第22話 こぼれ落ちた砂…
「あの旅館から連絡来たよ!」
あの日…
朝からリアちゃんは興奮していた。
…あの旅館?
嫌な予感。
「おねえさん支度して行くよ!」
「リアちゃん、私は行きたくない」
「あ、じゃあ俺が行くよ!」
『ミケ』君は好奇心が強い、というよりいつもリアちゃんのそばにいたいんだね。
「おねえさんじゃないとダメよ、あそこは老婆の気配もするからね」
…老婆の霊が苦手のリアちゃん。
3月にスキー場のレストランの次に行った山の上の小さな旅館。
あの時は近くに来たからついでに寄った、という感じだった。
私は1度も老婆の霊は見てないし、そこを経営している夫婦の生きている人間以外の特殊な気配はなかった。
リアちゃんは調べたいことがあるから私には温泉に入るようにと半ば強引に勧めた。
女将さんが「ここの唯一の自慢ですから」と和やかな笑顔で言うので他意はないと思って素直に1人で入浴したけれど…。
「初めての体験だったんだからね、熱い温泉に入って鳥肌立つなんて」
「それ俺もなるよ!熱すぎると一瞬ブワーってなるよねー」
…違うの『ミケ』君、そういう生理現象のことじゃない。
「広い湯船なのに全然リラックス出来なかったの、入っていると肌は赤くなって額にもいつの間にか汗が流れているぐらいに熱いのに、なぜか体感は寒くなるの、震えがしてきて背筋が伸びてソワソワしてもう出たくて我慢出来なくなっちゃって」
「うわぁ〜そんなの不思議で想像出来ないや!余計に入ってみたくなる」
「じゃ、ミケは後でお金払って入ればいいじゃん、これは遊びじゃないからね」
「あー、リアのそういうところだよなぁ」
「あそこには何があるの?」
結局はまたあの場所へと向かっている。
無意識だったかもしれない、赤い屋根のあるスキー場を遠回りした。
「行けばわかる、今回はね」
「もしもわかりそうなら生きている人かどうかの確認させてよね?」
「大丈夫だって、今日は物理現象だからおねえさんは動画係してくれたら助かる、わたしは写真係だからね」
古い小さな旅館だけど玄関は広い。
元々は大きな企業の保養施設だったらしい。
「おはようございまーす」
「おふたりとも、早かったわね!」
女将さんだけが出迎えてくれた。
旦那さんは今夜の献立の買い出しに行っている。
「じゃ、おねえさんはこのままのストロークでゆっくり大浴場の入り口まで歩いて行って撮ってね、なるべく移動する足元を視点にして少し歩く先の方向がわかる角度で!」
「うん、後でチェックしてね、まず適当に行ってみるけど…」
「あー、おねえさんの最初のインパクトを知りたいから丁寧にゆっくりだよ」
「…了解です」
指示通りに私はケータイを慎重に持ってゆっくりと前に入った大浴場まで進む。
少し離れてリアちゃんと女将さんが私の後ろを歩く。
右側にフロント、左側がロビー、私はその間の真ん中を真っ直ぐ奥へ進む。
突き当たる前に『大浴場はこちらです』という案内板が見える。
案内板の手前を右に方向転換して数メートル進んだ左側に紺色の大きな暖簾が2つ並んでいて、手前が女湯で奥が男湯。
リアちゃんは何も知らない私のリアクションを狙っている。
だからどんな目に遭っても反応しない、と警戒して息遣いも潜めて歩いて行った。
…なのに、
どうせお風呂辺りで何かが待っていると予想していても、私は…
「なにこれ」
声を出していた。
大浴場の入り口にはスリッパがバラけて集まっていた。
マナーの悪い団体客が入り口手前で先に履き物を脱ぎ散らかして大浴場で入浴中なのだろうか?
脱衣所入り口のガラス戸の向こう側はシンとしている。
戸を開けたら中に入らなくても浴室内の湯の音が響くので人の気配はわかる。
脱衣所では服を入れたカゴの数を見れば何人いるのかもわかる。
でも、そのガラス戸に手を伸ばせない。
スリッパの塊りにどうしても違和感があるから。
「はい、おねえさんオッケーでーす」
「え?」
「なるほど〜これが例の現象ですね!」
リアちゃんがリスのように動き回りいろんな角度からスリッパの写真を撮っている。
「女将さん今日の予約は何人ですか?」
「15人よ」
「…てことは〜30個分の塊りですか」
「ヨシ、おねえさんも手伝って!」
「何を?」
スリッパの写真を撮るのをやめて今度は素早くスリッパを持って「お片付けー」と言うので、私も慌ててスリッパを回収する。
バラバラに集めて抱えようとするリアちゃんの分も横取りして重ねてタワースリッパにした。
「さすが!おねえさん手慣れてる」
「ごめんなさいね、そんなことをさせちゃって」
女将さんの指示で玄関前にスリッパを綺麗に並べた。
来客の受け入れ時間は午後3時からだけどいつも早めに並べておくらしい。
今この旅館には客はいないという。
「女将さん、お忙しい中ありがとうございました」
「いえ…何の役に立つのかわからないですが」
女将さんは肩をすくめて笑って次の心配をする。
「お客様方の到着は夕方なの、その間にスリッパがまた移動してたら知らせるわね」
最後にリアちゃんは自分達で綺麗に並べたスリッパの写真を撮った。
「これが最初の状態ですね?」
「ええ、そうよ、並べるのを手伝ってくれてありがとう」
「こちらこそ、連絡ありがとうございました」
リアちゃんは本当に、いつになく上機嫌だった。
テンション高くて実際に目で見える心霊現象を調べることに夢中になっていた。
一緒にいるようになってわかったのはパワフルな現象ほど興味を強くした。
でもそういう時って、警戒心がゆるむ。
いつもよりリアちゃんはとても油断していたと思う。
「玄関は朝から開放されたままで、そこに突発的に強風が吹いて並べてあるスリッパが全部飛ばされたと仮定しても無理があるよね、廊下曲がって館内の奥まで飛んでいくはずないよ」
「並べてあるスリッパ全部って…あの場所であの状態から1つでも飛ばないと思う」
旅館のスリッパは厚底で質の良いスリッパだった。
私達は現実的な可能性を次々と潰していく。
盲目に信じて飛びつかないのは今まで調べてきた本当の現象まで怪しくさせないように、積み重ねたものを守るためでもあった。
「あの女将さんはよくある現象だからってすっかり慣れてて全然怖がらないの、忙しい時なんて腹が立つみたいで、そういう意味で困ってるみたいだよ、当事者なんて案外そんな感じなんだろうね〜驚いてなんていられないよ」
物が動く、というのはポルターガイスト現象という言葉があるくらいよくあることかもしれない。
あの旅館では予約客の出迎えに毎回スリッパを予め並べて置いている。
それが時々並べた全部がいつのまにか大浴場の前に移動してしまう。
誰かのイタズラなら経営者の夫婦どちらかだろう。
でも、2人しかいないので予約客が来るという日にそんなことをする暇も余裕もないし、そんなことを準備で忙しい最中にどちらかがイタズラでやれば、間違いなくもう片方が怒って夫婦喧嘩に発展するかもしれない。
もちろん暴風が吹き込んだとしても無理がある。
「あのスリッパ移動がもしも霊現象じゃなくて他の何か物理的な原因があるとして、おねえさんがお風呂で感じた異変も気のせいだったなら、わたし達のただの思い込みってなるけどさ、でもあの旅館にも何かあると思っている」
「玄関と風呂場だけなら霊道って可能性があるね、毎回同じ現象みたいだから」
旅館は元は某企業の古い保養施設で1度人手に渡り個人の別荘にもなっていた。
それを今の夫婦が買い取り改築して旅館の経営を始めてから更に20年以上経っていた。
建物の古い風情を見ると携わった人の歴史も調べてみたら何かありそうだ。
それを囲む霊山と近くのスキー場も関連しているかもしれない。
だけど今まで客側から霊現象などの苦情は1度もないという。
スリッパの移動は当初からの現象らしいが、それに何か意味があるわけもなく。
だから最初は夫婦のどちらかのイタズラだと思っていた。
お互いにそうではないと薄々感じ始めた頃には、その現象に慣れてしまったという。
頻繁ではなかったし、今までそれで何か良からぬことが起きたこともないので特に気にせず放置したままだという。
移動したスリッパは毎回淡々と元に戻す、それで終わってしまうことだった。
今では『見えない常連団体客』が温泉に浸かりに来たと思うことにしているようだ。
幸い、スリッパの移動は旅館にまだ誰も来ない時に起きることなので、そういう時はしばらく風呂場には入らないようにしているという。
戻ってからも話は尽きない。
ここでは普通の会話と同じテンションで霊現象を検証する。
「どうしてリアちゃんはスリッパのことを知ったの?」
「あの旅館は日帰りでもお風呂に入ることが出来るの、ママのお客さんが息子連れて行ったら脱衣所で倒れたって話を聞いて…後で詳しく聞いてみたら男湯の脱衣所の鏡から老婆が飛び出してきて目が合った息子が直立不動でバターンと後ろに倒れて泡を吹いて気絶したらしい、ほんの一瞬だったみたいだけど」
「泡?」と驚く『ミケ』君。
「気絶?」と驚く私。
「石鹸食べたとか?」
「お風呂に浸かりすぎてのぼせたとか?」
私達の戯言はリアちゃんのひと言で全否定された。
「お風呂に入る前だよ、それよりもっと驚くワードがあったはずですが?」
「…だからね、それを聞いて下見のつもりで行ってみたら女将さんの方から声をかけてくれたんだけど、人が倒れたとか営業妨害みたいなこと言えないから趣きある旅館ですね!って言って話をしてたらスリッパの現象を教えてくれて、それでもっと興味持ったんだけど3D老婆が怖くて行けなかった」
…3D老婆。
「わたし、おねえさんが帰って来るのを本当に待ってたんだよ」
私に思い切りの笑顔を向ける時のリアちゃんは幼い頃のままの表情に戻る。
…今日は長く会話してても相談室で全然ラップ音がしないと思っていた。
旅館から戻ってすぐのことだった。
プチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチ
プチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチ…
プチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチ
プチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチ
プチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチ
プチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチ
プチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチ…
「ん?…雨?」
『ミケ』君がドアを開けて外を見るけど、朝からずっと晴れた空だ。
「何?この音…さざ波みたい…」リアちゃんが眉をひそめる。
…初めて聞く。
まるで、こぼれ落ちた砂…
砂時計の砂よりも細かいつぶてが壁板を流れるように反響させている…
「ラップ音?」
リアちゃんが呟いた。
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