2.仮面の人
思わず後ずさったのに、あるはずの机にはぶつからなかった。それどころか、そのまま後ろに転んで、勢いよく尻餅をついてしまう。
慌てて見下した先にあるのは、床ではなくて芝生。天井はなくなっていて、青い空が広がっている。見渡す限り草原。壁なんて、どこにもない。
状況が飲み込めずに声の主を見上げると、そこには猫を模した銀製の仮面で顔の上半分を覆った人がいた。
え。待って。ごめん待って。
「待って待って待って、ちょ、ちょっとすみません、追いつかない」
不審者がどうのなんて、そんなレベルの話ではない。
自分の頭がおかしくなってしまったのかと思った。
ここは女として、悲鳴を上げるべきなのかな。いやでもほら、そんな。悲鳴なんて、すぐに出てこないよ。
つまり、何これ。どういうこと。片手で制すると、その人は小さく頷いてくれた。どうやら、言葉は通じるらしい。って、そうじゃない。
大きく深呼吸をして、掌で地面に触れてみた。
背の低い雑草が土の上を覆っていて、探って土に触れても手が汚れるだけだ。そよそよと通り抜けていく風は、完全に屋外だと知らせてくれる。嬉しくはない。
嫌な汗が背中を流れた。自分は、頭がおかしくなってしまったのだろうか。
それとも、何かこう、一瞬で寝落ちして夢の中とかだったりするのだろうか。そんなばかな。
「何か聞きたい事はあるかい?」
制止を求めていた手を下ろすと、仮面の人が口を開いた。律儀なのかどうか。私の制止が終わるまで、ずっと待っていたらしい。
もちろん、聞きたいことはたくさんある。ある、けど。そもそも、この人が正しい答えを教えてくれるとは限らない。
額から目元にかけて、そして鼻先まで猫を模した銀の仮面で覆っていて、表情すらうまく読み取れない。
黒いローブのようなものを肩に羽織っているせいで、ちょっとした魔法使い感がある。ローブの中央から見えるのは、白いシャツとスキニージーンズ。 そこだけ普通の服装で、ちょっと拍子抜けだ。
そして、両手に金と銀のブレスレット。細いブレスレットはシンプルで、デザイン的にも普通。体型は細身で、というか脚長い。何だこの人。モデルなのか。
少しずつ視線を持ち上げると、小さな鳥篭のようなものに鎖を通してぶら下げていることに気が付いた。鳥篭の中に何か入っているみたいだけど、この距離ではよく見えない。
どちらにしても、ファッションセンスとしては私と相容れないことだけは確かだ。
「……」
いやいや違う。やばい。普通の人ではない。人は見た目によらないとも言う。完全にやばい人かは、確かにわからない。
でも、仮面だよ。仮面をつけてる。仮面。その時点で、普通の人ではない。これだけは確実に言える。絶対に普通の人ではない。普通って何だよ。
あまりにじろじろ見すぎたせいか。小首を傾げられてしまって、慌てて顔ごと視線を逸らした。
これじゃ私が不審者みたいだけど、いや、そもそも。
「……あの。ここって、どこなんですか?」
問題はそこだ。だって、私はさっきまで自分の部屋にいたわけだもの。
それもパソコンでゲームをしていたんだぞ。ベッドに寝転がってだらけていたのならまだしも、いや、それでもおかしいけど。でも、とにかく寝落ちという感じでもない。
こんなにも無駄に鮮明で、尚且つ意味のわからない夢なんてあっていいのか。
そーっと視線ごと顔も戻してみる。恐る恐るといった調子になって、何だか情けない。私の問いかけに、その人は口許で薄く笑った。
「何処でもないよ。此処に名前はないんだ」
「……は、はあ」
「だから、君の好きに呼ぶといいよ」
え。何なんですか、それ。全然全くちっとも答えになってないし、やっぱり話が通じているような気がしない。頭を抱えたい気分になって来た。
何もかもが繋がらなくて、自分の思考もいまいちまとまってくれない。脱法ハーブとかキメちゃったら、こんな感じになるのだろうか。
いや、でも、そういうのとは無縁だし、ていうか、普通は無縁だし、もうどうなっているのか。さっぱりだ。
うだうだと、まとまりもしない考えを巡らせていると、仮面の人は一歩だけ近付いて屈み込んだ。私と目線を合わせる為の動きなのだと、すぐに気が付いた。猫の顔を模した仮面は奇妙で、真っ直ぐに見つめていると変な気分になる。
どうすればいいのか。
立ち上がるどころか、相手が求める通りに質問することさえ出来ない私と仮面の人。ふたりで揃って沈黙。どれくらい黙り込んでいたことか。
強い風が吹いたとき、仮面の人は笑って言った。
「君の名前を教えてくれるかい、
仮面の人の声には、聞き覚えがある。
正確には、さっき聞こえて来た声と同じだ。と、思う。あまり自信はない。
「……え、ええと、
そして、沈黙するだけの勇気もなかった。
しかも近い。仮面の人、近い。表情が読めないのに至近距離にいられるのは、本当に全く落ち着かない。もっとこう、パーソナルスペースを確保させて欲しい。
名前を告げると、仮面の人はまた首を傾げた。
「シロノヤオイ?」
発音が危うい感じだ。この人、日本人ではないのかもしれない。髪の色は黒いけど。いや、そんなことは、この際どうだっていい。そうじゃない。そもそも、目鼻立ちが日本人っぽくなさそうな雰囲気だ。
「しろの、と、やよい、です」
ゆっくりと区切って言ってみる。すると、仮面の人は傾げていた首を静かに戻した。どうしても仕草ひとつひとつを、じっと眺めてしまう。
だが、仮面の人は気を悪くした様子もない。寛大なのか、気にしていないだけなのか。私だったら、知らない相手にじーっと見つめられたら、自己紹介どころではない。
まあ、この人の視線なんて、仮面のおかげで全くわからないけど。むしろ、だからこそ落ち着かない。ああ、全面的にこっちが不利すぎる。
「つまり、名前がふたつあると考えて構わないのかな?」
「いや、そうじゃなくて……ええと、弥生でいいです」
「ヤオイだね」
「や、よ、い、です」
「分かったよ、ヤヨイ。君の名前は難しいね」
簡単なほうですよ、とは言えなかった。
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