雨よ降れ 備中高松城の戦い

Tempp @ぷかぷか

第1話 5月7日 秀吉陣営 晴乞い

 天正101582年5月7日。


「雨は! この雨はまだ上がらぬのか!」

 秀吉は天をにらみ、叫んだ。

 その叫びをあざ笑うかのように天はますます黒く渦を巻き、雷槌の音とともにじゅくじゅくと鬱陶しい水滴を絶え間なく降りそぼらせた。そしてそれが、この忌々しいぬかるみを更に深くする。


 秀吉が陣を構える石井山から北西7町半800mほどのところに備中高松城びっちゅうたかまつじょうが見下ろせた。

 山の上でもない平城だ。隠れてもいない。しかし難攻不落だ。

 秀吉の軍勢は3万、一方、高松城を守る清水宗治しみずむねはるの軍勢はせいぜい5千。何としても、落とさねばならぬ戦いだ。けれどもその堅牢さは、秀吉の想像の上を行く。

 高松城は沼地の真ん中にある。攻めるには城に至る細路を進まねばならない。踏み外せば、沼だ。一度ぬかるみに落ちれば馬も人も足をとられ動けなくなり、高松城から鉄砲で狙い打たれる。この憎い沼のため、自軍は馬も、そして雨ゆえ得意の鉄砲も使えぬ。

 包囲からすでに一月経過した。

 一向に、活路は見いだせなかった。

 そして沼地を更に深くする雨に、秀吉は思わず呟いた。

「呪いのようだ」

「まず、この雨は続きましょうな」

 重い溜息とともに黒田官兵衛くろだかんべえは口を開く。官兵衛の生まれは至近の姫路だ。風土に詳しい。梅雨に入った以上、沼が乾くことはない。

 宗治軍は籠城の構えだ。籠城。それはつまり、助けを予定している。背後に控える毛利軍の参戦が、今にも迫っている。毛利本陣は5万にも及ぼう。前後に挟まれれば引くしか無い。

「和議の目処はたちません。あの沼をなんとかせねばならぬでしょう」

 人と沼。これが秀吉の予定を大きく狂わせたものだ。

 備中一体の武将らは浮足立っていた。

 秀吉が高松城を取り囲むのと前後し、信長が甲斐武田を僅か2ヶ月で打ち滅ぼしたことも拍車をかけていた。織田軍は間も無く全軍を引き連れ訪れる。西国の雄たる毛利とて未来は盤石ではない。あまりに早い織田の進軍の勢いは、そのような未来を西国につきつけた。

 戦国の世、主君を変えるのはよくあることだ。これまで秀吉は未来の不安を煽り、生野銀山の資金を湯水の如く費やして敵軍を切り崩していた。この1ヶ月でも、毛利元就の娘婿である上原元将うえはらもとすけ、備中鴨庄城かもじょう城主生石中務おいしなかつかさは織田方に寝返った。

 だから秀吉は宗治に対しても当初から、和睦の使者を送っていた。

「貴殿が織田方につくのであれば備中・備後の2国を与えるとのことでございます」

「武士とは二心を抱かぬ者よ」

 宗治はそう喝破し、なびく様子は全くなかった。宗治だけが異なった。


 秀吉は焦りとともに憂鬱な雨の向こうの平城を睨む。

「結局あの城を落とさねばならん。……沼城。何故、沼がある」

 何故沼があるか。それはこの地がそのような場所だから、である。吐き捨てるような問いに、陣屋に集まった一同は首をかしげる中、官兵衛だけが雷に打たれたように地図に顔を近づけた。

「殿、雨が降り、沼が深まる。つまり、雨は高松城に流れ込んでいるのです」

「そんなことはわかっておる!」

「つまり、近くを流れる足守川ですら、この城より高い位置にございます」

 官兵衛の指が城を囲むように地図上に円を描く。北と東に山、北西から南東にかけて足守川が流れている。官兵衛は川から城に指を動かした。

「ですからあたかもすり鉢の底のように全ての水が城に集まるのでしょう」

「すり鉢の、底」

 秀吉は官兵衛を睨みつけながら僅かに逡巡した後、蜂須賀正勝はちすかまさかつにむかって頷いた。

 正勝はかつて配下の川並衆かわなみしゅうを率いて荒ぶる木曽川の水域を支配していた。荒川こそ正勝の生きる場所である。そして正勝は墨俣すのまたで一夜城を築いたことは記憶に新しい。

 正勝は肩を震わせながら不敵に口角を上げる。

「殿。わしの役目はすり鉢を作ること、ですな」

「お主は普段よりこのあたりを駆け巡っておろう。どうすればよい」

「それならば、ここですな」

 正勝が指さしたのは、この石井山のすぐ南麓の蛙ヶ鼻かわずがはなだった。

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