第3話

「っ!」

「あっ! 行政官、待ってください!」


 今の悲鳴は明らかに異常だった。カンナの制止を聞こえなかったことにして声の聞こえた方へ駆け寄ると、薄暗い路地裏の奥から、ヒタヒタと水で濡らした雑巾を地面に叩きつけるような音が聞こえてきた。


「行政官!」

 追ってきたカンナが合流し、非難がましい目で私を見るが、それどころではない。


「無視してごめんね。私の目だとよく見えないんだけど、奥に何かいるみたいだ。見える?」

「あれは……シャドウ……?」

「どうやら私の予想が当たってしまったようだね」


 よくない予想が当たってしまった。間違いなく、シャドウだ。それも、攻性タイプの。


「今、治安維持部隊を呼びました」

「到着に何分かかる?」

「ここだとおそらく……10分程度かと」

「それじゃダメだ。間に合わない」


 チュウチュウと生気を吸っているシャドウを10分も好きにさせてしまっては、襲われている学生の命が危ない。


「カンナ、私が囮になるから、その間にあの子を助けてあげて。行くよ!」

 地面に落ちていた木の棒をシャドウに投げて、駆け出す。

「あっ! 行政官! くっ! やるしかないのか……!」


 私の存在に気づいたシャドウは、何者をも飲み込んでしまうのではないかと錯覚させる漆黒の巨体をぶりぶりと動かし、その矛先を私へと向けてきた。


 狭い路地裏。必然通り抜けられるスペースは限られている。身体を横に向けて、シャドウとスレスレになりながら身を交わす。

 その間にカンナが襲われていた学生を救出してくれたようだった。


「行政官!」

「ナイスだカンナ!」


 とは言ったものの、私のような武器も持たない人間では逆立ちしたってシャドウには敵わない。つまるところ、非常にピンチだった。


 頼みのカンナは助けた学生を抱えているし、何より位置がまずい。シャドウを挟んで私の反対側にいる。おまけにシャドウを通り抜けてしまった関係で、今私は路地の奥に来てしまっている。この距離でどうこうするのは難しいだろう。


「どうしたものかな……なんて言ってる場合じゃないよねっ!」


 シャドウはこちらの都合などお構いなしだ。グンと伸ばした腕で私の身体を掴もうとしてくる。スライム状の身体を最大に活かした攻撃だった。


「行政官! 表に出てください!」

「カンナ!」

「了解!」


 情けないなんて言ってられない。全力でシャドウに背を向けて駆け出す。


「スライムみたいな身体して速いな……! でも、もうちょっと……!」


 後少しで路地を抜けられそうだった。

 眼前に広がるネオンの輝きが、文字通り今の私には救いの光だ。

 光目掛けてひたすらに真っ直ぐ走る。

 そうして、路地を抜けた時、


「横に飛んでください!」

 後ろから追ってきていたらしいカンナがそう叫ぶ。


 言われるままに横にジャンプすると、パンパンッと乾いた音が2回響いた。ついで、カンナがシャドウに飛び蹴りをかますのが見えた。


 その瞬間、ミニスカートを穿いているカンナの秘められた部分が見えそうで見えなかった。まさに絶対領域といったところだろうか。


「くっ、後少しで見えそうだったのに……!」

「ふぅ……無事なようで何よりです。ところで、何が見えそうだったんですか?」

「パンツ」

「ふざけている場合ですか!」

「私は至って真面目だよ? それより、倒せていないみたいだね」


 眼前では、カンナの飛び蹴りで態勢を崩したシャドウが、まさに今起き上がろうとしていた。スライム特有の軟体感を発揮しているのがなんとも気持ち悪い。


「手持ちの火器ではあのシャドウは倒しきれません。やはり治安維持部隊が来るまで逃げるしかありません」

「…………ラクトゥスしたら?」

「それは……! 倒せるかと……いえ、倒します……!」

「じゃあ、しよう」


「ですが……その、わたしでいいのですか?」

「カンナなら大歓迎だ」

「では、誓いの口付けを……」


 どこをとっても非の打ち所のない美しい顔が接近してくる。

「んっ……」

 瑞々しさすら感じる柔らかな唇が私のそれに優しく触れる。


けまくもかしこつきはなの神」


 祝詞がカンナの口から読み上げられ始めた。瞬間、私達を取り巻く環境は文字通り一変する。


 カンナと私、それ以外の全ては排斥され、世界には私達二人しかいなくなったのだ。


 神聖な儀式に異物シャドウはいらない。


「この身に降りかかりし禍事・罪・穢 彼の者と共に祓う力を賜るようかしこみ恐みももうす」

 カンナの閉じられていた目が開かれる。


「行政官。続きを……」

「うん。私、三納代ユウの名において、このちぎり、確かのものとする」


 そっと私の肩を抱いたカンナが、私に顔を近づける。そして、大きく開いたその口の、隠しきれないほどに発達した八重歯が私の首筋に突き刺さる。

 彼女は今は、私の血を『吸血』しているのだ。


「これは、想像以上に『持って』いかれるね」


 実際吸っている血は雀の涙ほどだろうに、血液以外にも生命力といったものなどがごっそり吸われている感覚だった。


 これこそが、『人間』と『吸血鬼』の間にのみ許された吸血の儀、『ラクトゥス』。私がエピフィルムに呼ばれた理由だ。


「カンナ、これ以上は……カンナ? おーい」


 いつまで経っても私の首元から口を離そうとしないカンナにしびれを切らし、その背をポンポンと叩くと、彼女はようやく離れてくれた。


「すみません……何分初めてだったもので加減が……」

「ううん、大丈夫。それじゃ、やっつけようか」

「はい」


 ラクトゥスした証拠である紅い瞳となったカンナは、鋭く伸びた爪をシャドウに突き立て、横に割いた。


 たったそれだけの動作で、銃弾でも貫通することのなかったシャドウがいとも簡単に消え去ってしまった。


「一件落着、だね」

「落着ではありません! 何度も止めたのに、このような危険な行為は控えてください!」


「ごめんね。けど、これが私がここにいる理由だから、大目に見てほしいかな?」

「まったく……今回は無事だったからよかったものの、私がいない時に今日みたいに勝手に突っ走られては困ります」


「うん、カンナがいる時だけにするね」

「それはそれで困ります!」


 そこで、サイレンの音が聞こえてきた。先程カンナが呼んでいた治安維持部隊が到着したのだろう。


「これ、治安維持部隊の音だよね?」

「そうですね。ちょうどこちらに向かってきてるようです」

「引き継ぎだけやってレドに行こう。初日にしてはハードだったなあ」

 そう言うと、カンナは胡乱な目を向けて、


「誰のせいですか」

「ひゅ~ひゅ~」

「下手な口笛を吹いてもダメですよ」


 駆け寄ってきた治安維持部隊に状況を説明し、引き継ぎを頼んだ私達はその後、レドへと大人しく向かった。


 夜も更けていたため、設備の確認などは後回しにして今日はひとまず眠る運びとなった。


 着いてすぐに仕事が回せるようにと、マリアが手配してくれていたようで、最低限の家具類は設置されていた。おかげで、すぐに床につくことができた。


 夜、私はまた夢を見た。


「レドへの着任、おめでとうございます」

 私達以外、誰もいない電車の中で、名も知れぬ彼女はそう言った。


「カンナちゃんとラクトゥスもされたようですね。良い傾向です」

 光の加減で、詳細な容貌は伺いしれない。伺おうにも、身体の自由が利かないのだ。

 ただ、その声色から察するに、機嫌は良さそうだった。


「タブレットは受け取られましたよね?」

 夢の中の私は、どうやら頷いたようだった。自分の身体だというのに、自分の意思で動かないのがなんとも奇妙な感覚だった。


「そのタブレットの名は、ベツレヘムの星。世界で唯一人、あなただけが使えるものです」

 でも、パスワードがわからないんだ。


「あなたは知っているはずですよ。ただ、忘れているだけです」

 忘れている?


「ヒントは、『楽園』です」

 電車が減速を始めた。目的地に辿り着こうとしているのだろう。


「そろそろお別れですね。次会うときは、きっと私のことも思い出しているはずです」

 ――また明日。


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