3-3【いつかは起こること】
「いつもご贔屓にして頂き、誠にありがとうございます」
「こちらこそ、いつもありがとうございます」
木製のカウンター越しから、痩せ気味の中年男性がアデーレに向けて深々とお辞儀をする。
それに返すように、アデーレも丁寧なお辞儀を返す。
大量の薬棚やカウンターに置かれた陶器の瓶。
薬効を想起させる香り漂うここは、ロントゥーサ島唯一の薬局である。
文字通り島の住人御用達の店であり、アデーレも目の前に立つ店主とは顔馴染みみたいなものだ。
アデーレは目の前にある紙袋を手に取り出口へ向かい、もう一度店主に頭を下げた後店を出る。
紙袋の中身はもちろんエスティラに飲ませるための胃腸薬の類だ。
(やっぱ薬に関しては、前の世界が羨ましいよ)
紙袋の重さを感じながら、曇天の下アデーレは短くため息をつく。
この世界において飲みやすいカプセルのようなものは誕生したばかりであり、一部でしか普及していない。
そもそも存在を知ったのも、エスティラの傍で仕事をするようになってから。
丸薬や液剤、散剤しか見てこなかったアデーレにとってはちょっとしたカルチャーショックだった。
薬局の匂いで粉薬の苦味を思い出してしまったのか、自然と眉間にしわが寄るアデーレ。
ちなみに今回処方されたのは液剤なので、薬としては飲みやすい部類だ。
(人間は大変だね。病気を治すのにも一苦労だ)
(その辺は神様が羨ましいね……じゃあ、さっさと帰ろうか)
アンロックンの言葉に苦笑を返しつつ、屋敷に向けてアデーレが歩き出す。
町の中心に近いこの通りは、路肩を歩く人々や荷車を引く馬などで活気に満ちている。
またこの場所は商店だけでなく工房も多い。
建物からは手動機械の駆動音や工具の音など、あらゆる音が通りへと響いてくる。
賑やかな道を進むアデーレ。
屋敷までの距離はそれなりにあるので、薬を届けるためにもその足運びは早い。
「おや、あなたは確かお屋敷の使用人さんでは?」
帰路を急ぐ最中、突如通りの方から呼びかけられるアデーレ。
声の方を振り返ってみると、隣にあったのは黒い屋根付き馬車だ。
御者席付きの豪華な四人掛けで、こんなものを島で乗り回す者はほとんどいない。
アデーレはその窓から顔を覗かせる老人と目が合った。
遺跡調査のため島へとやってきた学者、ダニエレだ。
すぐさま身を正し、ダニエレに対し一礼するアデーレ。
好印象を持っていない相手ではあるものの、礼儀を欠けば仕える家にも失礼となる。
「ああやっぱり。エスティラさんの傍にいた方だね」
どこか上機嫌な様子でアデーレを見下ろすダニエレ。
務めて顔には出さないようにしているが、内心アデーレはなぜ彼がここまで嬉しそうなのか見当がつかなかった。
そんな疑問を抱くアデーレを気にすることなく、ダニエレは自ら馬車のドアを開け手招きをしてくる。
向かいに座っていた使用人らしき気弱そうな男性も、突然の主人の行動に少し驚いている様子だ。
「ささ、乗りなさい乗りなさい。主人の下へ帰る途中なのだろう?」
「え? ええ。ですが
「いいんだよ。若い子には世話を焼きたくなる老人の気まぐれさ」
全く予想していなかった状況に、さすがのアデーレも戸惑いを隠せない。
こういった場合どうすればいいかなど指示を受けた経験もないため、はっきりと断ることも出来ずにいた。
だがダニエレは完全にアデーレを馬車に乗せるつもりで動いており、彼女が座れるよう席を詰めている。
(隣に座れというのか……)
元男性といえども、一切気を許していない相手の隣に座るというのは拒否感を抱いてしまう。
だが向こうは分かっているはずだ。こちらが無下に目上の相手の誘いを断れないことを。
特に使用人としては、ある種仕える主人のメンツを人質に取られているのと同義と言っていい。
ただでさえダニエレはエスティラを軽視している風に見える。
その上使用人まで彼に対し失礼を働けば、最悪バルダート家の立場が悪くなりかねない。
そんな葛藤などつゆ知らずのダニエレは、自らの使用人に対しアデーレが乗り込むために手を貸すようせっついている。
ダニエレの使用人は戸惑いとあきらめの様子を見せつつ、アデーレに向けて手袋をはめた右手を差し出す。
心の中で深いため息をつくアデーレ。
手にしていた紙袋を左手で抱え、男性のメンツの為に彼の右手を取った。
二人掛けの赤いベルベッドソファが向かい合って並ぶ馬車内。
クリスタルで彩られた小さなシャンデリアが天井に取り付けられた内装は、文字通り贅沢の極みといってもいい。
そしてアデーレにとっては、あまりにも居心地の悪い空間だった。
「しかしあれだねぇ。主人付きの使用人が外を出歩くとは、よほどの用事だったのかね?」
「はい。お薬を頂きに薬局へ向かうよう仰せつかりまして」
「ほうほう。それは大変だねぇ」
出来るだけ窓際に体を寄せるアデーレ。
それに対し、ダニエレは必要以上に彼女へ体を寄せてくる。
窓の外を流れる風景は、あまりにも遅い。
なるほどと思い、アデーレは再び内心ため息を漏らす。
つまるところダニエレには表に出さない下心があるということだ。
それを察してしまったアデーレだったが、いずれこういうことも起きるだろうという覚悟は既にできていた。
当然だが嫌悪感は頂点に達している。
女性というのもさることながら、わいせつな行為の強要は元男性としての記憶も有しているアデーレには苦痛の極みなのだ。
「それでは急いで屋敷に戻らなければいかんな。うんうん大変だ」
口ではそう言うものの、御者を急かすような様子は見られないダニエレ。
それどころかアデーレが膝に乗せている手に自らの手を重ね、指を絡めるような仕草まで見せている始末だ。
横目でさりげなくダニエレの様子を伺うアデーレ。
その顔から、もはや下心を隠す様子もないらしい。
下劣な笑みを浮かべながらアデーレの体を舐め回すように観察していた。
かつて佐伯 良太だった頃の人格が、隣の老人の顔面を殴らせろと叫んでいる。
それを必死に抑え、アデーレは一切の無表情を貫いていた。
これが出来るのもエスティラの指導のおかげだろうか。
(大丈夫? 僕が何とかしようか?)
この状況にはさすがのアンロックンも思うところがあるのだろう。
ポケットの中でカタカタと揺れながら、アデーレの安否を心配している様子がうかがえる。
(いざというときは。でも今は大丈夫だよ)
(そう? でも僕としてはすぐにでもこの老骨に天罰を加えたいんだけど)
もう一つアデーレが冷静でいられたのは、アンロックンという信頼できる相棒が傍にいたからだろう。
だがその絶大な力がどれほどのものか。
最もよく知るアデーレだからこそ、安易に人間に向けて力を使うわけにはいかないという自制心が働いていた。
(使用人とはいえ他の男性がいる前で下手な行動は起こさないよ)
(いいや、僕は信用できないね。こういう下品な輩は見られている方が興奮するものさ)
(どこで仕入れたの、そういう知識……)
アンロックンの発言に呆れつつも、ダニエレの手の動きに寒気を覚えるアデーレ。
自らの手に重ねられていた枯れ枝のような指が、まるでクモの脚を思わせる動きでスカートの方へ移動していく。
ロングスカートのため裾は遠いものの、布越しに膝を撫でられる度に背筋がひりつく間隔を覚える。
向かいに座る使用人も気まずさに耐えられなくなったのか、完全に顔を背けていた。
主人に逆らうことなど不可能なのは、同業者故によく分かっている。
アデーレは気弱な彼の行動に納得しつつ、耳元に近づくダニエレの息遣いを必死に耐えた。
老人特有の加齢臭に満ちた吐息が鼻を襲う。
こみ上げる吐き気に表情が歪みそうになるも、決して反応するまいと奥歯を噛みしめる。
そんなアデーレの思いを直に感じているであろうアンロックン。
アンロックンの収まるポケットの中から、急激な温度の上昇を感じた。
(ああ……ごめんよアデーレ。そろそろ僕も限界だ)
このままでは激怒したヴェスタの天罰がこの場に巻き起こる。
これ以上ダニエレの好き勝手にはさせられないが、使用人としてどう拒めばいいのかアデーレにはわからない。
あらゆる苦悩がアデーレを襲い、額から冷や汗が流れる。
そんな苦境をつゆ知らず、ダニエレはアデーレの胸に手を忍ばせようと伸ばす。
……だが、アデーレの貞操の危機は予想外な形で終わりを告げることとなった。
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