで?」

「もし仮に王都へ向かう行商人がいたとしても、見ず知らずの人間を乗せてくれることは滅多にありません。荷台に積んだ商品を盗まれたりしたら困りますから」

「なるほど、でもとりあえず行ってみようぜ」

「……あの、話し聞いてましたか? 行っても無駄足になるかもしれないんですよ?」

「でもならないかもしれないだろう?」

「行って駄目ならどうするんですか」

「それはその時考えれば良くない? 失敗する前から失敗したときのことを考えるのなんてそれこそ無駄だろ? ダメだったときのことはダメだったら考えようぜ」

 底抜けに楽観的な王太郎。

「……はあ、分かりました。分かりましたから、ダメだったらもう文句を言わずに、大人しく王都まで歩いてい下さい」

 ティエリメットは思った。

 遠回りをすれば当然、王都への道のりも増えます。だがこのおバカさんを説得するのはそれ以上に骨が折れます。だったら一度、痛い目を見てもらった方が結果としては近道になるでしょう。我慢、我慢ですよティエリメット。急がば回れの精神です。

 そうして二人は最寄りの宿場に向かった。

 だが行商人が一人いなかったのでした、というのがティエリメットの理想だったのだが、不運にも(あるいは幸運にも)国の辺境からやってきた香辛料を運ぶ行商人が一人いた。

 それでもティエリメットは焦らなかった。

 まあ、いいでしょう。シスターの私だけならともかく、黒髪黒目という異邦人のなりをした勇者様を行商人が素直に乗せてくれるはずがありません。

 だがティエリメットの目論見は外れた。

 移動を再開しようと馬車に上がり手綱を握ろうとした行商人は、見慣れない風貌の王太郎に話しかけられたことで初めは警戒していたものの、その口の上手さと謎の親しみやすさにすぐに心を許してしまったのであった。

 そうして香辛料の積まれた荷台に座ること数時間。

 予定よりも大分早く、王太郎とティエリメットは王都にたどり着いたのであった。

「なあ、シルクハット」

 前を行く小柄な修道女の名を、王太郎が呼んだ(つもりである)。

「予定よりも早く着いて時間があるんだからさ、どっかで休憩していこうぜ」

「ここまで来てなに言ってるんですか。まずは教会の本部に向かいます、そしたらきっとすぐに王様に会うことになります。あと私は杖で叩いたら白い鳩が飛びだしてくる縦長の帽子じゃありません、ティエリメットです。いったいいつになったら名前を憶えてくれるんですか」

「覚えなくちゃいけなくなったら」

「……あっそうですか」

 それって私は覚える必要のない、取るに足らない存在ということですか、とティエリメットは心の中で不満を漏らした。だがもちろんそうではない。後回しにできることはとにかく後回しにする、それが王太郎の生き方なのである。


 エルメラ教の総本山である王都の教会にたどり着いた二人。

 修道女用の通用口のベルをティエリメットが鳴らすと、小学生くらいの年のシスターが扉から顔を覗かせ、挨拶をしてくれる。

「こんにちは、お姉さま」

エルメラ教のシスターが一人前と認められるには、この本部にいる最高位のシスターであるマザーと呼ばれる修道女からのお墨付きをもらう必要がある。そのため、ここには全国から見習いの修道女が集まってくる。

 もちろんティエリメットもかつてはそんな見習い修道女の一人であり、彼女たちは直接顔を合わせたことがないとしても、同じ場所で過ごし、同じ女神を信奉する者として、お互いのことを本当の姉妹のように接する。

「こんにちは」

 ティエリメットは穏やかな挨拶を返して本題に入る。

「どなたかマザーはいますか?」

「はい、今はアメリスタ様がおられます」

 エルメラ教の最高位シスターであるマザーとは、特定の個人ではなく複数の人物がそれに該当し、空席ができるたびに有望なシスターが繰り上げで任命される。

 アメリスタは、まだ二十代とマザーの中では最も若いが、本部で一人前のシスターになったあと、隣国でエルメラ教を広めて、その国に元からあった国教を追い出してその座を奪うまでに至った功績が認められ、史上最年少でマザーになったシスターである。

 そして数年前、見習いシスターとしてここ本部で過ごしていたティエリメットの面倒を看てくれたのはなにを隠そうアメリスタであった。

 甲斐甲斐しく自分の面倒を看てくれた姉シスターの名前を聞き、ティエリメットは顔を綻ばせた。

「アメリスタ様にお会いしたいのですが、お願いできますか?」

「はい、もちろん。今呼んでまいりますので、こちらでお待ちください」

 少女は二人を招き入れると、椅子に座らせてアメリスタを呼びに行く。

 そして数分後。

 少女は一人の女性を連れて戻ってきた。女性は長身で、王太郎と同じくらいの背丈があった。そのおかげで厚ぼったい修道服を着ているのにすらりとした印象を受ける。フードの下から覗く顔にはサファイアのような碧眼が輝き、胸の辺りまで伸ばされた癖のない真っ直ぐな金髪も相まって、クールビューティーという言葉が連想される。

 だがティエリメットを見ると、彼女は優し気な笑みを浮かべた。

「あらあら! お客さんはあなたでしたか、ティエリメット」

「はい! アメリスタ様もお元気そうでなによりです」

 見習い修道女にお茶を入れるように頼むと、アメリスタは王太郎たちの正面に腰かけた。

「あなたが一人前のになってここを発ってからしばらくになりますね」

「はい」

「どうですか精進されていますか?」

「もちろんです! 面倒を看て下さったアメリスタ様の名に恥じぬように、私は一生をエルメラ様に捧げるつもりです」

 ティエリメットの言葉にアメリスタは満足そうに頷いた。

「それで本日はどのような件でいらしたのですか?」

「急に押しかけるような形になってしまい、申し訳ありません。ですがどうしてもお伝えしなくてはならないことがございまして」

「それは……」

 アメリスタはそう言うと、ちらと王太郎のことを見た。

「この男性に関することですか」

「はい」

 ティエリメットは真剣な顔で頷いた。なにせエルメラの加護をその身に宿した本物の勇者が現れたのであり、それは彼女たちにとって死者が蘇るほどの奇跡なのである。

「そうですか。ついにこの日が来ましたか……」

「えっ?」

 ティエリメットは驚いた。

 まだなにも言っていないのに……まさかアメリスタ様は、すでにこの男性が勇者だと見抜いている? 流石、アメリスタ様。史上最年少、最速でマザーになった御方ともなれば、一目でエルメラ様の加護が宿っていることが分かってしまうのですね。

 姉シスターに対する畏敬の念に一層の磨きをかけていたティエリメットだったが、次に師が発した言葉を聞いた瞬間、彼女は困惑する。

「歯を食いしばりなさい、ティエリメット」

「……えっ?」

「聞こえなかったのですか? 歯を食いしばりなさいと言ったのですよ」

 目を細めたまま微笑むアメリスタは立ち上がると右手の調子を確かめ始める。

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 ティエリメットは慌てて立ち上がって椅子を倒してしまう。

「な、なぜ急に⁉ いつも温厚なあなたはどこへ行ってしまわれたのですか⁉」

「それは私のセリフです」

 アメリスタはティエリメットににじり近寄る。

「ティエリメット、私は悲しいです。まさか手塩にかけた妹シスターが裏切るなんて」

「う、裏切る⁉ 何のことですか⁉」

「とぼけても無駄ですよ」

ティエリメットを壁際まで追い詰めると、アメリスタはとびっきりの笑顔を浮かべて言った。

「あなた、あの男性と結婚するのでしょう?」

「……へ?」

 予想外の問いかけに、ティエリメットはマヌケな声を出してしまう。

「とぼけても無駄です。私は今まであなたのようなシスターたちを何人も見てきました。連絡なしで急に訪れたかと思えば、となりには若い男がいて深刻そうな顔で話があると言う。彼女たちは一様に皆言うのです。この男と結婚したい、だからシスターを辞めたいと」

 神に仕えるという職業柄、エルメラ教の信者は未婚の乙女に限られている。

「ああ、なんと愚かな娘たちなのでしょう。所詮、男女の愛などは一時の気の迷いに過ぎないというのに、そんなもののために信仰を捨ててしまうなんて!」

 舞台女優のように大袈裟に手を広げてアメリスタは嘆く。

「全ての男女の愛がそうとは限らないのではないでは?」

「いいえ、限ります!」

 食い気味でアメリスタは答えた。

「いいですか? 男というのは獣、人ではないのです」

「は、はあ……」

 困ったように相槌を打つティエリメット。

「いくらこちらが尽くしたところで無意味なのです。結局、男というのは肉欲にしか興味がないのです」

「そ、そうなのですか?」

「そうです! この私が言うのだから間違いありません! 初めて好きになった幼馴染のケビンも、王都に出てきて永遠の愛を誓った靴屋のダルクも……どいつもこいつも、結局は乳のデケー女に寝取られたよ!」

「ち、乳? え、え? アメリスタ様?」

 先ほどの女神のような穏やかさから豹変してしまったアメリスタに、ティエリメットはただただ戸惑うことしかできない。

「別に気にしないとか言ってもな、男ってのは結局胸なんだよ。オッパイなんだよ、乳なんだよ! 男は乳のデケー女が好きなんだよ!」

 そう言うアメリスタのことを、王太郎はちらりと横目で確認した。

 確かにないな。身長が高く、修道服を着ているから分かりずらかったけど、あの金髪お姉さんの胸はぺったんこだ。あの上で鯵を下ろしたら綺麗に三枚に下ろせそうだ。

 王太郎が呑気に分析していると、アメリスタはがしっ!とティエリメットの肩を掴んだ。

「なあ、ティエリメット。どうしてあたしがお前の世話をしてやったのか、分かるか?」

「い、いえ」

「お前はあたしの仲間だからだよ」

「仲間?」

「そうだ」

 アメリスタの視線が自らの胸部に移ったことで、ティエリメットは全てを理解した。

「ど、どこ見てるんですか⁉」

「一緒に風呂に入った仲だ。隠すことはねえし、隠すモノだってないじゃないか」

「余計なお世話です!」

「あたしはな、ペチャパイの面倒しか看ねえって決めてるんだ。なんで分かるか? 胸のデケー女は面倒を看てやっても、どうせ男を作って教会を辞めちまう。でもな、ペチャパイは違う。ペチャパイは信用できる。ペチャパイはなにがあっても辞めない」

「偏見です! いや、確かに私はシスターを辞めるつもりはありませんけど、偏見です!」

 一人納得するアメリスタに、ティエリメットは異議を唱える。

「だからあたしは決めたんだ。あの日、冒険者のエスティンに浮気された日に、私はン度と男を作らないと誓って教会に入った。そしてどこまでも上を目指すことにした。男で満たされない自分を権力で満たすために!」

 ああいう女って日本にもいたよなと王太郎は思った。男がいない寂しさを仕事で紛らそうとするバリキャリと呼ばれる人種が。

「だからあたしは見習いシスターの面倒を熱心に看てきてた。マザーになるためには実績だけじゃなく、他のシスターたちからの評判も大事だからな。でも手塩にかけたのに途中で辞められたんじゃたまったもんじゃない。だからあたしはペチャパイしか面倒を看ないって決めてた。ティエリメット、特にお前は大切に世話してやったな。うん、あたしが保証する。お前はあたしが見てきた中で、一番ペチャパイだ(信用できる)」

「ペチャパイにそんな意味はありません!」

 ティエリメットは咄嗟に胸を隠す。

「それにまだ分かりません! 私はまだ十八です!」

 我関せずと成り行きを見守っていた王太郎だが、今日一番の驚愕の事実を耳にして思わず声を出してしまった。

「え、まじ?」

「そこ! なんですか、その意外そうな顔は!」

 ティエリメットが王太郎を指さす。

「てっきり俺より年下、十三、四歳だと思ってたから意外で」

「すいませんね、年上っぽく見えなくて!」

「いや、こっちこそすまん。手塩(テシオ)メット」

「ええ、そうですとも、アメリスタには非常にお世話になりましたとも。ですが私の名前はティエリメットです! 年上の名前くらい、いい加減覚えなさい!」

「お礼を言うのはこちらのほうです」

 いつのまにか猫を被りなおしたアメリスタが会話に入ってくる。

「あなたのことはこれからもずっと本当の妹のように大切にします。だからずっと私の一番でいてください」

「だからまだ分からないですって!」

「いいえ。何百人もの少女を見てきたから分かります。あなたのバストはとっくに完ストしてしまっています」

「……せんから」

「ん?」

「まだ分かりませんからあああっ!」

 そう叫びながら、ティエリメットは外へと飛びだしてしまった。

「……それで、あなたはいったいどちら様なのでしょうか?」

 どうしましょうと言わんばかりに顎に手を添えるアメリスタ、彼女を見て王太郎は一部始終を目撃していた自分の前でそれは流石に無理があるのではなかろうかと思ったが、あえてつっこんで面倒なことになるのはご免だったので、お供の修道女が戻ってくるまでの間、これまで何度も説明した経緯をもう一度話すことにした。


「ああ、なんと素晴らしいことでしょう!」

 アメリスタは、教会から王宮へと続く道を小躍りしながら往く。

「まさか、本物の勇者が現れるとは! それも私の愛弟子のもとに! ええ、そうですとも。私は初めから分かっていましたとも。あなたを始めた見たときから、この子は誰よりも立派なシスターになるに違いないと!」

「あーそうですかーはいはいありがとうございまーす」

 ティエリメットは死んだ魚のように目をどんよりとさせてぞんざいに応えた。

 尊敬していた師匠が実は胸が小さいという理由で目をかけてくれていたと知り、もうこのまま不貞腐れて村へと帰ろうかと思ったが、ことの顛末を見極めないのはシスターとしての職務に反すると思い直し、割と早めに教会に戻った。

 だが依然としてご機嫌は斜めのままである。

 そんな彼女を王太郎が宥めにかかる。

「終わったことをクヨクヨしてたら今を楽しめないぞ、マリオネット」

「胸が小さいからという理由で可愛がられていることなど露知らず、あんなダメな人を尊敬していた私は操り人形と誹られても仕方ないのかもしれませんね。ですが何度も何度も申し上げている通り、私の名前はティエリメッ……はあ、もうなんかもう疲れました……」

 三人の内、最後尾をトボトボとティエリメットは歩く。

「疲れている暇なんてありませんよ、ティエリメット。あなたは勇者をこの世界にもたらした聖女に認定され次のマザーに抜擢されます。そしてこの私も、聖女の直系の姉弟子としてさらに一目御置かれる存在になります。そうすれば怖いものはありません。他のマザーたちなどすぐさま駆逐して、教会の全てを我らの手中に収めましょう」

 アメリスタは、王都の中心でありこの街の一番高い場所に建てられた王宮へと続く階段道を、スキップで登っていく。

「……私の知っているアメリスタ様はいったいどこに行ってしまわれたのでしょう」

 幻想を壊されたティエリメットは肩を落としながら後に続く。

 そして王宮までもう少しというところになった、そのとき。

「あら、これはシスターアメリスタではなくて?」

 頭上から掛けられた言葉に、一行は顔を上げた。

 そこにいたのはティエリメットとアメリスタ同様、修道服に身を包んだ女性だった。背後に妙齢のシスターを二人連れている。

「やはりそうですわ。奇遇ですわね、こんなところで」

「ええ、全くの奇遇ですね、シスターマチルダ」

 ふふふっとお互いに不気味な作り笑いを浮かべる二人。

「どうしてあなたがここに?」

「ちょっと野暮用があっただけですわ」

「嘘はいけませんよ、マチルダ。どうせまたお布施をせびりに行ったんでしょう?」

 笑顔はそのままに、アメリスタの言葉は針のように尖っている。

 マチルダ、と呼ばれた修道女は、アメリスタと同じく最高位のシスターであるマザーの一人である。彼女はこの国の辺境に多くの教会を建て、布教に貢献したということでマザーに選ばれた。それはアメリスタがマザーになるよりも、数年ほど前のことで、先輩ということになる。

「『せびる』だなんて人聞きの悪い。私はただ、王宮の皆さまにエルメラ教の素晴らしさを説いてきただけですの」

「ではその大切そうに持っている袋にはなにが入っているのですか?」

 アメリスタに指摘され、マチルダはとっさに袋を後ろ手に隠すが、ジャリジャリと固い金属がぶつかるような音がした。

「重そうですから、私が代わりに持ちましょうか?」

「お気遣いは無用ですのよ」

「いいのですよ。ただでさえそんなだらしないものを胸にぶら下げているのですから、さぞやここまで来るのも大変だったでしょう?」

 アメリスタの指摘した通り。

 マチルダの胸には二つの果実がたわわに実っていた。その主張は激しく、厚手の修道服が破れそうなくらい、胸元の生地はその下に収められ窮屈そうにしている二つのスイカに押し上げられていた。

 そのことを揶揄され、肩口で揃えられた銀髪のおかっぱから覗く、マチルダのこめかみに青筋が浮き立つが、すぐさま平静を装って反撃に出る。

「そうなんですの。もう肩が凝ってしまって大変なんですの。あーあ、本当に身軽なアメリスタさんが羨ましくて仕方ありませんわ」

 ぶちっ!

という音が聞こえそうなくらいの勢いでアメリスタのこめかみにも青筋が奔る。

「それはどう意味ですか……?」

「あら、そのまま意味ですのよ? 決して他意はありませんの」

金髪のスレンダー美女と銀髪ムチムチの美女。

持たざる者と持つ者とが、互いに睨み合い火花を散らせる。

先に動いたのは当然と言うべきか身軽なほうだった。

「上等だよ! テメーのその目障りなスイカを今ここで収穫してやろうじゃねえか、ああんっ⁉」

 まるで女豹のように飛びかかると、アメリスタはマチルダの胸をがしっ!と両手で鷲掴みにする。

「ちょ、ちょっと! なにをするんですの⁉」

「スイカ狩りじゃあああっ!」

「い、いやっ! 止めなさい!」

マチルダは抗議の声を上げるも、バーサーカーと化した今のアメリスタは人語を解する筈もなく、彼女はひたすらにマチルダの胸を揉みしだく。

「この、この、このおおおっ! なんだこの下品な胸は、ああんっ⁉ どうせお前がマザーになれたのだってこの胸のおかげだろうが!」

「い、意味が分かりせんわ⁉」

「どうせこの胸で国王をたぶらかして、そんでたんまりと貰った賄賂で教会を建てたんだろうが! さあ、吐け! 本当のことを言え!」

「ち、違いますわ、私は自分の力でっ……」

「黙れ! 私はお前に聞いてるじゃないっ! お前の胸に聞いてるんだ! さあ、応えろ、このデカパイっ!」

「ちょ、あんっ! いや、ダメっ! そんなに激しくしたら、あんっ!」

 アメリスタの手は激しさを増す一方である。

 ……いったい、この人はなにをしているのだろう、とティエリメットは思った。関係者だと思われたくないので、誰かが通りかかる前にこの場を立ち去ろうと思うが、修道服を着ているので彼女が教会の人間であることはこの国人間なら一目瞭然なワケで、ティエリメットは教会の威信のために止めに入ることにした。

「アメリスタ様、いい加減にしてください。誰かに見られたらどうするんですか」

 アメリスタに比べると大分華奢なティエリメットだが、仲裁はすんなりといく。

「なんて神様は不公平なんだ。こんなにあるんだ、ちょっとくらい、ちょっとくらいあたしに分けてくれても良かったじゃないかっ……!」

 彼我の埋まらない差を目の当たりにし、アメリスタの怒りはいつの間にか悔しさに変わり、彼女の頬を涙が伝っていた。

「くそっ! 人間を作ったのが神様なら、あたしは神を信じない!」

「シスターにあるまじき発言ですね……分かりましたからいい加減機嫌を直して下さい、アメリスタ様」

「うっ、うっ、ティエリメットっ……お前だけがあたしの味方だっ!」

 頭を撫でてあやされた先輩シスターは、年下の修道女に抱き着いてその胸で泣いた。

「ああ、安心する、この感触」

「殴りますよ」

 と口では言いつも、お世話になった先輩が自分を頼ってくれているのが少しだけ嬉しいティエリメットであった。

「ほら涙を拭いてください。私たちも用事を済ませましょう」

 そう言ってティエリメットが、蚊帳の外にされて棒立ちしていた王太郎のことを、くいと顎で示した。

 途端、アメリスタは息を吹き返す。

「そうでした! 私たちには大切な用事があるんでした。こんなところで道草を食っている場合ではありませんでしたね」

 そして余裕の笑みを浮かべてアメリスタは言った。

「いい気になっていられるのも今のうちですよ、シスターマチルダ。なにせ教会はもうすぐ私のものになるのですからね、精々今の内に楽しんでおきなさい! おほほほほっ!」

 わざとらしい高笑いを上げながら上機嫌で階段を昇り始めたアメリスタを先頭に、王太郎たちは王宮へ向かう。

「……いったいなんでしたの?」

 乱れた胸元を抑えながらマチルダは呆然と呟いた。


 その日。

 王宮にはかつてない衝撃が奔った。

 これまでにも勇者を名乗る人物は数えきれないほど王都に現れたが、そのどれもが紛い物であり、中には盗賊や犯罪者などのワケありたちが引っかき傷のようなおざなりな刻印を根拠に、自らを勇者だと主張するということが後を絶たなかった。

 そのため、王宮の人間たちは勇者を名乗るものが現れても、どうせまた偽物だろうと驚かなくなっていた。

 だがしかし。

「突然お尋ねしてしまった申し訳ございません」

 アメリスタは王宮の正門を守護する衛兵に話しかける。

「これはアメリスタ様!」

 彼女の姿を認めると、衛兵は急いで頭を下げた。この王都においてマザーシスターの顔を知らないものはいない。

「本日はどのような御用件で?」

「そのことなのですが、勇者をお連れいたしましたので国王に謁見をお願いしたいのです」

「ゆ、勇者ですか?」

「ええ」

 呆気に取られた衛兵だが、アメリスタが微笑みを崩さないのを見て、ことの重大さに気づいた。この国で最も権威のある人間が勇者を連れてきた。それ即ち、彼女の背後に控えている異国風の少年がこれまでの自称勇者たちとは異なり、教会のお墨付きをもらった本物の勇者であるということに他ならない。

「しょ、承知ました! こちらへっ!」

 衛兵が開けた扉を優雅に通るアメリスタに続いて、王太郎たちもなかへ足を踏み入れる。案内役の衛兵に先導され、王太郎たちは、まるで迷宮のように広く入り組んだ城のなかを移動した。雲の上にいるよう心地の絨毯を歩きながら、巨大なシャンデリアや意匠のこらされた絵画を眺めていると、まるで天国にいるような気分になってくる。

 本当の天界よりもよりもこの城のほうがよっぽど天界らしいな、と王太郎は思った。

「少々お待ちください」

 そう言って衛兵は一際大きな扉の内側に姿を消す。

手持無沙汰になった三人が、絨毯の感触を足の裏で確かめたり、壁に飾られた絵画を眺めたりしていると、扉が再度開き衛兵が彼らを中へと招き入れる。

「どうぞ入り下さい」

 そこはここまでで目にした豪華絢爛な内装が質素に思えてくるくらい雅な部屋であった。天井は突き抜けるように高く、磨き上げられた大理石の床は鏡のようである。そして扉から部屋の奥に向かった真っ直ぐと敷かれた真紅の絨毯の先には、玉座に腰かける一人の男。

「こちらへ」

 衛兵に従い、王太郎たちは彼のあとについて絨毯の上を進む。玉座が置かれた辺りはステージのように数段高くなっており、衛兵はその手前で立ち止まった。

「アメリスタ様一行をお連れしました」

「ご苦労だった。下がれ」

 玉座に腰かけた男が言う。

 彼こそがこの国の国王アーゼンベルドである。

玉座の背後の壁にかけられた巨大な絵画には、彼の肖像画が描かれていた。絵の中の男はサンタクロースのようで、蓄えらえた灰色の髭と眉毛は雄々しさを感じさせ、その恰幅の良さも相まって強者の余裕を感じる。そしてそれが誇張ではないことは本人を見れば明らかだった。

 衛兵が部屋を後にした扉の音を合図にアーゼンベルドは口を開いた。

「勇者が現れた、とな」

「はい」

 いつもの猫にさらにもう一枚猫を被ったような態度のアメリスタが頷いた。

「誠か?」

「私もこの目で確認いたしましたが、間違いなく女神エルメラの加護の宿った紋章。この者は本物の勇者に間違いありません」

 そう言われて国王アーゼンベルドは、アメリスタの背後に立っていた王太郎に鋭い眼光を飛ばす。

「紋章をご覧になられますか?」

「不要だ。ワシにはエルメラ様のご加護を感じることができない。ゆえに紋章が本物かどうか見抜けんだろう。マザーシスターが言うのであれば間違いない、この者が本物の勇者なのであろう」

 だがしかし、とアーゼンベルドは心の内で呟く。

 ワシはこの国の国王だ。長年この国を治めてこられたのは、大臣や宰相の知恵を借りつつも、国の一大事にはおいては己が目で見極めてきたからこそだ。

 それは此度とて同じ。

 シスターの言葉を疑うわけではない。だがワシはただ、この者が本当にこの国の未来を任せるに値する男どうか、それを己が目で見極める必要がある。それがこの国の主としての責任であろう。

「少年よ、名をなんと申す」

「え、俺?」

 ぼけーっと突っ立っていた王太郎がラフに返すのを、ティエリメットが慌てて叱責する。

「口の利き方に気をつけてください! 相手はこの国の王様ですよ⁉ 今ので不敬罪に問われても文句は言えません!」

「そう言われてもなー、俺この国の人間じゃないし」

「だからっ! そういう態度がダメだって言ってるんです! さあ、早く謝ってください今すぐに!」

 ティエリメットが服を皺になるほど引っ張って懇願するが、その必死さなどどこ吹く風、王太郎はよほど退屈なのかあくびを噛みしめる。

「ああああっ⁉ 言ってるそばからなんてことをおおおおっ! ごめんなさい、この人見ての通りアホなんです! ただのアホだから礼儀とか分からないです! だから決して悪気があるとかそういうのは絶対にないんです、すいません、すいません、私が代わりに謝るのでどうかお許しください、すいませんすいませんすいません!」

 摩擦で発火しそうなくらいの勢いでティエリメットは頭を床にこすりつけ始める。

 そんな哀れな修道女の頭上で、国王アーゼンベルドは王太郎と視線を交錯させ、その真意を見抜こうとしていた。

 ワシはこの国の王、政治家だ。

 自国民からの信頼を得る内政だけではなく、諸外国との関係を調整する外政をも取り仕切ってきた。もちろんその中には友好的な国だけではなく、敵対的な国もあった。そんな相手と戦火を交えず、だがそれでも自国に有利となるような条約を結ぶにはハッタリや脅しといった交渉術が必要となる。

 そう、政治とは交渉である。

 そして交渉とは、こちらの手の内を明かさずに相手の手の内を読むことである。優位に立つためにあえて不遜な態度をとり自らを大きく見せる敵対国の政治家など、これまでに何度も目にしてきたわ。お前もそのような矮小な者共と同じなのか、百戦錬磨のこのワシにかかれば目を見ただけで分かるものだ。

 そうして王太郎の目を高みからじっと覗き込むアーゼンベルドだったが、彼の思惑は見事に外れることになる。

 ……こ、こやつ。

 このワシがなにを考えているか全く読めんだと⁉

 それもそのはず。

 なにせ退屈そうに突っ立っている王太郎はなにかを企んでなどいなかったのだから。圧倒的な才能を持つ王太郎は、ジャンケンで喩えるのであれば後出しができるようなものであり、ゆえに心理戦などという小細工を弄する必要などはない、というのが最もな説明だろうが、本当のところは考えると疲れるので、王太郎は基本的になにも考えていない。ただそれだけのことなのだが、実際本当になにも考えないというのは、外敵から身を守る必要がない絶対的な強者にのみ許された特権であり、国王が王太郎のことを買い被ることになってしまったのも無理はない。

 この少年、ただものではないの……。

 もう四十年以上もこの国の王を務めてきたが、こんな仙人のような男は初めてぞ……。

 アーゼンベルドはごくりと唾を呑み下し、弾みをつけてから口を開いた。

「少年、もう一度問う。名をなんと申す」

「王太郎。天海王太郎」

 アマガイオウタロウ……この国では耳慣れない名前だ。にもかかわらずなぜだ、圧倒的な存在感を感じる。

「オウタロウ。この国の主として問う。お主にはこの国のために魔王を倒す、その覚悟があるか」

「いや、全然」

「なに?」

 国王の顔が俄かに曇り、それを見たティエリメットは卒倒しそうになる。

「どういうことだ?」

「覚悟とか必要ないでしょ。魔王ってどんなのか知らないけど俺なら余裕だよきっと」

「……」

 あっけらかんと言う王太郎に、国王はただ困惑する他なかった。

 こやつ、なにを考えているのだ……。どうやら己を大きく見せるため、ハッタリとして言っているわけではないのは確かだ。だとしたらいったいなにが目的なのだ……ダメだ、さっぱり分からん。あの虚空のような瞳を見つめてもなにも見ぬけん。なんでもいい、やつの手の内を知るための手掛かりを引き出さねばならん。

 そう思い、アーゼンベルドは問答を続けようとする。

「その根拠は?」

「根拠?」

「剣の腕に覚えがあるのか?」

「さあ」

「で、ではなにがあるというのだ」

「なんにも。剣なんて握ったことはおろか、人を殴ったこともない。でも丈夫でしょ、俺なら」

「……」

 ……こやつ本気で言っておる。

 魔王どれほどの強さかも知らぬのに、本気で自分なら倒せると思っているのだ。

なんという器の大きさ……。

それに比べてワシはどうだただ悠然と構えているこの少年に対して、ワシは手の内を読もうと必死になって小細工を弄するばかり。それがこの国を治める人間のすることなのか……はっ⁉ ま、まさか、この少年、ワシを試しておったのかっ⁉ ワシが下につくに値する器を持った人間なのか否か、それを見極めようとしておったというのか⁉

……ふっ。

 生意気な小僧よ。国王であるワシを試すなど笑止千万、なんたる不届き者。だがワシはこの国の王、民を束ねる存在。小僧の不遜一つなど笑い飛ばすことなどできずに、どうして民をまとめることができようものか!

「ぬははははははははっ!」

 突然立ち上がり高笑いを上げた国王は、ゆっくりと段差を降り、王太郎の前まで来るとその肩をバシバシ!と叩き始めた。

「面白い! このような男は初めてだ。うむ、勇者と呼ぶに相応しい器よ! この国王が直に褒めてつかわそう!」

「いや、そういうのはいらないから、メシ食わせてくんない? ここまで来るのにすげー歩いたからすげー腹減ってるんだけど」

「ぬははははっ! これは失敬した! おい!」

玉座の脇に控えていた大臣を呼びつけ、アーゼンベルドは宴の準備を申し付ける。

その間、国王は思っていた。

なんとしてでもこの男に己の器の広さを認めさせたい。誰にも手なずけることのできない暴れ馬を手なずけることの人間のことを人々は名伯楽と呼ぶのだ。名君主であるワシの器の大きさを証明するためにもこのじゃじゃ馬を乗りこなしたい!と。

だが己の『器』に拘ったせいで彼には不運が訪れることになるのだが、それはまだもうちょっと先の話である。


 そしてその晩。

 勇者である王太郎を歓迎するための宴が王宮にて盛大に開かれた。宮殿内の一番大きな舞踏会を行うための広間には王族貴族たちが集められ、豪勢な料理が振る舞われたが、それ以外の人間、城下に住む庶民たちにも対しても、王宮の庭先が解放され、そこで好きなだけ飲み食いができるという、国を挙げての宴となった。

 本当のところ、そこまでする必要は全くなく、勇者に関わりのある者(王太郎とティエリメット、そしてアメリスタ)だけを招いた晩餐で十分だったのだが、国王は王太郎に対してちょっとでも『器』の広さを見せつけるために、「ワシって貴族だけじゃなくて庶民にも分け隔てなく接するからね?」とアピールするために大枚をはたいたのだった。

 そして翌日も『器』を見せつけるためのアピールは続いた。

 勇者を国中にお披露目するためのパレードを実施するために巨大な荷車を特注で作り、勇者である王太郎と彼を見出した聖女であるティエリメット、そして彼女の師なのだから自分にも乗る権利がある!としつこく食い下がったアメリスタをその上に乗せ、王都を練り歩いた。街の通りは本物の勇者を一目見ようと大勢の人で溢れ返った。魔族との長きにわたる戦争から自分たちを解放してくれるのだと、民衆たちは声をからして王太郎に声援を送った。

 これによって間違いなく勇者の士気も上がったはず、きっとあの少年はすぐにでもこの国を発ち、魔王を倒してくれるはずだ。長かった魔族との争いにも、とうとう終止符が打たれるときがやってきたのだ、と国王アーゼンベルドは満足した。


 そしてパレードからちょうど一週間が経った今朝。

「おはようございます、国王陛下」

「うむ」

 起床後。

着替えを済ませたアーゼンベルドは朝食を摂ろうと食卓に着き、その首に恭しい手つきでエプロンをつける宮廷仕えのメイドの挨拶に、鷹揚に応えた。

「今朝はいかがいたしましょうか」

「そうだな……うむ、肉料理にするとしよう」

「あ、俺も」

「かしこまりました。お飲み物はいかがいたしましょうか?」

「コーヒーを頼む、そのままのブラックでな」

「俺は砂糖とミルクたっぷりでお願いね、あっまーいのがいい」

「かしこまりました、すぐにご用意します」

 新幹線の車内販売で用いられるようなカートから取りだしたポットで、メイドは二人分のコーヒーを用意する。

「お待たせいたしました。朝食のほうもすぐに用意いたしますので、少々お待ちください」

「うむ、ご苦労」

「ほーい」

 メイドがお辞儀をして部屋を後にするのを待ち、コーヒーカップに口をつけ静かな朝の時間を満喫しようとしたアーゼンベルドの思惑は、すぐそこから聞こえてきたずずずっ!というまるで下水管を水が流れるときのような音を立てて、たっぷりのクリームと砂糖によって台無しにされた王宮御用達のコーヒーを、行儀悪くすする王太郎によって邪魔された。

 ……なぜだ。

 なぜまだこの男がここにいるのだっ⁉

 しかも当然のような顔をして国王であるワシ専用の広間で朝食を摂っておるのだっ⁉

 アーゼンベルドは、まるで西から昇った太陽が東に沈むかのように驚いてみせたが、なんのことはない、パレードが終わった翌日以降も、王太郎は魔王討伐になどには向かわず、王宮に居座り続けている。


 パレードの翌日。

 宛がわれた客室で一日中ベッドの上をゴロゴロしていた王太郎。まあ、流石にパレードの疲れもあるだろうし、今日くらいは休息をとってもおかしくなかろうと納得した国王だったが、王太郎は次の日も、そしてその次の日も魔王討伐には向かわず、腹が減ってご飯を摂る以外の時間を全て自室のベッドの上で過ごしていた。

 そして三日目。

 見かねた国王が、魔王討伐には行かないのか?とそれとなく尋ねると。

「今、行こうと思ってたのにー」

 まるで宿題をしない言い訳をする子供のような王太郎に、国王は声を荒げそうになるも、そうすることで勇者の機嫌を損ねてしまっては本末転倒、なに、あと数日もすればやる気になるだろうと待ちの一手を選び、今現在に至るというわけである。

 まずい……と国王は焦る。

 このままではこの男、一生ここで怠惰に過ごしかねん。ここはこの国の王としてガツン!と言ってやらねばあるまい。

「うおっほっん!」

 アーゼンベルドはこれ見よがし咳払いをする。

「どうしたのおっちゃん、喉でも詰まったか?」

「ち、違うわ!」

 拍子抜けする返答に、アーゼンベルドは本当に咳き込んでしまい、呼吸を整えて再度トライする。

「今日はいい天気よの、勇者殿よ」

「うん? そうか?」

 王太郎が見た窓の外には曇天が広がっている。

「うむ! こんなに天気が良いと、なんだか魔王討伐の一つでもしたくなるの」

「別に」

「……そ、そうか」

「うん」

 おざなりな相槌を打ちながら激甘カフェオレに口をつける王太郎に、心が折れそうにアーゼンベルドだが、このような天邪鬼な男すら意のままに動かせるのが王の器というもの。

「いやー、それにしても本物の勇者ともなればさぞや強いのであろうな。その腕前を是非とも拝見したいものだが、並大抵の相手ではその実力を発揮することもできないのが口惜しいのー。それこそ魔王くらいの強敵ではないといけないのだろうが、そう都合よく魔王がいるわけなど……おうっ⁉ そういえばこの国の南にある土地を、魔王軍が支配しておったのだ⁉ あにはからんや、これはなんたる偶然、天の思し召し! 早速、魔王討伐に向かわれてはいかがかの⁉」

 マルチ商法も裸足で逃げだす強引な勧誘をアーゼンベルドが仕掛けると、王太郎はこれ以上とぼけるのは流石に難しいかもしれないなと思った。

「そうかもなー」

「おっ⁉ ようやくやる気になられたか⁉」

「なった、なった。でもさー、前も言ったけど、俺、剣とか握ったことないんだよねー。流石に丸腰で行くのはちょっとなー」

「それならば家庭教師をつけよう」

「家庭教師?」

「この国一番の剣の使い手である孤高の剣聖、コルネリウスに師事できるよう、すぐに手配しよう!」

「え、修行とかめんどくさいのは……」

 王太郎が制止するのを振り切り、国王は朝食も抜きにして自ら手筈を整えるべく広間を後にした。


 朝食を食べ終えると。

王太郎は二度寝を決め込もうと廊下を歩いていたのだが、部屋へと戻る道中でアーゼンベルドに引き留められる。

「紹介しよう。こちらが今朝言っていた剣聖だ」

 そう言うアーゼンベルドの背後には一人の男が控えていた。

 青年は、研ぎ澄まされた刃物のような洗練された佇いで、背丈は王太郎よりも高く、腰の辺りまである長髪は赤銅色をしており、左手は剣の柄に載せられている。

「こちらが勇者殿だ」

 アーゼンベルドが紹介すると、青年は前に歩み出て挨拶をする。

「コルネリウスだ。よろしく」

 すっと差しだされた右手は、どうやら握手を求めているようだが、生粋の日本生れ日本育ちだである王太郎にとっては、気取った仕草に思えて面映ゆかったがおずおずと手を伸ばすと、待ちきれないと言わんばかりにコルネリウスががしっ!とその手を握った。

「聞いたよ、魔王を倒してこの国を救うためにどうしても剣を習いたいんだってね」

「え? いや俺はそんなことは一言も……」

「素晴らしい心意気だ。強きを挫き弱きを助けるなんて、騎士道そのものだ」

「いや、そんな大層なことは……」

「僕の家は代々騎士の家系、どうやら君とは気が合いそうだ。大丈夫、安心してくれ。この僕が君を立派な騎士にしてみせるから」

 ぐいっ!とこちらの手が潰れるほど力を込めたコルネリウスがにかっ!と笑うと真っ白な歯が煌めいた。

 こいつ全然人の話聞かないタイプだ……と王太郎は呆れた。

おまけ無駄に熱血、それも周りにも自分と同じ熱量を求めるタイプのタチの悪い熱血だ。口うるさい委員長タイプのティエリメットと同じで、こういうやつもクラスには一人はいるんだよな。文化祭とか体育祭で、やけにクラスで一致団結することを強調するやつ。これまた俺とは反りが合わないタイプだ。

 初対面で早くも苦手意識を持ち始めた王太郎だったが。

「それじゃあ、行こうか」

 コルネリスはそう言うと。

 握手でホールドしたままの王太郎を引っ張って歩きだす。

「行くってどこに?」

「修行に決まってるだろう!」

「今からか?」

「当然だ!」

 なにが当然なのだろう……。

「いやーでもさ、朝ごはん食べたばかりだし、食事休憩ってことで修業はまた後で……」

「剣を握るのは初めてなんだってね、でも気にすることはない、誰だって最初は初めてだ! この僕に任せてくれ、君を立派な騎士にしてみせるから!」

「おーい、俺の話聞いてる?」

「いいや、まったく!」

「……」

「だが問題ない! この国の人たちを救いたい! その熱い気持ちを共有できているのだから、僕たちに言葉は必要ない! そうは思わないか⁉」

 ……ヤバい。

 こいつはマジで頭がおかしい。

 コルネリウスはずんずんと廊下を進んで行く。

そしてその背中をアーゼンベルドはほくそ笑みながら見送った。

 ふっふっふっ、これであの自堕落な勇者も心を入れ替えて魔王と戦う気になるだろう。

 この国随一の剣の使い手コルネリウス。孤高の剣聖とまで呼ばれたやつが、どうして魔王軍と戦う前線ではなくこの王都にいるのか。その理由にはもちろん、王都の防衛という意味もある。魔王軍と戦争中の今だが、敵対関係にある隣国が攻め入ってこないとは絶対には言い切れんからの。

 だがしかし。

 一番の理由は先の通り、その性格のせいだ。

 二つ名である『孤高の剣聖』と聞くと、まるで世を捨てて剣の道に生きる達人のように聞こえるが、なんのことはない、他人の話を聞かず作戦に従わないため、どこの部隊からもいらない子扱いをされたのを揶揄して『孤高』と呼ばれているのだ。

 だが馬鹿と鋏は使いようである。あのような一癖も二癖もある人物ですら、有用に用いることができてこそ王の器と言えよう。

 自らの溢れんばかりの騎士道精神を相手に押しつける迷惑なコルネリウだが、やつは教育係、それも性根の曲がった捻くれものを指導するのに適任なのだ。どんなに性根が腐った人間であろうともやつの手にかかれば、三日で別人に生まれ変わる。先日など、一家四人をなんの目的もなく殺してなんの反省も見せなかった生まれながらの極悪死刑囚ですら、自ら魔王軍との前線に赴いて祖国のために命を懸ける愛国心のある人間に生まれ変わった。

 いったいどのような手を使ったのであろう。

 疑問に思ったワシが尋ねると、やつは満面の笑みで答えおった。

「僕はなにも。ただお手伝いをほんの少ししただけに過ぎません」

「手伝いというと?」

「騎士道について語るんです、拳で」

「なるほど。あれほどの極悪人が改心するのだ、さぞや素晴らしい弁舌なのだろうな。是非ともこのワシも一度聞いて……え?」

「『この国のために戦う』。そう言うまで、僕の熱い拳を彼に届け続けるんです」

「……」

「是非とも今度、国王さまにも騎士道について語ら―」

「けっこうだ」

 命の危機を感じたアーゼンベルドはすぐさまその場から立ち去った。

 あの自堕落勇者が、魔王を討伐させて下さいと必死に懇願するようになるまで、そう時間はかかるまい。

アーゼンベルドは食べ損ねた朝食を摂るために、久しぶりに一人でゆったりと過ごすことのできる広間へと戻った。


 それからさらに一週間後。

 アーゼンベルドは穏やかな朝の時間を満喫していた。

 ふむ……忙しい国王としての生活のなかでゆっくりと過ごすことのできるこの時間を取り戻すことができてなによりだ。

 そしてコーヒーに口をつけ、ふと思う。

 そういえば勇者の修行のほうがどうなっているのだろうか? あれ以来、一週間前にコルネリウスに修行に連れだされてからというもの姿を見かけないが。

 気になったアーゼンベルドが家来に尋ねると、

「コルネリウスさまは一週間ほど前から王宮には姿を見せておりません」

「一度もか?」

 家来が頷くと、アーゼンベルドは訝しむ。

 確かにコルネリウス邸には、剣術のための修練場が併設されているため、わざわざ王宮の修練場で王太郎に稽古をつける必要はない。おそらく住み込みで修業をしているのだろう。だがそれにしても、一週間もの間、国王であるこのワシになんの報告も寄越さないというはいったいどういう了見であろうか。

「コルネリウスをここに呼べ」

 国王の命を賜ると、家臣はすぐにコルネリウス邸に伝令の使者を派遣した。

 そして彼が姿を見せるまでの間、アーゼンベルドは書斎にて溜まってしまっていた国王としての業務を片付けることにした。

 

「うむ、今日は邪魔がないからかなり捗ったの」

 執務机の上に積み上げられた書類を前に、アーゼンベルドは達成感を感じる。窓の外を見るともう夜であった。

「って違うわ! コルネリウスのやつはどうしたのだ⁉」

 持っていた羽ペンを壁に投げつける、アーゼンベルドはすぐに家臣を呼びだした。

「コルネリウスはどうしたのだ⁉」

「それが、伝令の使者は確かに役目を果たしたと言うのですが、コルネリウス卿は一向に姿を見せないのです……」

「もういい! ワシが直々に出向く!」

外出の支度をすぐに整えたアーゼンベルドは、馬車に乗りこんでコルネリウス邸へと急ぐ。

「おい、コルネリウス! いるのだろう、ここを開けろ!」

 まさか国王が扉を叩いていると思わず、荒々しく屋敷の扉をノックする不遜な輩を叱りつけようとした使用人は、玄関を開けて腰を抜かしてしまう。

「コルネリウスはどこだ⁉」

「コ、コルネリス様は夕食中でございます」

 夕食中だとっ⁉

 国王であるワシの勅命を無視するに飽き足らず、呑気にメシを食っておるというのか⁉ ここは一つ、ガツンと言ってお灸をすえねばならんようだな。

「食事の間に案内しろっ!」

「あ、あの……それが」

 使用人が言いづらそうにモジモジする。

「コルネリウス様は自室にて夕食を摂られておりまして……」

「自室? 広間ではないのか?」

「それが……そうですね、見て頂いたほうが早いかと」

 使用人のあとについてコルネリウスの自室の前に案内されると、アーゼンベルドはノックもせずに扉を開けて勢いよく言い放った。

「コルネリウス! なぜ王宮に来ない!」

 そして彼が目撃したのは、天蓋付きの豪華なベッドの上で上体を起こし、膝の上に乗せたトレーから緩慢な手つきでステーキを口に運ぶ、どよーんと濁った眼をした赤髪の青年だった。

「コ、コルネリウスなのかっ……?」

 アーゼンベルドは目の前の光景に目を疑った。

 そこにいるのは彼の記憶の中にいる赤髪の活力に溢れた青年騎士ではなく、ソファーに座ってジャンクフード片手に惰性でテレビを見続けるカウチポテトだった。

「あれ? 陛下? なぜここに?」

「それはワシのセリフだ! なぜ伝令を送ったのに王宮に姿を見せぬのだ!」

「伝令?」

 そんなの初耳だと言わんばかりにコルネリウスは首を傾げた。

「今朝、王宮に来いという伝令が届いたはずだろう!」

「ああ、そういえばそんなの来てましたね」

「そ、そんなのだと……」

「でもあとでいいやーって思ってたら、忘れちゃいました」

「忘れただと……」

「はい。もし王宮に行ったのにも関わらず、陛下が急用でいなかったりしたら無駄足になるなーって思って、だったらギリギリまで行かないで様子見ようかと思って」

 臣下の舐め腐った態度に、アーゼンベルドは怒りを堪えてプルプルと震えていた。

「ああもう良い! それで修業はどうなったのだ⁉ 勇者は更生したのか⁉」

「修行? そんなのするわけないじゃないですか」

「……へ?」

「だってアイツ超強いですよ? 多分、魔王なんて秒殺ですよ」

「誠か?」

「本当ですって、一回だけ剣を交えましたけど、僕なんて足元にも及びませんでしたよ。だからもういいんですって。アイツ一人いれば、魔王なんて楽勝で倒せるんですから、僕がこうしてダラダラしてても全く問題ないんですよ」

 そう言って国王の御前であるというのにも関わらず、ステーキをむしゃむしゃと食べ続けるコルネリウスに、アーゼンベルドは問う。

「では肝心の勇者はどこにいるのだ?」

「さあ、多分僕と同じで部屋でダラダラしてるんじゃないですか? なんかアイツ見てるとこっちまでやる気なくなるっていうか、気が抜けちゃうんですよねー。おまけに、どうせコイツがいるから魔王が攻めてこようが平気でしょ?って思うから余計にたるんじゃって」

「……」

 変わり果てた剣聖の姿に、アーゼンベルドは掛ける言葉もない。

「なんかもう話すのもめんどくさいんで、出てってもらっていいですか?」

「あ、ああ、すまん」

 なぜワシが謝らなければならんのだ……。

 心の内でそっと不平を漏らすアーゼンベルドだが、これ以上この自堕落騎士になにを言っても無駄だろうと悟り、部屋をあとにした。


 そして翌日。

「カーネルサンダースの家の飯も旨かったけど、やっぱ王宮の飯のほうがうめーや」

 国王専用の食事の間で、以前とまったく変わらない様子で朝食を食べる王太郎に、アーゼンベルドは頭を抱えていた。

 修業はしていないということだが、この男が魔王を楽に倒せるという実力があるというのであればそれは問題ない。問題はこやつがどうすればやる気になるのかだ……。この国一の剣の使い手であるコルネリウスですら歯が立たないとすれば、この男に力ずくで言うことを聞かせるのは不可能。それになにより……。

こやつにワシの『器』を認めさせたいっ!

力ずくで言うことを聞かせるのではなく、他の誰でもなくこのワシの為ならといって魔王を退治しに行って欲しいのだっ! あの魔王を倒した勇者、その勇者にすら尊敬されるワシ!という構図をどうしても成り立たせたい! それによってワシの国王としての『器』への渇望を満たしたい!

 そのためには果て、一体どうしたものか……。

 朝食が冷めていくのもお構いなしに物思いに沈むアーゼンベルド、そしてそれを尻目にくちゃくちゃと行儀悪くパンをかじる王太郎が何気なく呟いた。

「なんか屋内で過ごすのも飽きてきたなー。なあおっちゃん、俺、街で遊びたいんだけどお小遣いくれない?」

 ……こやつ、ワシの気も知らんで。

 む? 待てよ……街で遊ぶということは必然、この国の民と触れ合う機会が増えるということだ。さすれば自ずとこの国に愛着が沸き、民たちを困らせている魔王を討伐しようと思うかもしれぬではないか? いや、絶対そうだって、え、ワシ天才過ぎない?

 いけるっ!

これなら間違いなくいけるっ!

「良かろう!」

「え、まじ?」

あれほど魔王を倒しに行けとしつこかった国王が、快く了承するとは思わなかったので王太郎は呆気に取られる。

「うむ! ちょっと待っておれ」

 そう言って一度広間から姿を消して戻ってきたアーゼンベルドが王太郎に手渡したのは、華美な装飾が施された印鑑であった。

「領収書にこれを押しておけ、ワシがポケットマネーから出そう」

「わーい、やったー。んじゃ早速行ってくる」

「遠慮はいらんからの!」

 とか言うあたりワシって『器』が大きいの、とアーゼンベルドは自分に酔いしれながら嬉々として王太郎を街に送り出した。



「ティエリメットー、どこに行ってしまったんですかー?」

 自らの名前を呼びながら通りを過ぎていくアメリスタを、ティエリメットは物陰に隠れてやり過ごすと、ほっと一息ついた。

 やっとアメリスタ様から逃げられました……。

 なぜ恩人であるアメリスタから逃げる必要があるのか、それを知るためには時を遡る必要がある。

 王太郎をもてなすための宴が開催された次の日、考えなしの王太郎とは異なり、流石に王宮に宿泊するのは恐れ多く、ティエリメットは教会で寝起きをして村に帰る準備をしていた。

 国王が正式にあの方を勇者と認めた今、私はお役御免でしょう。であれば一刻も早く村に帰って、これまで通り村の平穏と規律を保つのが、あの村を任せられたエルメラ教のシスターの本分というものです。

 だが別れの挨拶をしにきたティエリメットを、アメリスタが引き留めた。

「あらティエリメット、あなたにはまだ王都でやることがありますよ」

「やること?」

「あなたにはしばらくのあいだ本部に残って、私と共に過ごしてもらいます」

「なぜですか?」

「決まっているでしょう? あなたは今や、この世界に勇者を導いた聖女、他のシスターに対する影響力は計り知れません。あれ? ですがその聖女が熱心に慕うシスターがおるではありませんか、え、アメリスタ様というのですか、ふむふむ、聖女に慕われるのだから本当に素晴らしいシスターなのだろう、よし私も彼女のことを慕おうとなり、私の地位は爆上がりし教会を牛耳ることができるというわけです」

「そんなことしてどうするんですか……」

「私の悲願を叶えます」

「悲願?」

「胸のデカい女を魔女として魔女狩りを行います。教会に入り、マザーを目指したのも全てはこのためと言っては過言ではありません。さあ、ティエリメット、私と共に地上から全てのデカパイを駆逐して私たちの楽園を創りましょう!」

「……」

 ああ……私の憧れたアメリスタ様はいったいどこへ行ってしまわれたのでしょうか……。

そうして、村に帰ろうとしていた私を強引に引き留め、アメリスタ様は私のことを四六時中傍に置くようになり、彼女の思惑通り教会中のシスターたちが、アメリスタ様のことを聖女を育てた偉大なシスターとして尊敬し、こぞって師事したいと見習いのシスター集まったのですが、当然そのなかには発育のいい子もいるわけで、そんな子が近くにやってくるとそれまでの女神のような笑みから一転、修羅のような顔つきになり、

「ただしデカパイ、あなたはダメです」

 と冷たく突き放すのでした。

 それでも聖女を育てたという実績は教会ではかなり大きく、教会のほとんどのシスターがアメリスタ様を慕うようになりました。

 そして当然そのことを面白くないと思う方も教会のなかにはいるわけで、その筆頭がマチルダ様でした。

「見習いのときに面倒を看ただけだというのに、まるで自分が聖女だと言わんばかりに振る舞うなんて恥ずかしくなくて?」

 本部に滞在するシスターが寝起きをする宿舎の廊下ですれ違いざま、ちくりと針で刺すようにマチルダ様が呟くと、アメリスタ様が足を止めたので私もそれに倣いました。

「えーっと、どなたでしょうか? ああ、そのダラしない胸、シスターチチルダではありませんか」

 アメリスタ様がわざとらしくとぼけると、マチルダ様のこめかみに青筋が浮かびます。それを見て気分をよくしたのでしょうか、アメリスタ様はさらに攻めます。

「あら? このあいだ一緒だった見習いの修道女はどうされたんですか?」

「っ!」

「ああ、そうでした。彼女、どうしても私に師事したいとあなたから鞍替えをしたのでしたっけ?」

 マチルダ様はただ悔しそうに唇を噛みしめるばかりです。

「教え子にすら見放されるなんてマザー失格ではありませんか、チチルダ」

 そう言い残して颯爽と立ち去るアメリスタ様の背中を追いかけながら、私がついていくべきなのはこの背中なのだろうか……と不審を覚えるようになりました。

 そんな私の胸中などいざ知らず、アメリスタ様の教会での地位はうなぎのぼりに上がっていってしまいます。

 まずい……。

 このままでは本当にアメリスタ様が教会を私物化するようになり、ただ胸が大きいからとの理由で火炙りにされてしまう無垢な女性たちが後を絶たなくなってしまいます。そんなことを見過ごすわけにもいきません。

 だからこうして、私は隙を見てアメリスタ様から逃げて参ったのです。

 はあ……。

 もうこれ以上アメリスタ様には付き合いきれません。一刻も早くこの王都を発ち、村に戻って一シスターとしての生活に早く戻りたいと、街の外へと続く検問所へと向かうとしたその道中のことでした。

 なにやら随分と騒がしいと思い、そちらへ向かうと昼間なのにも関わらず、沢山の人たちがお酒を呑みながらどんちゃん騒ぎをしているではありませんか。もちろん、この国の人たち全員がエルメラ教の信者というわけではないですが、シスターである私はついつい口を出したくなり、輪の端にいたグループに事情を尋ねてしまったのです。

「お祭りでもやっているんですか?」

 どうやら結構なお酒を呑んで酔っているらしく、挨拶も抜きにした不躾な質問に赤ら顔の男性たちは気前よく答えてくれました。

「ん? いや、ちげーよ」

「ならこの騒ぎはいったい」

「勇者様だよ」

「勇者?」

「ほら、あそこ」

 ジョッキを手にした男性がくいと顎で示した先を見ると、そこには見覚えのある方がいるではありませんか。そうです、私が村から連れてきた勇者様です。

「な、なぜ勇者様がまだここに? 魔王討伐はどうなったのですか?」

「さあ?」

「さあって……」

「そんなことより、吞まなきゃ損だろ、これ全部勇者様の奢りなんだからよ!」

 そう言って男性はぐいっとジョッキを傾けると、周りの人たちも続きます。

「いやー、本当勇者様様って感じだよな!」

「まさか広場に居合わせたやつら全員に好きなだけ飯と酒を奢ってくれるなんてな!」

「まったくだ!」

「でもよ、もう一週間くらいずーっとこうやって朝から晩までお祭り騒ぎしてるけどよ、お財布のほうは大丈夫なのか、勇者様のやつ?」

「それがなんでも王様がポケットマネーをだしてるらしいぜ」

「王様の金ってことは、元は税金、つまりは俺たちの金だろ?」

「なら呑まなきゃ損だな、おいねーちゃんこっちジョッキ五つ追加!」

 そうして彼らは私のことなど忘れてしまったかのように酒盛りに戻りました。そんな彼らにお説教の一つでもしたかったのですが、それより今はその元凶をなんとかしなくてはと私は騒ぎの中心、広間に面した一軒の居酒屋のテラス席に目を向けました。

 あのだらしなく緩み切った顔……間違いありません、勇者様です……。あの方も相当お酒を呑んでいるのでしょう、ただの椅子に座っているのにも関わらず闘牛に跨っているのかと錯覚する具合にぐわんぐわんと上体が揺れています。

 それだけならまだしも(いえ、決して見逃すのではありませんが)、なんとあの方の周囲にはほとんど裸に近いような露出だらけの恰好をした女性が陣取り、競い合うように胸やらお尻やらを彼に押しつけていました。

「ねえ、勇者様。あたし、新しいバッグが欲しいなー」

「私は新作のドレスが欲しいー」

「私はなにもいらない。だから代わりに勇者様の子供が欲しいなー」

「あ? なに良い子ぶってんだよ、このカマトト。玉の輿狙ってんのバレバレなんだよ」

「そう言ってるあんただってさっきから露骨に彼氏いないアピールしてんのマジ必死でウけるんですけど?」

 一色触発のピリピリした空気を醸し出す彼女たちですが、どうやら勇者様は満更でもないようで。

「バッグでもドレスでも好きなだけ買っちゃってくれー、あ、領収証貰ったらこの印鑑押しといてな?」

「「「はーい!」」」

「よーし、それじゃ呑むぞー」

「「「呑むぞー!」」」

 勇者様の音頭に合わせて広間にいる皆がジョッキを空にします。

 まずい……このままだと魔王を倒せないどころか、王都が村の二の舞になってしまいます……。焦った私は急いで止めに入ろうと思ったのですが。

「やっと見つけましたよ、ティエリメット」

「え?」

 肩を叩かれ振り向くと、そこにはニコニコの笑顔なのに瞳は全く笑っていないアメリスタ様がいました。

「急にいなくなったら心配したのですよ? さ、教会に戻りますよ」

 気のせいでしょうか、心配とアメリスタ様は口にしたのですが、なにやらその言葉には刺々しさを感じ、私の肩に載せられたその手は万力のようにがっちりホールドを決めており、そんなわけで抵抗もする暇もなく私は教会へと引きずられていきました。



「ふむ、こんなものかの」

 隣国との条約の草案をまとめ終えたアーゼンベルドが書類から顔を上げ、目の付け根の辺りを指でほぐすと長時間の作業による疲れのせいか薄っすらと涙が浮かんでくる。

 一息つこうと背もたれに身体を預け窓の外を眺めると、もう陽が沈みかけており今日の執務終了までもうひと頑張りというところであった。

アーゼンベルドは英気を養おうと椅子から立ち上がり、書斎の調度品を愛でることにした。

 このドラゴンの牙は即位十周年記念のときに買った超がつくほどのお宝、うむ、触るだけでドラゴンの圧倒的な存在感を感じることができる。そしてこれは、当代随一と呼ばれた壺職人が最後に作った遺作。長い年月をかけて技を磨き上げた職人が己の集大成として全てを込めた壺、ドラゴンの牙とはまた異なった趣を感じさせるのお……。

ゆっくりとした足取りで部屋のなかを移動しながら、一つ、また一つと、アーゼンベルドはこれまでに趣味で集めた調度品を撫でていく。

国のために頑張るというのは立派な心構えだが、その理想を常に保ち続けるのは難しい。ときとしては自らの目の前に人参をぶら下げてやる気を出させることも必要、うむ、この条約の締結ができたら前から欲しかった一角獣の角を購入することにしよう。

そう自分に言い聞かせ机に戻ろうとしたとき、不意に扉がノックされ、一人の男が姿を見せた。

「ああ、よかった陛下、おられましたか」

 部屋に入ってきたのはこの国の財務大臣であった。

「なんだ? 予算案の判子なら昨日まとめて押しておいたが?」

「ああ、いえいえ。今回お伺いしたのは別件でして」

「別件?」

「はい、おい」

 そう言って大臣が部屋の外に合図を送ると、屈強な男たちが部屋へと入ってきて、見事な手際で、先ほどまでアーゼンベルドが初孫のように愛おしく撫でていたコレクションを運び出していく。

「な、なにをするのだ⁉ 気でも狂ったのかっ⁉」

「それはこっちのセリフですよ」

 大臣はやれやれと溜息をついて大量の領収書を机に叩きつけた。

「なんだこれは?」

「それもこっちのセリフです。女物の鞄に化粧品。お妃さまにあれほど怒られたのに、またお忍びでキャバクラ通いを始めたんですか?」

「か、通っておらんわ!」

 だが机の領収書には確かにアーゼンベルドの印鑑が押されていた。

「はっ⁉」

 そこで彼は思い当たる。

「勇者はっ⁉ 近頃姿を見ないが、勇者はどうしておる⁉」

「詳しいことは知りませんが、なにやら連日朝から晩まで、街中の人間と酒盛りをしているようですよ、全部彼の奢りで」

「ま、街中っ⁉ 全奢りっ⁉」

「ええ。陛下? 陛下っ⁉」

 あまりの衝撃にアーゼンベルドは気を失って受け身も取れずに倒れたが、大事には至らず数分後に目を覚ましたものの、国王の私財を以てしても支払うことができなかった領収書の残りを返済するために、自慢のコレクションが質に出され、空っぽになった書斎を見てまたも気を失った。


 そして翌日。

 一晩にして別人のように老け込んだアーゼンベルドは、さも当然の顔をして朝食のテーブルに同席している王太郎を、親の仇のような目で睨んでいた。だがそんなことなど王太郎は露にも気にかけない。

「あれ、今日の朝メシこんだけ?」

 王太郎の領収書を返済したせいで懐が寂しくなったアーゼンベルドの朝食は随分と質素なものになっていた。だが質素とは言ってもそれは以前の豪勢な朝食に比べたらであり、今現在食卓に並べられているのは、厚切りのベーコンと目玉焼きそれにロールパンという一般家庭の極々ありふれた朝食並みのメニューだった。

 だが王宮での生活に慣れすぎていたため、並んだ食事を見て王太郎は不満そうだった。

 一体……一体誰のせいでこんなことになったと思っているのだっ⁉

 怒りに震えるアーゼンベルドが持つコーヒーカップはカタカタと震えていた。

 今朝、妻が出て行った……。

愛しい娘を連れてなにも言わずに実家へと帰ってしまった……。ワシの印鑑が押された女物のバッグや化粧品を購入した領収書を見てワシが浮気しておると思って……それもこれも全てはこの男のせい!

 勇者だからと大目に見ておればつけあがりおって!

 そう、問題はこやつが勇者だということであり、魔王を倒すためにはどうしてもこやつの力が必要だということなのだ。さもなければこのような不届き者、今すぐにでも打ち首にしておるというのにっ……!

 昨日まで食べ親しんだ下で溶けるような特上ステーキではなく、その辺の肉屋で量り売りされている安物のベーコンを口に入れてアーゼンベルドは文字通りの意味でも歯噛みしていたそのとき。

「ご報告いたします!」

 食事中にも関わらず一人の臣下がノックもなしに入ってきて、アーゼンベルドは不機嫌そうに問い質した。

「なんだ、食事中だぞ?」

 後にしろ、そう言おうとしたアーゼンベルドだったが、臣下の言葉を聞いてすぐに思い直すことになる。

「それが勇者を名乗る者がもう一人現れまして……」

「なに?」


 王宮へと続く階段をハイペースで昇っていくアメリスタについていくことができず、ティエリメットはたまらず根を上げた。

「はあ、はあ、ちょっと待ってください。アメリスタ様」

「これが待っていられますか。勅命ですよ、勅命。国王自らが私たちを呼んだのです。きっと勇者を見つけた功績を称えるため私たちの銅像を建てるために採寸をさせてくれというに違いありません、さあ善は急げ、先を急ぎますよ」

 一体その自信はどこから湧いてくるのですか、と問う暇すら与えないアメリスタの背中を、ティエリメットは必死で追いかける。

 王宮の正門にたどり着いた二人はすぐさま王の間へと通されたが、そこにはなぜか魔王を討伐に向かっているべきはずの王太郎の姿が。

「あれ? チキンナゲットじゃん、どうしてここにいんの?」

「確かに大きな鶏肉をそのまま揚げたフライドチキンよりも、一口サイズで口の小さな私でも食べやすいので好きですが、かといってそのものになりたいかと言われたら絶対にお断りします。あと私の名前はティエリメットです。そしてなぜいるのかというは私のセリフです、いつになったら魔王退治に行くんですか……」

「どうしてもや―」

「やらなくちゃいけなくなったらですよね、ええ分かってますとも」

 まともな答えを期待するだけ無駄だと分っていたので、ティエリメットは王太郎は放っておいてなぜ自分とアメリスタが国王に呼ばれたのかを考えることにした。

 広間には彼女たち三人の他に四人の人間がいた。

 一人はもちろんこの城の主であり玉座に腰かけたアーゼンベルド。その右手側にティエリメットたち三人が、そしてその反対側、左手にはマチルダとそのお供と思われるエルメラ教のシスターが一人、そして見知らぬ一人の男、ちょうど王太郎と同じくらいの背格好をした少年がいた。その構図はまるで鏡に映したようである。

「国王陛下、これはいったいどういうことでしょうか?」

 マチルダのことを横目で睨みながらアメリスタが問う。

「うむ、実は集まってもらったのは他でもない。勇者がもう一人現れたのだ」

「勇者がもう一人?」

 アーゼンベルドが困ったように頷く。

 アメリスタは瞬時に状況を理解した。

 あのデカパイの仕業ですね……教会内での地位を取り戻すために偽物を勇者を楯て私に対抗するつもりですか。ですが残念。

「お言葉ですが国王陛下。この少年こそが本物の勇者です」

 アメリスタは王太郎を示す。

「エルメラ様のご加護がこの少年に宿っていることを、私は自分で確かめました。シスターマチルダは嘘をついているのです」

「あら、嘘をついているのはそちらではなくて?」

 マチルダが会話に入り込んでくる。

「私も自分で確かめましたが、このお方にはエルメラ様の加護が宿っていましてよ?」

 マチルダに促されると、彼女は隣にいた少年は穏やかな笑みを浮かべて右手の甲を顔の近くに掲げた。なんとそこには王太郎と同じ形をした紋様が刻まれている。

「どうせ偽物に決まってます、見せなさい!」

 ズカズカと少年に近寄りその手を取ったアメリスタであったが。

「そんな……まさか、本物?」

「ですから最初からそう申し上げておりますのに」

 見せつけるように微笑むマチルダに、アメリスタは歯噛みするほかない。

「ふむ、なるほど。どうやらこの男もまた、本物の勇者のようらしいの……」

 本物の勇者が二人?と王太郎は疑問に思った。

だとすればあいつも俺と同じくエルメラと契約を交わしてこの世界に転生したってことになるのか?

 真偽のことを確かめるために王太郎は右手の刻印をエルメラに言われた通り三度擦る、するとと紋章が淡く光り、どこからともなく頭のなかにエルメラの気怠げな声が流れてくる。

『どちらさまですかー』

 王太郎もそれに心の中で応じる。

『俺だよ、天海王太郎』

『ああ、あの自室で餓死したオマヌケさん』

 そういう覚え方をされてるのか……だが覚えてくれているだけ良しとしよう。

『一つ聞きたいんだけどさ』

『なに? 長いのは止めてよ、もうすぐ定時なんだから』

 ……そうだ、コイツはそういうやつだった。

『俺の転生した世界に勇者っぽいやつがもう一人現れたんだけど』

『そんなはずないでしょ。だってそいつが世界を救っちゃったら、あんたが私と交わした契約が成り立たなくなるでしょ』

『でも本当っぽいんだよ、俺と同じで右手に変なマークついてるし』

『分かったわよ、ちょっと調べるから待ってなさい』

 そう言ってしばらく静かになったあとでエルメラが声を上げた。

『あ、コイツじゃない?』

『どんな見た目だ?』

『あんたと同じ黒髪黒目で、年も同じくらい。だけど身長はコイツのほうが高いわね』

 王太郎が横目で確認すると、今のところ全ての特徴に合致している。

『他に特徴は?』

『そうね、強いて言うなら髪形かしら。キノコ頭みたいなサラサラヘアーをしてるわ』

『どうやらソイツで間違いなさそうだ』

『でしょうねー、だってそいつ私が送ったんだもん』

『……はあ?』

『あんたを送った次の日くらいだったかしら。もう一度人間に、それも大富豪の子供とかに生まれ変わることができるほど良い行い前世でしたのにも関わらず、困っている人を一人でも多く助けることのできる来世を送りたいっていう人がいたんだけど、間違えてあんたと同じ世界に転生させちゃったみたい』

『みたいって……まあ、いいや。とにかくこの世界は俺の担当なんだろう? もう一人勇者が現れたせいで色々ごたついてるんだよ、早くコイツを他の世界に送ってくれよ』

『それは無理な相談ね』

『なんでだよ?』

『だって始末書書きたくないもの。転生をキャンセルするためには、始末書を書いて偉い人の判子を貰う必要があるの。そんなことしてたら定時に帰れないじゃないの』

『お前な……』

『まあ、今回は私のミスってことで、アンタが同じ姿形で転生できたのはサービスってことに、私のほうで書類をイジっておいてあげるわ。あ、それじゃ定時だから切るわねー』

 ……。

 本当に切りやがった……てかサービスにしておいてあげるじゃないだろう、絶対に自分のミスを隠ぺいしただけだ。アイツを当てにした俺がバカだった。

 王太郎がエルメラとやり取りをしていた一方。

アメリスタは状況を打開するために策をめぐらせていた。

 たとえこの少年の紋章が本物だとしても偽物だと言うべきでしたか……いや、そうしたところで状況は同じ、マチルダがこちらの勇者を偽物だと断じるだけの話。となればゲームは次の段階、『どちらが本物の勇者なのか』ではなく『どちらが本物の勇者に相応しいのか』を国王に認めさせた方の勝ちですね。

 アメリスタは自分を落ち着けるために深呼吸をしてから口を開いた。

「それがどうだというのですか? 国王陛下はこちらの少年を本物の勇者だと認めておられますよね、あのような大々的なパレードを開いてまで。それなのにやっぱり違いましなどと言い出せば、陛下の威信がどうなるかはお分かりですよね?」

「う、うむ……」

 アメリスタの言葉に、アーゼンベルドはぐうの音も出ない。だがここで簡単に引き下がるようなマチルダではなかった。

「それは逆でしてよ。考えても下さいませ、勇者がいつまで経っても魔王討伐に行かないことを民がなんと思わないとでも? やはり今回の勇者も偽物なのでは、と噂する声も町では次第に大きくなっていましてよ」

「う、うむむ……」

 困ったように呻くアーゼンベルドを見て手応えを感じたマチルダに挑発的な視線を送られて、アメリスタは思わず舌打ちをする。それに気をよくしたマチルダはさらなる攻撃に打ってでる。

「それにこちらの勇者は今すぐにでも魔王討伐に向かうつもりでしてよ?」

「なに、それは本当か?」

 て前のめりになるアーゼンベルドの問いに答えたのは、マチルダではなくその背後に控えていた少年だった。

「本当です、国王陛下」

 一歩前に出ると、少年は慇懃に礼をした。その身のこなしは舞台俳優ように洗練されており、周囲の者の注意を自然と引きつける。

「申し遅れました、私、皆野雄矢(みなのゆうや)です。エルメラ様によって天界より遣わされた勇者です」

 そう言って彼は右手の甲をアーゼンベルドに見えるようにする。

「今すぐにでも魔王討伐に向かいたいというのは誠か?」

「もちろんです。ここに来るまでのあいだに、魔王を倒すために必要な力は充分つけてきました」

 迷いない口調で言う少年は、身の丈よりも大きな剣を背負っている。相当使い込まれているのだろう、持ち手の部分に巻かれた革は擦り減り、柄の部分は所々欠けている。全身に纏った甲冑は帯びたたしいほどの傷や凹みで、原形を保っている場所のほうが少ない。

「よほど腕に覚えがあるようだな」

「はい。私が転生したのはこの国の外れにある小さな村でした。そこからここに訪れるまでのあいだに、人々を困らせる数々の魔物を退治してきました」

 彼が打ち取った魔物たちの名を聞いて、アーゼンベルドは驚きに目を見開いた。魔王に匹敵する力を持ちながらも、群れること嫌い個体で行動する魔物たちを彼は次々に打ち負かしてきたのだ。

「なぜだ。なぜそこまでして魔物を倒すのだ?」

 王太郎の件で痛い目を見たアーゼンベルドは、目の前にいる新たに現れた勇者の本質を見極めようとさらに問いを投げかけた。

「金か、名誉か、地位か。お主はなんのためにそこまでするのだ」

「理由などありません」

「なに?」

「困っている人が助けた、ただそれだけです。僕は幼い頃からなんでもできる人間でした。剣術も魔術もこの世界に来てすぐ、なんの努力もせずに習得することができました。でもそんな自分がイヤでした」

「なぜだ?」

「努力もせずになんでもできる、そんな人生のどこに意味があるというのですか?」

「ふむ……なるほど」

 少年の老成した瞳に見上げられ、アーゼンベルドは思わず頷いてしまう。

「僕はずっと己に問いかけてきました。なぜ自分は生まれたのだろう、なぜ神さまは僕にこのような才能を与えたのだろうと。きっとそれは誰かを助けるためだ、ある日そう悟ったんです。この途方もない才能はきっと、世界をよくするために、困っている誰かを助けるために神さまがくれたに違いないと。だから僕は困っている人を助けたい、この国の人々を脅かす魔王を退治したいんです」

「す……素晴らしい」

 アーゼンベルドはいつの間にかスタンディングオベーションをしていた。

「素晴らしいっ! お主こそが本物の勇者だっ!」

「騙されてはなりません!」

 たまらずアメリスタは待ったをかける。

「ただ困っている人間を助けたいなど、そんなできた人間などこの世にいるはずがありません! 全ては陛下に取り入ろうとする演技に違いありません!」

 必死に対抗するアメリスタを見て、本当にこの人はなんでシスターなんかをたっているのだろうとティエリメットは呆れた。

「往生際が悪くてよ、シスターアメリスタ。国王が認めているのだからこの方こそが本物の勇者。あなたの方は偽物でしてよ」

「っ……! あとから出てきた偽物の分際でキャンキャンうるさいですね、デカパイ」

 悪態をつくことで対抗するアメリスタだが、彼女とマチルダ、どちらに利があるのかは一目瞭然であり、このまま決着がつくかに思われたのだが、アメリスタに助け舟を出したのは思わぬ人物だった。

「そのことなのですが、なぜ一人に決める必要があるのですか?」

 皆野雄矢がその場にいた全員に問いかける。

「勇者が一人でなくてはならない、なんて決まりはないのでしょう? であれば、僕と彼、二人とも勇者でいいではありませんか」

「な、なにを言っているのでして⁉」

 マチルダは戸惑い、尋ねる。

「二人で協力したほうが魔王を楽に倒せる、そうではありませんか?」

「それは……そうですけどもっ!」

 偽物を勇者を立てたという罪により、教会におけるアメリスタの地位の失墜を目論んでいたマチルダにとっては面白くない展開であったが、彼の言うことは正論であり、マチルダは押し黙ってしまうが、話しは思わぬ形で彼女の望む方向へと転がる。

「あっぱれだっ!」

 まるでシンバルを打ち鳴らすかのように盛大な拍手を鳴らしながら、アーゼンベルドは段差を降りてくる。

「目先に囚われず大局を観ることができる。それだけではない、敵さえも己の仲間にしようとするその懐の深さ! 本物の勇者はお主だっ!」

 アーゼンベルドはまるで酒に酔ったおじさんのように、上機嫌で皆野雄矢の肩を叩く。

「ありがとうございます。ですが、先ほどもお話しした通り、どちらが本物かではなく二人で協力したほうが―」

「いいや! どちらが本物でどちらが偽物か、これはハッキリさせておかねばならん!」

「なぜですか?」

「勇者の役目を魔王を倒すだけではない。魔王を倒したあとの世界で平和を保つ、それも勇者の役目だ。一つの国に王が二人いれば、いずれ権力争いが生まれる。だからこそ、争いを防ぐために王は一人ではならぬ。勇者とて同じことだ」

 アーゼンベルドは心を鬼にして自分に言い聞かせる。

 そう、これは国王としてやむを得ぬ決断なのだ。ワシの王として、この国の平和を守る人間としてときには非情な決断を下さなくてはならのだ。

 別に、あの男のせいで酷い目にあったから仕返しがしたいからとか、そういうセコイ理由では決してないのだ。ワシに敬語を使わないのも、当たり前の顔をしてワシと同じ食事を食べているのも、この国の防御の要であるコルネリウスが使い物になくなったのも、あの男が豪遊したせいでワシの大切なコレクションが全て質に出されてしまったことも、キャバクラ通いを再開したと勘違いした妻と子供が実家に帰ってしまったことも、ワシは何一つとして気にしてはおらん。いや、本当に気にしてなんかないからね、ワシ。

 王としてワシは純粋にこの国の未来を案じたまでだ。

 これから言うことも同様。

 つまらない私怨からではなく、ただ国王として仕方なく言うのだ。

「よって! 偽物の勇者は明朝っ! 市中にて絞首刑とするっ! さらには、偽物の勇者を立て国王であるワシを欺こうとした罪により、聖女ティエリメットを魔女として同じく市中にて絞首刑とするっ!」

「えええっ⁉ ちょ、ちょっと待ってくださいっ! 騙すだなんて私はそんなつもりはっ!」

 だがティエリメットの抗議も虚しく、国王の命を受けた衛兵たちが広間の中になだれ込み、問答無用で王太郎とティエリメットを拘束する。

「言い訳無用っ! 二人を地下牢に閉じ込めておけっ!」

 衛兵たちにズルズルと引きずられていく二人。

「ア、 アメリスタ様っ! あなたからもなにか言って下さい、私は無実ですっ!」

「と、申しておるが?」

 国王に水を向けられると、アメリスタはなにかを口にしようとしたが思い止まり、目を閉じて一度深呼吸をして穏やかな笑みを浮かべた。

「人は死んだらお星さまになるとはよく言ったものですが、あなたは私の可愛い教え子、そうはさせません」

「アメリスタさま……」

 任せないと胸を叩いたアメリスタを見て、ティエリメットは涙で視界を滲ませた。

 王都に戻ってきて以来、この方には散々期待を裏切られてきました。ですがこの人はやっぱり私の師匠、肝心なときにはやはり頼りになる方です。

「あとで必ず助けるので、今は大人しく捕まっておいてください、ティエ彗星(コメット)」

「早くも星になってしまってるのですが⁉ あなた絶対助けになんて来ないでしょ見捨てる気でしょおおおおおおっ!」

 そうして王太郎とティエリメットは明日の朝の刑が執行されるまで地下牢に幽閉されることになった。


 そしてその夜。

 松明の頼りない灯りに通路を照らされた王宮の地下牢は大分湿度が高めだが、それに一人の修道女のすすり泣きが輪をかけていた。

「うううっ……どうして私がこんな目に」

 地下牢の壁に背を預けたティエリメットは、体育座りの姿勢で自らの膝に顔を埋めるようにしておいおいと泣いていた。そしてそんな彼女とは対照的に王太郎は、囚人用が寝るために用意された薄っぺらな藁葺きの布団セットなかでぐっすりと眠っていた。

「なに呑気に寝てるんですかっ!」

「あ痛っ」

 競技かるた選手のようなスナップの利いたティエリメット渾身の平手打ちをオデコに食らい、震度7の地震ですらピクリともしない王太郎でも流石に目を覚ます。

「なにすんだよ、ブランケット」

「確かにこんなお粗末な布団じゃなくてふわふわのブランケットがあれば快適な睡眠が約束されるでしょうが、明日の朝には永遠の眠りにつくことになるかもしれないんですよ⁉ あと私はティエリメットですっ!」

「痛っ」

 王太郎の頭をもう一度叩くも怒りが収まらないティエリメット。

「勇者さまは状況が分かってるのですか⁉ 絞首刑ですよ、絞首刑! このままだと私たち明日の朝には街の広場で吊るし首になるんですよ⁉」

「いや、まだそうと決まったワケじゃないだろう」

「……へっ?」

 あっけらかんと否定する王太郎に、ティエリメットは毒気を抜かれてしまう。

「も、もしかしてなにか考えがあるのですか?」

「いや、ない」

「じゃあなんなんですかっ!」

「明日の朝になるまでなにかが起こるかもしれないだろう? 隣の国が攻めてくるとか、誰かがクーデータを起こして国を乗っ取るとか、魔王軍が奇襲を仕掛けてくるとかさ。そういうラッキーで助かるかもしれないのに、ここで頑張ったら損をした気になるだろう?」

「なりませんよっ!」

 ムキになるティエリメットなど無視して王太郎は続ける。

「だからさ、『あ、これヤバい。自力でなんとかしないと絶対にマズイやつだ』ってなるまでは、なにもしないってのが理に適ってるんだよ。っつーわけでお休み」

「ちょっと! まだ私の話はっ……」

 言うが早いか寝息を立て始めた王太郎に、ティエリメットの言葉は届かなかった。

 ダメだ……。

この人は当てにならない、なんとか自分でここから抜け出す方法を考えなくては。

そう意気込んでいたティエリメットだが、彼女がああでもないこうでもないと首を捻っているのにも関わらず、同じ運命にあるはずの王太郎はぐーすかぐーすかと寝息を立てているという状況に嫌気がさしてきてついには不貞寝するに至ってしまった。

なんで私だけがこんなに頭を悩まさなくてはならないのですかっ!

思わず薄っぺらい藁葺きの布団のなかに横たわってしまったティエリメットは己に言い聞かせた。

そうです、疲れたままの頭で考えても仕方がありません。急がば回れとはよく言ったものです。焦りたくなるときほど一旦落ち着いてみるものです、でなれれば思いつくものも思いつかないというもの。スッキリした頭であればきっと地下牢から抜け出すための妙案が思いつくかもしれません。

そしてティエリメットは微睡に意識を委ねた。

そして翌日の朝。

「おいっ!」

 衛兵の荒らしい声で彼女は目を覚ました。

 絶対に手の届かない高さにある小窓から差し込む日差しで、ティエリメットは夜が明けたことを悟り、同時に己の失態にも気づいた。

 ……はっ⁉

 寝過ごしましたああああっ!

 分かってました、分かってましたともっ! 多分ここで寝たら朝までぐっすり寝てしまうのだろうと、きっと目を覚ますことはないのだろうと! 

おかしい、おかしいです……。いつもの私であれば、生きるか死ぬかの瀬戸際にいるにも関わらず一旦寝ようなどということは考えないはずなのに……はっ⁉ まさかこの人の怠惰が私にも移ってしまっているっ⁉ 村長さんたちもこれにやられたというワケですね……このままではいけません、エルメラ教のシスターとして一層気を引き締めてこれからは生活しなければなりません。

ってこれからはないのでしたあはははははっ!

「出ろ」

 鉄格子の扉を開けた衛兵の冷たい言葉に、いよいよその時が近づいてきているのだと焦ったティエリメットは必死で命乞いをした。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!」

「おい、止めろ」

 地面に頭を擦りつける彼女を止めようと、衛兵が腕を掴む。強引に連れていかれるのだと思ったティエリメットは断末魔のような悲鳴を上げる。

「ひいいいいいいっ! お願いです、私まだ死にたくないですっ!」

「おいなにか勘違いしていないか?」

「……へ?」

 拍子抜けしたティエリメットは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で衛兵を見上げた。

「お前たちは釈放だ」

「しゃく……ほう?」

「勇者様が熱心に説得したおかげで国王陛下はお前たちに恩赦を出された。出ろ、お前たちは自由だ」

「……え?」

 まさか王太郎の言っていた通り『なにか』が起こって死刑を免れるとは露ほども予想していないかったティエリメットは言葉を失い固まってしまう。

「早くしろ。今しがた、本物の勇者さまがこの国の全勢力を率いて魔王城へと総攻撃へと向かった。俺たちの急いでそれに追いつかねばならん。それともなにか? どうしても殺して欲しいというのなら今ここで斬り捨てても、こちらとしては一向にかまわんのだが」

「で、出ますっ! 今すぐ出ますっ!」

 ティエリメットは這う這うの体で鉄格子の外に出てすぐにでも地上の新鮮な空気を吸いたかったが、依然として鼾を立てて眠りこけている王太郎を前にした衛兵が腰に携えた剣に手をかけるのを見て、慌てて彼の首根っこを掴んで牢の外へと引きずり出した。


「良く寝たなー」

 王宮の正門の外まで連れてこられ衛兵に連れてこられ、縄を解いてもらったおかげで自由になった体を王太郎は目一杯伸びをして朝陽を全身に受ける。

「あんな状況で熟睡できるなんてどういう神経をしてるんですか」

「あれ? でもそう言うお前も随分スッキリした顔してるけど」

「わ、私は一晩くらい寝なくても大丈夫なんですっ!」

「ふーん」

「ほ、本当ですっ!」

 疑わしそうな目を向ける王太郎の追求から逃れるべく、ティエリメットは城下へと続く階段を一足先に降り始める。王太郎は頭の後ろで腕組をしながらその後をついていく。

「でもおっちゃんも酷いよなー。王都には二度と近づくな、もし今度顔を見せたら殺すって言うんだもん」

 実際はアーゼンベルドに対面で言われたのではなく、正門まで連れてきた衛兵たちに恩赦の内容を説明されたのだが、王太郎の言うことで概ね間違いない。『勇者を騙った罪を許す代わりに王都を二度と訪れないこと。訪れた場合には即絞首刑に処すること』である。

「『勇者に相応しい器だっ!』とか、調子のいいこと言ってたのによ」

「勇者さまが魔王討伐にさっさと行かないからですよ」

「違うって」

「なにが違うんですか」

 ティエリメットがキレ気味に返す。

「だって俺もう勇者じゃないし」

「? ああ、そっちですか」

 ティエリメットは納得する。

「それで、これからどうするのですか」

「できれば今まで通りお城でのーんびり過ごしたいけど、そういうワケにはいかないしなー」

「なら私と村に戻りますか」

「え、いいの?」

「言っておきますけど勘違いしないでくださいね。あなたを放っておくとロクなことにならないことが身に染みて良くわかりました。であれば、目の届く範囲で監視しておくほうがまだマシというものです」

 それに、とティエリメットは付け足す。

「覚悟するのはあなたのほうですよ。早寝早起きに勤労奉仕、私の目の届く範囲で自堕落に過ごせると思わないことです」

「えー」

「文句言わない。ほら手より口を動かす、日が暮れる前に村に戻りますよ」

 異論反論は受け付けませんと言わんばかりに歩きだしたティエリメットを引き留めるのはめんどくさく、かといって村に戻る以外の選択を考えるのもめんどくさいなと、王太郎は大人しくついていく。

 しばらく二人は黙々と階段を降り、城下町に到着したところで王太郎が口を開いた。

「なんかやけに街が静かだな」

「衛兵さんから聞きましたが、本物の勇者さまがこの国の全軍を率いて魔王城へと総攻撃に向かったらしいですよ。恐らく戦えない人たちも物資の運搬などで参加しているのでしょう」

「なるほどなー。村まで誰かに乗せてって貰おうと思ったけど、通りで馬車がないワケだ」

「そういうことです。分かったら自分の足で歩いてください」

「村のみんな怒らないかな?」

「なにをですか」

「ほら、勇者を輩出した村には豪華特典が与えられるだろ。でも結局はそれもパーになっちゃったし」

「大丈夫ですよ。私が保証します。村のみんなは敬虔なエルメラ教の信者、王さまからの褒美などなくとも、これまで通り規則正しく節制をして立派に生活していけます」

「そっか」

「はい。あの村の教会のシスターとして村の皆さまと生活を過ごしてきた私が言うのだから間違いありません」

 言っている内に村での生活がなんだか無性に懐かしく感じられたティエリメットの足取りは少しずつ早くなっていく。彼女を待ち受けているのはかつての面影が全く感じられないほどに荒れ果ててしまった故郷だとは露知らずに。



第三部


「あっ、見えてきましたよ」

 王都を発ったティエリメットたちは、途中で王太郎が休みたいと駄々をこねるという最もはや恒例行事をこなして黙々と歩き続けたかいもあり、夕方には村の外れにたどり着くことができた。

「ほら、もうすぐですよ」

 ティエリメットは振り返り、後ろをノソノソと歩いてる王太郎に発破をかけた。

「あとちょっとなんですから頑張ってください」

「いや、逆だろ」

「逆?」

「もうここまで来たなら着いたも同然なんだから休憩しよう」

「意味分かりません」

 ほら行きますよ、とその場に座り込みそうになる王太郎の袖を引っ張って、ティエリメットは強引に村の入口へと向かう。その様子は二人の背格好から、日曜日に家でゴロゴロする父親を外へと連れだそうとする小学生くらいの娘のように見えなくもない。

 村に近づくにつれ慣れ親しんだ景色が目に映るようになり、ティエリメットは懐かしさで胸がいっぱいになり、そういえばかれこれ一月近くも村を留守にしていたことに気づく。

 先代のシスターが生きていた頃、見習いシスターとして研修のために王都に行ったときは三か月ほど留守にしましたが、あの時以上に懐かしさを感じます。それだけ私にとってこの村は大切な存在だということかもしません。ああ、みなさん元気にしているでしょうか。早く顔を見たいですね。

 はやる気持ちを抑えきれず小走りになったティエリメットは、夕方の今頃はきっとどこの家でも晩御飯の支度をしていていい匂いがするのだろうなという期待に胸を膨らませて村のなかに足を踏み入れた。

 だがしかし。

「……変です」

「なにがだ?」

 訝しむティエリメットに、王太郎が尋ねる。

「あまりに静かすぎます」

 言われて王太郎は耳を澄ませてみるが確かに人の声が全く聞こえない。

「それに見てください。もうすぐ日が暮れるというのに、明かりがついている家が一軒もありません」

 これまたティエリメットの言う通りであった。

「寝てるんじゃいのか?」

「こんな時間にですか?」

「俺が元の世界にいた時は、好きなときに寝てたから全然このくらいの時間でも寝てたけど」

「あなたなんかとこの村の人を一緒にしないでください……。なにかあったに違いありません」

「そうかなー」

「そうです」

 いつも通り呑気に事を構える王太郎に呆れつつ、自分の勘違いであって欲しいと願うティエリメット、だが村のなかを進むにつれて荒れ放題の畑や家々によって、淡い希望は打ち砕かれた。

「ひどい……いったい誰がこんなことを」

 変わり果てた風景を前に、ティエリメットはショックのあまり棒立ちになってしまう。

「おわー、これは確かになんかあったに違いなさそうだな」

「……なんかってなんですか?」

「盗賊に襲われたとか?」

「そんなワケありませんっ!」

 静かな村にティエリメットの叫び声が響きわたる。

「いや、俺はただ可能性の話をって、おいっ! どこ行くんだよ?」

 ティエリメットは居ても立っても居られなくなり、王太郎をおいてその場から駆けだす。

 嘘です、嘘ですっ!

 そんなはずありませんっ!

 村の人たちになにかがあったかなんてありまえませんっ!

 村になにかあったのではないか、そう言い出したのは自分であるにも関わらず、最悪の事態を否定してくれるなにかを求めてティエリメットは村のなかを駆ける。

 誰か。

 誰でもいいです、誰か残っている村人はいないのですかっ⁉

 そんな彼女の思いが天に聞き入れられたのだろうか、ティエリメットは街の中心にある広場にたどり着くと、そこで倒れている村人たちを見つけた。それも一人ではない、大勢の村人が地面に倒れていた。彼らの生死を確かめるべくティエリメットはすぐそこに倒れていた村人の一人、村長に駆け寄り上体を起こした。

「村長さん⁉ 目を覚ましてください、村長さん‼」

「うっ……その声はティエリメットか?」

 苦しそうではあるが村長が生きていることを確認して、ひとまずは胸を撫で下ろしたティエリメットだったが、不穏な気配を感じてすぐに緊張が戻ってくる。

 微かですが、この邪悪な気配……もしかして、魔族っ⁉

 シスターであり魔族の気配を感知するアンテナが敏感なティエリメット、彼女が感覚を研ぎ澄ませて微弱な気配を辿ると、その先にはいたのは見知らぬ一人の少女だった。だが少女はどう見ても人間の形をしており魔族には見えない。勘違いかと思ったティエリメットだったがふと思い当たる。魔族は人に姿を変えることができると。だとすれば目の前の少女の正体が恐ろしい魔族だとしてもなんら不思議はない。

……ですがここで逃げるワケにはいきません。

ティエリメットは村長をそっと地面に横たえると立ち上がり、胸から下げていたペンダントをぎゅっと握りしめた。それは王都の本部で一人前のシスターと認められた際に支給されたエルメラの加護が宿るとされるものである。

私はこの村の秩序を守るシスターです。

逃げるなどという選択はありませんっ!

「そこの魔族っ! 今すぐその人から離れなさいっ!」

 悪霊を払うエクソシストが十字架を掲げるように、ティエリメットはペンダントを突きだした。

 倒れた村人を食べるつもりだったのだろうか、そのそばにしゃがんでいた魔族はティエリメットの声に気づき、こちらを振り向いて立ち上がった。

 その姿はやはり少女としか言いようがなかった。

 だが一般家庭で育った普通の少女ではない。膝まで伸びた漆黒の長髪はまるでブラックダイヤモンドのように妖しく艶めき、真紅の瞳がより一層映える。身にまとうは舞踏会にでも着ていくようなレースのあしらわれたふわふわのドレス。一国傾城、というのは彼女のために用意された言葉にすら思える。

「もう一度言います! その人から離れなさい! そして今すぐこの村から出ていきなさいっ!」

 ペンダントを握る手をガタガタと震わせながらも、ティエリメットは必死に叫び、そんな彼女を村長が止める。

「や、止めろ……あの子と戦っちゃいけない……。なに俺たちなら平気だ、だからシスターは今すぐにでも……」

「イヤですっ! この村は私の村です、皆さんは家族ですっ! 家族をおいて逃げるなんて―」

「水を持ってきてくれ」

「絶対にっ……え?」

 ……水?

「今なんて?」

「水を、水をくれ……」

 手を伸ばして苦しそうに呻く村長だったが、ティエリメットはそれどころではなかった。

 確かに苦しそうな村長さんが水を欲しがるのはもっともなのですが、とは言っても時と場合というものがあるはずで、今この状況、目の前に魔族がいるのに水なんかを飲んでる暇はないはずでは?

 だがそこまできてティエリメットの心に引っかかることが。

 シスターとしての修行を積んだ私と違って、村長さんたちは普通の人間、であればあの少女の正体が魔族であると見抜くことは不可能で、あちらからなにもしてこなければ普通の人間だと勘違いしてしまうはず。

 そう、なにもされていなければ……。

「そ、村長さんっ!」

「み、水っ……」

「あなたはあの少女にやられたのですよねっ⁉ ここに倒れている人たちみんなあの少女によって手負いにされたんですですよねっ⁉」

「違うが」

「え?」

 ティエリメットは思わず身体から力が抜けてしまう。

「じゃ、じゃあ、これはいったいどういうことなのですかっ⁉ なぜ村の人たちが屋外で倒れているのですかっ⁉」

「そうだな、どこから話したもんかな……やっぱりあそこから、シスターたちが王都へと発った日のことから話すべきなんだろうな」

 そうして。

 遠い目をした村長は語りだした。

「もうかれこれ一か月以上も前になるのか。あの日、シスターが村を発ったあとで、俺たちはあんたの言いつけを守ろうとしたんだ」

「言いつけ?」

「ほら、俺たち勇者が現れたことに浮かれて、いざというときのために備蓄しておいた食料庫の食料を食べちまっただろう? だからそれを元に戻すようにって……でも、ダメだった、俺たちはシスターとの約束を守れなかった」

 悔しそうに涙を流す村長。

 ここに来るまでに荒れ果てた畑を見ていたティエリメットは、もしかして災害でも発生したのかと思い尋ねたが村長の答えは。

「いいや。ここんところは最高の気候だった、作物を育てるのにこれ以上はないってくらいにうってつけな天気だった」

「でしたらなんで」

「めんどくさかったんだ」

「……はあ?」

「めんどくさかった働きたくなかったんだっ! 備蓄した食料を思う存分食べて酒を好きなだけ呑んでどんちゃん騒ぎをして寝るっ! あんな自堕落で気持ちいい思いをしたあとで真面目に働くなんて無理だ! そんなことできっこない! そう思った俺は自分に言い聞かせた。食料庫にはまだまだ食材がある、なに今日までエルメラさまの教えを守って真面目に生きてきたんだ、ちょっとくらいダラけてもいいだろうって。おまけに口うるさい誰かさんもいなかったし!」

「誰のことですか、それ」

 半眼で睨むティエリメットだが、村長は話しを続ける。

「そこから先は簡単さ。俺たちは朝から晩までこの広間に集まって宴会をした。初めは集会所を使っていたんだが、掃除するのがめんどくさいと誰かが言いだしてな、それなら外でやろう、そうすればいくら散らかしても大丈夫だってな。さらには家に帰るのすらめんどくさくなった俺たちは、この広間で野宿するようになった。酒を呑んでどんちゃん騒ぎをして眠くなったら横になって、目が覚めたらまた騒ぐ。あとはその繰り返しだ。畑の世話なんか誰もやりゃしない。だって食料庫に行けば備蓄があるんだからな。その備蓄がなくなってから働けばいいさ。とまあ、以上が俺たちの身に降りかかったことの顛末だが確かにシスターの言う通り、俺たちはあの勇者がもたらした『怠惰』という災害の被害者なのかもしれな―」

「違います」

「……『怠惰』という災害の被―」

「違います」

「……やっぱり?」

「他人のせいにするのは止めてください。あなたこの村の村長でしょ」

「……ぷいっ」

 仰向けのままでそっぽを向いた村長に、ティエリメットは思わず拳を握ったが、まだ片付いていない問題が一つあることを思いだした。

「で、ではあの少女はいったい何者なんですか⁉」

「さあ?」

「さあって……」

「でもまあ多分、善い人なんじゃないか? 二日酔いで動けない俺たちのために水を持ってきてくれたし」

「えっ?」

 そう言われたティエリメットは思わず振り返る。

 彼女が敵と判断した少女の足元には水を溜めた桶と柄杓がおいてある。どうやらそれを水を飲ませていたのだろう、倒れている村人の口からは水が滴っていた。

 どうやら村長の言っていることは本当らしい。

 だが彼女か魔族の気配がするのも事実。

 事の真偽を確かめるためにティエリメットは勇気を振り絞って尋ねてみた。

「あ、あなたは何者ですか? どうして魔族なのに人を助けるのですか?」

 自らの正体を看破されたことに驚いた少女は少しを目を見開いてから答えた。

「私はフィリア……魔族の長である魔王の娘」

 今度はティエリメットが目を見開く番だった。

「ま、魔王の娘っ⁉」

 フィリアと名乗った少女はコクリと頷いた。

「な、なぜ魔王の娘がこんなところにいるのですかっ⁉」

「それは……」

 言い辛いことなのだろうか、フィリアは伏し目がちになってしまう。だがそんなことは知ったことではない、この邪悪な魔族の少女の企みをなにがなんでも暴かなくてはとティエリメットは気張る。

「さあ、答えなさいっ!」

「……家出です」

「家出?」

「父と喧嘩したので家出しました」

「父って……魔王のことですか?」

「はい」

「……」

 思ってもみなかった返答に、もしかして冗談なのか?と無言で見つめ返すティエリメットだったが、フィリアの神妙な顔つきからどうやらそういう訳ではなさそうだと悟り、はたと困り果ててしまった。


 立ち話をするのもなんだからということで。

 ティエリメットは村長たちに広間の片づけを命じたあと、遅れてやってきた王太郎を一応ボディガードとして傍に控えさせ、フィリアを集会所に案内した。

「これくらいしか出せませんが」

 フィリアと王太郎のいるテーブルに、ティエリメットは自分の分も含めて三人分の湯呑をおいた。

「お茶請けは?」

「村長さんたちのせいで食料は全部すっからかんです」

「えー」

 とぶつくさ文句を垂れながらも口をつける王太郎とは異なり、フィリアは湯気の立つ湯呑を前にしたままである。

「どうぞ、召し上がって下さい」

「あ、はい。ではお言葉に甘えていただきます」

 よそ行きのニコニコ笑顔で勧めるティエリメットだが、その笑顔の下は穏やかではなかった。

 勧められるまで手をつけないとは……魔族のくせに礼儀作法が成っていますね。ですがそれもいつまで続きますかね、ふふふふっ。

 まるで可愛い一人息子がつれてきたカノジョに嫌がらせをする小姑のようなねちっこい視線を、細めた目の奥でティエリメットはしていた。

一方の王太郎は無邪気に尋ねる。

「家出したって言ってたけど?」

「はい……」

 そうしてフィリアは語り出した。

「私の父は魔王。その名の通り魔族の長で、根っからの魔族。誰よりも強く、誰よりも野蛮で人間に恐れられています。父はよく私に言っていました。『いいか、フィリア。人間というのは低能な生き物だ。犬や猫くらいの脳みそしかない。もしやつらに捕まったら骨の髄までしゃぶられてしまうぞ』と。今思えば、あれは人間への憎しみを私に植えつけるための父の作り話だったと分かります。ですが幼い頃の私は本気で信じていました。人間というのは野蛮な存在なだと」

 ですが、とフィリアは話を転換する。

「ある一冊の本が私の人生を大きく変えました」

「本?」

 王太郎が問うと、フィリアは懐から一冊の本を取り出した。随分の年季の入ったハードカバーの本で背表紙は『お嬢様は魔族 ~許されざる恋~(上)』と読める。

「父はよく戦利品として征服した人間の国から色々なものを持ち帰ってくるのですが、そのなかにこの本がありました。なんだろうと思い手に取った私はすぐにこの本の虜になりました! ご存じかもしれませんが、魔族の文化は強さこそが絶対的な正義です。そのため学問などというものはおろか、小説というものも存在しません。そんな世界で育った私にとってこの本のなかの世界がなんと輝いて見えたことか! 

人間の文化に憧れる魔族の娘が、貴族出身の少女に姿を変えて、人間の国のお城の舞踏会にお忍びで参加する話なんです。たった一晩だけ、一晩だけなら問題ないはずだと彼女は思っていました。ですが彼女は恋に落ちてしまうのです、舞踏会に来ていた貴族の男性と! ですが、二人は人と魔族、許されない禁断の恋っ! 気づけば彼女は彼のことが忘れられず、毎晩のように人間に変身して舞踏会へと足を運んでしまうのですっ! はっ、す、すいませんっ! 私としたことがつい興奮のあまり夢中になってしまって……!」

 よほど好きなのだろうか。

 先ほどまでの落ち着いた様子から一転、恥ずかしさのあまりフィリアはハードカバーで顔を隠したが、はみ出た耳は真っ赤になっていた。だが唐変木の王太郎はそんなことお構いなしに無粋な質問をする。

「読むのは人間の女の子だろうに、なんでわざわざヒロインを魔族にするんだ?」

「そのほうが盛り上がるからですよ」

 答えたのはティエリメットだった。

「身分違いの恋というのは年頃の女の子向けの本の定番ですが、これはそれの派生形、種族違いの恋とでも呼びましょうか」

「ふーん」

 饒舌なティエリメットを、王太郎はじーっと見つめる。

「なんですか?」

「いや。やけに詳しいんだなって。まさかお前もこういうの好きなの?」

「ち、違いますっ! 本部で見習いシスターとして過ごしていたときに、知り合いですごく好きな子がいて、その子がよく語ってたんです!」

「へー」

「ほ、本当ですからっ!」

「いや、別に疑ってないけどさ。あんまムキになるとそっちのほうが嘘くさいぜ?」

「ム、ムキになんかなってません!」

 これ以上墓穴を掘るまいとティエリメットは話を逸らそうとする。

「で、ですがっ! ヒロインの女の子が魔族というのはかなり珍しいジャンルですね」

「なんで?」

「検閲に引っかかるからですよ。魔族と長きに渡って戦争してきたこの国では、魔族を肯定的に描く書物は見つかった瞬間に発禁処分、作者は死刑確定です。恐らくこの本はかなりのレア物ですよ。あ、あくまで知人から聞いた話ですけどね」

「そうなんです!」

 ティエリメットの話に、フィリアが激しく同意する。

「私、この本の続きがどうしても読みたかったんですがどうしても下巻が見つからなかったんです……ですがそういうことだったのですね、きっと下巻が発売される前に作者のかたはお亡くなりに……」

 しょぼくれるフィリアに、空気を読まない王太郎が質問を投げかける。

「それで父親と喧嘩した理由は?」

「先ほどもお話しした通り、私の父は魔王で、根っからの人間キライです。ですが私はどうしてもこの本のヒロインのように舞踏会なるものに行ってみたかった。豪華なシャンデリアの下で、煌びやかな衣装をまとって踊りたいと正直に父に打ち明けました。当然父は怒りました。人間の姿になり、服を着て踊ってやつらの真似事をするなど魔族の風上にもおけんっ!と。私は当分のあいだ外出を禁じられてしまいました。ですがどうしても諦めきれなかった私はこっそりと魔王城を抜け出してきたのです。ですがどうも私、昔から方向が苦手で……」

「道に迷ってしまったってワケか」

「お恥ずかしながら……」

 フィリアは小さくなる。

「あれ? でもあんたこんなところにいて大丈夫なのか?」

「一応、『人間の王都の舞踏会に参加してきます』と、書き置きは残してきました」

「あ、いや、そういうことじゃなくて……」

 フィリアの発言に王太郎は呆れてしまった。こっそり抜け出してきたのに書き置きを残してきたら意味ないだろうが……方向音痴なあたりと合わせても相当なドジっ子らしい、この魔王の娘さま。って、そうじゃなくて。

「今、魔王軍と王都軍は全面戦争中なんじゃないのか?」

「いえ、今は小康状態にありまして」

「今朝、勇者様が王都の軍を率いて魔王城へ全面攻撃を仕掛けたんですよ」

「……えっ?」

 ティエリメットの発言に、フィリアは二の句が継げなくなる。

「そ、それは本当ですか?」

「はい。私たちは今朝まで王都にいて、王宮の衛兵さんから直接伺いましたから間違いないと思いますけどって、ちょっと! どこ行くんですか!」

 急に立ち上がり集会場から出ていこうとするフィリアを、ティエリメットが引き留める。

「王都へ向かいます」

「そ、そんなことしてもムダですよ! 王都には剣聖コルネリウス様がいるのですから!」

 手薄になった王都にフィリアが攻め入ろうとしていると思ったティエリメットは、当代随一の剣の使い手の名を挙げて諦めさせようとする。彼が王太郎のせいで腑抜けになっていることなど露知らずに。

「違います。和平の申し出のためです」

「和平?」

「私が人質となれば、いくら魔王である父とはいえ和平の交渉に応じるはずです」

「な、なるほど……そうでしたか」

 早とちりをした気まずさから口籠ってしまうティエリメットのあとを、王太郎が引き継ぐ。

「でも一人で大丈夫か、あんた方向音痴なんだろ?」

「あっ……そうでした」

 自分のドジっぷりに顔を赤くするフィリアだが、今はそんなことをしている場合ではないと切り替える。

「すいません、どなたか道案内をお願いできませんでしょうか」

「なら俺じゃなくてこっちのマグネットに頼むんだな、俺も道知らんし」

「確かに王都にはなにも見ないでたどり着けますけど、それは私の身体が磁力を帯びていて北がどちらにあるか分かるので道に迷わないからではなく、ただ道のりをおぼえているからです。そして私の名前はティエリメットです、というかどんな間違え方ですか、あなたわざとやってませんか?」

 王太郎のことを半眼で睨みつけるティエリメット、彼女の手をフィリアが両手で掴んで懇願する。

「お願いです、ティエリメットさん! 私を王都に連れて行ってください!」

「え、えっと……」

「お願いです!」

「……」

 一途に頭を下げるフィリアを前に、ティエリメットは困り果てる。

 困っている人を助けるというのは聖職者として当然のことですが、相手が魔族となると……。ですが、もし本当に和平が結ばれるとなれば、結果として戦地で亡くなる兵士も減ることになるはず……。

「分かりました」

「本当ですか⁉」

「勘違いしないでください。あなたを助けるのではなく、和平のためです」

「それでもありがとうございます!」

「お礼はいいです、ことは一刻を争うようですからね。さあ、急ぎましょう」

「はいっ!」

 そうして集会所をあとにしようとする二人を呑気に王太郎は見送ろうとした。

「気をつけてなー」

「なに言ってるんですか、あなたも来るんですよ」

「え、なんで?」

「あなたを放っておいたら、また村が滅茶苦茶になるからです。さあ、行きますよ」

「えーさっき帰ってきたばかりなのにー」

 文句を垂れる王太郎の後ろ襟を掴むと、ティエリメットはズルズルと慣れた手つきで引きずっていく。

「ことがことですからね、馬車を取ってくるのでちょっと待ってください」

「あ、いえ。それには及びません。私がお二人を運びます」

「運ぶ?」

「本来の姿に戻るためには少し時間がかかる上に、しばらくは本調子を出せないのですが、二人を持って飛ぶくらいならなんとか」

「うおーすげー楽ちんじゃん!」

 自分の足で歩かずにすむと分りテンションが上がる王太郎。

「よしそんじゃ、いっちょ頼むわ」

「はい」

 だが気持ちのいい返事とは裏腹にフィリアは魔族の姿に戻ろうとしないので、王太郎は疑問に思う。

「どうかしたのか?」

「あ、いえ、その……」

 フィリアが恥ずかしそうにしながらモジモジと言う。

「その……変身すると服が破れてしまうので、先に脱いでおきたいので王太郎さまは建物のなかに入っていて欲しいのですが……」

「え? あんたじゃなくて俺が?」

「多分、建物が壊れてしまうので」

 言われて、王太郎は振り返り背後の集会所を改めて見た。確かに平屋で天井もそこまで高くないが、それでも大柄な男性が手を伸ばしてやっと届くくらいの高さがある。

「マジかよ……」

「すいません……」

 恥ずかしそうに俯くフィリアをこれ以上困らせるのも悪いと、終わったら教えてくれと言い残して、言われた通り集会所のなかに入る。

 そして数分後。

「もういいですよ」

 ティエリメットの声がしたので、王太郎が外に出るとそこにいたのは。

「でか……」

 全身が犬のような毛に覆われ、コウモリのような翼を有し、悪魔のような細い尻尾を生やしたゾウくらいの大きさの人型生物だった。

 流石にこれは別物なのではと疑う王太郎。皮膚の色が肌色から深い緑色に変わり、犬歯が伸びたり眼光が鋭くなってる、だが薄っすらと人間だったときの面影が微かに残っていた。

「あ、あの、そんなにジロジロ見られると……」

「見られると?」

「その、今のこの姿は人間でいう裸という状態でして……」

「え。でも魔族って服を着ないんじゃないの?」

「なんですけど、一度服を着ることを覚えるとなんだか恥ずかしくて……」

 まさしく魔王の娘と呼ぶに相応しい凶悪な見た目にも関わらず、フィリアは人間だったときと同じように身体をウネウネさせて恥じらうのだが、そのスケールは桁違いで、彼女が身体を揺らすと地面が大きく揺れた。

 このままだと周りの建物が倒壊しかねないと思い、王太郎は慌てて目をつぶる。

「じゃあ俺は王都に着くまでこうして目を閉じてるからさ、これならいいだろ?」

「す、すいません!」

 ただ勢いよく頭を下げただけ。それにも関わらず元の姿に戻ったフィリアがやると、まるで台風がやってきたかのよう暴風が吹き荒れ、体重の軽いティエリメットが紙切れのように吹き飛ばされそうになるのを王太郎がすんででキャッチした。


「お待たせしました」

 そう言って木の陰から姿を見せたフィリアは初めて会ったときのように瀟洒なドレスに身を包んだお嬢様に戻っていた。それを見て王太郎は気になったことが。

「魔族ってのはみんなあんたみたいに姿を変えられるのか?」

「はい。ですが前にも申した通り、変身には時間がかかりますし、人の姿だと極端に魔力が制限されるんです。それに魔族は魔力で仲間を見分けるので、人間の状態で魔力が弱くなると、最悪の場合、本当に人間だと思われて殺されてしまうかもしれません」

 フィリアが人間の姿に戻ったところで。

 王太郎たちは彼女を正門の近くまで連れて行く。

「悪いが、俺たちが案内できるのはここまでだ」

「なにか事情がお有りで?」

「色々あって王様を怒らせちゃってさ、実は俺、王都出禁なんだよね」

「なんと。それにも関わらずここまで送っていただいて。この御恩は絶対に忘れません」

 ペコペコとフィリアは何度も頭を下げる。

「それじゃあ俺たちはお役御免ってことで」

「待ってください」

 回れ右をしようとした王太郎をティエリメットが引き留めた。

「おかしいです……」

「なにがだ?」

「魔族の気配がします」

「そりゃそうだろ。だってフィリアがいるんだから」

「違います、他の魔族、それも複数います」

「どこに?」

 そう言って辺りを見回す王太郎だが、ティエリメットの答えは予想外のものだった。

「この城壁の向こう、王都の中です」

「この中?」

「それも相当な魔族です。壁越しなのにハッキリとその魔力を感じます」

「それってマズいんじゃないか?」

「当たり前じゃないですか、王都のなかに魔族がいて良いことなんてありません」

「いや、そうなんだけどさ。壁越しでも伝わる魔力ってことはさ、その持ち主は人間じゃなくて魔族の姿をしてるんだろ? 王都のなかで魔族が姿を隠さなくていい状況ってのは、かなりヤバいんじゃないかってこと」

 王太郎に言われて、事態の深刻さを思い知ったティエリメットだが、フィリアが発した言葉がそれに拍車をかけた。

「この魔力……間違いない、お父様です」

「「えっ?」」

 驚きのあまり声を漏らした王太郎とティエリメットは城壁を見上げる。

「この向こうにはあんたのパパ、魔王がいると?」

「はい……」

「占領されたんじゃね? 魔王に」

「そ、そんなはずありません!」

 ティエリメットは必死に否定する。

「魔王城には勇者様が向かわれたはずですし、なにより王都には最後の砦として剣聖コルネリウス様がおられます!」

「あいつならダメだと思うぞ」

「え?」

「騎士道、騎士道ってうるさいから、俺もちょっとマジになっちゃってさ。初心者の俺に模擬戦でボコボコにされたのが相当悔しかったんだろうな、もう剣なんか振らないって言って引き籠りになっちまった」

「なっちまったじゃないですよ! あなた王都の守護神になんてことしてくれたんですか⁉」

「だってアイツ言葉が通じないんだもん」

「とにかく、中に入って確かめるまではなんとも言えません」

「えーいいよー。だっておっちゃん、俺のこと出禁にしたし。どうなろうが知ったこっちゃないね」

「こんな緊急事態につべこべ言わない! はい、行きますよ!」

 そうしていつも通り駄々をこねる王太郎を引きずるティエリメットのあとに続いて、フィリアも王都の中へと足を踏み入れた。


 一方その頃。

 王宮にある王の間で、この部屋の主人であるはずのアーゼンベルドはまるで罪人のように全身を縄で縛られ、本来は彼の下を訪れた者たちが控える場所、玉座へと続く段差のしたに無造作に転がされていた。

 そして彼が本来いるべき場所、段差の上にいたのは異形の大男であった。全身を毛に覆われ、鬼のような顔をした魔族の王、魔王デルモアであった。そのあまりの体躯の大きさのため、デルモアは玉座を取り除き、直接床に腰を下ろし、足を段差の下の床につけて座っていた。五、六歩ある段差の高さは垂直一メートルと五十センチはあろうが、それでもデルモアは窮屈そうに足を曲げている。

 そんな圧倒的なまでの存在感のデルモアだが、なにか気にかかることでもあるのだろうか、先ほどからずっと膝の上で指先を。人間の肘から手先までくらいはありそうなそれを、神経質そうにドンドンしている。

 そして今。

 一人の魔族が広間の扉を開けて入ってくる。

「デルモア様、ご報告です」

「どうだった」

「全て順調です。国王を人質にしたことを教えると、城に攻め入ろうとした勇者はすぐに降伏しました。それで勇者の件なのですがいかがいたしましょうか。このまますぐに殺してもいいのですが、どうでしょう、明日、この国の人間どもが大勢見ている前で殺し、人間どもの心をへし折ったほうがすんなりとこの後のことが―」

「そんなことはどうでもいい!」

「は、はい?」

「娘はどうしたっ⁉」

「ああ、そちらでしたか」

 デルモアの言葉に部下は呆れたように言った。

「今朝に引き続きですね、魔力の索敵に秀でた者たちで編成した一個分隊をフィリア様の捜索に当てていますが、今のところ報告は上がっていません」

「一個分隊だとっ⁉」

「は、はい」

「貴様舐めておるのか⁉ 我が軍の手の空いているもの総出で探さんかっ!」

「で、ですが。勇者は降伏したものの、それまでの戦闘で我が軍の兵をかなり消耗しておりまして……その、ですから」

「だから、なんなのだ?」

「……」

 いくら魔王の娘とはいえ、自国を守るための傷ついた兵たちを家出娘を探すなんて下らないことに駆り出すのはあんまりです、とはこの魔族には口が裂けても言えなかった。

「やはり他の者には任せておけん!」

 立ち上がりかけたデルモアを配下の魔族は急いで制止する。

「わ、分かりました! 手の空いている者総出で探させますのでっ! あなたは魔族の王なのですから、その自覚を少しは持ってください!」

「むう……止むを得ん。その代わり一刻でもはやく見つけ出すのだ!」

 まったく、家出娘なんてその内放っておけば帰ってきますよ、という本音を吞み下して配下の魔族は形だけでも急いで広間から出るフリをした。

「なぜだっ……!」

 全身を縛られてミノムシのように床に転がされたアーゼンベルドが悔しそうに呻いた。

「なぜ、奇襲を仕掛けてくるができた……どうやって、王都のほとんどの戦力が勇者とともに魔王城へ進軍したことを知ったのだっ……!」

「知りたいか? 愚かな猿の大将よ」

「っ……!」

 虚仮にされアーゼンベルドは歯噛みしたが、全身を拘束された彼にできたのはそれだけだった。そんな惨めな人間の王を睥睨しながら、デルモアは今朝からこの時までに起こった一連出来事を思い出し、まるで年代物のワインを楽しむかのように悦に浸り始めた。


 時は遡り、今朝。

 勇者が王都の全軍を率いて魔王討伐へと向かい、王太郎とティエリメットが地下牢から解放されて村へと出発した頃、魔王城にはこの城の主であるデルモアの声が轟いた。

「どこだあああっ⁉ 我が愛しの一人娘、フィリアはどこに行ったあああっ⁉」

 いつになってもフィリアが姿を見せない。

 日課である可愛い一人娘との朝食をこなさなくては本日の業務に支障が出る、そう思ったデルモアは急いで臣下を部屋に向かわせたのだが、返ってきた報告は。

「どうやらお嬢様は昨晩外出なされたまま、まだ帰って来ていないようです」

「外出だとっ⁉」

「はい。お嬢様の机にこのようなものが」

 そう言って臣下が差し出した紙切れを、デルモアは荒々しい手つきで奪い取る。そこにはフィリアの文字でこう書かれていた。


 人間の王都へ舞踏会に行って参ります。


「人間どもの仕業かあああっ!」

 近頃人間の文化に興味を持っていた娘だが、まさか人間に姿を変えてお忍びで舞踏会に参加するもその正体がバレて敵に捕まってしまったに違いない、とデルモアは思った。だが実際はフィリアは道に迷って、王都にたどり着くことはおろか、魔王城に帰ってくることができなかっただけなのだが、そんなことは露知らず。

 デルモアは朝食の載ったテーブルに両手を叩きつけて、それを粉々にして立ち上がると部屋から出ていこうとする。

「どちらへ?」

「決まっておる、娘を取り戻す」

「人間の王都へですかっ⁉」

「他にどこがある」

「しかし敵の本陣に潜入するのはあまりに危険では……」

「潜入? なにを言っているのだ、人間の姿になるなど魔族の恥。我輩はいついかなるときも魔族だ」

「正気ですか⁉ 王都には剣聖コルネリウスがいるのですよ⁉ 大分前に、それも一度だけしか前線には姿を見せませんでしたが、その強さはまるで修羅の如く幹部でさえも歯が立たないほど。それに近頃噂では勇者まで現れたとか……」

「分かっておる! だが娘を放ってはおけん! 我輩は魔王である前に一人の父親なのだ!」

「そんな身勝手な……」

 呆れ果てる配下をよそに。

デルモアは窓開けて飛び降りると翼をはためかせて真っ直ぐ王都へと向かった。その際、魔王城へと進軍していた勇者たちの上を通ったのだが、大切な一人娘のことが気が気でなかったデルモアはそんなことには気づくはずもなく、王都に着いてからはたと首を傾げることになる。

「なんだ? やけに人間の気配が少ないな?」

 城下町で一番高い建物、エルメラ教の教会の屋根に立った十字架に、まるでキングコングのよう掴るデルモアは、魔王城への総攻撃のためにもぬけの殻となった王都を睥睨した。

 だがとにかく今は娘を探さなくては。

 フィリアの言っていた話では舞踏会なるものは貴族の催し。

「ならば向かうべきはあそこだろう」

 王都の中心、周囲よりも高くなった小高い丘のような場所に立つ王宮へと、デルモアは決死の覚悟で乗りこんだ。

 所詮、敵は人間だがやつは違う。

 剣聖コルネリウス。やつを戦場で見たのは数年前の一度きりだが、その際、我輩の軍は深刻なダメージを受けた。七人いる内の幹部の内、ほぼ半数、四人までもがやつ一人によって葬られた。だがあれ以降、やつの姿を見かけん。恐らくは本陣である王都の守護を任せられているのだろう。いくら我輩とはいえ、やつと戦えば無傷では済まん。最悪の場合、命を落とすやもしれん。

 なら手加減は無用、初めから全力で行かせてもらう。

待っていろフィリア、今すぐ助ける。

 そうして決死の覚悟で乗りこんだデルモアだったが、王宮の制圧は拍子抜けをしてしまうくらいに簡単にできてしまった。王都の守護を一身に司るコルネリウスは、王太郎のせいで騎士としての職務を放棄したぐうたらニートに成り果てていたし、その他の名のある騎士たちも勇者とともに魔王城へ向かってしまったので、デルモアは赤子の手を捻るように王宮を手中に収めた。

 だがしかし。

「フィリアはどこだ⁉」

 お目当ての我が娘を見つけることができず苛立つデルモア、そこへ配下の一人である魔族の一人が現れたのだが、なにやら慌てている様子。

「大変です、デルモア様! 勇者が、勇者が攻めてきました!」

「そんなことどうでもいいわっ!」

「え?」

「そこを見ろ。こやつがこの国の国王だ」

 示す先には、デルモアの襲撃で気を失って倒れたアーゼンベルドが倒れている。デルモアは彼から王冠を奪い取って配下に渡した。

「これを持ち帰り、勇者たちに降伏を促せ。抵抗すれば貴様らの国王の命はないぞとな」

「か、かしこまりました」

 そしてそのあとのことはあっという間。

 もしかしたらどこかに隠れているのではないかと、フィリアを求めてデルモアが王宮のなかを探し回っている間に、配下の魔族は命令を実行、国王アーゼンベルドが捕虜になったことを知った勇者たちは大人しく降伏し、疲れて一休みしていたデルモアの下にその知らせが先ほどやってきたという訳である


 だがしかし。

 まさか娘が心配で来てみたらなんか知らないけど隙だらけだったのでたまたま王都を制圧してしまいましたラッキー、と正直に言うのは憚られたので。

「ふん、全てはこの我輩、デルモアによって練られた緻密な作戦の結果よ」

 と、なんか意味深に言ってみたりした。

「な、なんだとっ……⁉」

 だが効果は抜群だったようで。

「まさかあのクソ生意気な偽物勇者はお前の差し金かっ⁉ そうか、そうだったのか。それなら全て説明がつく……! 勇者のくせに魔王を全然倒しに行かないも当然、味方なのだから。さらにはコルネリスを堕落させたのも、王都の守護を手薄にするためっ! だが、だとしたら腑に落ちぬことがある……ワシの骨董品コレクションを質に入れさせたのは、なんのためだ……分からん、そこだけが読めん……」

 読めんもなにも。

 偽物の勇者も、骨董品コレクションのことも、デルモアはなんのことだかチンプンカンプンだったが、苦しむ人間を見るのが気持ちよかったのでさらに意味深なことをテキトーに言っておいた。

「それを知る頃には、貴様はこの世にはいないだろうがな。フハハハっ!」

「悪魔めっ……! 返せ、ワシの可愛いコレクションたちを!」

 この髭もじゃの男、国の一大事だ等いのに趣味で集めた骨董品の心配をしているが、頭大丈夫か? 国王なのだとしたら民の心配をするべきなのではないのか?

だが敵国を案じる義理はないとデルモアは言葉を飲み込む。

 この男の性格などはどうでもよい。

 大切なのは国王という肩書、こいつがいれば勇者は我輩の思うがまま、王都は支配したも同然。

 そして未だ片付かぬはフィリアのことだ。

 我輩の可愛い一人娘よ、どこに行ってしまったのだ……。

 デルモアが悩まし気に溜息をついたそのとき、先ほど出て行ったばかりの配下がとんぼ返りをしてきた。

「デルモア様っ!」

「なんだ」

 娘のことが気がかりで心ここにあらずなデルモアはおざなりに返事をする。

「フィリア様が、フィリア様が現れましたっ!」

「なにっ⁉ 本当かっ⁉」

「はい! 先ほど城下町を巡回していた者から報告が!」

「通せ! 今すぐここに連れてこい!」

娘が見つかったというだけでここまで大騒ぎするなど、魔王デルモアも大した器ではないなと、アーゼンベルドは骨董品に一喜一憂する己を棚にあげて、密かに『器』でマウントを取っていた。


「うわーひどい有様だな」

王太郎は、デルモアによって廃墟同然にされてしまった王宮のなかを歩きながら呟く。「他人事じゃありませんよ! 私たちもいったいどうなることか……」

天井が崩れた瓦礫を避けながら歩く二人。

その前をフィリアとデルモアの配下が往く。

「お、お待ちくださいフィリア様っ! いくらフィリア様とはいえ、人間などを連れたままでデルモア様に会われるのは……」

「言葉を慎んでください。この方たちは私の命恩人、この方たちに対する非礼は私に対する非礼ですよ」

「ですが……」

 食い下がる配下を退け、フィリアは瓦礫まみれの王宮のなかをずんずん進み、あっという間にデルモアの魔力を感じる部屋の前、王の間の前にたどり着き、扉を勢いよく開けると第一声、叱責するような口調で。

「お父様っ! なんてことをしてくれたんですかっ!」

「おおっ! フィリア! 今までなにをしていたのだ⁉」

 昨晩ぶりに見た一人娘の姿に、デルモアの顔は凶悪な魔王からタダの親バカになる。

「それはこっちのセリフですっ! 人間の王都を滅茶苦茶にしてっ! これじゃあ、舞踏会に参加するという私の夢が台無しですっ!」

「なにを言っているのだ! 我輩は魔族だ、人間を滅ぼすなど当然! お前こそ我輩の許しもえずに外出し、あまつさえは人間のパーティーなんぞに参加しようなど言語道断だ!」

「私はもう立派な大人です! 自分のことは自分で決めます!」

「いいや、ダメだ! お前は我輩の娘なのだからな、さあ、とっととその醜い猿の姿を止めろ! 元の姿に戻れ!」

「イヤです! フィリアは人間として生きていきます!」

「な、なあにいいいっ⁉」

 よっぽど驚いたのか、デルモアは素っ頓狂な声を上げてしまう。

「もう魔族の文化には懲り懲りです! 野蛮で暴力的で不潔です」

「どこがだ!」

「全部です! ご飯だってリザードの姿焼きとか怪鳥の丸焼きとかばっかり! 私はもっとパンケーキとかみたいな可愛いものが食べたいんです! あと家のなかでは服を着てくださいって何度言えば分かるんですか!」

「我輩が我輩の家のなかでどう過ごそうが我輩の勝手であろう!」

「そういうとこがイヤだって言ってるんです! 見てください、私のお知り合いのかたが白い眼で見ているではないですか!」

 そう言われた王太郎とティエリメットだが、別に彼らはデルモアが人間でいうスッポンポンの状態だから引いているのではなく、バカでかい図体で凶悪な顔をした魔王が親バカをしていて白けていたのである。

「ふん、こいつらのことなど気にする必要などない。なぜなら、どうせ皆殺しにするのだからな!」

「なりません!」

「我輩は魔王だ! 何人たりとも我輩に指図することはできぬ!」

 そう言い放ったデルモアだが、フィリアはなおも食い下がる。

「いいのですか、本当に?」

「なにがだ?」

「もしお父様がこの国の人たちに危害を加えると言うのなら……」

「なんだと言うのだ?」

 デルモアは余裕の笑みを一切崩さない。

 大方、家を出ていくとかであろう。だが同じ失敗は二度と犯すまい、フィリアには四六時中見張りの者をつけて逐次監視させるからな。これも全ては可愛い娘のため、親としては当然のことだ。

 さあ、なんでも言ってみろ、とどっしり構えるデルモアだがその余裕はすぐさま崩れ去った。

「お父様なんか……」

「我輩なんか?」

「お父様なんかキライですっ!」

「ほふぉはあああああああああああっ⁉」

 デルモアのあまりの絶叫により王宮が倒壊しそうになるくらいに揺れる。

「な、なにを言い出すのだフィリアっ⁉」

「もしお父様が人間に危害を加えると言うのであれば、絶交です。私はもう二度とお父様をお父様と呼びません! ただの知らないオジサンです」

「じょ、冗談はよすのだフィリア!」

「どこのどなた存じませんけど、馴れ馴れしく名前を呼ばないでくれますか?」

「ぐふぁっ……⁉」

 実の娘から知らないオジサン扱いされたデルモアの意識は、まるで敵のボクサーに鮮やかなクロスカウンターを決められように薄れていく。薄れゆく意識の中でデルモアは、生まれた時から現在に至るまでの娘の変遷を、まるで走馬灯のように眺めていた。

 生まれたばかりで泣くだけのフィリア、母親の胸のなかで心地よさそうに眠るフィリア、デルモアがオムツを変えようとしたら顔におしっこを引っかけてしまうフィリア、将来は大きくなったらパパと結婚すると言ってくれた小学生くらいのフィリア、バレンタインデ―に手作りのチョコを作ってくれた中学生くらいのフィリア、父の日の贈り物に日頃の感謝を書いた手紙を送ってくれたフィリア、などなど。そのほとんどは娘のことが好きすぎるあまりに捏造された偽物の記憶だったが、デルモアにとってはそのどれもが実際に起こったことであった。

 そして今、目の前にいる本物の娘にキライと言われ瀕死に追い詰められたデルモアだが、全精力を動員し、さらに記憶を改竄して己を奮い立てせる。

「「「パパ、大好きっ!」」」

 走馬灯のなかの全年代のフィリアが同時に微笑んだ。

「ぬおおおおおおおおっ!」

 以上。

 一連のことはすべてデルモアの精神世界の出来事であり、傍で見ていた王太郎たちにとっては、フィリアに知らないオジサン扱いされたデルモアがふらついて気絶しそうになったかと思ったその数秒後、いきなり奇声を上げて息を吹き返した。

「わ、分かったフィリア。これ以上無益な殺生は控える」

「当然です。あと壊したお城もなにもかも、全部もとに戻してください。それが終わるまでは知らないオジサンです」

「わ、分かった! すぐにでも取りかからせる!」

 デルモアは秘書である配下を呼び寄せ、早急に王宮を修復するように命じた。

 勇者たちとの戦いが終わった後で休憩もなしにフィリアの捜索を命じられたかと思えば今度は王宮の修復、しかもそのほとんどは魔王さまが娘を探す途中で壊したのに……と配下の魔族が文句を言いながら部屋をあとにした後、デルモアは娘の後ろにいた王太郎たちにようやく気付いた。

「それでそやつらは?」

「この方たちは私の命恩人です。道に迷っていたところを助けてくれただけでなく辺境の村からここまで案内してくれました」

「おお、そうかそうか。これは我輩の娘が世話になったようで。長旅で疲れただろう、好きなだけこの城で休んでいけ」

 先ほどまでの態度から一転。

 娘に気に入られようと露骨に親切にしてくるデルモアだが、王太郎はそんなことを全く気にせず素直に喜んだ。

「え、まじ? 好きなだけいていいの?」

「本当だ、娘の恩人だからな」

「ちょっと待てえええ!」

 さも自分の城であるかのように振る舞うデルモアに、この城の本当の主であるアーゼンベルドが口を挟む。

「この城はワシのものだ! 勝手は許さん!」

「威勢がいいのは結構だが、己の姿を見てから言ってはどうだ?」

デルモアはありったけの皮肉を込めて言った。だが全身を縄でグルグル巻きにされて立つことすらできないアーゼンベルドから帰ってきたのは、デルモアの期待したものではなかった。

「ふっ……!」

「ん?」

「ふあはははははっ!」

 地面に倒れたまま高笑いを始めるアーゼンベルド、彼にデルモアは問う。

「なんだ? まさか惨めさのあまり気でも狂ったか?」

「違うわ、あまりに滑稽だからだ」

「滑稽?」

「お主がもてなそうとしているその男、そやつは勇者だ!」

「貴様、正気か?」

 アーゼンベルドがドヤ顔で頷くと、今度はデルモアが高笑いを上げた。

「ぐあははははっ! こやつ本当に気が狂っておる! この男が勇者なら、我が城に攻め入ったのはなんだというのだ」

「勇者が一人だと誰が決めたのだ?」

「……なに?」

「勇者は二人おったのだ。この者も紛れなく女神エルメラの刻印をその身に刻みし者。そしてあの剣聖コルネリウスを凌ぐ、この国一番の剣の使い手!」

「な、なにっ⁉ あのコルネリウスを凌ぐだと⁉」

「そうだ。どうだ恐れ入ったか愚かな魔族め。お主は今ここでもう一人の勇者の手によって葬られるのだっ! さあ、もう一人の勇者よ!」

 アーゼンベルドは王太郎へと顔を向ける。

「今ここで魔王を葬るのだあああああっ!」

「いや、やらねえよ?」

「……ほぇ?」

 空気が漏れたような間の抜けた声がアーゼンベルドの喉から出る。

「い、今なんと言った」

「だから、イヤだって言ったの」

「な、なにを言っておるのだあ! お主は勇者だろう! 勇者なら魔王を打ち取るのが役目、さあ今すぐ魔王を斬るのだっ!」

「ヤダね。お前なんか勇者じゃないって王都から追い出したくせに、自分の都合が悪くなったら手の平返すやつなんか知ったこっちゃないね」

 ぷいとそっぽを向いてしまった王太郎、彼をなんとか懐柔しようとアーゼンベルドはここぞとばかりに下手にでる。

「わ、分かった! 出禁は止め、止めにしよう! お主は王都にいつでも自由に出入りしていい、それどころかこの宮殿にもだ! 好きなときに来て、この城の中にあるものは全て好きなだけ好きにしてもらって構わんぞ⁉」

「って言ってるけど?」

 王太郎はデルモアに水を向ける。

「我輩はそんなセコイことは言わん、なんだったらこの城まるごと貴様にくれてやるぞ? 我輩、自分の城なら別にあるからの」

「ということらしいので」

 王太郎はアーゼンベルドに首を戻す。

「交渉は決裂だな」

「ま、待て! 分かった! やる、この城をやるから! なんだったらもうこの国ごとやる! だからワシの言うこと聞いてお願いだから!」

「お断りだね」

「なにいいいっ⁉」

「どうせそんなこと言ってまた都合が悪くなったら追い出すんだろ? 一度失った信頼は大きい、自業自得ってやつだ」

 アーゼンベルドの頼みをすげなく断る王太郎、それに待ったをティエリメットがかける。

「ちょっと正気ですか⁉ 王様を見捨てて魔族の味方をするなんて!」

「魔族だとか人間だとか、この世界の倫理観なんぞ俺は知らん。俺は、俺を甘やかしてくれるやつが好きだ」

「……」

 うわーこの人本当に救いようのないクズだ、とティエリメットはドン引きしていた。

「というワケだ。この髭もじゃの猿を地下牢にぶち込んでおけ。その他、勇者と兵士、そして抵抗する市民も残らず地下牢にぶち込んで構わん」

 デルモアは呼びだした配下に命令する。

 だがそれにフィリアが待ったをかける。

「お待ちください! 先ほどこの国の人たちには危害を加えないとお約束したではありませんか!」

「だが野放しにすれば、今度は我輩たち身が危うい。剣を取ることのできる者を自由にしてくことはできん。特に勇者は要注意だ、やつを無力化するためにも人間の王は閉じ込めておく必要がある」

「そんなことせずとも私たちには言葉があるではありませんか! 腹を割って話せばきっと分かり合えるはずです!」

「話し合うことなどできん。人間に殺された同胞と、その家族がそれを許さん」

「それでも道はあるはずです! 私が魔族だと知っても助けてくれる人間もいました! 私たちは共に手を取り合うことができるはずです!」

「ならん! ならんと言ったらならんのだっ!」

「うっ……!」

 デルモアが一喝すると、フィリアは涙目になった。

 大切な一人娘ということでこれまで一度も大声で𠮟りつけたことのなかったデルモアだが、かつて人間たちに打ち取られた幹部や部下の無念を想い、つい怒鳴りつけてしまった。

「す、すまん、つい大きな声を」

「―です」

「む?」

「お父様なんて大大大、大っキライですううううっ!」

「なにいいいいいいいいいいいいいいっ⁉」

 可愛い娘に露骨に嫌われたショックのあまり、デルモアは銅像のように固まってしまう。

 広間から出ていくフィリア。

「ちょ、ちょっと! あなたに置いて行かれるとすごく困るのですけど!」

 ティエリメットは急いでその後を追うが一方で、王太郎は以前使っていた客室でひと眠りしようとそちらへ足を向ける。

「ちょっと待てえええ!」

 閉まりゆく扉に向けてアーゼンベルドが叫ぶ。

「せめて足の縄だけでも解いてくれ! トイレが、トイレが近いのだあああ!」

 だがその願いは叶えられることはなく、彼は固まった動かなくなったデルモアと二人きりになった。その後、アーゼンベルドがどのような結末を迎えたのかは神のみぞ知るである。

「ひいやあああああああ!」



 翌日。

 王宮の客室にあるふかふかのベッドの上で目を覚ました王太郎は、起きてすぐ空腹を覚えたので、寝癖もそのままに朝食の間へと向かった。なにせつい最近まで我が家のように過ごしていた場所である、コクリコクリと船を漕ぎながら半分寝ている状態だが、王太郎の足は勝手にお目当ての部屋へと主人を運んでくれる。

「……なんじゃ、これ?」

 目の前に現れた異様な光景に、ここはまだ夢のなかなのだろうかと王太郎は自分のほっぺを引っ張った。

 部屋の中央にあるテーブルクロスの敷かれた大きな机には、パンケーキの山が築かれていた。もしこれが雪山だったら橇遊びができそうなくらいのちょっとした高さだった。

「おお、その様子だとぐっすり眠れたようだな」

 声がしたほうを向くと、そこにはゾウくらい巨体の男、デルモアが地べたに胡坐をかいて座っていた。それでも頭が天井に着きそうで窮屈そうである。

「なに、今日の朝ごはんはパンケーキ食べ放題なワケ?」

「うむ。実は昨晩から我輩の娘、フィリアが部屋に籠ったきり話も聞いてくれんのだ……」

 デルモアは意気消沈して溜息をつく。

「そこで機嫌を直してもらうために、娘が食べたいと言っていたパンケーキなる食べ物をたんまりと料理人に作らせたのだがそれでもダメだったのだ……」

「難しい年ごろってワケだ」

 王太郎は適当に相槌を打つと、席に座ってパンケーキの山から自分の分を取り分けてパクパクと食べ始めた。

「どうにか機嫌を直してもらおうとしたのだがダメだった。この国の人を全員自由にするまでは我輩の顔は見たくないと言われてしまった……」

「まあ気にすんなって。その内機嫌直すって」

「その内とは、具体的にいつだ?」

「え? んーーー一週間くらい?」

「一週間っ⁉ 我輩は一週間も娘の顔を見ることができんのか⁉」

「ダラダラ過ごしてりゃ、一週間なんてあっという間だって」

「できん! 一週間も娘と口が利けんなど、我輩にとっては死んだも同然だ!」

「んな大袈裟な」

「大袈裟ではない! 我輩の知らないところでフィリアが一週間も成長してしまうなど、到底耐えられん!」

「なら言われた通り人質を解放するのか?」

「それもできん……いくら娘の頼みとはいえ、我輩は魔王だ。同胞を危険にさらすようなマネはできん」

「なら一週間我慢するしかないな」

「それもできん!」

 買ってもらう玩具を一つに絞ることができない子供のようにデルモアは駄々をこねる。

「なにか娘が機嫌を直してくれるのような妙案が浮かべばいいのだがな……。生憎、なにをすれば娘が喜ぶのか我輩にはとんと見当もつかん……」

「難しい年ごろだからなー」

「うむ……」

 難しい顔で困ったように呻くデルモアを視界のはしに捉えながら、フィリアの喜びそうなものかーと王太郎はパンケーキをもしゃもしゃしながら考えてみる。

「あ、そういえば」

「なんだ⁉ なにか良いアイディアがあるのか⁉」

「なんとかって本の下巻がどうしても読みたいとか言ってたっけな」

「本当か⁉ それはなんという本だ⁉ どうすれば手に入る⁉」

 パンケーキを咀嚼しながら王太郎は記憶を探る。

 確か『お嬢さまは魔族』とかいったな。年頃の女子向けの恋愛小説で、ヒロインが魔族なせいで検閲に引っかかるから、下巻がどうしても見つからなかったとか。あれ? そう言えばこの国の王様であるおっちゃんにも確か娘がいたよな? 王様の娘の部屋になら王族のコネとかでレア物の本を持ってたりするかもな。

 そのことを王太郎が伝えると。

「頼む! どうか我輩の代わりに探してくれ! 魔族は基本的に文字が読めんのだ!」

「えー。ほら、でも俺忙しいからさ」

「頼む! 頼れるのは貴様だけなのだ!」

「うーん」

 ハッキリ言ってめんどくさい、と王太郎は思ったが、しつこく頼まれて朝食を邪魔されるのもそれはそれで面倒である。

「よし、いいぜ。ちょっと心当たりがあるから探してみるよ」

「本当か⁉」

「おう」

 王太郎はそう言うと、朝食後の食休みがてら、国王がキャバクラ通いを再開したと勘違いした母親と王宮から出て行ってしまったお姫様の部屋を物色することに決めた。


 幸いなことに、なんとお目当ての本を王太郎は発見することができた。

 この世界で人と魔族が恋に落ちるはいかがわしいことらしく、そんないかがわしいことが書かれた本というのは大抵は本棚の二列目に、背表紙が見えないように隠してあるものだと王太郎が予想していた通り、お姫様の部屋の本棚の百科事典や学術書のような真面目な本の後ろに、『お嬢さまは魔族』はあった。

きちんと上下巻が揃った状態で。

「せっかくだしちょっと読んでみるか」

 王太郎は二冊の本を手に取ると、天蓋つきのベッドにごろりと横になった。鍵が掛かっていたこの部屋のロックを勝手に外して忍び込み、本棚を物色するに飽き足らず、土足のままでベッドに横になるあたりは、流石王太郎といったところだ。

 上巻の内容はフィリアの言っていた通り、上人間に姿を変えた魔族の少女と人間の青年が恋に落ちる話であった。ヒロインが人間の舞踏会に忍び込み、そこで出会った青年と恋に落ちる。そしてついには自分が魔族であることを打ち明けるのだが、青年はそれでもいいと少女を抱きしめた。

 だがそれも全ては策略、下巻の冒頭で驚きの事実が明かされる。

 実は青年は少女が魔族であることに気づいていたのだ。では、それなのになぜ近づいたのかというと全ては仲間をおびき出すため。魔族は人間の姿になると魔力が制限されてしまう上に、元の姿に戻るには時間がかかる。それを利用できると考えた青年は、少女から仲間の魔族にも人間の姿で舞踏会に参加するように頼んでもらい、弱った魔族を一網打尽にしようと考えたのだ。

もちろんそんなことをヒロインは露知らず、「魔族と人が仲良くなるきっかけを僕たちで作ろう」という青年の甘い言葉に騙され、彼女は言われた通りに仲間を連れてきてしまい、彼ら魔族たちは待ちかまえていた人間の兵士に一網打尽にされる。

魔族と人間が共に生きていくという、人間の青年に恋をした魔族の少女の願いは悲しい結末を迎えたのだった。

なんとも後味の悪い結末だが、それも巻末のあとがきを見て納得、作者はどうやらこの本を無理矢理書かされたらしい。発禁とは言っても、売れてしまった上巻を全て回収することは不可能。そこで当局は、この本の作者に圧力をかけて、本当なら魔族と人間が平和に暮らすハッピーエンドのはずだったのを、バッドエンドに書き変えさせたのだった。そうすることで、読者の少女たちに人間と魔族が結ばれることはありえない、というプロパガンダを植え付けようとした。

「フィリアが喜びそうな内容ではないよなー」

 上下巻合わせた約1000pを数分で速読した王太郎は、読み終えた本を傍らにおいて、どうしたものかとベッドに横になったまま考え、思いつく。

「だったら作ればいいじゃんか」

 だが自分でやるのはめんどくさい。

 そこで王太郎はデルモアに頼んで城下町からテキトーな小説家を呼びだし貰うことにした。


「あ、あの……ど、どうして私、ここに呼ばれたのでしょうか……?」

 王都が陥落し、街を魔族が堂々と闊歩するようになった昨晩以降、家のなかで息を潜めるようにして過ごしていたこの国一の売れっ子女性作家(は、小動物のようにビクビクと震えながら王太郎に尋ねた。

「ど、どうして私呼びだされたんですか?」

「実はとある小説を書き直して欲しくてさ」

「しょ、小説の書き直しですか?」

「この小説の下巻なんだけどさ」

 王太郎が差し出した本を、彼女はおずおずと受け取る。

「ああ、この本ですか」

「知ってるのか?」

「書いた人は作家協会から追い出されて、国外に追放されましたから」

「知ってるなら話は早い。その本のラストをハッピーエンドに書き直して欲しいってわけ」

「ハッピーエンドというと、具体的には?」

 そうだな、と王太郎は思案する。

「まあ、無難に人間の青年が魔族と仲良くなりたい良い奴で、最後は人と魔族が本当に仲良く舞踏会をして終わりとか」

「皮肉ですね、物語としては前のほうが面白いですけど。でも、分かりました。やれないことはないと思います」

「でさ、ページを差し替えるだけだと紙質で書き直したことが分かっちゃうから、元の本とは別に、もう一冊新しく書き直して欲しいんだけど、どれくらいかかりそう?」

「そうですね。書き直しが必要な場所は私が書いて、その他を誰か他の人に写していただけるのであれば明日にはできるかと」

「おっけー。それじゃ早速取りかかってくれ」

 偽装がバレるのを防ぐために、一部のページを差し替えるだけでなく丸々新しい本を作るとは、やればできる子なだけはある王太郎だが、まさかその一手間を加えたことが裏目に出てしまうことになろうとは流石にこの時点では予測できなかった。


 そして翌日。

 出来上がった本を王太郎は朝食の席でデルモアに渡した。

「おお! これが例の本か!」

「ああ。それを渡せばフィリアの機嫌が直ること間違いなしだ」

「うむ! では早速参るとするか」

 朝ごはんも摂らずに、二人はフィリアが閉じこもっている部屋の前へと向かった。

「おーい、ちょっといいかー?」

 デルモアがノックをしたのではフィリアは出てこないだろうということで、王太郎が代わりに扉を叩いた。

「はい、もちろん。なにか御用……」

 上機嫌な返事を返したフィリアだったが、扉の向こうにデルモアの姿を見つけた途端、表情を曇らせる。

「すみません、オウタロウさん。父とは話したくないんです」

「ちょっと待て待て」

 フィリアが急いで閉めようとした扉に、王太郎は足を挟み込む。

「あんたのパパがプレゼントを渡したいだとよ」

「プレゼント?」

 フィリアがドアノブに込めた力を緩めると、王太郎は顎をしゃくってデルモアに指示を出す。

「そ、そのなんだ。この前は大きな声を出してしまってすまなかった」

 デルモアがおずおずと差しだした本を見た瞬間、ムスっとした不機嫌な顔から一転、フィリアは相好を崩して満面の笑みを浮かべた。

「なぜお父様がそれを⁉」

「聞くところによるとお前が好きだということだからな、とある筋から極秘裏に入手したのだ」

「あれほど探しても見つからなかったのに……お父様、凄いです!」

「そ、そうか。そうであろう!」

 小躍りして喜ぶ娘を前に、デルモアは得意げになる。

「うわー……本当に本物の『お嬢さまは魔族』の下巻です!」

 まるで宝石でも眺めるかのようにフィリアは手にした本をうっとりと眺める。

「ありがごうございます! フィリア、お父様が大好きです!」

「そ、そうか! 機嫌を直してくれたのなら、我輩も満足だ」

「機嫌? あっ……!」

 そこでフィリアは思い出してしまったのだろう、自分が父親に腹を立てて籠城していたことに。

「こ、これは違います! 確かにこの本をくれたのは嬉しいですけど……ですけど! フィリアはお父様を許したわけではありませんから!」

 そう言って扉を勢いよく閉めようとするフィリアだったが、流石にそれではあんまりだと思ったのだろう、締まり際にイヤイヤではあったが。

「ですがご本をくれたのは嬉しかったです、ありがとうございます……そ、それではっ!」

 バタン!

 結局はお礼を言ったのであった。

 そして王太郎が一言。

「あちゃー、いけそうだったけど失敗だな」

「いや、大成功だ」

「え?」

「娘が大好きだと言ってくれた……そんなのいつ以来であろうか……うううっ」

 デルモアは感極まり歓びの涙を流していた。

「人間っ!」

「ん? なに?」

「我輩はもっとフィリアを歓ばせたい! 喜ばせても っとパパ大好きになって欲しい!そのために頼む!」

 そう言うとデルモアは深々と頭を下げた。

「貴様の力を借してくれ! なにせあいつが好きな人間の文化に我輩は疎いからの……」

「えーでもなー、俺、忙しいからなー」

 真顔で嘘をこく王太郎、彼が忙しかったことなど生まれてこなかた一秒たりともありはしない。ただめんどくさいから関わりたくないだけである。

「そこをなんとか! 頼む、貴様の力が必要なのだ!」

 デルモアにしつこく頭を下げられて王太郎は考える。

 これは断るのがめんどくさそうだな。協力するのとどっちがめんどくさいだろうか? 今この場でなんとか断っても、後でしつこく頼まれるのも鬱陶しいしな。王様のおっちゃんみたく遠回しに来るならのらりくらり躱せるんだけどなー。

 そこまで考えて王太郎は答えた。

「分かったよ、いいぜ」

「本当か⁉」

 デルモアは自分の思いが伝わったのかと思ったが、もちろんそうではない。人の為に働くなどという高尚な倫理をこの男が持ちあわせているはずはなく、デルモアにアドバイスをするのとしつこく頼まれ続ける、その二つを『めんどくさい』を計測する天秤にかけた結果、協力するほうがまだマシとなっただけである。

 そうして王太郎とデルモアは朝食の続きをしながら、今後の作戦について話すことにした。


「どうされたのですか?」

 先ほど不機嫌そうにしていたフィリアがニコニコ顔で戻ってきたので、ティエリメットはその訳を尋ねた。

「見てくださいこれ!」

「こ、これはっ……!」

 差しだされた本を受け取るとティエリメットは目を見開いた。

「お、お嬢さまは魔族の下巻ではありませんか⁉ ど、どこでこれを⁉」

「先ほど父がプレゼントしてくれたのです!」

「なるほど……」

 それでこの笑顔ですか、とティエリメットは内心穏やかではなかった。

 王様を人質に勇者様までもが地下牢に幽閉されてしまった今、魔王にとってこの国を滅ぼすことなど造作もないことです。ですがそうなっていないのも、全てはこの方、魔王の一人娘であるフィリア様が反対して下さっているからこそ。

 丸一日一緒に過ごして分かりましたが、この方は信用できます。魔族がうろつくこの宮殿のなかは危険だからと私を部屋においてくださるという慈悲深さ。彼女こそがこの国の人たちを守る最後の砦です。

 ですがその砦にヒビが……。

 まさかあんなに魔王である父親の文句を言っていた彼女が、こうも簡単に機嫌を直してしまうとは……。この方に限って人間を見限るということなどありえないとは思いますが、万が一、このまま父親に絆されて寝返るようなことがないとは絶対に言い切れません。

 であれば。

 親子の仲を裂くようで気引けますが、お二人に険悪でいてもらわなくてはなりません。

 いいですか、ティエリメット。あのポンコツ元勇者が役に立たない以上、私が人類最後の希望なのです、心を鬼にしなくてはなりませんよ。

「あの、ティエリメットさん」

「はい?」

「よろしければ先にお読みになりますか?」

「え?」

 言われて、ティエリメットは自分が真剣な顔で本を強く抱きしめていたことに気づく。

「あっ、いえ違います! 私はちょっと考えごとをしてただけです! すいません、お返しします!」

 意地汚い人と勘違いされた恥ずかしさから、ティエリメットは急いで本を返そうとするが。

「あ、でも……終わったらでいいので、貸していただけると……」

 モジモジするティエリメットに、フィリアは優しく微笑み返す。

「それでは急いで読むので少々お待ちくださいね」

「いえ、そんな悪いです! 私は考えたいことがあるので、全然、ゆっくり読んでいただいて構いません! むしろその方がありがたいくらいですから!」

 そうしてフィリアが本を読み終えるまでの数時間、どうしたら魔王に支配されたこの王都を救えるのかという、暇つぶしにはあまりに不釣り合いなテーマをティエリメットは考えることにした。



「ティエリメットさんはなにも分かっていません。確かに最後に人間と魔族の二人が結ばれるのは都合よく思えますし、他の結末にしたほうが意外性があると思います。ですが! だからこそありきたりな結末から逃げずに、きちんと描き切ったこの作品は素晴らしいのです!」

 鼻息を荒げてフィリアは熱弁するが、それをティエリメットは退ける。

「いいえ。なにも分かっていないのはフィリア様のほうです。私はなにもハッピーエンドそのものを否定しているのではありません。ただ、あまりにも物語に起伏がないと言っているのです。ヒロインと貴族の男性の仲を引き裂くような、そう、例えばヒロインに熱烈なアプローチをしてくる恋敵が出てくるようなハラハラドキドキ感がないと盛り上がりに欠けると言ったんです」

「それはティエリメットさん個人の恋愛願望です!」

「ち、違います! 私は沢山の男性からアプローチを受けて喜ぶようなふしだらな女性ではありませんからね⁉ 本当にそんなんじゃありませんから!」

 必死に否定するティエリメット。

 フィリアが読み終えた『お嬢さまは魔族』を、ティエリメットも読み終えたあとで、二人は何時間にも渡って本の内容について語り合っていた。どうやら二人ともかなり拘りが強いらしく、かれこれ数時間も喧々諤々の議論が続いている。

「まさかティエリメットさんがここまで強情な方だとは」

「その言葉そっくりそのままお返しいたします。まさかフィリアさまがここまで拘りのある方だとは」

 ぐぬぬぬぬぬぬっ……!

 ティーンズラブ小説をこよなく愛する二人の視線がぶつかり合い、火花が激しく散る。

 そして次の瞬間、どちらからともなく彼女たちはがしっ!と握手を交わした。

 そこに言葉はなかった。

 否、不要だった。

 絶対的な強者というのはいつでもその胸の内に孤独を抱えている。己のティーンズラブ小説への愛は誰よりも大きいと自負するも、それゆえに誰とも対等に議論を交わすことのできる者がいないという孤独を抱えるというジレンマ。そんな二人だからこそ、方向性の違いこそあれ、己と同じだけの熱量を持った相手を言葉を越えて認め合った。

 そんな少年マンガのような空間に水を差したのは扉を叩くノックの音だった。

「すいません、ちょっと出てきますね」

 そう言って握手を解いて扉へ向かったフィリアの背中を、ティエリメットは感慨深く眺めていた。

 まさか私とここまで対等にティーンズラブについて語ることのできる人がいるとは思いませんでした。見習い修道女として本部で過ごしていた時分、数多の強敵を説き伏せて最強の名を欲しいままにしたこの私に、一歩も引かない相手がいるとは本当に驚きです。

 しかもその相手はまさか魔族だなんて。

 いえ、止めましょう。ティーンズラブを愛する者に人間も魔族もありません。私たちは同じものを愛する同士なのですから、まったくフィリア様と出会えただけでもこの王都に来た甲斐があったというものですね。

 ……あれ?

 そもそも私はなぜ王都に戻ってきたのでしたっけ?

 ふと彼女は我に戻った。

 彼女はこの国を魔王の手から取り戻すべく王都に戻ってきたのであり、そのためになにか妙案はないかを考えるために今日一日を費やそうとしていたのにも関わらず、そんなことそっちのけでフィリアとのティーンズラブ小説談議にお花畑を咲かせてしまったことに気づいた

 ティエリメットは頭を抱えて叫んだ。

「しまりましたあああっ! この国の一大事だというのに、私という人間はいったいなにをしているのですかあああっ!」

 それだけでは飽き足らず、彼女は頭をごんごん!と壁に叩きつけ始めた。

「ティ、ティエリメットさん⁉ どうされたんですか⁉」

 異変に気付いたフィリアが急いで戻ってくる。

「このっ! このっ! このっ‼ この頭がいけないんですね! この頭がポンコツなせいでっ……!」

「お、落ち着いてください!」

 フィリアに羽交い絞めにされる形で、壁から離された後も、ティエリメットは自分を責め続ける。そんな彼女にフィリアが慰めの言葉をかける。

「なにがあったのかは分かりませんが、元気を出してください。舞踏会ですよ、舞踏会!」

「舞踏会?」

「そうです! この国の方々を招いてお父様が舞踏会を開いてくれるです!」

「なんのためにそんなことを?」

「分かりません! ですがよいではありませんかそんなこと! さ、そうと決まればおめかしをしなくてはいけませんね!」

「あ、ちょっと待ってください!」

 まるでテロリストに乗っ取られた暴走列車のような勢いでフィリアはティエリメットを部屋の外に連れ出して、舞踏会のためのドレスを求めて王宮をくまなく探した。


「念のためにもう一度確認しておきたいのだけれど」

「ん?」

 皆野裕也に声をかけられて、王太郎は自分の皿に取り分けた料理を食べる手を止めた。

「本当に君の言われた通りにやれば、魔王を倒すことができるんだね?」

 皆野裕也は半信半疑で王太郎を見つめる。

 二人が今いるのはこの王宮で最も広い部屋、舞踏会を開くための広間である。

 デルモアから、フィリアを喜ばせるためのなにかいいアイディアはないかと尋ねられ、王太郎が出した答えは舞踏会を開くことであった。そもそも彼女はそのために人間のフリをしてわざわざ王都までやってきたのだから。

 だがしかし。

 王太郎が提案したのはただの舞踏会ではない。フィリアの愛読書、『お嬢さまは魔族』の内容を忠実に再現した舞踏会を開くことを提案したのだ。つまりは、フィリアを本に出てくるヒロインに見立てて、彼女に対して人間の男が本当にアプローチするというものである。

 だがここで一つ問題が。

誰が相手役を務めるのか?

本の内容によればヒロインが恋をする人間は相当な美男子であるとのこと。

そこで抜擢されたのが勇者こと、王太郎と同じく異界より転生してきた皆野裕也であった。美男子で、長身痩躯で、おまけに色気まである、というまるで少女漫画のなかから飛びだしてきたような彼はまさに打ってつけといえた。

王太郎に打診されると、地下牢に閉じ込められていた皆野裕也は難色を示したが、国王や兵士たちが人質に囚われているため、止むを終えず魔族の計画に協力をすることにした。

「一時的とはいえ地下牢から出られたんだからお前もメシ食えば?」

 花より団子ではないが、部屋の中央で踊っている人々(舞踏会に参加するように魔族たちに脅された詳しいこの国の貴族たち)を眺めながら、会場の隅の椅子に腰かけた王太郎は料理を食らい続ける。

「いや、遠慮しておくよ」

 王太郎の傍ら、立ったままでいる皆野裕也。

「腹減ってねーの?」

「王様たちが地下牢に閉じ込められているというのに、僕だけ豪勢な料理を楽しむ訳にはいかないからね」

「真面目だなー。流石勇者様」

「それを言うなら君もだろ。だから僕は君を信用するよ。君も僕と同じく、困っている誰かのために自分の力を使いたい、そう思ったからこそ勇者になってこの世界を魔王から救おうと転生したんだろ?」

「ん? いや、俺は……うん、まあそんなとこ」

 もちろん本当はもう一度人間に生まれ変わるためにイヤイヤこの世界に送り込まれたのだが、そんなことをわざわざ説明するのもめんどくさく、王太郎は当然のように嘘をついた。

「地下牢で王様に話を聞いた限り、どうやら君は魔族の味方をしているようだけど、それもきっと作戦の内なんだろうね」

「そうだ、よく分かったな」

 もちろんこれも嘘である。

 ただ飯に集中したいからテキトーな返事を王太郎は返しただけである。

「味方のフリをすることで魔族を油断させて、反撃の機会を伺っている。そういうことなんだろ?」

「そうそう、そういうやつ」

「まったく君も無茶をするな」

 ふっと皆野裕也が呆れたように笑った。

「無茶?」

「いくら味方のフリをしているとはいえ、君の周りは魔族だらけ。スパイである君は敵に囲まれているのも同じ、それを無茶と言わずになんと言うんだ?」

「あー……ま、そうかもな」

 本当のところ振りではないのだが、この皆野裕也という男は性善説が服を着て歩いているような存在なので、王太郎のことを勝手に買いかぶっているのだった。

「あまり一人で背負い込み過ぎるなよ。君だけじゃない、僕だった勇者なんだ。二人で必ずこの国を救ってみせよう」

 そう言って掌を差しだしてくる皆野裕也。

 どうやら握手をしようということらしい。

 うへー……暑苦しー。

 王太郎は食事に夢中で気づかない振りをする。

「準備のほうは万端か?」

「ああ、君に言われた通り、渡された本には一通り目を通した」

 協力を承諾して地下牢から一時的に解放された皆野裕也に、王太郎は計画の概要を説明すると、『お嬢さまは魔族(上)』を手渡し。

「あとはこれを読んで、テキトーに相手役を演じてくれ」

 なんとも雑な指示を送ったが、皆野裕也は特に困った様子も見せず、ものの数分で約500pのハードカバーを読み終えて。

「大体は把握できた、やれると思うよ」

 そう言うとすぐさまパーティー用の礼装に着替え。

こうして本番を迎えた。

「それで肝心のお姫さまはどこかな?」

「ん、あれ」

 王太郎が顎でフィリアを示す。

「オーケー。それじゃ王子様になってくるとしようかな」

 もう既に役に入っているのか、それとも元々の性分なのか、キザったらしい仕草で歯にむと皆野裕也は、初めてのことで勝手が分からずに会場をオロオロしているフィリアの下へと向かった。

 その背中を王太郎が目で追っていると、見覚えのある人物が目に入る。フィリアの傍にいたのは同じくドレスに身を包んだティエリメットだった。だがフィリアが皆野裕也に取られてしまって手持無沙汰になったのだろう、なにか間を潰せるものはないかを周りをキョロキョロした彼女は王太郎に気づき、トコトコとこちらにやってくる。

「こんなところでなにをしているのですか?」

「ん? まあちょっと、人助けをな。いや、魔族助けか?」

「? なんのことですか」

「こっちの話。そういうそっちはなにしてるんだよ、エアポケット」

「確かにフィリアさまには沢山の男の人がダンスのお誘いに寄って来るのに、私の周りにはまるで見えない空気の壁でもあるように誰も近づいてきませんとも、みんな私みたいな低身長でペチャパイなちんちくりんの相手なんてしませんけどそれがなにか⁉ サイズがないから子供用のドレスしか合わなくて色気もクソもないなんてのは私が一番分かってますよ、舞踏会なんていう大人な空間にはそぐわないって分かってますよ!」

 酸欠を起こしそうな勢いてまくし立てるティエリメットだが。

「そうか? けっこういい感じだぜ、それ」

「え?」

「ドレス、似合ってると思うけど」

「そ、そうですか……そそれはどうもお褒めにあずかり光栄至極の限りと言いますか……はい……」

 まさか褒めてもらえるとは思ってなかったのか、ティエリメットはどうしていいか分からずゴニョゴニョと口籠る。

「お、オウタロウさまも中々お似合いですよ……」

「サンキュー。でもこれ堅っ苦しくてメシが食いずらいんだよな」

 そう言って羽織っていたジャケットを王太郎が脱ごうとすると、それを止めるかのようにティエリメットは口を開いた。

「あ、あのっ!」

「ん?」

「……踊りますか?」

「なんで?」

「え……あ、いや……」

 王太郎は深く考えずに尋ねたのだが、ティエリメットは勇気を振り絞って誘ったのにまさかそんな素っ気ない返事が返ってくるとは思わず、遠回しに拒絶されたのだと思った。

 すいません、今のは忘れてください。

 惨めさから自分を守るために、ティエリメットがそう口にしようとしたそのとき。

「まあ、別にいいけど」

「え?」

 聞き間違いかと呆気に取られてしまったティエリメットを見て、王太郎は。

「やっぱり止めとく?」

「や、止めません! 踊ります!」

 王太郎は脱ごうとしていたジャケットを羽織りなおして立ちあがる。

「あ、あの、私こういうの初めてで……」

「大丈夫、俺に任せとけって」

 どれほど複雑な動きだろうと一度見れば完璧に再現できる王太郎にとって、周囲の貴族たちのステップを真似るなど造作もないこと。

 さながら銀幕映画スターのような流麗な身のこなしで右手を差しだした王太郎に、ティエリメットは頬を真っ赤に染めて、王子様を前にしたかのような気分になったが、袖口にこびりついたパスタのソースによってあっという間に魔法が解けた。


「素晴らしい! 素晴らしいぞおおおっ!」

 舞踏会の翌日。

 朝食の席で大はしゃぎするデルモアに、王太郎はなにげなく尋ねた。

「なに、どうしたの」

「おお、よくぞ聞いてくれた人間! 実は昨晩、廊下でたまたますれ違ったときにフィリアがお休みを言ってくれたのだ!」

「え、そんだけ?」

 あまりのショボさに、王太郎は食べようとしていた目玉焼きを落としそうになる。

「笑止! 貴様にはこれがどれほどのことか分かっておらん! 小さかった頃は毎晩お休みを言ってくれたどころか、『パパと一緒じゃないと怖くて眠れない!』っと言っていた娘だが、最近は反抗期なのかなにも言わなくなってしまっていた……それが、そんな娘が数年ぶりにお休みと言ってくれたのだっ……! うああああああっ!」

 先ほどまで高笑いをしていたかと思えば、次の瞬間には号泣して情緒が不安定になってしまうほど、デルモアにとってフィリアは目に入れても痛くない存在なのだった。

「決めたぞ! 我輩は今晩も舞踏会を開くぞ!」

「おお、頑張れよ」

 鼻息荒く意気込むデルモアを、まるで他人後のように横目で見ていた王太郎だが、どうやらそうもいかないらしい。

「だが昨日と同じではダメだ。ちょっとは機嫌を直してくれたとはいえ、依然として娘は部屋に籠って我輩を避けている。完全に機嫌を直してもらうためには、もっと娘が気に入るような舞踏会を開かなくてはならん! そこでだ人間、また貴様の力を借りたい! 今宵の舞踏会をさらに盛り上げるための妙案はないか?」

「んーそうだなー」

 考える素振りを見せる王太郎だったが、彼にとって二日連続で知恵を絞るというのは過労と呼べるほどの働きであり、どうにか楽をしたいと思った結果。

「じゃあ、またフィリアが好きな本を再現するか」

「む? だがそれでは昨晩と同じではないか。我輩は昨晩以上に娘を喜ばせたいのだ」

「実はこの前話したのは上巻までの内容でさ」

 そうして王太郎は下巻の内容を手短にまとめ、さらには前回はそれを話さなかった理由も付け加える。

「なるほど……確かにフィリアだけでなく、我輩たちも人の姿になって舞踏会に参加するというのは、ちと受け入れがたい……」

「だろ?」

「そう言うのだろうな、かつての我輩なら」

「え?」

「今は一刻を争うときなのだ! 娘が成長する姿を一日も見れないなど我輩には耐えられん!」

「成長って、一日じゃそんな変わらんだろうに」

「いいや変わる!」

 食い気味でデルモアは返す。

「人の姿のフィリアは見慣れておらんからあまり多くは分からんが、一昨日に比べて、昨日は身長が0.001ミリ、髪の毛に関しては0.02ミリも伸びておった」

「……」

 デルモアの言葉に王太郎は言葉を失った。

 ……魔族ってのは極端に目がいいのか、それともこのオッサン(実年齢は知らんけど)が異常なだけなのか……後者だろうな。

「でもいいのか?」

「娘のためだ、是非もなかろう」

「けど魔族って人間の姿になると魔力が弱くなるんだろ? それに元の姿に戻るには時間がかかるらしいし。それなのにおっさんたち皆が人間の姿になって舞踏会に参加したら、万が一の場合マズいんじゃないのか」

「問題なかろう、なにせこの国の王は我輩たちの囚われているのだ。勇者とて下手な気は起こせまい」

「ま、それもそっか」

 デルモア本人がそれでいいのであれば構わない。その方が昨晩同様、皆野裕也に『お嬢さまは魔族』の下巻を渡すだけで済むのだから、と王太郎は気に留めなかった。


 そして朝食後。

 王太郎は部屋に戻ってひと眠りする前に用事を済ませておこうと、フィリアの部屋の扉をノックした。だがデルモアと勘違いしているのか、待ってみても扉の開く気配がしないので、今度はもう少し強めに叩くとようやく部屋の主が姿を見せた。

 そして開口一番謝罪の言葉を口にした。

「すいません、待たせてしまって」

「いや、もしかして取り込み中? 出直そうか?」

「いえ。ちょっとティエリメットさんと語り合うのに夢中になってしまってて、ノックに気づかなかったんです」

 語り合う?と王太郎は疑問に思った。

 そういえば昨日の舞踏会でも一緒にいたけど、二人はいつの間に仲良くなったんだ? あいつ、えーっと……そう、ティーポットのやつは魔族のことを毛嫌いしてたのに。

「もしかしてティエリメットさんに用ですか?」

「ああ、いや。用ってほどじゃないんだけどさ、あの本、あんたのパパがプレゼントした本をちょっと一日くらい貸してもらえないかなってさ」

「もちろん、構いませんよ。あ、でも上下巻なので合わせて持って来ますね」

 王太郎としては下巻だけでよかったのだが、フィリアが気を回してくれてしまったせいで、仕方なく二冊の分厚いハードカバーを受け取って、部屋に戻った。

「こうして見ると、本当そっくりにできてるよなー」

 机に置いたオリジナルの下巻と、フィリアのために偽造した偽物を見比べて、王太郎はしみじみと呟く。

後はこれを本物の勇者さまに渡すのを残すのみ。

つまりはもう終わったも同然なのだから急ぐ必要もあるまい、とお得意の『やるべきことはできるだけ後でやる』を発揮して、王太郎は朝食を食べてお腹いっぱいになったいい気持ちでベッドに横になった。


 陽が傾き始めたところで王太郎はようやく目を覚ました。

「よく寝たなー」

 大きく伸びをしてベッドから起き上がった王太郎だが、よっぽど眠りが深かったのか、未だうつらうつらしているその足取りは覚束ない。

「忘れないうちに仕事を片付けとくか」

 ポリポリとお腹を掻きながら王太郎は机に近づき、その上にあった『お嬢さまは魔族(下)』を手に取り、地下牢に閉じ込められている皆野裕也に会いに行く。

「おーい。勇者さまー」

 気の抜けた王太郎の声が地下通路にこだまする。

「誰かと思ったら君か。なんのようだい?」

 王太郎が地下牢の鉄格子の隙間から差しだした本を、皆野裕也が受け取る。

「これは?」

「魔王さまは娘のために今宵も舞踏会を開くんだと」

「つまりこの本を読んでまた僕に魔族のお姫様の理想の王子様を演じろってことだね」

「話が早くて助かる」

「いいさ、演じるのは得意なんだ。前の世界、日本にいたときもそうだったからね。僕はなんでもできたから学校にファンクラブがあったんだ。ファンの女の子たちが喜ぶ姿を演じていた僕にとって学校はまるで演劇の舞台のよ―」

 皆野裕也の話を最後まで聞くことなく王太郎はその場から離れた。

 地上へと戻る前に、王太郎は見張りのために立っていた比較的小型(といっても成人男性くらい)の魔族に声をかけた。

「昨日同様、夜になったらあいつを上に連れてきてくれ」

「了解です!」

 まるで上司に接するかのように恭しく敬礼する見張りの魔族に、王太郎は片手を上げて応え、地上へと続く階段を昇ろうとしたときだった。

「待てえ!」

 呼び止められた王太郎が振り向くと、そこには鉄格子を握りしめて忌々しそうにこちらを見ているこの国の国王ことアーゼンベルドの姿が。

「おお、おっちゃんじゃん。元気そうだな」

「お主、ワシをこんな目に合わせてタダで済むと思っておるのか! ワシがここが出た暁にはどうなるか分かっておるのか⁉」

「いや、全然」

「なんだとっ……! 舐め腐った口を利きおってえええ!」

「無駄だろ、そんなこと考えても」

「どういう意味だ!」

「だっておっちゃんが地下牢から出れてないのに、出れたときのことを考えて用心したってその用心は無駄になるかもしれないじゃん。だからそういうことはそっから出てから言ってくれよ」

「こ、このクソガキいいいっ! 覚えておれえええっ!」

 別に王太郎は怒らせようとした訳ではなく、言葉そのままの意味、無駄になるかもしれない努力はしたくないという己のポリシーをそのまま口にしただけなのだが、当然そんなことが普通の倫理観を持った人間に通じるはずもなく、ましてや数日の間この劣悪な環境に閉じ込められて国王としての『器』にヒビを入れられまくったアーゼンベルドがキレるのは当然のことなのだった。

「イヤだね、だって無駄になるかもしれないもん」

 そう言って王太郎は地上へと戻った。


「はあ……」

 舞踏会の会場へと続く王宮の廊下を歩いていたティエリメットはため息をもらすと、フィリアがそれを気に掛ける。

「どうかされましたか?」

「あ、いえ」

 彼女が気にかけていたのはこの国の未来、どうやって魔王を倒すかであったのだが、そんな一大事業は辺鄙な村のシスターには荷が重かった。

 フィリアさまは魔族ですがこの方になら相談しても構わないだろうと、ティエリメットは悩みを打ち明けるとフィリアは力強く胸を叩いた。

「私にお任せください。今晩の舞踏会には父も参加するとのことですし、近い将来、必ず父も私と同様に人間との共存を考えるようになるはずです!」

「そんなにうまくいくでしょうか……」

「上手くいかなったときのことをクヨクヨ考えても仕方ありません」

「フィリアの言う通りだぜ」

 女子二人の後ろについて歩いていた王太郎が言う。

「考えてもその通りにいかなかったら全部パーだ。だからなにも考えないってのが一番理に適ってるんだよ」

「フィリアさまはそういう意味で言ったんじゃないと思います。というかあなたもなにか考えてください、と言っても無駄なのでしょうね。ええ、分かってますとも、当てになんかしてませんよ」

「ならなんで俺のこと呼んだんだよ?」

「ボディガードです。今日は他の魔族も人間の姿になって舞踏会に参加するとのこと。フィリアさまのことは信用してますが、他の魔族は別です」

「だったらなにかあってから呼んでくんない? もしついていったのにお前が危険な目に遭わなかったら無駄足になるからさ」

「それじゃあボディガードの意味がないでしょうが!」

「あ痛」

 ティエリメットに脛を蹴られて王太郎は短く呻く。

 そうこうしている内に三人は大広間に到着。

 そこで繰り広げられる光景、人間の貴族に混ざって、人の姿をして同じく着飾った魔族(見た目では区別がつかないが、人の姿に慣れていないのか、動きのぎこちなさで魔族だと一目でわかる)がいる風景を目にしたフィリアは感慨の溜息を洩らした。

「ああ、まさか本当にこんな日が来るなんて……魔族と人間が共に舞踏会を楽しむ日が」

 フィリアはくるりと王太郎とティエリメットのほうを向く。

「お二人とも、本当にありがとうございます」

「なにが?」

「こんな素晴らしい景色が見れたのも、全部お二人が迷子になっていた私を王都まで連れて来てくれたからです。本当になんとお礼を言っていいのやら……」

「別にいいって、それよりも礼ならあんたのパパに言ってやれよ」

「……そうですね。私、ちょっと父に感謝を伝えてきます」

 ぺこり、とお辞儀をするとフィリアは広間の奥へ、人間の姿に慣れていないせいで手と足を一緒に出してしまっているデルモアのもとへと向かった。娘から話しかけられたのがよっぽど嬉しかったのか、デルモアの顔はどうしようもないくらい緩む。

 そんな普通の人間の父娘(おやこ)のようなやり取りを遠巻きに見守っていたティエリメットが一言。

「魔族と人が分かり合い平和が訪れる、そんな日がもしかしたら来るのかもしれませんね」

「いいえ、断じてそんなことは許しませんよ」

「⁉」

 突如ティエリメットの耳元で発せられた声、そのあまりの不気味さにティエリメットはその場で飛び上がり尻もちをついてしまう。

「ア、 アメリスタさま⁉」

「どうもティエリメット、お久しぶりですね」

 猫を被った状態のアメリスタは優雅な仕草で微笑みながら、ティエリメットに手を貸して立たせる。

「どうしてアメリスタさまがここに?」

「決まってるではありませんか、布教ですよ。布教」

「確かに私たちにとってエルメラ様の教えを広めるのは大切なことですが、今は非常事態、この国が魔族に支配されてしまっている状況なんですよ?」

「だからこそではありませんか」

「え?」

 予想外の返答にティエリメットは間の抜けた返事をする。

「あの後。あなたたちが偽物の勇者を立てた罪で地下牢に閉じ込められた後、教会における私の地位は地に落ち、何年もかけて手に入れたマザーの地位を剝奪されてしまいました。ですが幸いと言うべきなのでしょうか、私もあなた方に騙されていたと誤魔化してなんとかなんとか破門だけは免れました」

「最低ですね、あなた」

 ティエリメットは死んだ魚のような目になる。

「かたや一方、本物の勇者を国王に紹介したということでマチルダの地位は爆上がりし、教会はあっという間に乳臭くなってしまいました」

「どういう状態ですか……」

「もはやこれまでかと思いました。この先、私は一生冷遇され続けてマザーに返り咲くことはなく、どこか辺鄙な村の教会にでも飛ばされてしまうのかと、そう諦めていました」

「私の前で言いますか、それ……」

「ですが渡に船とはこのこと、まさか勇者が魔王に倒されてしまうとは。当然、それによって勇者が人々を救うという教えをもったエルメラ教の信者も激減」

「なるほど、だからこそそれに歯止めをかけるためにアメリスタさまは布教をなさっている。そういうことなのですね」

「違います」

「え、違うんですか」

「私が布教しているのはエルメラ教ではなく、それに取って代わる宗教、その名も邪神教です」

「じゃ、邪神教⁉」

 アメリスタの発した物騒な言葉にティエリメットの声は裏返る。

「しょ、正気ですかアメリスタさま⁉ 魔族が信奉する邪神教をこの王都で広めるなど!」

「正気も正気です。むしろこの王都だからこそと言えます。今や勇者と国王は囚われ、この国の実権を握っているのは魔族たち。きっと信者の数もあっという間に増えるに違いありません」

ホクホク顔で計画を話すアメリスタだが、ティエリメットは話についていくことができない。

「いったいどうしてしまわれたんですか⁉ 仮にもあなたは元マザー、誰よりもエルメラ様を崇拝する敬虔なシスターではありませんか!」

「ティエリメット、あなたは勘違いをしていますね」

「勘違い?」

「私は一度たりとも女神エルメラを崇拝したことなどありません。私が崇拝したのは教会の権力であり、マザーとしての地位です。権力だけが男に振り回されて荒んだ私の心を慰めてくれました。ゆえに、女神だろうが邪神だろうが私はどうでもいいのです。大切はなのはのし上がること、私に権力を授けてくれること、ただそれだけです」

「……」

 言葉遣いは丁寧だが言っていることはクズの極みであるアメリスタ。

ティエリメットは途中から白目を剥いていた。

「そして先立つモノはいつだって必要です。ここに集まっている貴族を手始めに改宗させて、資金を捻出、その後この国のあちこちに支部を建てましょう」

「……もう勝手にしてください」

「なにを他人事のように言ってるのですか?」

「え?」

「あなたは私の腹心です、さあ姉も同然の私のために邪神教を広めるのに力を貸してください。もちろん、教会が大きくなったときにはあなたにはナンバー2の地位を約束します」

「いりませんよそんなの……って、ちょっと!」

 冷めた目で提案を断ったティエリメットだが、アメリスタは彼女を小脇に抱えてがっちりホールドすると談笑している貴族たちのもとへと向かい、それを王太郎はぼけーっと眺めていた。

「ボディガードさん! 仕事をしてください!」

「お役御免みたいだから部屋戻るなー」

 王太郎はひらひらと手を振り、踵を返して今来た道を引き返そうとしたのだが、それを皆野裕也が引き留めた。もちろんその背後には見張りの魔族の姿もある。

「ちょっと例のことについて話したいんだけどいいかな?」

「例のこと?」

 王太郎が尋ねると、皆野裕也は小脇に抱えていた本を示した。

「大丈夫だって、お前なら。昨晩みたくテキトーにいい感じにやってくれればいいからさ」

「テキトーにいい感じか……。まったく簡単に言ってくれるな、君ってやつは」

「いやだってやることは昨日と大して変わらないぞ?」

 戸惑う王太郎をよそに、皆野裕也は彼を舞踏会の会場へと押し戻すと、部屋の隅に陣取る。

「まったく君も大胆だな」

「大胆? なんのことだ?」

「まさかこの少女向けの本を使って、本当の指示を伝えて来るなんて。確かにこれなら見張りの魔族もわざわざ中身を読んで確認しようとは思わないだろう」

「本当の指示? お前なに言ってんだ?」

「おっとすまない。人間の姿になっても魔族は魔族、彼らは僕たちの何倍も五感が優れているからね。誰がどこで聞き耳を立てているか分からない。会話は必要最低限でどうとでも取れる曖昧な言葉を使おう」

「あー……うん、それでいくか」

 もちろん王太郎はなんのことだかさっぱり分かっていないが早く自室に帰りたくてテキトーに話を合わせた。

「僕は昨晩同様にこの本に書かれた通りに動けばいいんだな?」

 そう言って皆野裕也が『お嬢さまは魔族(下)』を示すので、王太郎は頷く。

「本の通り、今晩は人間の姿をした魔族が混ざっているようだけど。でも、ここにいる魔族が全員じゃないだろう」

「だろうな。最低限、地下牢の見張り番とかは必要だろうし」

「そこなんだよ、僕が訊きたいのは」

 皆野裕也は声のトーンを落とす。

「本当は僕たちの味方であるのにも関わらず、それを隠して魔王のそばで自由に動くことのできている君のことだ。相当慎重に動いてるんだろう」

「おーよく分かったな」

 王太郎は相変わらずテキトーに相槌を打つ。

「そんな君のことだ、作戦にぬかりはないとは思う。だけど念のため聞かせてくれ。僕はこれから君から受け取ったこの本の通りにするつもりだが、国王を初めとする地下に幽閉された人たちは大丈夫なんだな?」

 皆野裕也に真剣な眼差しで見つめられ、王太郎は疑問に思う。

 いったいコイツはなにをマジになっているのだろう? やることは昨晩同様、この本に書かれた内容に沿うようにフィリアに接する、たかがそれだけのことなのに。

「ああ、大丈夫だよ」

「本当か?」

「本当だよ。お前がその本の通りに動いてくれればな」

 デルモアは人間に手を出さないとフィリアに約束したし、今回の一件で娘が喜べば、彼女を失望させないためにも人間を無闇に手にかけたりはしないはずだ。そう思った王太郎はしっかりと頷いた。

「そうか。君がそこまで言うなら大丈夫なんだろう。いや、なにも一人で人類のために密かに暗躍している君のことを疑おうとか、そんな邪な考えじゃないんだ。ただちょっと気になったんだ」

「気になる?」

「地下牢に囚われた国王の周りには見張りの魔族がいるから、ここにいる魔族たちは人間の姿になって弱体化していてすぐに鎮圧できるとしても、そのあいだに国王の命が危険にさらされてしまうのだが、それはどうやって解決するのだろうと思ったから、詳しくこの後の作戦を聞きたかったけど、それは止めておこう、なにせ魔族に盗み聞きをされてしまったら水の泡だからね、ぼくはただ君のことを信じてこの本に出てくるヒロインの相手役の通りに動くよ」

 それじゃあ行ってくるよ。

 そう言って持っていたハードカバーの本を王太郎に押しつけると、皆野裕也は人間の姿をした魔族たちがいるほうへと向かった。

「なんだったんだアイツ?」

 手荷物を増やしやがって。

 今ここで、楽しそうに舞踏会を楽しんでいるフィリアに本を返す訳にもいかず、王太郎は重たいハードカバーを持って会場をあとにしようとしたそのとき、違和感に気づく。

「あれ?」

 よく見てみるとその本は随分と小奇麗であった。

まるでつい最近作られたばかりのように。

訝しんだ王太郎が中身を開いて確認すると。

「あれ、これオリジナルの方じゃん」

 王太郎の言う通り、彼が手にしていたのは『お嬢さまは魔族(下)』の偽物だった。オリジナルの結末が、ヒロインが恋をしていた男性が彼女を利用して人間の姿になった魔族を打ち取るために舞踏会で待ち伏せをする、というバッドエンドだったので、フィリアのお気に召すようにハッピーエンドに変更して新しく製本した偽物である。

 いったいどこで入れ替わったのだろう、と王太郎は不思議がる。

「あ、昼寝したあとだから寝ぼけてて、偽物をアイツに持ってっちゃったのか」

 まあそういうこともあるよな、でも疑問が解けてスッキリスッキリ、これなら部屋に戻ってゆっくり休めそうだ、とはもちろんならなかった。

 ということはだ。

 俺が勇者に渡したのは本物の方の本であり、アイツはそれに基づいて行動するということはつまり、ここにいる魔族たちを打ち取るということだ。

「あ、だからアイツ、あんなに人質の王様のこと気にしてたのかー。そりゃそうだよな、今ここで魔族に逆らったら地下牢に閉じ込められた王様が大変な目に遭わされちゃうもんな……あ、やべ」

 自らの失態に気づいた王太郎だったがときすでに遅し。

 広間の中央に陣取った皆野裕也が、次々と火やら水やらの攻撃魔法を放ち、人間に姿を変えた魔族たちもいとも簡単に制圧していく。予想だにしなかった勇者の反撃にデルモアを初めとした魔族たちは慌てふためくしかない。

「な、なにが起きてるんだ⁉ なぜ勇者が俺たちを攻撃してくるんだ⁉」

「地下にはこの国の国王が人質にされてるんじゃないのか⁉」

「まさか国王を見捨てて捨て身の攻撃に出たのかっ⁉」

「くそっ! 勇者とはいっても所詮は人間だっ! このまま王様を見捨てて、自分だけ助かるつもり、ぐああああっ!」

 パニックに陥った魔族たちを、皆野裕也が次々倒していく。

「そんな訳ないだろう。僕は自分の力を誰かのために使いたくてこの世界に勇者として転生した。たとえ誰かのために僕が死ぬことはあっても、僕のために誰かが死ぬことはない!」

「なら、なぜこんな真似ができる⁉」

「そうだっ! 地下牢に幽閉された国王を初めとする人質たちがどうなってもいいのか⁉」

 戸惑う魔族たち。

 皆野裕也はそんな彼に対して自信を持って答えた。

「確かに僕たち人間は魔族に比べたらひ弱だ。肉体的にも魔力的にも、君たちには遠く及ばないだろう。でも人間の武器はそんな目に見えるものじゃなくて仲間を信じる心なんだ!」

 演説をしながらも皆野裕也は一人また一人と魔族を無力化していく。

「君たちの言う通り、人質を捉えられていては僕にはなにもできない。でも、僕は一人じゃない! 僕には背中を安心して任せることができる仲間がいる。だから僕は思う存分力を振るうことができる。いったいどうやったのかは知らないけど、彼が地下牢に閉じ込められた人たちの安全を確保してくれたのだから! そうだろ⁉」

 道徳の教科書に出てくるような歯の浮くセリフを至極大真面目に言い切ると、皆野裕也はぐっ!と親指を立てて、王太郎に向かってにかっ!と白い歯を覗かせた。

「あー……そのことなんだけど……違うんだ」

「違う? なにがだい?」

「いや、だからなんて言うの。地下牢に閉じ込められた人たちの安全は確保できてないんだ」

「……え?」

 素っ頓狂な声を上げると、皆野裕也は魔族を攻撃する手を止めた。

「か、確保できていないってどういうことだい⁉」

「そのままの意味だけど」

「な、なにを言ってるんだ⁉ 僕はさっきあれほど君に確認したばかりじゃないか⁉ 本当にあの本の通り、人の姿になって弱体化した魔族たちをこの場で制圧していいんだなって、そのために人質の安全は確保できてるんだなって⁉ そしたら君は大丈夫だって!」

「悪い、間違えた」

「……はあ?」

「お前に渡したのは本物のほうだった」

「本物? ど、どういうことだい?」

「要するに。地下牢に閉じ込められた人たちの安全は確保してない」

「……嘘だろ?」

「いや、マジ」

「……」

 皆野裕也は頭のなかが真っ白になった。

 ……彼はなにを言っているんだ? 人質の安全が確保できてない、そう言ったのか? ちょ、ちょっと待ってくれよ。彼が言ったことが本当なのだとしたら、人質の安全が確保できてないのだとしたら、僕がこうして魔族を倒している間にも地下に幽閉された人たちの身に危険が……。

「うおおおおおおあああああああっ!」

 崖っぷちに立たされた皆野裕也は、火事場のクソ力を発揮して己の限界を超えて魔力を解き放ちその場にいた魔族を一瞬にして無力化、光の速さで地下牢へと向かい、地上がなにやら騒がしいと気づいていたが国王を人質に取っているのだから勇者もヘンな気は起こすまいと油断していた見張りの魔族を、あっというまに片付けて事無きを得たのだった。


 そしてその数分後。

「君はいったいどういうつもりなんだっ⁉」

 人質を解放し終えて広間に戻ってきた皆野裕也があまりの声量で叫ぶので、王太郎は思わず両手で耳を塞いだ。

「もう少し僕が助けに行くのが遅れて、人質になにかあったらどうするつもりだったんだ⁉」

「いや、でも実際はなにもなかったんだろ?」

「……まあ、確かにそうだが」

「だから。結局はなにごとも起こらず人質はみんな無事にあんたが解放できたんだからオールオッケーだろう? むしろ、人質の安全を確保するための努力をしてたら、その努力は無駄になってたと言えるわけで―」

「そんなワケないでしょうが」

 いつも通り訳の分からない哲学を披露する王太郎を、ティエリメットが一喝する。

「たまたまラッキーパンチが当たってだけでしょ」

「いや、それは違うのかもしれない」

「え?」

 ティエリメットの言葉を否定したのは、なぜだろう、先ほどまで王太郎を責めていてた皆野裕也だった。

「あの状況、国王たちが人質に取られている状況では僕は絶対に魔族たちに逆らうことはできなかった。でもだからこそ、僕が絶対に逆らないという状況だったからこそ、地下牢にいた見張りは異変には気がつかない……そういうことなんだな?」

「え?」

 皆野裕也に問い詰められる王太郎。

「あー……そうそう、そういうこと」

「やっぱりか。流石は僕が見こんだだけのことはある、つまり僕は君の手の平の上で躍らせられていたってワケだ」

「ん?」

「とぼけなくていい、敵を騙すならまずは味方からっていうだろう。君は僕が本当のことを知ったら作戦に反対すると思っていたんだろう? ああ、その通りだよ、まさかこんな強行突破を仕掛けるなんてね。でも、だからこそ敵も予想するはずがない。まったく完敗だよ、君には」

 自嘲的な笑みを浮かべて一人気持ちよさそうに喋る皆野裕也を、ティエリメットは白い眼で見ていた。この人、救いようのないバカだ……と。

「そんなことはどうでもいいっ!」

 大広間に響きアーゼンベルドの怒鳴り声が響く。

「なぜこいつらに早くトドメを刺さんのだ⁉」

 先ほどまで舞踏会が行われていた広間に転がされている魔王デルモアを初めとする魔族たち、彼らは皆野裕也の魔法によって息も絶え絶えになっていた。

 だがアーゼンベルドの命令にも関わらず、皆野裕也はその場で固まったままである。

「ええい! お主がやらんというのならワシが直々にやるまで! 貸せい!」

 アーゼンベルドは傍らに控えていた衛兵の槍を奪い取り、地に伏せていたデルモアの前に躍り出て、渾身の力でその切っ先を―。

「なぜですか⁉」

 アーゼンベルドの前に立ちはだかったのはフィリアだった。

「なぜ争わなくてはならないのですか⁉ たとえ魔族と人間という種族の壁があったとしても、私たちは分かり合えるはずです!」

「ふん! 小娘の姿をしてワシの同情を買う気か、この薄汚い魔族が。どかないというのならまずはお主から片付けるだけのことよ」

 そう言ってアーゼンベルドが振りかぶった槍を掴んで止めたのは、皆野裕也だった。

「な、なにをするのだ⁉」

「考えてたんです」

 槍の持ち手をしっかりと握ったままで皆野裕也は語り始める。

「どうして彼は、僕のようにすぐにでも魔王討伐に向かわなかったのだろうって」

「え? 俺?」

 皆野裕也は王太郎に視線を向ける。

「彼はきっと魔王を倒さなくてもいい方法を、人間と魔族が共存できる可能性を考えていたんだ」

「ま、魔族と共存だと⁉」

 驚きに目を見開くアーゼンベルドに、皆野裕也は確かに頷いた。

「だから彼はすぐには魔王の討伐に向かわなかった。さらには勇者である僕を魔族の少女と交流させることで、もしかしたら争わずに済むかもしれないと、そう僕に思わせた。そうなんだろ?」

「え? あー、まそういうことかもなのかもし―」

「だとしたら分からない」

 王太郎の言葉を遮り、皆野裕也は顎に手を当てて考える。

「それならなぜ君は僕に、人間の姿で弱体化した魔族を襲うような真似をさせたんだ?」

「いや、だからそれは」

 手違いで渡す本を間違えただけなんだよ、という王太郎の言葉は皆野裕也によって遮られる。

「そうか! 僕を試したんだな⁉」

「はあ?」

「人間の姿になって抵抗できなくなった魔族たちを、僕が手にかけないことを君は期待していたんだ! 魔族と人間が共存するという夢を君は僕に託した。そうだろ⁉」

 きりっ!と鋭い眼光を皆野裕也が王太郎に向ける。

「あ……うん。お前の言う通りだよ」

「やっぱり! 僕の目に狂いはなかった!」

 一人で勝手にテンションが上がっている皆野裕也だが、自分の城を乗っ取られて地下牢に幽閉されていたアーゼンベルドは違う。

「そんな訳がなかろう! こいつらは魔族だぞ⁉ 人間との共存などを受け入れるはずがない!」

「その通りだ……」

 皮肉にも、アーゼンベルドに同意したのは敵方の大将、魔王デルモアだった。

「我輩たち魔族が、人間などと共存することなどありえん。そんなことをするくらいなら、今ここで死んでいく方がマシだ。さあ、殺れっ……!」

「イヤです、お父様!」

 フィリアはくるりと反転し、アーゼンベルドからデルモアに向きなおる。

「私はお父様に死んで欲しくありません! お願いです、今ここで人間との争いを終わらせて和睦を結んでください!」

「ならん! 人間と慣れ合うなど魔族の恥、死んでも死に切れん! なら我輩は魔族しての誇りを持ったまま死んでいく! さあ、どくのだフィリア」

 娘を傍らに寄せようとしたデルモアだったが、フィリアは食い下がった。

「イヤったらイヤっ!」

「フィリア! お前も我輩の娘なら分かるだろう」

「分かりません! 私は大好きなお父様に……パパに死んで欲しくないのっ!」

 そう言ってフィリアが首元に抱き着いた瞬間、デルモアの頭のなかで宇宙が弾けた。

 パ、パ……。

 パパだとおおおおおおおっ⁉

 娘が反抗期に入って以来、一度も呼ばれたことのなかったパパという言葉に舞い上がり、デルモアは音速で決断を下した。

「和睦を結ぶぞ」

「ほ、本当にっ⁉」

「本当だ今すぐ結ぶぞこの場で結ぶぞいくらでも結ぶぞ」

 大好きな娘にパパ呼びされてすっかり絆されてしまったデルモアだが、周りの魔族はそうではない。

「魔王さま⁉ 正気ですか⁉」

「我輩はいつでも正気だ。魔王として命ずる、我輩たち魔族は人間と平和条約を結ぶぞ」

「で、ですが! 仮にこちらが申し出たとしても、人間どもが受け入れるとは思えません!」

「その通りだ」

 配下の魔族の言葉を引き継いだのはアーゼンベルドである。

「なぜ虫の息となった敵と和睦を結ぶ必要がある、お主は全員この場で始末してくれるぞ!」

 そうして衛兵たちに魔族を片付けるようにアーゼンベルドが支持を出そうとするが、皆野裕也がそれに待ったをかけた。

「お待ちください、陛下」

「くどい! 魔族なんぞと平和条約など結ぶなど人間の国の王として恥だ!」

「逆です、陛下!」

「逆……だと?」

「そうです、逆です。魔族と平和条約を結ぶなど、普通の人間にはできません。ですがここで平和条約を結べば国民たちはきっと陛下のことを、魔族ですら許せるような、海よりも大きな器を持った人間だと思はずです」

「器……だと?」

「そうです。器です、途方なく大きな器です」

 ……器。

その言葉を聞いた瞬間、アーゼンベルドの手から力は完全に抜け、槍が下ろされた。

「……ペンはどこだ」

 アーゼンベルドの言葉に、脇に控えていた衛兵は驚くほかない。

「は、はい?」

「ペンはどこだ⁉ あと紙‼ 紙ももってくるのだ! 今すぐにでも平和条約を結ぶぞ!」

「しょ、正気ですか陛下⁉ 相手は魔族ですよ⁉」

「お主の言いたいことは分かる。人間と魔族は長きに渡って争ってきた、その因縁の深さは計り知れないものだ。だがしかし! だからこそその争いに終止符を打ち、平和を取り戻すことのできるこの機会を逃すべきではないのだ。そう、全てはこの国の民の平和のため。断じてワシ個人の為ではない! 別に魔族でさえ許した寛大で偉大な国王として後世に語り継がれたいとか、その功績のために広間に銅像を建てて欲しいとかでは決してない! 全てはこの国の民の為だから!」

「……」

「さあ、行け!」

 白眼を向いていた兵士だったが、国王直々の勅命を無視する訳にもいかず、もうどにでもなれと思いながらペンと紙を取りに行こうとした、その時。

「そうはさせませんよ!」

 衛兵の前に立ちはだかるは元エルメラ教最高指導者の一人、アメリスタだった。

「人間と平和条約を結ぶなどこの私が許しませんよ、魔王デルモア!」

 降伏宣言した魔王に対して怒りをぶつけるという、意味不明な行動を起こすアメリスタを、ティエリメットは呆れつつ諭す。

「なに訳の分からないこと言ってるんですか、さあ、早くそこをどいてください」

「いいえ、どきません! ティエリメット、あなたはことの重大さが分かっているのですか⁉ もしここまま平和条約が結ばれてしまえば、邪神教を広めて、あのにっくきデカパイシスター諸共エルメラ教を駆逐することができなくなってしまうんですよ⁉」

「別にいいじゃないですか、それで。この国に平和が訪れるなら」

「よくありません! 平和なんかクソくらえです! 私が欲しいのは権力! ただそれだけなのです!」

「……」

 こいつなんで聖職者になったのだろう……とティエリメットだけではなく、周りにいた国王、皆野裕也、衛兵たち、果ては魔族までアメリスタの清々しいまでのクズっぷりにドン引いた。

「おい、あの者をつまみだせ」

「はっ」

 国王から命令を受けると、屈強な衛兵二人が左右からアメリスタの脇に手を入れて連行していく。もちろん彼女はじたばた暴れる。

「くっ! 私は諦めませんよっ……⁉ 私は必ず権力を手に入れてみせます! どいういう権力なのかは私も知りませんけど、とにかくすごく大きな権力です! この国ななんてひと捻りできてしまうほどの大きな権力を私はいつか手に入れます、そのときまで束の間の平和を楽しむことですね! あははははははっ!」

 魔王よりも魔王らしい捨てセリフを吐いた、元この国の聖職者のトップの退場をもって、人間と魔族との長きに渡る争いにはついに終止符が打たれたのだった。



終わりに


 ドゴォン!

 バゴォン!

 という城壁の向こうから聞こえる花火の音を背中に受けながら、王太郎はトボトボと王都を後にしていた。

「まったく酷い扱いだよなー。ほとんど俺のおかげで丸く収まったようなもんなんのに、今度は王都どころか国から出ていけなんてさ」

「どこがあなたのおかげなんですか。最初から最後までダラダラしてただけでしょ」

 ティエリメットが呆れながら突っ込む。

 あの後。

 国王アーゼンベルドと魔王デルモアが条約を結び、長年続いたこの国と魔族との戦争に終止符が打たれた翌日、つまりは今日。

 王都では終戦を記念したお祭りが行われ、正門の向こう、城壁の内部からひっきりなしに花火が打ちあがる音や、群衆の歓声が聞こえるのはそのためである。

 そこに当然の顔をして参加しようとしていた王太郎なのだが、国王アーゼンベルドは自分を裏切り魔王の味方をしていた王太郎に怒り心頭、今度こそ市中における絞首刑を実行しようとしたのだが、フィリアや皆野裕也に説得されて渋々怒りの矛先を収め、今度は王都ならず国から出ていくことを約束することでなんとか納得した。

「それでこれからどうするんですか?」

「さあな。なんも考えてないけどこの国にはいられないみたいだし、とりあえず隣の国に行ってみようかな」

「そうですか……なら」

 ここでお別れですね、としんみりしながらティエリメットが言おうとしたのを阻んだのはフィリアだった。

「なら一緒ですね、王太郎さん」

「あれ、お前こんなとこでなにしてんだよ?」

「家出です」

「また?」

「はい! 私、もっと色んな人間の文化を知りたいんです! ですからよろしければご一緒させてください」

「なら僕もそうする他ないだろうね」

 そう言ったのはどこからともなく湧いて出てきた皆野裕也だった。

「なんでだよ」

「僕は君のそばにいたいんだ」

「おい。言っておくけど、俺にソッチの趣味はないぞ」

「そうじゃないよ。ただ僕は純粋に君から学びたいんだ。僕は今回の一件思い知ったんだ、どれだけ自分が頭の固い人間かってね。確かに元の世界にいたときから僕はなんでもできる人間だった、勉強にスポーツにね。でもそれはただ与えられた選択肢のなかで正解を選んでいただけに過ぎない。今回だってそうだ、勇者として魔族を倒すということを絶対だと思い、共存という可能性に築くことができなかった。でも君は違う、既成概念に囚われずに本当に正しい答えを自分の力で―」

「ああもう分かった分かった。お前の話は一々長いから。勝手にしろよ」

「なるほど、敢えて突き放すことで僕に自分で考えろと、そういうことなんだね、それが意味のやりか―」

 とかなんとか。

 ぶつぶつ呟く皆野裕也と、新しい人間の文化が見られるとルンルン気分でスキップをするフィリアを従えて、王太郎は分かれ道を国境へと続く方へ折れる。

そして立ち止まり振り返って一言。

「じゃあな」

「え……あ、そうですね」

 分かれ道に立ち尽くしたティエリメット。

 彼女が往くべきは王太郎たちとは反対、村へと続く道である。

「はい……お元気で」

「うい」

 片手を上げて応じると、なんの未練もないような素振りで歩きだした王太郎。その背中を名残惜しそうに見送っていたティエリメットだが、背後から何者かに抱き着かれた上に胸をまさぐられて思わずしんみりモードから警戒モードになる。

「うええっ⁉」

「ああ、この感触はいつだって私を慰めてくれます」

「どこ触ってるですか、アメリスタさま」

「強いて言うなら、ないモノに触れようとしているとでもいいましょうか」

「なに深いこと言ったみたいな顔してるんですか。ただのセクハラですよ、これ」

 そう言ってティエリメットはアメリスタを引き剝がす。

「それでアメリスタ様がどうしてこんなところに?」

「いえ、なんのことはありません。邪神を崇拝して広めようとしたということで、私は教会から追われる身となってしまったので王都の騒ぎに乗じて逃げてきたのです」

「自業自得ですね」

「ですが私は諦めません。いつかすごく大きな権力をこの手にする、そのために今はどこか辺鄙な村にでも身を潜めて力を蓄えることにします。ですから」

 そう言ってアメリスタはティエリメットの背中を押した。

「村のことは私に任せて、さああの人とお行きなさい」

「アメリスタ様……でも」

 その場から動くことのできないティエリメットのために、アメリスタはここぞと先輩風を吹かせる。

「私のことを気にしてくれるのは嬉しいです、けど可愛い後輩のためにここは一肌脱がせてください」

「あ、いえ。そうではなくて、私が心配しているのは村の方です」

「村の方?」

「アメリスタ様に任せてしまって、大丈夫かなと」

「……ふっ」

 可愛がっていた後輩に舐めれたのがショックだったのか、アメリスタは自嘲的な笑みをこぼした。

「なんて冗談ですよ。アメリスタ様はやるときはやる人だと私は信じていますから」

「ティエリメット……」

「それに村の方も気になりますが、あの方はもっとですからね。誰か見張り役が必要です」

「そうですか」

「ええ、そうです」

 そう言うとティエリメットは背筋を伸ばしてから深々とお辞儀をした。

「それではどうか村のことをお願いします」

「任せてください」

「はい。ではっ」

 そう言い残して走りだしたティエリメット。

 つい先ほど別れを告げたばかりの彼女が隣に並んできたので、王太郎は疑問に思う。

「あれ? お前村に帰ったんじゃなかったのかよ、別れテット」

「確かに先ほどお別れをしたばかりですけど流石にその間違い方は無理がありますし、私の名前を憶えてくれるのはとうに諦めているので、せめて間違えるのであればそれなりの間違え方をしてもらわないとこちらとしても突っ込みずらいのですけど!」

「分かったから。そう怒るなよ、ティエリメット」

「だから! 私の名前はティエリメットじゃなくてティエリメットだって何度言えば……あれ?」

 不意に正しい名前を呼ばれて、その場に立ち止まってしまうティエリメットだが、そんなことお構いなしに王太郎はずんずん先へ進む。

「おーい、どうした。おいてくぞー、待ちぼうけット」

「だから間違えるならもっときちんと間違えなさいってそうじゃなくて! あなたさっきちゃんと私の名前言えてたじゃないですか! はっ⁉ もしかして今までのも全部ワザとだったのですか、そうなんですねー⁉」

「知ーらね」

「こら、待ちなさい!」

 すっとぼける元勇者に、それを鼻息を荒げながら追いかけるシスター、そしてそのあとについていく本物の勇者と魔王の娘、というなんとも不揃いで脈絡のない四人組の当てのない旅がどこへと向かうのかそれは誰にも分からないのであった。



                                   終わり

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最強勇者はやればできる子 @dsahjfkaw

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