最果ての海に夕暮れ

日向満月

最果ての海に夕暮れ

 無人駅の改札をくぐると、潮の香りが鼻腔をくすぐった。


 駅を出たおれたちを真っ先に出迎えてくれたのは、古びた商店街の通りと、その周囲に立ち並ぶ、潮風で傷んだ民家。頭上を仰げば一面に広がる、寂しげな色をした夕空だった。


 くれないの夕陽。暮れゆく世界。


 今日という日の終わりが近い。


 遠くからカモメの鳴く声がする。彼らの声に導かれるようにして、おれと隣にいた女性──ずっと一緒に長い旅をしてきた同行者は、防潮堤に沿って歩きはじめた。おれたちの歩調に合わせて、景色がゆっくりと流れていく。


 幼い頃におれが暮らしていた故郷は、いまでは人通りも少なく、閑散としていた。過疎化が進んだせいか、それともべつの理由か。漁村として栄えていた、あの頃の活気は影も形もない。


 こんな僻邑へきゆうまで、はわざわざおれたちを追いかけてくるだろうか? おれは隣で楽しげに笑う女性に目を向けた。


 ……考えるまでもないな。きっと村中のありとあらゆるひとに聞き込んで、ありとあらゆる場所を調べて、ありとあらゆる手段を講じておれたちを探し回るはずだ。


 あのひとに捕まれば、おれはもう二度と、彼女のもとには帰れなくなるだろう。


 ──そのことは、おれにとって、この世界の『終焉』を意味していた。


 歩き続けた先で防潮堤が途切れる。そこから灰色の砂浜とコンクリートの階段が覗いていた。


 砂と海藻にまみれた段差を、一段ずつ踏み締めて慎重に下りる。周りに手すりなどなく、気を抜くと脚を滑らせてしまいそうだった。先に砂浜へとりた彼女が、おそるおそる脚を進めるおれを見て、くすりと笑う。


 靴底が砂浜に付いたとき、おれはほっと胸を撫で下ろした。ようやく目の前に広がる、懐かしい海景に意識を向けることができる、そう思った。


 しかしそこに広がっていたのは、誰もいない、荒涼とした海の眺めだった。


 ふとセピア色の記憶の中で、浜辺に腰掛けた少年少女がおれを振り返る。小学校時代の友人たちだった。


 みんなは顔を見合わせると、楽しげに笑い、一斉に駆け出した。競い合うようにおれの目の前を通り過ぎ、想い出の向こうへと消えていく。


 あとに残ったのは、夕焼け色に染まる寂寥とした海だけ。


 すでにカモメの姿も見当たらず、鳴き声すら聞こえなくなっていた。


 もう少しで、水平線に陽が沈む。


 今日という日が、間もなく終わる。


「二人ぼっちだね」


 彼女の囁きに、おれが頷いた。


「二人っきりだね」


 彼女の呟きに、おれが頷いた。


「じゃあこの海は、二人だけの、貸し切りだ」


 彼女の言葉に、おれが頷くより先に──履いていたショートブーツを脱いで、彼女は走り出した。夕陽で煌めく波打ち際に、躊躇いなく脚を浸ける。


 くるりと彼女が舞うと、白いワンピースの裾が広がった。


 「見て、あの夕焼け。とても綺麗」──おれを振り返ってから、彼女は海の彼方を指差した。寄せては返す静かな音色に、溌剌とした声音が重なる。


 彼女が踊るたび、夕陽を映した海の雫が、きらきらと宙を舞った。


 きらきら。きらきら。彼女の笑顔とともに弾ける。


 まるで紅玉を粉々に砕いたような、哀しい色の水滴だと思った。


 きらきら。きらきら。


 きらきら。ぽろぽろ。


 ふと気が付いた。


 ああ。彼女はもう、この世の終わりを受けいれているのだ、と。


 なんのことはない──この小話は、ただの駆け落ちした男女の話だ。べつに命をかけた逃避行をしていたわけでも、世界の命運を背負って旅をしてたわけでもない。


 どこにでもある、人間と人間が殺し合う必要のない、平和で優しい世界のお話。


 しかしおれと彼女にとって、これは、世界の存亡をかけた壮大な物語だった。


 二人の世界を守るためだけの。


 夕焼けのように身を焦がしただけの。


 そんなどうしようもない、ささやかな冒険の物語だった。


 おれは彼女の手を握って、その身体を引き寄せた。


 彼女もおれの手を握り返して──そっと、淡く微笑んだ。


 その瞳からは大粒の、紅い雫がぽろぽろ、こぼれる。


 ぽろぽろ。ぽろぽろ。


 夕陽に染まった、海水なみだだった。


 最初から、こうなることはわかってたでしょ? ──頭上で瞬きはじめた星が、そう言うときらきら、きらきら、笑う。


 ぽろぽろ。きらきら。


 ぽろぽろ。ぽろぽろ。


 そして、夜が訪れる。


 今日という日が。世界が、終わる。


 月の明かりが空に灯る、その間際──


 どこまでもあかい夕焼けの残光が、おれと彼女と海を照らした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

最果ての海に夕暮れ 日向満月 @vividvivid

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ