第6話 恋の行方
江戸末期(幕末)に横浜が開港された時には大勢の外国人(水夫、商人、外交官、宣教師)が来訪した。独身者は当時ラシャメンと呼ばれていた日本女性と、同棲したので多くの混血児が生まれていた。このような経緯から、長い年月と共に混血児の血は至る所に派生して、どこに混血の血が紛れ込んでも不思議はない。
※羅紗緬(ラシャメン):幕末から明治にかけて、日本在住の西洋人を相手に取っていた娼婦の事で、もしくは外国人の現地妻となった日本人女性のことを指す。
またそれよりも以前に、日本とロシアがはじめて接触をもったのは安永7年(1778)のことだ。ラッコ捕獲事業をしていたラストチキン商会のオチエレデンが、3隻の船で根室のノツカマップに上陸したのが最初だ。ロシア本国と離れていたので絶えず食料不足だった為に、日本との交易を切に希望した。交渉が幾度となく持たれて、そして遂に14年後の寛政4年(1792)に、ロシア皇帝エカテリーナ2世の国書をたずさえ日本の漂流民 大黒屋光太夫らを伴い、軍艦で根室にやって来て本格化した。
更には、大正時代には、 1917年3月に起こったロシア革命を逃れて、1918年には7000名以上のロシヤ人やポーランド人、ウクライナ人が日本へ逃れてきている。そこでも多くの混血児が誕生していた。
このような流れから神崎家はロシアの血が流れているのではと、言われているが、噂に留まっている。
代々小作農家で貧困に喘いでいたが、悪い事ばかりではない。何が功を奏するか分かった者ではない。器量筋と言われていた要因がやっと解けた気もするが、政治家の元に嫁いだ美貌のアヤのお陰で家は徐々に息を吹き返してくる。
だが、そうはいっても、アヤの弟は家を出て自分で所帯を持ったのだが、やはり生活が立ち行かなくなり、やむを得ず娘を吉原に売り飛ばす羽目になってしまった。だが、この娘が上玉でアヤの美貌を上回る美人だった。こうして何と……吉原の花魁にまで上り詰めた。
◇◇
1925年の晩秋の事だ。岐阜県の山間部は今まさに野山の錦となっていた。
野山が色とりどりに染まって豪華さを増して、華やかに赤や黄色の美しい紋様に仕上げた絹織物となり山々に化粧を施した。
近藤家は元来豪農で愛知県だけに留まらず、岐阜県にまたがり農地を保有している大地主だった。
小作人や自小作人 に土地を貸して小作料を取り立てるだけで、自分では農事にたずさわらなく田畑を任せ、こき使い、搾り取れるだけ搾り取る典型的な悪徳大地主で別名寄生地主だった。農家の仕事は自小作人と小作人に任せ監視に目を光らせ怒鳴り付けるのが仕事だ。
近藤家の長男孝明は帝大卒のエリートで現在26歳。地主の長男なので今日も田畑の作物の柿と米の出来栄えのチェックの為に岐阜県にやって来た。
1925年といえばまだ昭和時代も訪れていない大正14年の事だ。当然車を運転するのは商売の為のトラックを運転する商人か、タクシ―の運転手か、公用車くらいしか走っていないような時代にハッと目を引く美しい女性が、それも外国のフォード社の車を運転する女性が目の前を車で走り去って行った。
1925年当時は、まだ女性のドライバ-など皆無に等しい時代だった。そんな時代に意気揚々と車を運転する若い女性の姿が、こんな田舎の農村地帯を走り抜けていった。呆気にとられた孝明が啞然として小作人に聞いた。
「こんな田舎にあんな外国車を運転する女は一体誰だ!」
「ヘイ!あのお嬢さんは名古屋の「繊維問屋タキハナ」のお嬢様です。本町(名古屋市中区丸の内)に大きなビルを構えておいでの、名古屋で5本の指に入る社長さんのお嬢様です。美人で評判の万里子お嬢様です」
「ハァ!それなら納得だ!」
孝明は一瞬で恋に落ちてしまった。
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