第2話 5月19日 宗治陣営 雨乞い
「雨よ、降れ」
宗治はじとりと水滴を溢れさせる薄暗く灰色に満ちた世界を眺め、そう呟いた。情勢は重く苦しい。けれども時折雲間から差す一条の光のように、正しきものは存在する。それこそが信義だ。宗治はそのように考えていた。
けれども吐き出すその息は、多分な湿度を帯びていた。
今までの所、2回ほど秀吉軍を追い払いはしたが、さりとて戦力差は6倍に至る。援軍は未だ、来ない。
来ないはずはない。備中を失えば、主家毛利は本拠地が前線となる。今なら秀吉に打つ手はないはずだ。城前の沼はますます深い。
そうは思えど、黒雲のように不安は打ち払えなかった。
「父上。小早川様が来られるまでの辛抱です」
「ああ、そうだな」
未だ齢11の次男に励ましに頷いた。この城には多くの民が一緒に籠城しているのだ。城主が不安を見せてはならぬ。
高松城は四方を秀吉軍に囲まれている。彼らと自軍の一番大きな違いは、彼らが職業軍人であることだ。自軍は戦の時だけ徴集され、普段は畑仕事をしている。つまり民とさほど変わらず、恐怖が伝播しやすい。だから無理に背筋を延ばすのだ。恐るるに足らぬと。
この高松城を含む備中七城は、毛利の東に対する守りだ。けれども、他六城は既に落ちた。そのうち南の二城は裏切りによって秀吉についた。
宗治はこの戦が始まる前に小早川隆景が七城の城主を集めた時のことを思い出していた。
「秀吉に与する者があればすぐに行くがよい」
その鷹揚な隆景の言葉に、全ての城主が二心はないと答えたはずだ。だが、実際はどうだ。これが親兄弟が敵陣に別れる修羅の世の、習いというものなのかもしれない。
「このような世であるからこそ、信義を守らねばならぬ」
息子への言葉の半ばは自身に向けられていた。毛利にはこの息子を助けてもらった恩がある。また、此度の戦においても万一の時は、毛利が家族の面倒を見るという約定となっている。
その約定が守られるかは信じるしか無い。だからこそ、信義を通さねばならない。そのような固い決意が、その言葉には込められていた。
未だ暗い天を見上げる息子の視線に合わせて顔を上げる。
「それにしても長い雨ですね。敵も身動きが取れないでしょう」
「ああ。だがこの雨が、この高松城を守るのだ」
見上げた空は、やはり灰色に曇っていた。これはこの城を守る雨だ。そう何度も自らの心に呟く。
けれども、気になることがある。
十日ほど前から蛙ヶ鼻のあたりで敵軍が妙な動きをしている。囲いで覆われ何をしているのかはわからない。確かめようと討って出れば、同じように沼に足をとられ、山から鉄砲で狙い打たれるだろう。敵軍に対する有利は、同じく自軍に対する不利になる。できることは雨を祈ることだけだ。
「雨よ、降れ!」
宗治がそう願った時だった。
突如、どぉんという音が聞こえた。
そして宗治は自らの敗北を悟り、息子の肩を抱き寄せた。敵軍も雨を祈っていたこととを知った。
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