第3話 6月3日 秀吉陣営 雨乞い
「何故だ! 一体何があったというのだ!」
秀吉は陣屋の中で大声をあげた。それはまさに驚天動地、この備中にいる誰一人として予想だにしていなかったことだ。
高松城戦はうまくいっていた。現在毛利と交渉を優位に進めている。全てが時間の問題だと思われていた。
なぜなら秀吉軍は高松城を水没させたからだ。
時間との戦いだった。3万の秀吉軍は、5万とも8万ともいわれる毛利本陣が到着する前に高松城を攻め落とさなければならなかった。この高松城が備中最後の城なのだ。敗退すればばらまいた金子も根回しも意味を失う。一方の信長率いる東征軍はわずか2ヶ月で武田を討ち滅ぼし、上杉の越後まで平定した。なんとしても手柄を挙げねば、自ら願い出た征西の面目がたたぬ。
秀吉は必死であった。信長の援軍到着までに備中を手にし、毛利の喉元に刃を突きつけねばならない。
10日ほど前の夜、天啓が降った。
折しもバラバラと激しい雨が続き、足守川の水位が上がった。高松城はすり鉢の底にある。それならばすり鉢を水で埋めてしまえばよい。
秀吉は正勝を築堤奉行に任命し、翌日には工事に取り掛からせた。蛙ヶ鼻に狙いを絞り、正勝が詳細に周囲を測り、水攻めに必要な高さを計算した上で3メートルの高さまで土嚢を積み上げ埋めた。
その堤を作るためには宇喜多兵1万と近くの農民を動員した。農民には土嚢1俵ごとに100文銭と米1升という破格の報奨をばらまいた。それでも完成まで、12日を要した。
容易なことではない。豊富な資金と正勝の土木の手腕、そして秀吉自身の人たらしの素養があって初めてなし得たものだ。
足守川を決壊させる時、喧々諤々の議論が巻き起こった。
「正勝殿、本当にこれで大丈夫なのですか」
「間違いない。俺はこの高松城の周囲を正確に測ったのだ」
「しかし、埋めたのは蛙ヶ鼻だけです」
官兵衛の言に群臣の多くが頷いた。高松城は西北東を山に囲まれているが、南側は開け、足守川が通っている。つまり、三囲に較べて南は低い。
「お前さま方にはわからんかもしれぬが、高松城は足守川より低いところにある」
どよめきが起こった。低いとはいえ、せいぜい1,2メートルだ。目で見てわかる差ではない。つまり多くの群臣には、南西側には何の堤も無いようにしかみえなかった。
「失敗したら、取り返しがつきません」
官兵衛の言に多くが頷く。川の決壊を前提としている以上、一度決壊させればやり直しなど利かない。そして水流によっては攻め手が制限され、より不利となる可能性がある。
「南西側は自然堤防である。この蛙ヶ鼻がこそ、大雨が降った時の排水の場所なのだ。だから、蛙ヶ鼻。蛙が水を吐き出すのさ」
けれども居並ぶ群臣のざわめきは収まらなかった。
これまで秀吉と正勝はおよそ不可能なことを成し遂げていた。正勝の述べる水系や流域面積、水位等の言にも一応の理はある。けれども南岸は開け、水を閉じ込めるようには見えない。秀吉とて、将来のことはわからぬ。だが、こと河川技術においては正勝に一日の長がある。秀吉はそれを熟知していたからである。
「よい。やれ」
決行は秀吉の鶴の一声で決定された。
その結果が、目の前にある。
「雨よ降れ! もっと降れい!」
秀吉の命令に従いその決行は、この世のものと思えぬ轟音とともに始まった。
正勝の手勢以外の全ての軍はそれぞれの山の陣地に登り、ただその神の所業としか思えぬ水没を見守るしかなかった。
高松城の西側からわずかに流れ出た河の水は、あっという間に周囲の森や土を巻き込み濁流と化し、高松城の周囲を逆巻く。これまで足を取られていた沼が全てに広がり、それは予想もしなかった面積を水没させた。
わずかに高松城のみを水面にうかべ、城外との行き来にも小舟を用いざるをえなくなった。
小早川軍が現れたのはその翌々日である。
こと、こうなっては小早川軍とはいえ、高松城を援軍することなど土台不可能だ。なにせ秀吉軍が難儀した泥どころの話ではない。高松城は湖中で孤立しているのだから。
秀吉の問題は簡単になった。
問題の所在は高松城を落城させるか否かではなく、高松城を人質としていかに和睦を結ぶかどうかに変化したからだ。
「備中、備後、美作、伯耆、出雲5国を織田軍に割譲するのと引き換えに兵を率いていただけぬだろうか」
総大将毛利輝元は
「五国割譲と城兵の引き渡し、ただし清水宗治の切腹が絶対条件である」
「しかし、将の引き渡しは常のことでございます」
「ならぬ」
秀吉にとって宗治の命は譲れない条件であった。
なぜなら、宗治は戦国の世に習わないからだ。
宗治はおそらく今後も毛利を裏切ることはなく、敵に回り続ける。そしておそらく、世に習わない宗治は毛利軍の精神的な支柱となるだろう。それが秀吉と官兵衛の目に見えていた。
一方の毛利軍とて、宗治の助命は必須だった。なぜなら宗治は裏切らないからだ。秀吉と孤軍奮闘し、現在のように孤立無援になったとしても敵に寝返ることはない。このような忠臣を見殺しにすれば、唯でさえ求心力の低い毛利軍の士気は地に落ちる。
秀吉に急ぐ必要はなかった。すでに趨勢は決しており、むしろ急ぎたいのは毛利軍であることを知っていたからだ。まもなく信長が武田を打ち破った軍勢を引き連れ前線にやってくる。そうなれば、毛利軍の勝ち目は絶望的となる。
秀吉が望むのは最早、雨が降り続くこと。この高松城の水没が長く続くことだけだった。
けれども、けれども全く予想がつかない報が入ったのだ。
「信長様が、本能寺で亡くなられた……?」
最初の報は、本能寺ほど近くで商売を営む懇意にしている商人長谷川宗仁からもたらされた。宗仁の手下は馬を乗り継ぎ、秀吉のいるこの備中高松まで駆けたのだ。
秀吉は最初、信じられなかった。
そもそもの信長が死亡したという事実も、そしてその下手人が明智光秀であるという話も。そんなことは有りうるはずがない。どう頭を捻っても、秀吉の中で光秀は忠臣である。そんなことをする動機も思い浮かばぬ。
けれども、2つ目の報がもたらされてしまった。
不審に思った秀吉が街道を見張らせ、藤田伝八郎という男を捕えた。脚力に絶対の自信を持つこの男は、光秀から毛利へ書状を持って街道を独力で走っていたのだ。
長谷川の手紙と藤田の手紙を照らし合わせ、その仔細が合致した。
秀吉は全く信じられなかった。
「真実のはずがない! 殿が身罷られるはずなどないのだ!」
「私もそう思います。しかし、このような状況下、その可能性があることを前提として動かねばなりません」
最も早く正気を取り戻したのは官兵衛だった。
二人の表情は見る影もなく憔悴し、前日来の恵瓊より更に悪い。蝋燭の明かりの下、あたかも幽鬼のようだ。秀吉は鬼の形相のまま、やらねばならぬことを考えた。
毛利との決着だ。信長が当然生きていても、万が一に亡くなっていても、やらねばならないことだ。万が一亡くなっていればこそ、早急になんとかせねばならない。
そして毛利がこの報を知る前に、全てを終わらせなければならない。毛利は未だ水軍を擁する。
今行っている和睦考証は、信長が強大な軍を率いて訪れることが前提となっている。毛利を丸め込むには、毛利がこの報を知らぬ今しかない。これをまとめ上げねば、畿内に走ることはできない。
ざわざわとそぼ降る雨は、空へと湿度を拡散し、じとりと秀吉の背を濡らしていた。
「恵瓊殿を呼べ! 割譲は備中・美作・伯耆の3国でよい。加えて人質を送る。ただし、宗治の死は絶対だ!」
宗治の命の重要性が跳ね上がった。
なぜなら万一信長が死んでいた場合、絶対に裏切らない男宗治は毛利の中心となり、今後の統一の支障となることが火を見るより明らかであったからだ。
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