第14話 混血児



 


 およそ160年前、アメリカは今の中国との貿易を考えていた。しかし中国へは、大西洋を横断し、アフリカの南を回って4か月くらいかかった。太平洋を横切れれば20日程度で中国に着く。そこで注目されたのが、日本だった。しかし、当時の日本は鎖国をしていたのでアメリカの船は日本に近づく事が出来ず困っていた。そこで考えたのが、日本を開国させる事だった。そして…大統領から交渉を任されたのが、海軍司令官のマシュー・ペリーだった。

 

 こうして1853年、ペリー来航。江戸湾の入り口、神奈川県の浦賀にやってきた。


 そして…1年後の1854年、ペリーは再び日本に来航した。その時に結ばれた「日米和親条約」によって日本はついに開国した。


 更にはハリスと井伊直弼の交渉の結果、1858年に「 日米修好通商条約」 が締結された。この条約によって、全部で5つの港函館・新潟・横浜・神戸・長崎 5つの港が開かれたが、この条約は不平等極まりないものだった。


 ※その条約の内容


(領事裁判権を認めた:日本で外国人が殺人をしても日本人が裁くのではなく、その外国人の国の人が裁く。この場合被告人に対し罪が軽くなる場合がある)それなので日本人女性を簡単に強姦したり、日本人男女を殺害する荒くれ者も多くいた。


(関税自主権:国家が輸入品に対して自主的に関税を決められる権利)

 だが、関税自主権も日本には不平等極まりないものだった。

 例えば、国家が輸入品に自由に関税をかけることのできる権利を、相手国が有していたのに対して、日本に関税自主権が無く、 相手国との同意が必要なため、低い関税率を要求されて 輸入品に安い関税しか課税できない状態だった。


     ◇◇


  一抹の不安を抱えながらも、江戸末期(幕末)に横浜が開港された時には大勢の外国人(水夫、商人、外交官、宣教師)が来訪した。独身者は、当時ラシャメンと呼ばれていた日本女性と同棲したので、多くの混血児が生まれていた。


 だが、このような横暴ぶりの西洋人に恐怖を感じたのか、ラシャメンになる娼婦はほとんどいなかった。これに業を煮やした政府は、給金を破格に上げる事にした。こうして、徐々にラシャメンと呼ばれる娼婦は増えて行った。


 だが、慶応2年(1866年)「豚屋火事」で横浜開港場は大火に見舞われた。

 この火事で400人以上もの遊女たちが港崎遊郭から逃げ遅れ焼死した。

 

 炎は勢いを増し、更に外国人居留地や日本人町も焼き尽くし、午後10時頃鎮火した。そして…なんと港崎遊郭も全焼した。

 

 その後、遊郭は何度か大火で移転し、吉原町遊廓、高島町遊廓、永真遊廓など、名称が変わった。

 そして明治政府は明治5年(1872)戸籍法の布告により、混血児の出生後の国籍は、父母いずれかの国籍に属さねばならなくなったため、出生を届けさせることを規定とした。


 明治6年(1873)政府は日本人と外国人結婚許可の法令を発布。


 横浜が開港し男尊女卑の世の中で、ラシャメンたちの運命は、翻弄され、愚弄されながらも、それでも…延々と続くかに思われたが、豚屋火事により外国人相手の港崎遊廓は港崎町から撤退を余儀なくされ、吉原町遊廓、高島町遊廓、永真遊廓など、名称が変わったが、やがて時代の波とともに消えていった。


 鎖国から開国となった激動の時代、外交や外貨獲得の手段として利用されたラシャメン達は、岩亀楼をはじめとする絢爛豪華な港崎遊廓で互いに競い合い、開港地横浜の「裏の国際社交場」を盛りたてた。




 だが、異人外人相手の娼婦であるラシャメンと異人との間に生まれた混血児の話は、余り語られる事はない。


 開港とともに横浜には遊郭ができた。


 異国から奨励金を受け取り幕府は喜んでこれを向かえ入れ、異人相手の豪華絢爛な遊郭が誕生。そして多くのラシャメンが働く事になった。


 その頃のラシャメンに対する人々の偏見は相当なものであった。


 もともと「ラシャメン」というのは「洋妾」日本においては外国人相手の娼婦の事を言うのだが、「西洋の水夫が家畜の羊を船 中に飼育して犯すという俗説による」と説明している。でも、外国では実際に家畜の羊と性交渉する風習も有るらしい。だから……決して褒められた話ではないので、当時の庶民の毒ふかい軽蔑のま なざしがまざまざと想像される言葉である。いかに「ラシャメン」に対する偏見が、有るか伺える良い事例である。

 また、長崎の丸山遊郭の遊女たちが出島に渡る時に、軽蔑の意味を込めて石を投げたという逸話が残っている。


 豪華絢爛で晴れやかな衣裳を身にまとっているのが、鎖国期の丸山遊女の特徴だったが、異人との子に対する偏見は相当なものであった。


 その頃、横浜の暗闇坂のあたりに、西戸部監獄があった。処刑場も有る場所だ。そこの囚人の中にも混血児の姿が時おりみられるようになる。

 

 混血児の母親「ラシャメン」たちは堕胎や性病によって多くが死んでいった。一方の混血児は忌み嫌われ捨てられた。ある4人の混血児は橋の建設の際、神へ供える 生贄とするために、生き埋めにされた。


  四人の少年が手をしばられ橋の工事現場にいくと、大きな深い穴が掘られてある。なんだろう、と気味 悪く感じて尻ごみすると、いきなりどんと背を押されて突き落とされてしまった。すると勢い良く上からドッと土や石が降りかかってきた。泣き叫ぶ声をよそに 土はどんどんかぶせられ、たちまち四人の少年を生き埋めにしてしまったのである。

 更には、年増の「ラシャメン」は役に立たないので中国に売り飛ばされた。


 弱肉強食を地で行くもっとも卑劣な行為であった。当時の横浜ではこのような事は、混血児は幼児にいたるまで一般化した風潮であったが、人間の皮を被った獣。わたしたち日本人はこうした殺戮をいとも容易く行った。


     ◇◇


 慶応2年(1866年)「豚屋火事」で横浜開港場は大火に見舞われた。

 この火事で400人以上もの遊女たちが港崎遊郭から逃げ遅れ焼死した。 


 あれから20年、美少女エリの母は港崎遊郭から逃げて何とか助かったが、遊郭が消えてしまえば外国人が黙ってはいない。


 こうして別の場所に遊郭が建設されたが、またしても吉原町遊郭有名な(吉原遊郭とは違う、町名が「吉原町」だったからだ。)は燃え尽きてしまった。そして…高島町遊郭に腰を下ろした。


 それでは何故そんなに火事が頻発したのか?実は…その犯人は遊女による犯行も多かった。

 それでは何故遊女たちは遊郭に火を付けたのか?

 それは遊女たちの不満が爆発して大火を起こしていた。散々玩具になった挙句、梅毒等の性病で死んで行くのが落ちの、牢獄の様なこの遊郭を焼き尽くして、自由の身になりたい。また死ぬ方が幸せと考えて、耐え切れなくなっての遊女たちの犯行だった。


 こうして…高島町遊郭でエリは混血児として誕生した。



 当時は、異人の父親が祖国に帰還する際に連れ帰るよう政府が訴えたが、その要請にも従わず置き去りにする事が多かった。頼みの綱の母も、梅毒でこの世を去ってしまった。


 このような状況下、孤児になってしまった混血児はお荷物以外の何物でもなかった。


 エリは幼くして残酷な最期を迎えた友達を嫌という程見て来た。それでも…エリだけは悲惨な最期を免れていた。


 それは、エリは誰が見ても息を吞むほどの美少女だったからだ。こうして…お金になると踏んだ大人たちによって祇園の置屋に売られた。


 舞子として修業中だったが、どう見ても12歳に見えない小柄のエリは、ひいきのお客から芸子さんになる為の一切合切を出すからと「水揚げ」の話が持ち上がった。その「水揚げ」という事は、この恩に対して大切な物(操)を差し上げるという意味だ。


 そのお客は根っからのロリコンだった。小さくて一際目立つ美少女エリにビビッと来た。最初はそんな趣味の男性だとは全く思わず、自分のために力を注いでくれる大切なお客様。そう思い泣く泣く従った。


 それでも…そんな12歳で水揚げなど前代未聞の話だ。普通は15~16歳で舞子さんになる為の水揚げがあるが、まだエリは12歳だ。おまけに身体は人一倍小さい。


 それでも…売られた身。身体を任せて操を差し出そうとしたが、まだ小さくて死ぬほどの苦しみだ。鮮血が滲み出た。


 更にはロリコン男で耐え難い悪趣味の持ち主で、どうしても耐えられなくなってしまった。こうして逃げて逃げて逃げたのだった。


     ◇◇

 

 こんな時代の狭間の中で、混血児の美少女エリは芸者置屋から懸命に逃げて逃げて逃げて、岐阜県多治見市に辿り着いた。


 この美少女エリ12歳の出現によって恐ろしい事件が繰り広げられる。

 それは当然、こんな岐阜県の農村に……ましてやこんな美少女など存在する筈もなく、大地主近藤家の目に止まる事となる。


 





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