8.白い闇の向こう側②

 闇の中で永井かふかの瞳が怪しく光る。どうせろくなことを考えていないに違いない。少なくとも深夜の学校にこの女と一緒にになるのだけは御免被る。


「せいぜい宿題は置き忘れないようにしないとな」 

「クラスメイトの女子は置き忘れるけどね」

「…………」


 ひょっとしなくても僕はこの女にこの先死ぬまで恨まれ続けるのだろうか? 罪悪感は感じるものの、さすがに不条理だ。夕暮れの校舎で影たちと戦って死んでいれば、この女は満足したというのか。いや、よそう。


「永井は白瀬先生と話したことがあるの?」


 話題を変えるために適当に思いついたことを口にしたが、結構気になる話題だ。そういえば先生は永井のことを知っていた。そもそも学校一の問題児に違いない永井がカウンセリングの対象になっていないはずがないのだ。


「メロス、五月蠅い。警備に見つかる」


 正論だが、その声には露骨な嫌悪感が滲んでいた。


「…………かふか、あの女大嫌い」


 闇の中にぽつりと呟きが消えるとそれきり永井は黙ってしまった。

 少しだけ意外だった。同世代はともかくとして永井は大人に対しては無関心か、モノかNPCぐらいにしか思っていなそうなのに。もっともあの人のことだ、お節介の押し売りをして永井をブチ切れさせたのだろう。ある意味才能であるともいえる。


『君、永井かふかさんと仲がいいんだって?』

『彼女、話してみるとなかなか面白い子よね』

『先生は個人的に好きだな。ああいう子』


 先生の屈託のない笑顔が脳裏に浮かぶ。あの様子では自分が嫌われている自覚はないのだろう。永井はああ言ったが、僕自身は彼女のことが個人的に好きだったりする。

 芸能人みたいにニキビの痕一つない白いまっさらな肌、ピアノを幼稚園の頃から習い続けていて今も続けているという長くて細い指、きっと大学で真面目に勉強したに違いない豊富な心理学や教育学の知識と無条件に人の善性を信じられる純真さ。

 きっと―――あの人は心が砕けるような経験はしたことはないし、これからもないのだろう。数年も経たないうちに大学時代の同級生と結婚して育児をして、仕事は続けるかは知らないが、僕も永井もきっとあの人の素敵な思い出の一つになるのだ。

 光も音もない闇の世界で僕はいつの間にか半分眠っていたらしい。

 先生のことを考えているうちに回想めいた夢をみていた。


『カウンセラーになったきっかけ?』


 あれは休憩中のことだった。母さんや自分のことを話し続けているうちに気が滅入りかけ、先生がすかさず冷蔵庫から出した麦茶を僕に差し出したのだ。


『うーん、選択肢として頭の中に浮かんだのは高校のときかな。こう見えて私、友達から悩みを相談されることが多くてね、友達の一人に「夢花ゆめかにはカウンセラーの才能があるよ!」と言われたのが嬉しくて。あー、その顔は信用してないなー!』


 きっと無害だからその友達は先生に話したのだろう。誰だって穴の中に向かって喋るよりは生きた人間に話したいものだ。しかし、先生はそんな悪意のない些細な言葉を真に受け、音大二年から音楽セラピーを学び、大学院を経てスクールカウンセラーになった。


『人のためになる仕事ってすごいやりがいがあるよ。まあ大変だけどね、あはは』


 無邪気に笑う先生の顔を見て思わず目を細めたのを覚えている。


『君にはわからないかもだけど、大人は大変なのよー。高校の友達は未だに毎晩LINEしてくるし。寝不足で死にそう。今度お金取ってやろうかしら』


 先生の生き方はたまらなく眩しい。

 僕や永井、みたいな人間には決してできない生き方だ。

 しかし、妬ましいとは思わない。

 たぶん、それはとても幸運なことでその幸運もどんな些細なことで傾くはわからない。例えば、母さんや父さんのように。だから、その純粋無垢な笑いが1秒でも長く続いて欲しいし、心を善意で満たしたままでいてほしいと思う。

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