第15話 200万

リアちゃん達との夕食の前に今後の仕事の予定を調整するために会社に来た。

「辞めたかと思ったよ」

部長の嫌味も久しぶり。

「キミさ、また前みたいに長期やる気はないかい?」

「ないです」

この派遣会社でお世話になった最初の数年は同じ系列のリゾートホテルで働きながら全国を移動していた。

帰る家があるのに住み込み専属を何年も長く続けられた女性は珍しいと当時は課長だった部長に言われたのを思い出した。

この部長には何を言われても全然感情が動かないのは当初からだったけど、言われたことはいくつか覚えている。


「コロナ禍ショック後で今度は円安でしょ、その流れのインバウンドで極端に需要が増えて人手が足りないんだよな〜」

ほぼ愚痴が言いたいだけなんだろうか?

私がもう長期をやらないことは言わなくてもとっくにわかっているはずだから全然意図はないようだった。

「だったら部長、新人募集かけたらいいのでは?」

「それがね、来るには来るんだけど働かないで要望ばっか言うから疲れるよ」

「あまり搾取しないでもっとお金出したらどうですか」

「あー、聞こえない聞こえない」

わかりやすい人。


私には、もうガムシャラに働く理由も家に帰れない理由もなくなった。

人生の目標額200万貯まったし、叔母の発作が落ち着いて私は逃げずに済んだから。

この2つはとても重要で、とても矛盾している。

200万は自分の安楽死のための最低額資金。

叔母から逃げていたのは叔母がおかしくなって私に殺意を向けたから。


いつからだろう?お腹が空いたり眠くなったりするのと同じ感覚で死んだら楽になるだろうな〜って自然に思うようになっていた。

生きていくことが特別に辛いという感覚ではなく生きているのをいつやめても良いという気持ちで毎日を繰り返していた。

そんな前向きではない心で生きていると罪悪に対するハードルが低くなるようだ。

私は異常性欲者を見ると簡単に『死ねばいいのに』と呪うようになっていた。


人を殺して良いなら、私はためらわずに実行するだろう。

そして、そんな人間に生き続ける資格はないと思う。


安楽死について調べた時、自殺幇助も含まれると知って初めて私は希望を持った。

それはとても皮肉なことだけど、目標額200万と決めて貯め始めた時から初めて心を解放したような自由な気持ちになって義務感だけで働いていた仕事がとても大切だと思えるようになった。

叔母のためにリアちゃんを受け取り人にした保険にも加入した。


目標額を達成すると意外にもそれが御守りになって生きる力となるのを感じた。

200万はお金の価値だけではない、精神的な面でとても大きな意味を持った。

貯めて現実味が出て初めて知ったことだけど、これでいつでも死ねると思うと生きていくためにすり減らし切れかかった糸が弱々しくもキラキラと陽射しに揺れて現世に心地良くとどまっていられる。


リアちゃんが私と深く信頼し合うキッカケとなったのはリアちゃんのママの噂話だから、それに気づいた時にママに感謝したという言葉を借りれば私はお金を貯めるキッカケになった叔母に感謝しなきゃいけない。

キッカケって何がどう転ぶかなんて当事者でさえ後々までわからない。

…大好きな叔母が年頃になっていく私に女性としてハッキリとした敵意を持つようになってしまったことにも、戸惑う暇さえなかった。 

そうでなくても叔母がいつか私より先に死んだら呪うと言われているのに。


最初は祖父が亡くなったことで叔母は情緒不安定なのか?と思っていた。

私にとっての祖父は突然亡くなってしまったことで驚きはあったけれど、父親より少しはマシと思うだけで性格は父親ととても似ていて身勝手だったので初めて家族の死を体験したというのに身内という立場で悲しむことは出来なかった。


その代わりに1人の人間として『死』という衝撃を間近に感じ、とても意識した。

有無なく突然この世との縁が完全に断ち切られる現象を目の当たりにして私は羨ましいという感情が湧き上がっているのを止められなかった。 

自分の中で安堵を求めていた答えが、この穢れた肉体を終わらせることなのだろう。


人間の死体に安らぎを感じるなんて妙だけど私には川で犬の小さな足を見た時の方が遥かにショックで行き場のない悲しみと怒りをいつまでも抱えていた。

無理矢理に終わらせた命はどうすれば救われるのだろうか。

  

知らない犬の死にはショックを受けたのに祖父の死には無反応だった私は今もしも両親が死んでも悲しさを感じられるのか自信がない。

でも祖父の亡き骸の足を見てクスクス笑っていた叔母には感覚の違いを思い知らされた。


それからの叔母は私が学校から帰るとストーカーのように近くに居て話すでもなく正座して私の動向に視線を走らせるのが日常的になった。

その様子は叔母が1日中見ていたテレビが私にすり替わったように見えた。


対象物が動かないテレビから動く人間の私になると叔母の動きも活発になり目立つ。

それでも私は叔母を意識しないで家でいつもの通りに生活しなければいけなかった。

本当は心底緊張していたけれど、叔母を意識した素振りを見せたら叔母はすぐ気がついてしまい、私に馬鹿にされていると被害妄想に似たものを感じてしまうので普通にしているフリをする努力をした。

そういう平常心を装うのは子供の頃から慣れていた。


自分の部屋で本を読み始めると、それまで気配を消して背後で監視してた叔母は急に足音を立てて母親のいるところに走って行って大声で言いつけているのが聞こえてきた。

「お義姉さん!リナちゃんが勉強しているフリをして本を読んでサボっているの、叱った方が良いと思うのよ」

母親は祖父が亡くなり少し楽になったのか私をたまに気遣うようになっていた。

「本ぐらい読んでもいいじゃない」

「あまり甘やかすのは良くないわよ!」

様子がおかしくない時の叔母でも私の日常をだんだんと批判するようになっていた。


高校から私は土日と休日はずっとバイトをしていた。

家にいて叔母に見張られるのが苦痛なのもあったけど…

高校は中学とは違って通学費や学費がかかるので親が今まで育てた恩を返せと言い始めたからだ。

私は親に大事にはされなかったけど身体は丈夫で大した怪我なく育った。

そして、健康だった。

行楽が元々存在しない環境の家庭なので休みの日は働く日という感覚になっていた。


子供の頃から未来に向けての夢も希望も何もなかったがこだわりは持っていた。

働きたくないわけではなく、とにかく酒や男が絡む仕事をするのはやったことはなくても本能で嫌悪していた。

それだけが働くことに関して唯一の譲れない主張だった。

色街を見て育ったせいか、私は過敏だったかもしれない。

外に出たら、さまざまな仕事があるのが救いだった。


夏休みの終わり

山のホテルでの泊まり込みのバイトから帰って来た朝。

家の中全体が殺虫剤の匂いで充満していた。

撒かれたばかりなのか、空気が澱んでいた。

鼻を塞ぎながら窓を開けて回って、1番匂いが濃いと感じたリビングを見る。

誰もいない。

リビングのテーブルに普段から私が使っているグラスが1つだけ置いてあった。

いつのまにか気配なく背後に来ていた叔母が私の背中に話しかけてきた。

「リアちゃん暑かったでしょ、喉が渇いていると思ってお水を用意してあるから飲みなさいね」


膜が張ってテカテカしたテーブルに同じくテカテカにコーティングされたグラスには水のような少量の液体が底に少し入っていて透明に歪んだ模様がギラギラしている。

床には殺虫剤が2本転がっていた。

「さ、お飲みなさい」

叔母は私の背後に立ったまま動かずにいるようだった。

私は声の気配だけの叔母に言った。

「いい、ノド渇いてない」


殺虫剤の匂いが濃いので私は息するのを堪え、その場から離れた。

沈殿したスプレーの成分で床が少し滑った。

少し吸ってしまったのか、その場から離れようとした時こめかみが疼きふらつきそうになった。

緊張してきて口を閉じて唾を飲み込もうとしたら喉に若干の苦味があるのを感じた。

殺虫剤の効き目なのだろうか?

小さな虫の気持ちになる。

振り返った時、叔母はもういなかった。


叔母と夏休み中ずっと会ってなかったせいか今までとは別格な不気味な雰囲気を感じて逃げるように外に出ると母親が帰宅する午後までリアちゃんと会って過ごした。

頭の疼きはすぐ消えたが喉の苦味はしばらく取れなかった。


昼に仕事から戻った母親がテーブルを片付けたのか、私が帰ると独り言でブツブツ何か文句を言っていたので素通りした。

叔母のそういう奇行は初めて見たけど特別なことだとは思わなかった。

少し危機感を持ってもそれを母親に話す煩わしさを先に考えてしまい叔母との異様なやりとりのことは黙っていた。

 

いつも家にいて叔母の様子がおかしい時は外出していた。

…いや、叔母が居てもいなくても何も変わりはない。

習慣化していたふれあいの無い家族、その日もわざわざ母親に伝える気はなかった。

それが私と親の日常だった。


母親との会話は母親の一方的な罵詈雑言を指す。

父親とは口も聞かず存在価値もお互い無かった。

仲が良い悪いも関係なく家族としての不成立の原因や理由すらなかった。

好きではない学校よりも自分の家は元々居心地良い場所ではなかった。

叔母が出戻りしても気が触れてても私達の親子関係に変化はない。


叔母は普段は静かで食事の支度や母親のする家事を黙って手伝っているので急におかしなことをしても誰も注意しなかった…というか注意出来なかった。

叔母には触れないというのがいつのまにか家での決まり事になっていた。

なので殺虫剤のあの異常行動も一過性のことだと思っていて忘れようとしていた。


叔母は暑さと殺虫剤を吸い過ぎたせいなのか、遅い昼寝をしていて母親は1人で夕食の支度をしながら家に戻ったばかりの私を呼んだ。

私は子供の頃からの癖で手伝いをしなければと慌てた。

でも違った。

母親は私の顔を見ずに早口で言った。

「アンタは卒業したらしばらくこの家から出た方がいいんじゃない?」


「とりあえず、包丁やハサミは寝室に隠したから今夜は大丈夫だけどね」

なぜか母親がたまに見せる優しさを発動していた。

でもそれはバイト料を差し出したからだと思った。

だけど、母親の言い方には思っていたより非常事態な感じがした。


「寝る前に部屋には鍵掛ける、叔母さんに背後に回られたら首に注意するのよ」

1回頭の中を整理しなければ理解不能な危険で具体的な指図だった。

自分の家の中でそこまでするような注意ではないと思うけれど…


なぜそんなことを?と聞くと、母親が仕事から戻ると叔母が言ったそうだ。

「義姉さん、リナちゃんは目障りだから包丁を貸してください」

母親は人を刺せるような包丁はないと答えた。

「そう、ならいいわ、そうだわ首を絞めたら良いかしら」

もしかしたら本気で言ってる?と母親は思ったようだ。

「そんなことは考えないでね、リナはとてもルリコちゃんが好きなのよ」

 

そのやりとりを聞いても私には母親が大袈裟に思えた。

「叔母さんは今までも変な時があったけど…」

暴力を振るったことは1度もない、と言おうとして話している相手がかつてたくさん私に暴力を振るった母親なので途中で口を閉じた。

「そんな呑気にしていて、どうなるかわからないよ?いつもと違って敬語じゃなかったんだからね!」


…ハッとした。

叔母はおかしくなっている時、普段より少し改まった話し方をするけれど、完全に変な時は敬語だった。

思い出したのは、珍しく散歩して帰って来た時のこと。

家に入ると今履いていたサンダルを胸に抱えていた。

「叔母さんサンダル玄関に置いたら?」

「結構です」

「どうして持ったままでいるの?」

「誰かが来て盗むからです」


結局サンダル抱いたままご飯を食べていた叔母。

いつサンダルを手離したのか覚えていない。

でも始終敬語で話しづらかったのを思い出した。

叔母はたまにしか敬語にならない。

それが気にならなかったのは敬語の時の言動は変だけど大抵無害だったからだ。

『包丁を貸してください』は敬語だとしても『首を絞めたらいいかしら』は普段の叔母の話し方ということになる。

明らかにおかしいが敬語ではないので予想不可能な状態ということだろうか。


母親は叔母の暴走が予測出来ないし、いざとなっても止められる自信はないから自衛しなさいと突き放すアドバイスをくれた。

もしも叔母が突然凶暴になって何か持って暴れたら警察を呼ぶしかなく、その際呼んで来るまでの間は逃げ回るように、との不穏な提案。


そこには当然父親の介在を含まない。

仕事か何かで家にいないから、という理由ではなく…

これは長年の経験から私と母親の共通の認識になっている。

想定の中ですら、最初から父親は頼れる存在ではなかった。

血が繋がっているのに、ずっと同じ家で生活しているはずなのに、私には私の父親という前に、その人間性を何一つ理解することが出来ずにいる。


「あの子はアンタが若くてチャラチャラしてるから嫉妬してるのよ」

そして、こんな時でも母親は叔母がそんな考え方をするには私にも責任があるような、棘のある言い方をした。

私がずっと遊ばず飾らずバイトだけしているのを知っていると思っていた。

それでもチャラチャラしていると言っているのだろうか?

家に居ないでリアちゃんと会っていることをチャラチャラというなら仕方ないけど。


どんな事態が起きても私と両親にはもう絆は生まれないかもしれない。

でもそれは最初からわかっていたことだから、落胆してはいけない。

こういう時こそ〝前向き〟にならなきゃいけないといつも思っていた。

私の〝前向き〟は普通とは違うけど生きていくには絶対に必要なファクター。

でもその前に、私のナニカのスイッチをオフった。


母親の提言は最初は戸惑ったけど後々になって私に自由を与えてくれた。

それにしても叔母は病んでいるとはいえ本当に20歳のままの若さで止まっていると真剣に思っていたのだろうか?

リアルな年頃の人間がそばにいては叔母の脳が認識出来ずバグるのだろうか?

私は卒業を待ってすぐに家を出て行く算段をした。


どこへ行っても仕送りを忘れるなというのが父親からの餞別の言葉。

内容はともかく父親が私に話しかけるなんて今までの記憶にはなかったので驚いた。

母親は叔母が私に対して敵意を持っているのに気がついてからは勝手に私を同じ敵を持つ同士として味方扱いで盛んに叔母の悪口を言ってきた。

これも親との数少ないふれあいの会話として両方ともカウントしようと思う。


だけど家を出るまで母親が叔母の悪口を私に言う時いつも違うことを考えていた。

頭の中では、幼い自分とかつて元気でまともだった結婚前の叔母とのやりとりを思い出していた。


「どうして?リナちゃん、だってお母さん優しい人よ?」

首を振る私。

「世の中にはお母さんがいない人もいるのよ?わたしはねリナちゃんって幸せで羨ましいといつも思っているのよ」

「お母さん、優しくないよ」

「優しいわよ!だって欲しいものは何でも買ってくれたもの、お父さんには内緒だって言ってとても欲しかったブレスレットを買ってもらって、それからはずっとわたしの大切な宝物なのよ、ほら〜」


その時見せてくれたブレスレットは病んで戻った今も叔母の手首で輝いているのに母親は覚えてないのか、気づいてない。

叔母は母親を大好きな人だといつも言っていた…多分今もそうだと思う。

それがなんだかとても辛かった。


叔母もやはり自分勝手な祖父と父親の血を濃く引き継いでいるせいなのか、私が両親に蔑ろにされてても全く気にしてなかった。

気がつかないのではない、最初からそれが当たり前の感じで平然としていたのだ。

叔母は昔から自分がみんなから大切にされていれば、それで良かったようだ。


私のことは叔母自身が可愛がっているのだからそれで充分と思っていたのだろう。

叔母はそういう人だとわかっても私には家族の中でいつまでも1番好きな人。

私が生まれた時からずっと可愛がってくれたらしい。

家の中でいつも私と普通に話をしてくれた。

料理を教えてくれた。

上京後、菓子メーカーに就職して帰省する度にくれる美味しい菓子が楽しみだった。


叔母は高校の時にまだ幼い私を学校祭に連れて行ってマスコットのようにたくさんの友達と可愛いがってくれて一緒に撮った写真があって私自身は全く覚えてないけど、それはとても大切な私の宝物の1つ。

叔母がブレスレットを大事にしているのと同じくらい、私はその古い写真に対して嬉しい気持ちの価値を持ち続けている。


私に殺意を抱いた時期は私ではなく本物の若さが叔母を狂わせていたと思う。

母親のアドバイスを受けた時は驚きとショックがあったけど、すぐに思い直した。

そして200万貯めた時に私には他にもやりたいことがあったので、それを達成してそのまま消えてもいいと考えた。


でもここに戻ってきた。

達成は出来なかった。

叔母が落ち着くと、嫌な両親がいる家に戻ってきた。

そうする理由は1つだけ

リアちゃんがここにいて、リアちゃんのそばにいたいから。  


200万は、いつでも死ねるという私の心が生きていくための希望の種。

穢れた記憶と穢れた血筋を絶やすことが私の最後の望みになる。

200万はこの世で1番信頼しているリアちゃんに理由と共に預けた。

家に置いておくと親のどちらかに搾取されるのが目に見えている。

…こんな風に思う自分は叔母より遥かにおかしいかもしれない。










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