10.クラヤミの王②


 チュー……チュー……チュー……


 晦虫の王が目の前に立っていた。

 人間の頭を丸呑みできそうなぐらい巨大な口から覗く鋭利な牙と自らが王者であることを示すように大きく広がるたてがみ。そんなライオンそのものの顔が本物の4倍以上のサイズで宙に浮かんでいる。

 僕をじっと見つめる双眸はやけにくっきり見え、体毛は夜光虫のように青く輝く。首から下はぬめぬめとした蛭でやたらと太く、床の上にとぐろを巻いていた。背中にはトンボを思わせる薄く巨大な翅が4本生えていてやはりこれも体毛のように青く輝いている。


 チュー……チュー……チュー……

 

 奇妙でそれでいて神経を逆撫でするような音。


「…………たすけて」


 女の子が蛭の身体に半ば呑み込まれるようにして座っていた。写真と同じショートカットの頭の上に太いストローが突き刺さっていて獅子の巨大な口が吸うたびに赤黒い色の液体に混ざって黒い塊が上昇していく。


「蜻ウ縺瑚埋縺上※縺九↑繧上s」


 1メートルほどの幼児の身体は巨大な怪物と比べれば、人とタピオカミルクティーぐらいの違いに相当する。晦虫が言うように黒いタピオカは残りが少ないらしく、吸う度に数もサイズも貧弱になっていくようだった。


「…………やめろ」


 晦虫の王はイライラしながらストローをぐりぐりと頭の中に押し込み、ズルズルと吸い上げる。女の子は小さな悲鳴を上げるが、その声は誰にも届かない。


「やめろって言ってんだろっ!」


 バットが振り下ろすが、軟体生物のそれは体育館のマットのように手ごたえがない。頭の方も見た目こそ動物に見えるが感触は同じようだった。

  

 …………チュー…………


 網戸とガラス窓の間に迷い込んだ羽虫を見るような目で晦虫が僕を見下ろす。そして、いかにも面倒臭そうに腕(らしきもの)を振るうと僕とバットは簡単に吹き飛ばされた。

 そうこうしているうちに黒いタピオカは本当に無くなってしまったらしく、晦虫の王はストローから口を離すと深々と溜息をついた。


「やめろ」


 暗闇の中に巨大な顎が覗く。4本の巨大な牙の間を埋め尽くす、びっしり並んだ針山のような歯。


「食べるなら僕を食べろ!」


 晦虫の動きがピクリと止まると、実は4つあった瞳が僕をじっと見つめる。それからゆっくりかぶりを振るとゆっくりと溜息を吐き出した。その1分近くの時間は自ら死刑宣告したことを深く後悔するのに十分な長さだった。

縺翫∪縺おまえ医?荳榊袖縺不味い

「えっ…………」


  獅子頭がそろりと起き出すと僕に近づいてくる。

 えっ、嘘だろ。ぐにゃりと揺れる視界のなかでそんな間抜けなことを僕は思った。

 ―――アパートを出る直前のことだった。前後の会話は全く覚えてない。きっと勢いのまま無謀な冒険に出ることへの迷いが今更出始めたからだろう。永井がどういう会話の流れか、こんなことを言ったのだ。


「だって、メロスは食べてもマズいし」

「じゃあ、おまえは美味いのか。クラヤミどもは歪んだ心が好みなんだな」

「そうなんじゃない」


 そんな何気ない会話が記憶の深い底から泡のように浮かんできたのは晦虫の放った言葉のせいだろうか。あるいは永井かふかのその言葉は無意識無責任に僕を強化していたのかもしれない。初めての何かでたまたまうまくいったとき、自分が何か特別な才能を持っているように思ってしまうのと同じように―――。

 晦虫の巨大な口から漏れる息は不思議なことに何の臭いもしなかった。通路を歩いているときに肌に何気なく感じる空気の流れのように、当たり前のようにそこに在った。

 チクリと棘のようなものが刺さる。痛みはあるが、恐れていたほどではない。まるで注射を打たれたときのような。なんだ、この程度か。永井は大げさだなと思ってしまった。しかし、それは生死の境を前にして膨張した神経が見せた、極限まで圧縮された刹那でしかなかった。

 次の瞬間―――別の宇宙の誰かが勝手にチャンネルを変えたみたいに―――、僕の意識は巨大な太陽に呑まれていた。死ぬことを希うことすら許さない痛覚の超新星爆発スーパーノヴァ

 痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!

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