12.對間瑪路主①
12
白瀬先生は決して名前を呼ばない。大抵は「あなた」とか「あの子」とかで僕のことも「きみ」と呼んでいる。おそらく先生は人間そのものには興味がひどく薄いのだろう。興味があるのはあくまで相手の抱える悩みや絡まった心の糸だけ。
そのこと自体を非難する気はない。カウンセラーとしてクライアントとの適切な距離感だと思う。カウンセラーは相手に悩みがあるからこそ存在意義があるのだ。
しかし、そんな先生がたった一度だけ名前を出したのが「永井かふか」だった。
もっとも偶然や僕の勝手な思い込みかもしれないけど。
話が少しずれたが、白瀬先生とある日話したことを、女の子を抱えながら足の痛覚を無視して走り続けているときに僕はふと思い出していた。
それはこんな会話だった。
「君は生まれてくる時代を間違えたかもね」
その日のヒアリングを終えた先生は買ってきたタピオカミルクティーを一口飲むと独りごちるようにそう言った。キョトンとする僕の顔を見て、ようやく自分が失言をしたことに気づいた。
「ああ、ごめんね。これは私の勝手な思い込み」
「いつだったらよかったんですか?」
僕が問い返すのを先生は目顔で「へー、意外」という反応をした。タピオカが黒い丸が少し明るめのミルクティーの中を流れていく。
「ふふん、どの時代だと思う?」
うざい。
「三十年後ぐらいですか?」
未来だったら母さんみたいな人が子供を持つことは法律的な制限がかかるだろうし、育児放棄や虐待に対してもう少しは具体的な対策ができているに違いない。
「君は真面目だなあ」
いかにもつまらなそうな顔をして先生はチュロスに手を伸ばした。そして、半分に折ったもう一方を僕に差し出してくる。
「日本だったら武士、ヨーロッパだったら騎士。きっと一国一城の主になれたよ」
それはどういう意味だ? 母親のつけた名前がキリシタン大名みたいな名前のせいか、それとも青臭い中二病丸出しの精神が騎士道や武士道につながる、とか?
「違う違う、そういう意味じゃないよ」
黒砂糖の甘さで喉が渇いて仕方がないが、先生はそれに気づく様子はない。
「君は、論理と感情が完全に分かれすぎているか、それか全く同一になっている」
は? なんじゃ、そりゃ。
訝しる僕を横目に先生はノートPCの画面に目を走らせていた。そこにはもちろん僕の転校前の出来事や生活歴がびっしり記載されている。
「君は目的のためなら眉一つ動かすことなく百万人殺せる人間だよ。たとえ城の中が餓死者で溢れていても、女子供が崖から海に飛び込もうと、ね。でも、そんなことをしでかしながら良心の呵責を誰よりも感じているから余計質が悪い。目的が果たした後で涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら慰霊の寺や教会を建立するんだ」
先生の言っていることは全くわからなかった。むしろ先生の言うことは誰にでも当てはまることではないのか? 何というか、それが人間の本質なのではないだろうか…………?
「それのどこが悪いんですか?」
そう言うと先生は一瞬だけ驚いた顔をしていたが、すぐにいつもの微笑をたたえた顔に戻っていた。
「そうだね。人間としてむしろいいことかもしれないね」
そのときの先生の顔をうまく思い出すことができない。きっと普段の顔と特に変わらなかったのだろう。しかし、無性に苛立ったのは覚えている。
―――それは自分と他者を深く断絶する、見えない何かを感じるときに覚えるものだ。
肺が、焼ける。
僕は夜の町を走り続けていた。
モールの警備室や通用口を通り抜けても走るのを止めなかった。永井と一緒に眺めた物流センターが見えても足を動かし続けた。
闇よりも深い暗闇の中に晦虫たちの影が見えた。奴らの存在を少しでも感じる場所に女の子を置いていくことはできない。
足が引き攣り、石化していく。
の残り時間が夜と朝の境界に消えていく。
ようやく晦虫たちの存在を感じなくなったのは、僕と母さんのアパートからみてショッピングモールとは反対方向にあるコンビニだった。搬入用のトラックが入り口に停まっていて、店長とみられる初老の男性がパンやおにぎりが入った弁当カゴを運んでいた。
「警察を呼んでください! 女の子がそこで倒れていました!」
店内の防犯カメラにぎりぎり映らない距離、搬入用トラックのタイヤ近くに女の子を置くと僕は店長に叫んだ。
「えっ? え、ええっ?」
理解が追い付かない店長は立ち尽くしたまま僕と女の子を交互に見つめている。店舗入り口に貼られたポスターの顔が女の子と同じ顔をしていることに気がつくのは間もなくのことだろう。
「君、待ちなさい!」
大人たちの声を振り切り、僕は再び夜の町を走り出していく。
女の子のことはもう考えなかった。
頭の中を支配しているのは俯いたままの教室の幽霊のことだけ。悪意に満ちたどこまでも貪欲なかいぶつ、でも、寂しがり屋の孤独な女の子。こんなことを想ったら永井は怒るだろうか?
アパートの横を通り過ぎる。永井の顔を照らした自動販売機の横を通り過ぎる。人殺しがかつて住んでいた家を通り過ぎていく。
今ももうこの手にはない掌の温もりをまだ覚えている。
熱く、胸を焦がし続け、急き立て続ける。
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