第9話 なつかしいなぁ

無口になる。

それは痛みを知るから。

言葉は魂を削る凶器だよ?


「あなたを産んだ時は逆子で仮死状態だったから産声はなかったのよ」

ママはわたしのことを語る時サロン化した家のリビングで多数の他人の前で言う。

あれで悪気はないから定期便だと思うことにしている。


「ママは仕事と子育てを1人でやって苦労したんだね、リアちゃんは感謝しなきゃ」

ママに集まる慰めの言葉。

ため息が出るけどママの次のお決まり台詞が待っているから、わたしは聞き飽きた子育て武勇伝に耐えるのみだよ。

「産声はなかった代わりに毎日ずっと泣き続ける手間のかかる赤ちゃんだったのよ」

(ママ、きっとそれは生まれてしまったことに悲しみ嘆いていたと思うの)


「夜は特に酷くてね、カウンターの上ではシェーカー振ってて、その下ではゆりかごを足で揺らしてあやしてて、ちょっとでも止めるとすぐグズって大変だったわ」

(はいはい、手間のかかる子でどうもすみませんでした)


「でもお客さん達が協力してくれて、忙しい時はカウンターの上に寝かせておくと誰かが子守りしてミルクあげたりオムツの取り替えまでしてくれて、いつも助けてもらえたから嬉しかったわ」

(その話は聞く人が変わると必ずしているよね、ママに人望があってたくさんの客に親切にしてもらってたこと、すごく嬉しかったみたいね)


ママはそんな助け合いに感謝して、それからは終電に間に合わなかったり酔いすぎて帰れない客を気軽に泊めるようになった。

きっかけはわたしの世話をしてくれたお礼だから仕方ないことだけど…

あの頃は来てくれる客全員がママのファミリーみたいだったね。


そんな馴れ合いの環境が続くと、カウンターの端っこで時々まだ2歳にもならないわたしにアルコール飲料を面白がって飲ませたりする人がいるから、ママはこのままでは良くないと気がついて夜は客を泊めていた仏間にわたしを先に寝かせて店内で世話をするのをやめたんだよね。

母親としても経営者としても深夜営業の飲み屋に赤ちゃんをマスコットに置くなんて、そういう非常識でゆるいことしちゃいけないってことにやっとその時に気づいたみたい。

仕方ないよね、ママも母親役は初心者だったから。


わたしが寝かされていた仏間は母屋を改築したbarと隣り合わせで、そこならママの話し声や店内に流れている聴き慣れたジャズが壁越しに響くから幼いわたしはすぐに慣れて、もう泣くこともなく安心して眠っていたんだって。


ママのおしゃべりのおかげだよ。

記憶なのか?すり込みなのか?

わたしは生まれた時からの自分と、その環境をとても細かく覚えている。

寝ていた仏間は天井が高くて窓がないので昼でも真っ暗だったこととか…


本当に覚えているのは3歳前後くらいからの記憶。

ママは気楽に家に誰彼構わず泊めていて、わたしがそこで寝かされるようになっても変わらずにその横に客用の布団を敷いた。

夜1人で寝ていたのに朝になると誰かが隣に寝ているっていう不思議な感覚。

驚きも戸惑いもなく、誰かの寝息に釣られてまた寝てしまう自分。

仏間は10畳くらいあって家の中では1番広い部屋だから、時には周りに数人が寝ていたこともあった。

ママを頼って駆け落ちしてきた年配の芸者と若い板前見習いがわたしを挟んで寝ていた時は驚いてママのベッドに逃げ込んで、それも後の笑い話のオカズにされた。


わたしは寝相が悪かったみたいで並んだ隣りの客用の布団にもぐり込みオネショの置き土産をして朝までには自分の布団に戻るという器用な技があったんだって。

それがママと常連客達の会話を盛り上げる定番の流れで、笑いどころでもあり被害者は何人もいて、それに関しては眠っているわたしに全然覚えがなくても語り継がれていたおかげで受け入れるしかないよね。

そのことは無理矢理加えられたわたしの不名誉な記憶。


転機は突然のことだったよ。

ママは客を泊めるのをやめて、その代わりに明け方の5時まで営業時間を延ばした。


きっと、アレがきっかけだったと思う。

子供って1度深く寝たら、周りが騒がしくても全然起きないよね。

でも、夜中に怖い夢を見て息苦しくなって目が覚めた。

巨大な蛇に体を締め付けられてる夢だったのに目が覚めても体がギュッと包まれて動けなかった。

目の前には女の人のはだけた胸があって、わたしはそこに顔を押し当てられていた。

苦しくて大きく息を吸うと、ママと同じ化粧の香りが肺を染めるように充満した。

キツくて何がどうなっているのかわからないまま溺れて暴れるように手足をメチャクチャ動かして縛られてる状態を崩した。


「え?」

女の人が目を覚ましたらしく、暗い部屋の中わたしの顔を両手で挟んでしみじみと見て驚いていた。

若くて綺麗な女の人がわたしを見たまましばらく動かないし喋らない。

「今、蛇に巻かれた夢見て目が覚めたの」

沈黙に耐えられず顔を挟まれたまま話すと、ようやく両手の力を抜いて笑った。

「リアちゃんだったのね、ごめんね」

なんで謝っているのか、わからなかった。

化粧の香りに混ざって濃いお酒の匂いがした。

女の人はまだ相当に酔っているみたいで、わたしを抱いたまますぐまた眠った。


女の人は寝息もアルコールを含んでいるのでわたしも胸が気持ち悪くなってきて、この状態から離れたかった。

でもわたしの体はすぐ女の人の両手で包まれて、足も絡めてきて抱き枕にされてた。

布団の中で濃厚な香水の香りが動くたびにまとわりつく。

きっと、わたしはその時、動いてはいけなかったんだ。


女の人は唸るような苦しそうな声を出し始めた。

あぁ、あぁ、と声を出す度に喉を伸ばして顎を震わせ、わたしをグイグイと両手で引き寄せて身体をぶつけるのでわたしは逆に自分の両手で女の人を押して離れようとした。


ハッとするように女の人はまた目を開けた。

猫のように大きな薄茶色の瞳が潤んでわたしをまた凝視する。

「リアちゃんじゃないの、あんた何歳だっけ?」

「もうじき6歳」

「そう、賢いのね」

そう言うとまたすぐ寝息を立てた。


会話が噛み合わない。

でも酔っ払いはそういうものと幼いながらも熟知していたので気にしなかった。

だけど…

「ダンナさん」

女の人が今度はうわ言みたいに囁き始めた。

「ダンナさん、ダンナさん…」

シクシク泣きながら、しがみついてくる。

一緒に寝ているから、離れても簡単にまた引き寄せられて抱きしめられた。

眠いから無抵抗になり我慢して再び寝ようとすると瞼に圧力を感じて痛い。

女の人がわたしの瞼に唇を押し当てているのがわかった。


もうだめだ。

どのくらい経ったのだろう?

わたしは女の人の細い鎖骨をコンコン叩いて起こした。

「目が痛いよ」

今度はちゃんと目を覚ました。

鎖骨って便利だと思った。

わたしが目が痛いと言ったので「ごめんね」と言いながら撫でて、その次に自らの目に触れて驚いていた。

「あ、泣いてたみたい」

「うん、ダンナさんって言って泣いてたよ」

「え?」

女の人は『ダンナさん』に心当たりがあったみたい。

「ごめんね、酔うと本物の淫乱みたいね」


翌朝起きると女の人はいつの間に帰ったのか、もういなかった。

その人は新人の芸者さんでまだ20歳になったばかりで酔いすぎて心配だから近くに住んでいるけど泊めたとママが言ってた。

「インランって何?」

わたしは思い出してママに聞いた。


聞いたことは覚えているけど、その時ママが何て答えたのか覚えていない。

ただ、それからしばらくして自分の部屋が出来るまでの間ママの寝室に2段ベッドが入れられてその上で寝ていた。

そこでも微かに店内の音楽は伝わって聴こえてきた。

だけど人の話し声はもう聞こえない。

そこでは名残りのように変なリズムのベースのブンボン響く低音が耳に入ってきた。

わたしの霊聴現象はこの環境の後遺症かもしれない。


幼少期は強烈で記憶に残ることばかり。

女の人との記憶は、絶対誰にも言えないあの『事』に比べると些細なものだったよ。

あの『事』は、おねえさんにも話すことはないと思っている…

…そういえば、女の人の方は名前は覚えてないけどオレンジ色の鮮やかな着物が似合う人だった。

その後も何度か店や家の方にも気軽に遊びに来ていたんだよね。

だからわたしを抱きしめたことは泥酔してて覚えていないと思うの。

でもいつのまにか、この街からいなくなった。 

行き先がわからない人って、大体がお金か異性関係のトラブルだね。


中学生になってからもサロン化したいつものリビングは変わらなかった。

わたしに何が起きていたって大人達は平常運転で相変わらず。

例によって、わたしの思い出話をしているところへ入っていってしまった時のこと。

人の出入りが激しい我が家だけど、その時は覚えのない見知らぬ客がいた。

アロハシャツを着て鼻髭がある背の高い中年チンピラ風の男が3人の外国人女性を連れて来ていた。

この場末の小さな温泉街にはよくいるタイプ。


「おう、なつかしいなぁ大きくなって!俺のこと覚えているか?よくオムツを取り替えてやったんだけどな」

笑いながら話すその男の表情を一瞬だけ見てすぐ目を逸らした。

返事はしなかった。

わたしはそのままリビングを出た。


今まで苦労して働きながらわたしを育ててくれたママ。

店の常連客が交代で子守りをしてくれたという優しいエピソード。

イメージしていたものが一転する瞬間だった。

夜の薄暗い半地下の店で…

カウンターの隅で酔った客が赤子の股を開いている。

『赤ん坊のくせに一丁前のカタチだな!』

その男の卑猥な笑い声に一緒になって笑うのはママ?

一瞬、脳裏に浮かんだこの映像は…何?


ポツン、快晴の空から、濁った雫が手のひらに堕ちた。


ママのサロン。

1つだけ、良かったことがある。

それは噂話で知ったおねえさんのこと。

「酷い暴力だって?」

「可哀想に、まだ小学生だろ」

「家事労働させているって聞いたよ」

「母親に虐待されてるって父親がそれを言いふらして笑っているんじゃ誰も子供を助けられないってことか」


「学校とか気がつかないのか?」

「体を蹴っているから顔は無事なんだろう」

「それじゃ、誰もわからないな」

「誰か止めてやれよ」

「よそのことに口出せるのか?」

 

それがおねえさんのことだと、しばらくはわからなかった。

ママが小声で言ったおかげ。

「ねぇ、その子は時々うちのリアと遊んでくれる子なのよ、心配だわ」


わたしね、

おねえさんを鈴虫坂で見た時に思ったの。

なんて強いんだろうって。

もしかして泣いているんじゃないかな、と思っていた。

俯いてため息ついているんじゃないかな、と想像してた。


でもおねえさんは普通の感じで静かに本を読んでいたんだよ。

それ見て思ったの、わたしもおねえさんみたいになりたいって。

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