11.永井かふかという毒 その三②
「メ、ロ、ス、ぅぅぅぅぅっっっっッッッ!!!!」
巨大な顎が生パンケーキの生地をするりと切り裂いていく。生地の上には溢れんばかりのフルーツに生クリーム、そして、舌が蕩けるような甘い黄金の蜜がたっぷりと。
幾層にも重なったパンケーキは食べても食べても終わらず、まさに無限。終わらない
甘いものに少し飽きたら、お茶をどうぞ。
カップの中には真っ赤な紅茶。レモンを添えて香りをかげばたちまち舌は元気を取り戻し、パンケーキの味は初心を取り戻す。
お茶会は幸福のループ。お茶を飲んで、甘いものを食べて、またお茶を飲んでまた食べる。お喋りは昼も夜も超えて、月にだって届きそう。
みんなが楽しそうに歌い、笑い、あなたが世界に生まれたことを祝う。
女の子も男の子も、子供も大人も、
人間も犬も、そうでないものでさえ、
アナタをことだけを想い、感謝しなくては。
ありがとう、あなたが生きてくれて。
ああ、セカイはなんて幸せに満ちているのだろう!
…………なんだ、今のは?
怪物の顎が永井の身体にかぶりついた瞬間、明らかに別の意識と思われるモノが流れ込んできた。まさか、あれは…………晦虫の記憶?
幸せそのものの光景の中心に一人の男の子が座っていたが、その顔を思い出そうとすると真夏の道路に浮かんだ陽炎のようにするりと遠くに消えてしまう。そして、肺の奥深くまで焦がし尽くすような感情だけが残るのだ。
「…………そうだ。こんなことをしている場合じゃない」
晦虫は今も毒入りパンケーキを貪るように食べている。行儀が決していいとは言えない咀嚼音と舌鼓と喉を鳴らす音が不協和音となって、たった一人のティーパーティーもとい誕生会を祝い続けている。
永井かふかの毒は怪物の腹の中に潜んだまま牙をむくときを静かに待っている。悪意だけで構成された毒は遅効性。虫が最も幸せになった瞬間に地獄に誘うのだ。
首を巡らすと女の子はがフロアの隅に放り捨てられていた。死んだように動かなくなっていたが、心臓に手を当てると仄かな温もりとともに弱々しく動いている。
出口は開いたまま。非常口誘導灯が照らす一寸の緑の光はとても頼りなかったが、それでも生き物じみた暗闇の中で希望へと繋がる道を確かに示していた。
僕は女の子を抱き抱えると立ち上がった。捻った足首や打ち付けられた背中や肩などが一斉に悲鳴をあげたが、そのときの僕には歓喜の歌のように聞こえた。
5メートルに満たない距離を力の限り走り抜けていく。
振り返ってはいけない。
周囲の闇には王のおこぼれに与ろうと無数の晦虫たちが今にも襲い掛かろうとしている。
「助けて、メロス!」
…………えっ?
振り返ると涙で顔をぐしゃぐしゃにした永井が暗闇の中で僕だけを見つめていた。もう既にここにはない手が伸ばされる。少し小さくて柔らかい、けれど温かな掌の感触が僕の心を燃やしていく。
「置いていかないで、かふかを独りにしないで」
晦虫たちの呼吸が、節くれだった指が、涎まみれの歯が、僕と女の子のすぐそこまで迫ってくる。香り立つ恐怖を喜々として嗤う醜い顔が見える。
「お願いよ、メロス―――」
永井かふかは、永井は、そう言うと笑ったのだ。
崖崩れを起こした川岸で、
今まさに呑み込まれようとする小さな花のように―――。
「■■■■■■■■■っっっ!!」
背中を向けたとしてもその笑顔は消えない。
きっとこの先も網膜に永遠に刻まれるのだろう。
あの夕暮れの校舎で初めて出会ったときの同じように。
フラッシュバックする記憶の一つ一つを唇に歯を突き立てた痛みで塗り替えていく。
そんなことじゃとても足りないことはわかっているというのに。
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