12.對間瑪路主②

 転校する前、僕はちっぽけで大きなミステイクを犯した。自分の中の善意に従い、大してよく知らないクラスメイトを助けた。そうすることが正しいと思ったのだ。けれど、いじめの混乱はむしろますます混沌し、完全に人間不信となったクラスはそれまでいじめの輪に加わらなかった生徒すらも雪だるま式に巻き込んだ。助けたクラスメイトが裏切ったことなどそれらに比べれば些細なことに過ぎない。まあショックはショックだったけど。

 そして、保健室で勉強をするようになって2週間が経過した頃、傷害事件が起きてその被害者が自殺する事態になった。そして、加害者の一人は僕がいじめから助けたクラスメイトだった。なぜそうなったのかはクラスから離れていた僕には知る由もない。

 卒業式を迎えるだけだった小学校は大混乱に陥った。保護者向けの説明会が連日開催され、僕も数えきれないぐらいヒアリングを受けたが、既に一日の大半を保健室登校で過ごすようになり、放課後も地域ボランティアに通っていた僕は完全に部外者でしかなかった。

 遅まきながらようやく息子が異常な状況に巻き込まれていることに気づいた母さんは自分のことを棚にあげて大人げなくブチ切れると、クラスメイトたちの多くが入学予定だった中学からの転校と引っ越しを勝手に決めてしまった。

 引っ越しの関係で事実上の小学校最後の一日となったその日、僕は担任にお世話になったことをお礼を言うと職員室を出た。事後対応に未だ追われ続けていた職員室はどんよりと暗く、担任も虚ろな目で心ここにあらずであった。

 職員室から昇降口の下駄箱まで10メートル。僕にとって小学校生活最後となるべきその10メートルを歩いていると前から見慣れた顔が歩いてくるのが見えた。

 いじめから助けたクラスメイトだった。

 加害者であるはずの彼女がどうしてまだ学校に来ているのかわからなかったが、僕たちはまるで透明人間か幽霊かのようにすれ違った。

 正しいことは何処までも透き通っていて、そして、舐めると甘い味がする。まるで宝石のようなロックキャンディーのように。傷ついた僕はそれでも宝箱を仕舞いこんだそれらを覗き込んでは「自分は間違っていない」とほくそ笑む。

 しかし、夕陽に染まる校舎で永井かふかを見捨てたあの日。

 僕の中のこれまでずっと大事に思っていた甘い味のする宝石は宝箱ごとぶちまけられ、教室の幽霊の遠慮を知らない胃の中に気がつけば呑み込まれていた。運よく巻き込まれなかった欠片でさえも土足で粉々に踏み砕かれたのだ。


「…………はあ、はあ、はあ」


 喉が焼けるように痛い。

 思えば、あの日もこうして走っていた。

 自分が美しいと思っていたものは結局誰も助けることはできなかった―――そんなことは本当は知っていたのに―――あのクラスメイトも、母さんも、妹も、父さんも、そして、あの影に喰われていた少女も、誰一人として。

 それでも僕は、いつか、そのまっしろなキャンバスに世界で一番美しい絵が描かれることを信じていた。何も知らない子供が飴玉を土に植えて飴をたくさん実らせる魔法の樹が生えてくるのを待っているように。

 足がもつれるとそのまま転がり落ちるように車道に倒れた。このとき配送のトラックが走ってきていたら僕の人生は終わっていたに違いない。

 無数の小石が皮膚を切り裂き、剥き出しになった肉から血潮が流れ出す。痙攣する足をどうにか動かして縁石を乗り越えると歩道に横たわる。

 目に映るのは空だけ。永井と見上げた星は既に消え、視界の端から橙色が滲みだして藍色のグラデーションを作っている。


「はあ、はあ、そんなものあってたまるかっ!」


 奇跡は起こらない。

 母さんの頭から抜け落ちたネジを見つけ出すことはできないし、僕たち家族4人がもう一度食卓を囲むことはもうない。

 無駄だ。何もかもが無駄だ。

 今更、ショッピングモールに戻って何になる。永井は晦虫たちをその毒で皆殺しにして素知らぬ顔で混乱する現場を後にしているだろう。僕が行ったところで何もプラスにはならない。下手したら永井が逃げる妨げになる可能性だってある。

 …………もう、これで終わり。

 永井かふかと一緒にした深夜の奇妙な冒険も、教室の幽霊に憑りつかれた日々も、まっしろなキャンバスを見上げ続けるのも何もかも。

 そして、空っぽになった宝箱を抱えてつまらない退屈な人生を僕は歩き続けるのだ。

 皮肉な笑みを浮かべて僕をなじる悪魔の姿はもうどこにもない。

 

「おはよう」

「おはよう、メロス」


 でも、奇跡は目の前で起きていたのだ。

 驚いた僕の目の前ではにかむように笑った幽霊。


 ―――ああ、よかった。


 あの日、あのときに感じた魂の断層がズレるような、感情の濁流で頭の中が真っ白に塗りつぶされ、嬉し涙さえ止まるような歓喜を―――永井かふかに纏わるありとあらゆることと同じように―――僕は一生忘れることはないだろう。

 暗闇の恐怖に怯えて布団の中でがたがた震えながら僕は祈り続けていた。

 僕の見間違いでも妄想でも何でもいい、神様でも悪魔でもいい、どうか影に食べられたあの少女が助かってほしいと願った。

 もし、願いが叶うなら僕の残りの人生を彼女にあげてもいい、と。


「…………」


 暗がりのなかで横たわる足が動き始めるのを見た。手が独りでアスファルトを這うのを見た。瘦せっぽちの12歳の子供ガキが立ち上がるのを僕は他人事のように感じていた。

 冷え切った午前4時の空気の中に湯気が立ち上る。

 電信柱の陰に潜んでいた一匹の晦虫がその青臭い臭いを嫌って逃げていく。

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