私が物を投げたら避けて。殴ったら交わして。

白井なみ

 

 周囲の人たちに、自分はどんな風に見えているんだろう。

 職場の上司や同僚、学生時代の友人、いつも行くスーパーの店員さん。多分だけど、ほとんどの人の目に私は、『真面目そうな女性』として映るのだろう。

 実際に私は真面目だ。自分で言うとおかしな気もするけれど。

 周りの人たちが頑張っている中で自分だけ楽をすることが耐え難く、少し熱があるくらいなら学校にも仕事にも行った。

 無駄遣い──ではないけれど、万単位のお金が口座から引かれていると不安になるので、ブランド物も苦手だし、課金したくないからゲームも全てやめた。

 生きてて楽しい?

 通勤ラッシュの駅構内や雑踏の中を歩いていると、何処からともなくそんな声が聞こえてくるような気がする。

 楽しいと思う時もあるけれど、楽しくないことの方が多いよ。

 ありきたりな答えだ、と我ながら思う。

 

 私は確かに真面目な性格だが、見た目ほど大人しくもなければ、周囲の人たちが思っているほど『良い人』でもない。

 昔から気が短い。

 形だけでも社会人になった今、怒りの感情を声に出してぶち撒けるような、子供みたいなことはしないけれど、内心殺してやりたいと思ったことはこれまでに幾度となくあった。

 その度に私は自分の感情を抑え付け、早く忘れてしまおうと別のことを考えようとする。今日の晩ご飯とか、明日の朝ご飯とか、そんなどうでもいいようなこと。

 だけど直ぐに怒りはぶり返して、『あの時やっぱり背後から掴み掛かって、背負っているリュックでも投げつけて、水筒のような固い物で頭蓋を叩き割ってやればよかった』って後悔する。そんな余裕のない自分を、情けなく思う。


 好きな人を傷付けてしまうのは、ただの八つ当たりだ。いつもニコニコ笑いながら、私を甘やかしてくれる優しい彼のことが好きだけれど、どうしようもなくムカついてしまうのだ。

 赤黒い感情が体内を埋め尽くして、ぐちゃぐちゃに煮え滾って、乏しい私の語彙ではこの気持ちをとても表せそうにないから、物を投げる。手が出る。足が出る。まるで幼い子供だ。

 彼は反撃してこない。抵抗しない。私を抑えつけることもしない。

「こら、駄目だよそれ投げちゃ。買ったばっかなのに。」

 なんて困ったような顔で溜息混じりに言いながら、静かにそれを拾い上げ、大事そうに元の位置へ戻す。

 その姿を見ていると、赤黒い感情は更に沸々と上昇し、頭がおかしくなるんじゃないかと恐ろしくなる。自分が醜悪な化け物になったかのように思えてくる。

 文字では表せないほど穢い言葉で、威嚇する小型犬のように騒ぎ立てながら、彼の大きな身体を殴る。殴る。スマホだったり、リモコンだったり、時には彼が作った晩ご飯が盛り付けられた皿だったり、近くにある物を手当たり次第投げつける。

 私はそのうちこの人を殺してしまうんじゃないか。好きなのに。一番、大切な人なのに。

 彼が働いてくれればいいんだ。働かないのが悪いんだ。そうやって全部彼の所為にして。

 仕方ないじゃない。彼は働かないのではなく働けないのだから。

 以前勤めていた会社が一か月の残業が40時間を超えるブラック企業で、彼は心と体の両方を壊した。その後も飲食店や警備員などのアルバイトをいくつか点々としたが、どれも長く続かず、心の傷は深くなるばかりだった。

 働かなくていい。生きてくれているだけでいい。

 そう言ったはずではなかったか。

 


 一昨日からぱったりと来なくなってしまった同僚。聞いた話によると、退職代行サービスを使って辞めたらしい。

 突如ぽっかりと空いた穴を埋めるべく、今日も私を含めて数名が、夜10時過ぎまで会社に残って仕事をしていた。

 上司らは「退職代行サービスを使って辞めるなんて非常識だ」と揃って憤慨していたが、それを使わせる会社も会社だ、と密かに思った。

 退職代行サービスを使って辞めた同僚のように、いつか彼も突然いなくなってしまうんじゃないか。

 会社で代わりに仕事をしてくれる人はいるけれど、彼が作ってくれていた晩ご飯は、畳んでくれていた服たちは、片付けてくれていた部屋は、彼がいなくなったら一体どうなってしまうんだろう。

 私は、一体どうなるんだろう。


 帰り道、街灯が照らす暗い夜道を歩きながら、私は泣いた。

 よくドラマなどで、恋人に暴力を振るった後に男性が女性を抱きしめて「ごめんね、ごめんね」と繰り返す描写を目にするが、その男性はまだマシな方だと思う。

 私は「ごめんね」とさえ言えない。

 彼は私の一体何。サンドバッグか。召使いか。違うだろう。違うのに。

 そう思うと哀しくて堪らなくなって涙が出た。

 カバンの中でスマホが音を立てて震えた。

 手探りでスマホを取り出して、夜闇の中で画面を灯した。涙で滲む視界に映った彼からのメッセージ。

『今日の晩ご飯、カレーだよ』

 胸が締めつけられるほど、優しくて痛い、愛しい文字列。

「ごめんね」

 私以外の誰の耳にも届いていない、小さな呟き。

「ごめんね。ごめんね。ごめんね。」

 呪文を唱えるように何度もそう繰り返しながらアパートに帰り着き、階段を上り、カレーの匂いがする部屋の扉を開けた。

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私が物を投げたら避けて。殴ったら交わして。 白井なみ @swanboats

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