10.クラヤミの王①


   10 クラヤミの王


 パネルの脇に申し訳程度に誂えた扉に手をかけるとあっさりと開いた。ぎーっと禍々しい音をたてて開く扉の向こうから死そのものの冷気が流れ出す。


 …………たすけて。 


 冷気の向こうで誰かがすすり泣いている。

 小さな指が空しく床を掻きむしる音が聞こえてくる。

 暗闇が嗤う。

 誘蛾灯にふらふらと飛んでいく蛾の死骸を面白がるように。


「行くぞ」


 粘りつくような闇の中に足を踏み出す。飲食店独特の脂ついたリノリウムは虫の死骸と固まった埃のせいで微妙な凹凸感がある。まるで内蔵のヒダのようだっだが、それは比喩ではなく、事実なのだろう―――僕は巨大な晦虫の胃の中を彷徨っているのだ。

 右手に構えた金属バットを宙に突き出しながら一歩、また一歩と進んでいく。左手には自転車のライト。汗に滲んだ掌から今にも滑り落ちそうだ。

 スイッチを入れたい気持ちを必死に抑える。女の子を見つかるまでは灯りをつけることはできない。もし見つける前にライトの光が警備のセンサーに見つかってしまったら、女の子はもう二度とこの暗闇から逃げ出すことは叶わないだろう。


 …………たすけて。


 おかしい。バットの先が何も当たらないのは既に椅子やテーブルが撤去されているからなのだろう。それはわかる。しかし、体感ではもう5メートル以上進んでいるはずなのにもう一方のパネルに一向に辿り着かない。


 …………たすけて。


 バットをもっと大きめに振るうが、何も手ごたえはない。及び腰だった姿勢を正して身体ごと差し出すように進むが、暗闇は果てしなく続いていく。

 もう前後左右の感覚はない。

 どこまでも、どこまでも、どこまでも深く、闇の中に呑まれていく。


 …………たすけて。


 名前を呼ぼうとしたが、その名をどういうわけか思い出すことができない。

 一方で女の子の顔が、情報提供を呼び掛けるA4の普通紙に印刷されたいやにくっきりと映った笑顔が暗闇の中で僕をじっと見つめている。

 どうして助けてくれないのかと僕を無言で詰っている。

 僕は暗闇に浮かんだその顔をバットで横殴りした。

 ぐちゃ。

 妙に柔らかいものが壊れる音がした。永井かふかの指や掌よりもふんわりとした感触が金属バットの先で無惨に潰れていく。小さな鮮血が鼻と口からだらりと垂れていく。

 助ける声はもう聞こえない。

 闇の中は沈黙に包まれている。


「お前が殺したんだ」


 見知らぬ男の低い声が突然響くと僕の手首を掴んでいた。ぎりぎりと人体が動かせない方向に捻り上げ、バットを落としそうになる。


「人殺しめ。お前は一生刑務所で暮らすんだ」


 男は糾弾すると同時に灰色の走馬灯が頭の中に駆け巡る。およそ夢も希望もないカレンダーの暦が消化されるだけの毎日。絶望し、誰かを妬むだけしかできない、屠殺される家畜よりも無価値な虚無。


「警察に突き出してやる。お前の家族はこの先ずっと人殺しの身内として生きるんだ」


 圧倒的な優越感が男の声には混じっていた。

 神様が弟を殺したカインを断罪するときに感じたであろう愉悦。

 正しさはこの世で最も甘い味。

 そんなことは誰よりも僕が一番よくわかっている。


「監禁され、暗闇の中で怯える小さな女の子を殴り殺すなんてお前は本当に人間の血が流れているのか? この悪魔め! 少しでも良心が残っているのなら自決しろ」


 男の正論が耳元でじんじんと響く。抵抗しようにも大人の力は圧倒的で1ミリたりとも抵抗することができない。それは僕がこれから痛いほど感じるであろう社会と自分の関係を表していた。


「どうして殺した!? どうしてお前はそんなことをしたんだ!?」


 百万回繰り返されるであろう質問の最初の一回が浴びせられる。どんな答えも、沈黙さえも許されない地獄の針山の始まりの一針。

 暗闇の中に金属バットの銀色がぼんやりと浮かんでいた。

 きっと―――あれで自分の頭を砕いたらすごく楽になるんだろうなあ。


「オマエは人間のクズだ。ゴミよりも無価値だ。死ね、死んでしまえ」


 手首を掴む力がふっと弱くなる。

 まるで選択肢を与えるかのように。

 だから、僕は選んだ。イメージはホセ・アルトゥーベのスイング。167センチの低身長をぐるりと一回転してその身体のパワーを余さずバットに変換するような一撃。


「莠コ谿コ縺暦シ!」


 頭からふっと重みが消え、晦虫の姿がすっ飛んでいく。そいつは毛の生えていない羊みたいな顔で同じような顔をした仲間が取り囲んでいた。


「縺薙>縺、縺ッ豁「繧√h縺」

「鬟溘∋縺ヲ繧らセ主袖縺励¥縺ェ縺」


 連中はいかにも気味が悪そうに囁くと後ずさり、暗闇の中に消えていった。どうやら僕は晦虫たちがドン引きするような異常者だったらしい。まあ何となくわかってはいたが。

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